役に立つとか立たんとか

ベクトルの彼方
大学で物理をとっていて、ちょっと一般人(?)と自分は違うのかもしれない、とか
学問を役に立つ、立たないで分けるのは、あんまり意味がないのでは、という話で
コメントに書き込みしたんですが、なんか面白い話題なので、自分のブログにも書いておこうかなと思いました。
もともと、自分も実学志向の人間ではない。
自分がやりたい学問のジャンルは、哲学や文学、文化論なのでそれこそ役に立つか、と聞かれればまあまず飯の種にはほとんどなりようもない、と答えるしかない。
無論、そのまま学者になれればそれで金を稼ぐことはできるが、直接的に金を生んだりするようなものではない。
役に立つ、立たないという価値判断は出来うる限りしたくはない。
こういうことを考える上で好きな話が一つある。確かカール・セーガンの本に載っていたマックスウェルの話。
マックスウェルというのはイギリスの物理学者で、電気と磁気というのは同じ物だということを発見した人で、彼の発見により後、ラジオやテレビ他さまざまな現代を支える技術が生まれたわけですが、少なくとも当時の人々にとってすれば彼の研究はなんだか意味のわからないものだったろうし、本人にしたところで自分の発見が後の世にそのような発明を生み出すとは思いもしていなかった
そして、セーガンはこのような例え話をする
もし当時の王が、自分の声や姿がリアルタイムで国中に伝わるような機械を発明せよ、といって国中の発明家を集めて莫大な予算をかけたとしても、マックスウェルの発見はありえなかっただろう、と。
役に立つ、立たないという価値判断をしたくない、というよりもそんな判断は不可能だ、ともいえるわけです。
それからもう一つ、哲学に関する話
既にこの時代、哲学があらゆる学問に対してメタ的に振舞えるかといえば、確かにそれは難しいかもしれない
しかし、哲学はまだある程度そういう役割を果たしてくれるのではないか、と思っている
だからこそ、何とかかんとかモチベーションが保たれているわけで(^^;
そこで問われるのは、かなり根源的な問いになるはず。例えば、役に立つ、立たないという価値判断を下すことそのものに対する価値についての問いかけなど……。
それはもう、言ってしまえば単なる好奇心によって支えられているようなもので、マックスウェルの発明のように後の世になって役に立つようになるもの、ですらないように思える。
そんなものに何故興味があるのか、何故そんなことをしようとするのか、と問われても答えることは出来ないが、その答えを考えつづける学問でもある。
ただ思うに、人間には2種類の人間がいるのではないか、そういうことに興味のあるのとないのと。
これはどちらがいいとか悪いとかいう話ではない。
実学志向の人間もいれば、そうでない人間もいて、その両者がいることによって人間全体というのは成立しているのではないだろうか。
学問、こと虚学をやっている人間というのは、穀潰しのような存在であるが、人間の種全体としてみれば、人間はどうしても知的好奇心を持っている生き物で、やはり必要な存在なのではあるまいか。
学問だけでなく、文化全般がそのような性質をもっているかもしれない。
例えば音楽や物語や。そうしたことに実用的な理由を見出すことは出来る。しかし、決して実用的な理由では回収できないモチベーションが隠れているはずだ。
ある動物写真家がクジラを追いかけていた時のこと。クジラは尾びれで水面を叩く仕草をするが、その理由はよく分かっていない。求愛行動だとか遠くにいる仲間と連絡を取り合っているのではないか、とも言われている。しかしその写真家は、ただそれがしたかったからしたのではないか、と考えた。