講演会「ゼロ年代の批評の地平」

第28回新宿セミナー@kinokuniya
波状言論S改』(青土社)刊行記念トークセッション
ゼロ年代の批評の地平 ―リベラリズムポピュリズムネオリベラリズム
◎講師:東浩紀北田暁大斎藤環山本一郎切込隊長
に行ってきました。
まず、現状分析として
・重要視されているものが、コミュニケーションのメッセージ内容よりも形式へと向いている=リベラル・保守はコミュニケーションの中の相対的位置に過ぎない(北田)
・過度にコミュニカティブでありながら、変化・成長しない、あるいは変化を拒む事例の増加(=言葉は通じるがそのメッセージによって変化しない、という新しい形の他者)(斎藤)
という2つの方向から、
「何を言っても(しても)変わらない」(内容より形式が重視される故、あるいは変化を拒む事例の増加故)という現状認識を多くの人が持ち、結果的に保守的な言説を「選択させられている」(斎藤)と導かれた
さらに、山本により具体的に現在の保守的言説が分析される
ここで強調されるべきは、現在起こっているのは「保守化」ではなくあくまでも「保守的化」であるということだろう
・ネット上では影響力を持っている人の意見と全体の意見が必ずしも一致しているわけではない
・ネットに触れている人間の多くは、ひきこもり、ニートあるいは派遣などのいわば「奴隷」であり、そうした話題に関して彼らはリベラルな反応をする→自分の目前に迫った状況に関してはクレバー
嫌韓流は、韓流ブームを担った30〜50代主婦層やワイドショー文化と最も接触がない、あるいは利害の対立する層によって作られた。層の対立を表象するものとして、韓国は記号として扱われている
さて、東が指摘するように、北田はリベラルを、山本は保守を自認しながらも、その現状分析にはなんの齟齬もなく対立軸は見出されない。あるいは斎藤の指摘にしても、視点を変えただけで同じことを述べている。
ただ、山本は視点が東や北田とは異なるため、具体的なトピックとしては興味深いことをいくつか言っていたように思える。
こうした現状分析の中で、いわゆる「政治」においては、もはやポピュリズムしか戦略として機能しないのではないか、と山本が述べる。問題は、ポピュリズムを上手く組み立てられるのが小泉自民党のみで、他の選択肢が存在しないことである。多くの人が、自分の目前に迫った状況に関してはクレバーであっても、自分から離れるとそのような判断が出来ず、消極的に小泉自民党しか選ぶことが出来ない。他の選択肢を提供するためには、他の党もポピュリズム戦略を採用、運用しポピュリズムvsポピュリズムにしないと論争は生まれない、とも山本はいう。
そして、山本は東に「東の欲望のありか(斎藤)」を問う。
ここから先、とにかく「閉塞感」に覆われていく。
現状分析は出来る、そして現状分析はおそらく正しい、しかしそれで結局どうすればいいのかが、分からない。
東と北田に共通するのは、人文的な知のもつ独特な禁欲を徹底して教育されてきたこと、そして「何をしても変わらない」という現状分析、の2点から現状分析の外へと踏み出すことに否応なく躊躇してしまうことである。
実は、少なくとも東は、これまでも繰り返しその先へと行こうとしている
というよりも、斎藤が指摘し、東自身も認めているように、東の仕事とそれに対する他人の評価というのは、いつもそのことを巡って動いている
「結局東は何がしたいのか」
その答えは、「(同じ人間の中で)人間と動物が共存するような社会」なのであろうということが、ised理研と今回の講演会で明示されつつあると思う。
完全に人間的な人間や完全に動物的な人間はいない。人間は人間的面と動物的面の両方を持ち合わせている。だから、動物化そのものがいいとも悪いとも言えない。
そして、動物という面を認めるのであれば、社会をどうするかという「理想」をわざわざ打ち立てる必要性はない(そもそもそのような「理想」の「内容」はうまく機能しない、というのが東たちの現状分析でもある)
しかし、人間は全面的に動物化するわけではなく、その人間の部分をどうにかしてやれば社会はうまく動くのではないか、と、そしてそれはどうすればいいのか、それが東の目指したい社会なのだろう。
ところで、実は客席に宮台が来ており、質疑応答の時に宮台に話がふられる
宮台が言っていることも特に変わりはない
自明性の地平の空白を埋めるものとして、自分は「亜細亜主義」と「天皇」(あるいは大塚には「戦後民主主義」と「憲法9条」)があるけど、君達にはないの?
東・北田は、それは再近代化であり、むしろそうではない方向があるのではないか、ということを模索している状態
個人的な感じとして、東・北田の戦略は宮台・大塚の戦略より分は悪いと思うが、再近代化は短期的な戦略にしかならないと思う。
あまり話が広がらなかったけれど、注目すべき点としては
・コンスタンティブでもパフォーマティブでもない、症候的な態度が増えている(小泉は典型)という斎藤の指摘
・東は、オルタナティブを示す上で、鈴木健のヴィジョン(200年先を考える)に何か感じているのではないか。
・いかに言葉を広めていくか、という問題(斎藤のいうところの「ヤンキー」に、この界隈の言葉は届いていないし、「ヤンキー」の状況をこの界隈は見えていないし)→それは出版業界の構造的問題であるというのが東の解答→北田と一緒に雑誌を作るらしい
ここから、個人的雑感
東が人と話しているのを見ていると、どうしても「モチベーション」「インセンティブ」の問題なのだなぁ、と思う
東のせいではなく、自分の興味範囲であるからに過ぎないのかもしれないけれど。
結局、モチベーションなりインセンティブをどこから調達してくるのか
誰のモチベーションかというと、それは東本人のそれであると同時に、この社会のメンバーのそれでもある。
東本人の場合、既に現状分析そのものにはモチベーションを持っていない。そもそも分析には何かインセンティブがあったはずだ、と山本に鋭く追及されるが、東はそれへの解答をずらし続ける(人文的な知という教育を受けた結果として)。山本はその答え方に苛立つが、おそらくそれは東の苛立ちでもある。その先にどこへ行けばいいのか。
社会のメンバーの場合、メッセージ内容からの意味の消失、変化への拒絶、とは要するに行動・成長へのインセンティブがない、ということだろう。ただ、形式化した表面的なコミニュケーションの連鎖以上のことは求めない。しかし、それは容易にポピュリズムに利用される。また、「奴隷」的状況に至っても、彼らはその状況の鬱憤を晴らすために益々同様の連鎖を繰り返すだけである。ここで、宮台や大塚は再近代化を行うことによって、もう一度インセンティブをどこかから調達しようとしているのである。しかし、本当にどこかからそんなものが調達できるのか、できなくなったから今の状況があるのではないか、という疑義は消えない。無論、後期近代に生きるというのは、そういう疑義を持ちながらも、インセンティブはどこかから調達するアイロニストとして生きるということで、仕方がないのかもしれないにしても。
そうすると、わざわざどこかからインセンティブを調達せずとも、しかし一方で社会そのものを上手く回すことは出来ないのか。
東の見込みは、「テクノロジーがそれを可能にする」であり、斎藤はテクノロジーへのそうした依存には懐疑的な立場なのだろう
個人的雑感と言いながら、自分の意見を書いていない
なんというかこれは、北田の立場に似ているかもしれない(^^;
難しくて、なかなかいうことができない。