『大航海』特集インターネットの光と闇「対談インターネット・カーニヴァル」

今月の『大航海』はインターネット特集
で、対談は鈴木謙介斎藤環
この二人なので内容は予測できると思いますが、インターネットというよりもカーニヴァルの話、つまり「祭り」と「ひきこもり・ニート」の話です
「祭り」と身体性の関係、「30代」型ひきこもりと「20代」型ひきこもりの違いが主な話
自分自身が、宮台・鈴木からの影響を受けていることが大きいのだろうけど、鈴木の言っていることが実感される。身につまされる感じがする。
「頑張れば何にでもなれる、ことが分かっているから、頑張れない」
これがいわゆる「20代」型ひきこもりで、斎藤もこのタイプには手を焼いているようで
一応インターネットとのつながりとして、コミュニケーションのテンプレート化がこのような状態をもたらしたのではないか、という。
「自分はできない」という絶望ではなく、
「自分はできる」けどそれはあくまでも「テンプレート」に過ぎないことを知っている絶望
この絶望が宿命論につながったり、安易なベタに回収されてしまったり、あるいは社会的リソースの無駄遣いにつなっがたり、と社会的な害が副作用的に現れることへの危惧は確かにあるものの、本質はそこにはない。
引きこもり対策としては例えば玄田の職業体験があるが、そのような身体性を使った対策はこうした「20代」型ひきこもりには通用しないのではないか、という問題だ。
斎藤は、家族をもつことで社会にフックがかかるのではないか、とも言うが、それは決して家族万能論ではない。
また一方で、引きこもらないタイプも、それは一種の酩酊にあえて入っているだけではないか、と鈴木はいう
それが「祭り」、例としてはロックフェス
とても身体的なものとして行われるこうした「祭り」は、その瞬間は酩酊状態になることができる。ただしこれもあくまでもテンプレート化されているもので、身体的なものに身を預ければ酩酊できることになっていることを知った上で、行われている。
ゆえに、ふと冷静になった時、一気にさめていき「うつ」へと陥る
ひきこもりは「祭り」に参加することができないだけで、引きこもっていないタイプも「祭り」によってその瞬間、瞬間「うつ」から逃れているに過ぎない
言われてみれば、最近自分の音楽の嗜好が踊れるものに偏っているような気はするし、それはかなり自覚的にやっている
読んでいて、「頑張れば何にでもなれる、ことが分かっているから、頑張れない」にしろ、音楽に対して求めているものにしろ、かなり的確に言い当てられてしまった気がした。
で、このあとどうすればいいのか
言い当てられて呆然とするにとどまらず、そのあと展開させていきたいと思っている
引きこもり対策を「身体」によらないこと
あるいは、コミュニケーション等のテンプレート化
といったことは、自分も以前から考えていたことではある。

その他

ネットとネットでないもの(例えばマスメディア)の間のディスコミュニケーションの深刻さ、についても語っていた。
インターネットに闇があるのではなく、ネット的コミュニケーションの普及やあるいはそうしたものに対するディスコミュニケーションに問題があるのではないか、といった話題
あと、斎藤はised理研をそうした狭間をつなぐ試みとして評価していたけれど、みんななんで読んでないんだろう、あるいは反応が薄いんだろう、といっていた

へぇ

韓国のSNSは、人口の4分の1が会員になっているらしい。