今日の更新(「社会学っぽい話」「物語・記述を越えるものとしての偶然性」)

「社会学っぽい話」
「物語・記述を越えるものとしての偶然性」
という二つの文章をupしました
blogで書いてもいいんだけど、webサイトの方がなんか落ち着くので。


社会学っぽい話」は、『カーニヴァル化する社会』だったりisedだったりを読んで、頭が社会学モード(?)になっていたので書いてみたものです
カーニヴァル化する社会』は、NEETや引きこもり、労働問題に監視社会といったトピックをギデンズの再帰的近代という考え方から分析するというもの。
NEETの発生は、半ば近代というシステムの必然なのではないか、という前提にたってみると、職業体験が結局現段階では最良のNEET対策とはいうけれど、本当にそれは効くのだろうか、というのが僕の考えなわけです。
それから、isedというのは東浩紀の立ち上げた研究会で、情報社会の中でパブリックな空間や秩序を如何に形成できるか、というような問題意識を持っている集団、だと理解しています。興味のある方はぜひ、isedのサイトで議事録が公開されているので読んでみて下さい。
一応サブタイトルとして「近代を再生産する教育のために」と銘打ってみました。つまり、NEETにならないためにはどうすればいいのか、パブリックな空間を維持するためにはどうすればいいのか、この2点に答えていくことが教育に求められることなのではないか、というようなテーマで書いてみたわけです。


「物語・記述を超えるものとしての偶然性」というやけにもったいぶったタイトルですが、こちらはイーガンの『しあわせの理由』という本を読んでの感想となっています。
といっても、この作品への感想というよりは、この作品と東浩紀の思想との類似性を指摘しようとした文章、と言ったほうがいいかもしれません。