S.A.C.

アニメ『攻殻機動隊StandAloneComplex』(以下SAC)を一通り見終えました。
といっても、まだ2ndGIGはこれからですが。
攻殻というのは、要するに自我や集団の不変量について扱った作品なのではないだろうか
で、士郎→押井→神山とディレクターを変えるにつれて、中心的なものが「自我」から「集団」によりシフトしたのではないか
無論、士郎版で集団が、神山版で自我が扱われているのには変わりないにしても。
自我における不変量というのはゴーストとして表現される。ただし、GhostIntheShellでは素子と人形遣いの融合、SACではタチコマの問題があって、このゴーストというのもどれだけ不変量たりうるのか、という課題はあって、それがG.I.S.の一番見所だった。
では、集団における不変量とは何なのか。
SACではそれは「正義」として提示されたのだろう。
荒巻という男の、類稀なる精神的高さを維持した「正義」
あるいは、「笑い男(アオイ)」の「正義」
といったものが、9課(あるいは「笑い男」)というStandAloneComplexを生み出した
問題は、この「正義」とやらは一体何なのかということや、9課的Complexとネット(mass?)的Complexのあり方の差異について、であろう。
しかし、そんな問題はどこかにおいておいて、ラストのタチコマには泣けてしまった……
最後のタチコマの勇姿を涙なしで見れないのは、タチコマ萌えゆえ。
今回、ビデオを借りて見たわけだけど、各巻に声優やスタッフのインタビューが特典として付されていた。あるいは神山と押井の対談などを読んで
改めて、制作集団の高いプロ意識や、集団で何かを作る上での管理能力について、感じ入りました。
<追記051216>
9課的Complexとネット的Complexの違いについて
不変量(という語を不用意に使いましたが、イーガンの『ディアスポラ』に使われていた語で、同一性とか一貫性よりも適しているのではないかと思って使いました)を維持するために必要なのは、外部記憶。なぜなら、自己は自己内部では自己を証明しえない(自己言及して不完全性定理が発動する)から。
しかし、自己の外部たる他者はその他者性ゆえに自己を裏切る
こうして押井作品で繰り返される内ゲバは、SACにおいても9課の解散という形であらわれる。
9課は、その形態を維持するためには国家を必要としたが、国家は9課を裏切る。
だが、そもそもネットには自己を規定するための外部=他者があるのか。ネット全体を見ると、外部=他者をも取り込んでcomplexを作るのではないか(ゆえに笑い男は増殖する、最後には素子までが笑い男を演じたように)。
外部を持たないゆえに、ネットはStandAloneComplex→オートポイエーシスとなる、のではないだろうか。
あるいはもっと単純に、9課とは「スーパーエリート」でネットは「大衆」という括り方もできる。
また、確かに9課にチームプレイは存在しないが、荒巻という中心は必要でありつづける。
一方で、ネットには必ずしも「アオイ」は必要ではない。ただ、「笑い男」だけが増殖する。