デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』(木原善彦・訳)

地上でただ1人の人間となってしまった主人公が、狂気すれすれの中でタイプした手記
今、狂気すれすれ、と書いたがそれはあまり適切な言い方ではないかもしれない。
その筆致自体は軽妙で、狂人のようでは全くない。
誰もいなくなった世界を孤独にさまよいながら、そこで見聞きしたもの、感じたことと、主人公がこれまで読んできたこと(古代ギリシアから現代までの欧米の絵画、演劇、音楽にまつわることが多い)とが入り交じりながら書かれている。
設定的には、ポスト・アポカリプスSFっぽいがSFではない。版元のページでは「アメリカ実験小説の最高到達点」と紹介されている。実験小説とは何かというと難しいけれど、実験小説と聞いて身構えるような読みにくさは、あまりないかもしれない(いやしかし、かといって読みやすいわけではないが)。


本書は、原著が1988年で、日本語訳が2020年に刊行された。
日本語訳出版時に、版元の宣伝や書評などをネットで見かけて、その時から気になっていた。
海外文学読むぞ期間としてこの前、木原善彦『実験する小説たち』 - logical cypher scape2を読んだので、木原善彦つながりで読むことにした。
日本語訳出版時は、新刊の翻訳かと勘違いしていたのだが、上述の通り、原著は1988年に刊行された本で、著者のマークソンが注目を浴びるきっかけとなった作品らしい。
マークソンは、1927年生まれで2010年に亡くなっている。『読者のスランプ』(1996)、『これは小説ではない』(2001)、『消失点』(2004)、『最後の小説』(2007)という「作者四部作」が有名らしく、この中で『これは小説ではない』は日本語訳があり、木原善彦『実験する小説たち』 - logical cypher scape2でも紹介されている。
実をいうと『実験する小説たち』を読んでも、『これは小説ではない』はそこまで曳かれるものはなかったのだが、こちらの方は気になっていたので、読んでみることにした。

どんな本か

世界に1人の人間になっていまった主人公が日々タイプした手記、という体裁の作品
まず、その特徴として、単行本にして300ページほどあるが、区切りが一切ないという点がある。章や節による区切りもないし、一行空きによる区切りもない。
どうも、1日に少しずつタイプしていっているらしく、時々、日が改まったのは分かる(○行前は昨日書いていたのだが、とか、この行とこの行の間に寝ていたのだが、とか、実は昨日は何も書いていなかった、とか、ここから明日になったとか書かれている)のだが、その際も、一行空きをしたりすることはないので、文章としてはずっと一続きになっている。
ただ、1段落あたり1文か2文のことが多いので、ページに文がぎっちり詰まっているということはないので、その点では、わりとすいすい読めるような気はする。
内容的には、彼女が思いついたままに書いているという体裁なので、書かれる出来事は全く時系列順にはなっておらず、彼女の記憶と認識によってのみ書かれているので、「今書いたことは間違いだった」とか「今~と書いたが、実は~だ」とかそういった文がしょっちゅう出てくる。
しかし、そのこと自体が文章にある種のリズムを生んでいて、どこか軽妙な文章になっている。
今彼女と書いたが、主人公は、40代後半から50歳ほど*1の女性で画家。
先ほども書いたとおり、書かれている内容が時系列にそっていないのだが、それだけでなく色々と繰り返しもある。
例えば、ある話題自体の繰り返し。ブラームスの伝記を自分は何で読んだのか、みたいなことを、度々繰り返している。そして、その時々で書いていることが少しずつ異なる。本人が自覚して訂正していることもあれば、気付かずに矛盾したことを書いていることもある。
また、そもそも同じ文自体が再度出てくる箇所も何カ所もあった。
他に、フレーズや単語単位で、彼女が気に入っていると思われるものは繰り返し使われる傾向にある。例えば、彼女は、オーディオの説明書の中で見かけた「スピーカを互いに等距離におく」というのが気に入っており、その後「互いに等距離」「等距離」というフレーズを頻繁に使うようになる。
一方、話題が非常に頻繁にあちこちに飛ぶ、というのも特徴である。
今これこれについて書いていたら、突然どれそれについて思い出した、みたいな形で、全然関係しないだろうことを書き出したりする。全然違うことだというのは本人も意識しており、何故これを突然思い出したのかは分からないが、と言って、そこで終わってしまう話題も多い。
逆に、あの時、そのことについて思い出していたのだが、あの時は書かなかった、みたいな感じで突然不意に出てくる話題もあったりする。
そのあたりはすごく、人間の意識の流れをそのまま切り取っているように感じる。
そして何より特徴的なのは、歴史上の人物や有名人への言及が多いということだろう。また、記憶に基づく引用もしばしばある。
主人公が20世紀アメリカの画家ということもあり、ロバート・ラウシェンバーグを始めとする同時代の画家などは直接の知己であったということで言及されている。
が、それ以上に歴史上の人物への言及が多い。
なお、時々、人名をひたすら羅列することがあって、「私は今知識をひけらかした」とコメントがついていたりする。
また、この小説自体が、主人公がトロイア遺跡を「探索」の途中で見に行ったことを思い出しているところから始まっていて、『イリアス』『オデュッセイア』への言及も多い。
そして彼らの日常生活に関わるようなことを考えている。
同じ町で知り合いだったはずで、こんな会話をしたはずだ、とか、猫を飼っていたんだ、とか。
彼女がどこかで読んだのであろう内容もあれば、単に彼女の想像に過ぎない話もある。そうした想像を次々と展開していって、こうだったに違いないと断言しているところもある(そういう時は「誓って言うが」というフレーズが頻発する)。が、明らかに間違っているところもいくつかある。
そんなわけで、主人公の広い教養と記憶力に読んでいて最初は感嘆する。画家であるために美術関連の話題は多いが、文学、哲学、音楽、映画などジャンルは多岐にわたる。しかし、上述のように、記憶がいい加減になっているところも見受けられるし、読んでいるうちに、広いとはいえ、出てくるのが欧米圏に限定されていることにも気付いてくる。

あらすじ(?)

どうして世界で1人の人間になってしまったのかという経緯は謎
世界がまだ普通だった頃は上述の通り画家をやっていて、夫と子どもがいたが、世界がこうなる前に、子どもは亡くなり、離婚したようである。このあたりの経緯は、終盤で語られるものの事情ははっきりしない。メキシコに子どもの墓があるらしい。
世界で1人になってしまってから、世界中を「探索」してまわったようで、その頃のことが断片的に書かれている。捨ててある自動車を乗り換え乗り換えしながら、アメリカ→ベーリング海峡経由でロシア→ヨーロッパを回ったようだが、正確な順番は不明。
その間、美術館を回っていたようで、ニューヨークのメトロポリタン、ロンドンのテートギャラリーやナショナル・ギャラリー、パリのルーヴル、マドリードのプラドなどに泊まっていたらしい(絵の額縁を燃やしたりしていた)。ロシアでは、ロシア語の標識が読めなかったためにサンクトペテルブルクを気付かず通過してしまい、エルミタージュに行くことができなかったのを後悔している記述がある(が、かなり後になってエルミタージュでのエピソードが出てくるが、そのエピソードは以前にルーブルでの出来事として記述されていたはず)。
最終的にアメリカに戻ってきて、東海岸の浜辺の家で暮らしながら、タイプライターを打っている状況のようである。
探索期のどこかで「アウト・オブ・マインド」になっていた時期がある(狂っていたとも、そのときの記憶がなかったとも、書かれている)。今はそうではない、と。
探索をしていた時期には、発電機をはじめとして「荷物」を持っていたが、今はほとんどの「荷物」を捨ててしまったらしい。衣服もほぼ身につけていない。
美術館では額縁を外して燃やしている(絵は戻している)が、浜辺の家に戻ってきてからは、本を読みながらページを1枚1枚燃やしたりしている。
さらに家を二度燃やしている。1度目は失火だが、2度目は家を解体して薪にしたらしい。解体された家の2階部分のトイレだけが残っており、2階がなくなったあとの2階のトイレはいまでも2階だろうか、みたいなことを度々書いている。

ウィトゲンシュタイン

タイトルが「ウィトゲンシュタインの愛人」とあるが、主人公は別にウィトゲンシュタインの愛人だったとかそういうわけではない
しかし、作中で全くウィトゲンシュタインが出てこないかといえばそういうわけでもない。
本作は画家や音楽家への言及が多いが、哲学者への言及も多く、また哲学書からの引用もいくつかある。例えば、パスカル『パンセ』やハイデガーだが、ラッセル、ホワイトヘッドウィトゲンシュタインも何度か名前が出てくる。
ただ、それだけなら「パスカルの愛人」でもよかった(?)わけだが、何故ウィトゲンシュタインか。
まず、主人公がウィトゲンシュタインには好意を持っているようだというのがある。
また、本作を「アメリカ実験小説の最高到達点」と評したデイヴィッド・フォスター・ウォレスという作家が、本作を「『論考』のパロディー」と論じているらしい(なお、ウォレスには『ウィトゲンシュタインの箒』という作品がある)。実際、作中には『論考』からの引用もある。
ただ、個人的にはこの主人公が行っている思索は、どことなく『哲学探究』風なところがあるように思った。
1人であるがゆえに、どこか脱臼した言語ゲームをしているようなところがある。
まるきり同じというわけではないが、私的言語や私的感覚に近い話をしているなと思しき箇所もある。
例えば、彼女はイヤーワーム的に音楽が頭の中で聞こえていることがあるのだが、それを文字通り、誰それが歌う○○を聞いた、と書くことがある。しかし、それは実際に文字通り聞いているわけではない。また、例によって、何を聞いていたか間違えた、という記述が出てきたりするわけだが、これの確認しようのなさは、どことなく私的感覚の話を思い起こさせるからだ(最もウィトゲンシュタインの議論と完全に同じというわけではない)。
なお、ウィトゲンシュタインの哲学そのものの話は作中には出てこない。
ラッセルが、ホワイトヘッドがボート競技をするところをウィトゲンシュタインに見せた話とか
ウィトゲンシュタインが、鳥が好きで、カモメだったかを飼っていた話とか
例によって言及されているのはほとんどそういう話である。
ウィトゲンシュタイン的かどうかはともかく、言葉の使い方の適切性への気の使い方が面白いところがある。今言ったのは、ほんとはこういった方が適切だったとか、現在形と過去形の使い分けとか、複数の意味にとれてしまう文を書くと「またやってしまった」と言って即座に注釈してくるのとか面白い。

結末

終盤になって、「私」は、世界で1人になってしまった女性を主人公に小説を書くことにしたということが書かれ始める。
ここまで「私」がやったこととして記述されてきたことが、「彼女」は小説のなかでこういうことをするのだ、と記述しなおされる。
メタフィクショナルな展開なのだが、個人的にはこの部分にあまり、メタフィクションさを
感じなかった。
あるレビューだと、ここの「私」はマークソンで、男性作家が女性を主人公にした小説を書いていたと明かされるオチなのだ、的な解釈がされていて、まあそれはそうなのだが、
しかし、相変わらず、行空きなどの区切りを示すマーカーはなくて、また、文章的にも「私」の人格が変わったようなところは感じられない。
自伝的小説を書くことにしたと述べており、「彼女」=「私」というのがすんなり納得できる。
なので、あまりマークソン本人が出てきた感は、個人的には感じなかった。

よく出てきた人名・作品名

何度も出てきた人名や作品名を列挙してみる
ただし、全てを網羅してるわけではない。また、1,2度しか出てない名前も拾っていない。
下では、苗字だけの表記にしているのがほとんどだが、実際には、初出はほぼ確実にフルネーム。それ以降も、語り手の好みによって、フルネームだったり、ファーストネームだったりで書かれていることもある

美術

ゴッホはフルネーム、ファン・ゴッホ表記のほか、フィンセント表記でも出てきた

ラウシェンバーグとデ・クーニングは主人公の直接の知り合い

レンブラントは色々と出てくるが、例えば主人公が飼ってた猫の名前が朽葉(ラセット)で、そこからラセット色といえばレンブラントだ、とか
レンブラントの弟子が床に金貨の絵描いていて、レンブラントが騙されていた話とか
犬につける名前を猫の名前にしてた話もレンブラントだった気がするけど、どうだったか。

デルフトで、スピノザやレーウェンフックとこんなすれ違いをしていたはずだとか、そんな話

音楽

ブラームスは、非常に多く出てきた印象がある。
ブラームスのエピソード(ジャンヌ・アヴリルという踊り子との関係とか)がたびたび出てくるのだが、それを果たしてどこで読んだのかということを主人公は非常に気にしていて、それが子ども向けの本だったのか、ちゃんとした伝記だったのか、レコードのジャケットに書いてあったことなのか、とか
今、自分が住んでいる海辺の家に置いておる本を、読んで燃やしたり、あるいは別の部屋にしまい込んでみないようにしていたりするのだけど、そこにあったブラームスの伝記で読んだのだろうか、とか
それから、頭の中でブラームスの『アルト・ラプソディ』がキャスリーン・フェリアの歌で聞こえてくるというのだが、それが途中で『四つの厳粛な歌』だったかもしれないとなり、シュトラウス『四つの最後の歌』だったかもしれない、となっていく。
頭の中で曲が流れるというのは、ある程度多くの人が実際に経験することだと思うし、さらにそれが何の曲か分からなくなるという経験もあると思うが、この主人公の場合、最終的にそれを確かめる術が存在しないので、自分でこうだ、というしかない。
というあたりに、ちょっと私的感覚の議論に似たものを感じる。
ブラームスのエピソードとしては、子どもにキャンディをあげるのが好きというのもあって、キャンディをあげていた子どもはウィトゲンシュタインに違いない、というくだりもある。

文学

トロイア戦争の話は、しょっちゅう出てくる。

ギャディスも主人公は直接会ったことがある

エッフェル塔を見たくなくてエッフェル塔の下で食事をとっていたエピソードがたびたび出てくる

作品名としても人物名としてもたびたび出てくる。

哲学

『パンセ』からの引用など

海辺の家の地下に、本がたくさんはいった箱がいくつかあって、ドイツ語の本が詰められているのだが、そのいくつかがハイデッガーの本だったらしい。「存在(ダーザイン)」だけ読めた、みたいなことが書かれている。
それから、主人公はハイデッガーに手紙を送って返事が返ってきたというエピソードがある。
まだ、世界が普通だったころ、猫に名前をつけていなくて、知人たちが色々アイデアを出していた時に、著名人に名前を付けてもらうのはどうかという案が出て、ハイデッガーだけでなく、エリザベス女王とかとにかく色々な人たちに手紙を送り付けた、という迷惑千万なエピソードがあるのだが、その中で、ハイデッガーだけが返信をくれたという話
なお、それがレンブラントか誰かの猫の名前。

*1:年齢についての記述も時によって異なる

瀬名秀明『ポロック生命体』

AIをテーマに4篇収録した短編集
積ん読しているさいちゅうにいつの間にか文庫化されていた。
今まさに現実世界で話題になり続けている技術であるだけに、あっという間に古びてしまいかねないテーマではある。
ディープラーニング系のAIなどの発展が、人間の創造性などを身も蓋もなく機械化してしまう時、人間社会はどう反応するのか、みたいな話

負ける

将棋AIと人間の棋士の話
人工知能学会開発による「舵星」というAIが、毎年棋士との頂上決戦をしている。
将棋AIそのものではなく、ロボットアームの研究者が主人公
カメラを搭載せずに動く独特のアームで、人間らしい動きの再現に挑む。
初めて舵星が棋士と対戦した際、いわば見苦しい戦いをしたことで、永世名人に恥をかかせたと炎上
開発チームは、来年の対戦に向けて「投了できる」AIを開発目標とする。
主人公の久保田(博士課程学生)が、新たに開発チームに加わった、やはり大学院生の国吉が何を考えているかを徐々に探っていく。
「負ける」ことを目標と定めつつも、国吉は次の対戦ではAIが圧勝するだろうことを既に悟っていた。
手の動きに宿る知性みたいなものを探求する話で、人間とAIの間にどのような敬意が生じうるかみたいな話だったような気がする。
また、完全解がでてきたゲームはどうなるのか的な話もしている。
Stable DiffusionだのChat GPTだのが話題になっている2023年初頭に読むと、ゲームAIの研究はまだ続いているとはいえ、あー将棋や囲碁で人間とAIどっちが強いかで盛り上がっていた時期もあったなあ、と思ってしまうところがないわけではない。
棋士とAIの共存は今のところできつつあるように思うし。詳しくないのでよくわからんが。
とはいえ、じゃあこの作品は現実に追い抜かれてしまったのかというと、やはり、ロボットアームに着目したところで面白さはあるのかなとは思う。
ただ、ここらへんは瀬名作品独特の難しさがあって、どう読めばいいのかが難しい。
右利きと左利きの話とかな。
このロボットアームは、どちらの利き手にもなることができるんだけど、一方、国吉という男は左利きであるがゆえに、将棋を指すのを幼い頃にやめてしまった過去があるというエピソードがあったりして、そのあたり、物語としてどう解釈すればいいかな、と。

144C

新米編集者が研修でメンターから、小説を書ける人工知能の開発史について教わる
小説の書ける人工知能の開発にあたって、ある1人の小説家が協力した
ストーリーの創作には、寓話を使うのがよい、というのが分かるきっかけになったのは、皮肉にも、読者は新しいもの(創造性)など求めていないということにその小説家が気付かされたから。
「人間らしさ」とは何かを問いかけてくるメンター

きみに読む物語

理系の大学を出た後、出版社の編集者になった主人公の「私」(優子)が、同じ大学の文学部で心理学を研究していた知人の多岐川が生み出した共感指数(SQ)という概念により、世界が変わっていった様、あるいは変わらなかった様を語る。
人が物語に感動するのは何故か、というテーマを研究していた彼は、物語の登場人物への共感度合いという点に着目し、読者と小説それぞれに対してSQという指数を適用する。
SQの高い(低い)人は、共感する能力が高い(低い)。
SQの高い(低い)作品は、共感させにくい(やすい)。
なお、シンパシーは、共感した状態、エンパシーは、感情移入する能力のことを指し、SQもどちらかといえば能力を測定している。実際、作中でもこの指数はもともとEQと名付けられている。
その後、別の経営コンサルタントなる人物が、この概念をSQと呼びかえ、大々的に宣伝したことによって、世界に広まることになる。
共感させやすい作品というのは、文脈が細かく解説されている作品とされている。つまり、この登場人物はこういう人で、過去にこういうことがあったがから、今、この出来事に対してこう思っているみたいなことが説明されている作品は、読者も共感ないし感情移入しやすい。こういう文脈の説明が多いのがいわゆるエンタメ作品で、少ないのが文学作品だ、とも。
また、ここではざっくり共感と書いたが、概念としては、シンパシー、コンパッション、エンパシーがある。
世界にSQという概念が広まることで、色々な作品や、あるいは文学賞の審査員のSQが次々と明らかにされていく。SQに対する反発も強まるが、SQのない世界には戻れなくなっていく。
そうした世界の変化を、主人公は編集者として見ていくことになる。
ところで本作では、「物語の感動は計量化できるのか」というテーマと「世界の価値観の変化とSF」というテーマの2つが並行して走っている。
世界が未来に進むとは倫理が変化することで、人類の大多数がテロリストになったときだ、と述べているところがある。
ある何らかの技術の誕生が倫理観の変化を引き起こし、その変化をテロとして表現するのは「希望」とも通じるかもしれない(「希望」は実際にテロが起きる、本作は単にテロリストという言葉を使ってるだけ、という違いはあるが)
主人公は、学生時代に、多岐川と2人でSFコンベンションに参加したことがある。
主人公は全くSFファンではないのだが、そこで、SFファンタジー作家協会長である今井を知る。これが明らかに瀬名秀明本人をモデルにした人物だったりする。本作は2012年が初出なので、まさに瀬名がSF作家クラブ会長やっている最中に書かれているわけだが、コンベンションのなかでちょっと腫れ物に触るような扱いになっている描写があって、複雑な気持ちになる。
さて、本作は冒頭と末尾で、主人公が「きみ」に語りかけている体裁をとっている。
普通に考えると主人公の娘っぽいのだが、実はAI育ててたりするんじゃないだろうな、と勘ぐってしまった。

すっかり忘れていたけれど、以前読んだことがあった。 
『SFマガジン2012年4月号』 - logical cypher scape2

ポロック生命体

こちらは、絵画生成AIの話。ただし、この作品の初出は2019年~2020年の連載であり、今流行りの画像生成AIとはちょっと違う(技術的には同様のものだが)
亡くなった画家と同じ画風の作品を生成するAIが登場してきて、2016年ころのネクスレンブラントとかを念頭においていると思う。また、美空ひばりAIとかも作中で(固有名詞は伏せているけど)言及されている。
若手のSTS研究者でAI倫理を研究している女性(水戸絵里)が主人公
石崎という研究者が、5年前に亡くなった抽象絵画の画家・光谷一郎の画風を模倣した絵画生成AIで新作を発表し始める。水戸の友人である光谷の孫娘が、水戸にそのことを相談してくることから物語が始まる。
水戸は自分の後輩である飯島と、石崎がAIに作らせている作品と光谷の作品を調べ始める。
そして飯島は、作品の「生命力」の指標化に成功し、石崎のAIが単に光谷の作品を模倣しているのではなく、光谷よりも「生命力」を上回った作品を描いていることを見出す。
この「生命力」というのは、絵画作品の中のリズムを指標化したもので、作家人生の中にピークがあることを、飯島は見つける。AIは、作家が老い、衰えなかった場合、どのような作品を生み出すことができたのか、というシミュレーションになりうるのか、ということが問われ始める。
光谷は生前、小説家の上田猛とタッグを組み、上田作品の装丁を手がけたことで有名であったが、実は、石橋は上田の息子。上田も故人となり、石橋はAIを使って上田の新作も発表するのである。
石橋がAIで作る作品は、絵画も小説も、いずれも故人が生前に作っていた作品よりも優れた作品だった。
故人の作風を模倣して創作を行い、あまつさえ故人以上の傑作をなしてしまうAIの登場に、人々は様々な反応を示す。
石橋は自殺し、人々はAI上田の新作について黙殺するようになった。その一方で主人公は、石橋から遺された動画から、光谷と上田が積極的に石橋のAIの学習に協力していたことを知る。
作品に宿る生命が作家を生かし未来へつなぐのではないか、ということに主人公は希望を見出す。
タイトルのポロック生命体は、石橋の自らのAIに対しての呼称


きみに読む物語」と「ポロック生命体」はよく似ている
まず、テーマやモチーフがよく似ている。
作品の魅力がもし定量化されるようになった時、社会の芸術創作に対する倫理観・価値観が揺らぐのではないか、ということを描いている。
それだけでなく、登場人物の配置も似ている。
まず、主人公はいずれも、文理横断的なバックボーンを持つ女性であり、社会を動揺させることになる新技術を開発した男性研究者と親しい。また、学生時代の同性の友人が物語を動かすために時々出てくる。
そして、業界と距離をとる理系作家が出てきて、主人公は、この作家に話を聞きたいと思いつつなかなか聞けない。そして、終盤でこの作家がキーパーソンになる。
というあたりが、この2編でほぼ同じ。
ただし、上で「社会を動揺させることになる新技術を開発した男性研究者」と書いたが、「きみに読む物語」では多岐川1人なのに対して、「ポロック生命体」ではこの役割は石橋と飯島の2人に分かれている。
主人公にとって、多岐川は同期、飯島は後輩だが、それぞれ2人で出かけるシーンがあり、デートっぽく見えるけれど男女の関係ではない、ということがわざわざ宣言されたりする。
上のあらすじでは省略したが、「きみに読む物語」では、主人公と多岐川を繋げる役目をした友人がいて、「ポロック生命体」には柾目という作家が出てきて、登場人物たちに影響を与えている。

アリステア・マクラウド『彼方なる歌に耳を澄ませよ』(中野恵津子・訳)

カナダ東部を舞台としたファミリーサーガ
物語の舞台は1990年代後半で、主人公は、18世紀にスコットランドのハイランド地方からカナダのケープ・ブレトン島へ移民してきた男の子孫であり、自らの半生と一族について物語っていく。
カナダというのは何となく知っているような気がしてしまう国なのだけど、しかし、いざカナダを舞台とした小説を読んでみると、全然知らない国だったなと思い知らされる*1
例えば、確かに多文化共生の国、というのはキャッチコピー的には知っていても、具体的な多民族国家っぷりはあまりよくイメージできていなかった。多民族といっても、本作で出てくるのはヨーロッパ系の人々ばかりではあるけれど、しかし、主人公を含むキャラム・ルーアの人々からして、英語とは別にゲール語という母語を持ち、英語を母語として話す人々と一線を画している風が見て取れる。
もっとも本作は、あくまでもある家族の物語であって、カナダの多民族性とかをテーマにした作品ではない(が、色々と垣間見えるところはある)。
ところで、原題はNo Great Mischiefといい、日本語にするなら「たいしたことない損失」となる。邦題は随分と異なるのだが、この作品は死者への思いといった面があり、原題も邦題も死者のことを示唆している点で共通しているのだろう(原題は、反語的表現で、世界や社会全体から見たらたいしたことない損失だが……、ということだと思う)。
主人公は、いわば階級上昇を果たした側だが、自分のルーツや家族への愛着や、あるいは負い目のようなものをずっと抱えているのだと思われる。
  

本作は、カナダでは1999年に発表され、2005年に日本語訳が出版された。
それまで寡作で知る人ぞ知る作家だったマクラウドを、世に知らしめるベストセラーになったらしい。
『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 短編コレクション1』 - logical cypher scape2を読んだ際に、マクラウドの「冬の犬」という短編が面白かったので、それまで全く名前も知らない作家だったけれど、今回、海外文学読むぞ期間の一環として読むことにした。
新潮社クレスト・ブックスは、レーベル名だけ知っていたけれどこれまで読んだことがなかった。
版元のページには「これまでに、『朗読者』『停電の夜に』などのベストセラーをうみだし、カナダのアリステア・マクラウドウクライナアンドレイ・クルコフなど、世界各国の知られざる作家たちを紹介してきました。」とあり、このレーベルを代表する作家だったようだ。
https://www.shinchosha.co.jp/crest/

あらすじなど

主人公が、半ばアル中と化した兄のキャラムをボロアパートに見舞うシーンから始まる。
歯科医として成功し裕福な生活を送る主人公と、生きることに倦み酒に溺れる兄、何が彼らの境遇を分かち、そして何がそれでもなお彼らの関係を繋ぎ止めているのか。
物語はその後、おおむね主人公の生い立ちを時系列順に辿りながら進んでいくが、現在の出来事もたびたび挟まれる。
具体的には、主人公の回想を主な筋としつつ、主人公が歯医者になって以降の出来事の断片的な回想、妹が主人公に語ったこと、兄のキャラムを見舞っている時に酒を買いに行きながら眺めた風景がたびたび挟まれることになる。
節に分けられているが、大きな章分けなどはされていなくて、わりと淡々と進んでいく。


主人公の本名は、アレグザンダー・マクドナルドというが、家族の間では「ギラ・ベク・ルーア(小さな赤い男の子)」と呼ばれている。
20世紀の終わりには55歳になる年齢
彼の祖先は、1779年にスコットランドからケープ・ブレトンに移住してきたキャラム・ルーア(赤毛のキャラム)という男で、彼の子孫は「クロウン・キャラム・ルーア」と呼ばれている。
彼らの一族は、赤毛が多いことと双子が多いことが特徴で、主人公は赤毛かつ双子である(双子の妹がいる)*2
また、英語ももちろん話すのだが、身内しかいない時にはゲール語を話し、ゲール語の歌を歌う。彼らは一族の歴史、言語を非常に大事にしている。


主人公の家族構成だが、
父方の祖父母(おじいちゃん・おばあちゃん)と母方の祖父(おじいさん)
歳の離れた3人の兄、主人公とその双子の妹となっている。
主人公の両親と、4番目の兄は、主人公が3歳の時に亡くなっている。
父親は灯台守をして家族は小島に住んでいたのだが、ある日、4番目の兄と双子を連れて祖父母のところへ来ていた。双子は祖父母のところに泊まることになり、両親と兄は帰宅したのだが、流氷の上を犬ゾリで走っていたら海の中へ落下してしまったのである。
その後、双子は祖父母のもとで育てられることになった。
一方、3人の兄たちは既に10代後半で彼らだけで掘立小屋で暮らし始めるのである。
主人公は、親が亡くなったことで「運の悪い子ども」と言われる一方、祖父母に育てられることについて「運の良い子ども」とも呼ばれる。
というのも、兄たちが、漁労で生計をたてその後大人になると鉱夫になる一方で、主人公は州都ハリファックスの大学に進学し矯正歯科医となり、妹は遠くアルバータ州の大学に進学し、石油会社勤務の夫を得、2人は都市部で裕福な生活を送れるようになるのである。
(親よりも祖父母の方が経済的余裕があったことが示唆されている)
主人公と兄の道を分けたのは、両親の死だったといえるわけだが、さらに彼らを結び付け、かつ道を分けてしまったのは、もう一人別の親族の死である。


主人公が大学を卒業した日、主人公の従兄弟であるアレクザンダー・マクドナルド(主人公と同姓同名)が、鉱山で事故死する。
この頃、長兄キャラムがリーダーとなって、主人公の兄たちや従兄弟のアレクザンダーら、キャラム・ルーアの男たちは鉱夫として働いていた。キャラムらは、新たな坑道を切り拓く際のプロフェッショナルと会社から買われており、カナダだけでなく南米などにも働きにいく日々を送っていたが、その時は、カナダ・オンタリオ州サドベリー近郊のウラニウム鉱山で働いていた*3
従兄弟の葬儀を終えた後、キャラムらが鉱山に戻る際、従兄弟の穴を埋めるため主人公も同行し、その鉱山で働き始める。
この鉱山には、キャラム・ルーアの男たちだけでなく、アイルランド系、イタリア系、ポルトガル系、果ては南アのズールー族など様々なルーツを持つ労働者グループがいたが、そのなかでもキャラルたちと確執の深いグループとして、フランス系カナダ人グループがいた。
従兄弟の死は、単なる事故ではなかったのではないかという話もあるなか、最終的に、2つのグループの間で乱闘騒ぎが起きて、キャラムは、フランス系カナダ人たちのリーダーを殴り殺してしまうのである。
あれほどバイタリティのある生活を送っていたキャラムが、今やアル中同然の生活をしているのは、この罪により10年以上刑務所に入っていたためだったのである。


というのが、非常に大雑把なあらすじだが、そこに至るまでに様々なエピソードが展開されていく。

カナダに渡ってきたキャラム・ルーアは、主人公から数えて6代前であり、その子孫は相当数おり、必ずしも互いに面識があるわけではない。しかし、どこかで赤毛ゲール語を話す人に出くわすと、彼らはそこに絆を見いだす。
そういったエピソードがいくつもあるのだが、例えば、キャラムたちが宿を探していて断られた際に、ゲール語で罵り言葉を叫んだら、そこの家の奥さんがやはりスコットランド系だったために泊めてくれた話とか。
あるいは、主人公の双子の妹は、こうした見ず知らずの親戚との出会いにエンパワーされているところがあるらしく、主人公に対してこの手のエピソードをいくつか語っている。その大きな一つとしてスコットランド旅行がある。夫の出張に同行してスコットランドに行った際に、1人で、キャラム・ルーアの出身地を訪ねたところ、そこにいた女性から「あなたはここの人でしょ」と話しかけられ、宴席がもうけられたエピソード。妹は、大学以降アルバータ州で暮らしていたのでゲール語から長く遠ざかっていたのだが、そのときは、自然とゲール語の歌を歌えたことを感慨深く主人公に語っている。
ところでこの手のエピソードで一番印象深いのは、鉱山でのジェームズ・マクドナルドだろう。
主人公がキャラムらとともに鉱山で働いていた際、鉱山のゲートの外には、仕事を探したり人探しをしたりしている人やあるいは借金取りがたむろしていたのだが、その中に、赤毛でヴァイオリンを持った男がいて、キャラムは仕事を探していた彼を鉱山の中に連れてくる。
キャラム・ルーアの人々は、歌う際にヴァイオリンをよく弾くのだが、このジェームズ・マクドナルドはその名手であって、彼がヴァイオリンを弾き始めると、キャラム・ルーアの人々だけでなく、フランス系カナダ人までもがヴァイオリンを持ち出してきて一緒に演奏したのだ。彼らもおそらくケルト系ということで、共通した音楽を知っていたのだ。
この音楽でつながりあうシーンは感動的ではあるのだが、すぐに終わってしまう。
ジェームズは音楽の才はあったが鉱山で働く肉体は持ち合わせておらず、ある日、ひっそりとお礼の手紙を残して姿を消す。

  • おじいちゃんとおじいさん

主人公には、父方の祖父母(おじいちゃん・おばあちゃん)と母方の祖父(おじいさん)がいて、彼らとの話が非常に多い。
また、彼らの昔語りの中で、祖先の話もよく出てくる。
おじいちゃんとおじいさんは、非常に対照的な性格をしているのだが、それでいて互いに親しい友人同士でもある(子ども同士が結婚する前からの知り合い)。
おじいちゃんというのは、お酒大好き、下ネタ大好き、何でも陽気に笑い飛ばす感じの人で、
対して、おじいさんは、酒も下ネタも好まず、教養のある物静かなタイプの人。
おじいさんは元々大工で、彼が地元の病院を手がけたさいに、建設後にその病院の管理人になる人物として、おじいちゃんを推す(そのために、病院のことを教え込む)。
それまで、日雇い仕事で収入が不安定だったおじいちゃんは、定職を得ることになる。
で、このおじいさんだが、生まれる前に父親が亡くなっており、この父親は自分に子どもがいたことをおそらく知らないままに亡くなっている。母子家庭で育ち、進学せずに大工になっているのだが、歴史に興味があって読書家で、一族の歌の歌詞を一言一句間違えずに覚えている。中年になってから一人娘(=主人公の母)が生まれるのだが、お産の際に妻が亡くなり、父子家庭として娘を育てることになる。そして、その娘にも先立たれることになる。
このおじいちゃんとおじいさんの存在が、主人公(とその双子の妹)に強い影響を与えている。
主人公の妹が、おじいさんが母親をどのように育ててきたのかを想像混じりに語るところはなかなかぐっとくるものがある。

  • 犬や馬との絆

初代キャラム・ルーアがカナダへ渡る時、飼い犬を置いていくつもりだったのだが、その犬は漕ぎ出した舟を泳いで追ってきて、キャラムはその犬もカナダへと連れて行くことにするのである。
こうして「情が深く、頑張りすぎる犬」の一族もまた、ケープ・ブレトン島に住み着くことになる。
主人公の両親が海に落ちたとき、難を逃れた犬もまた「頑張りすぎる犬」だった。この犬は、主人たちの危機を伝え、そして主人たちの無事を信じて、再び海へ向かうような犬だった。この犬はのちに、主人公の父親を継いで灯台守になった男に射殺されてしまうのだが。
この「頑張りすぎる犬」に、キャラム・ルーアの人々はシンパシーを抱いている。
また、動物との関係としては、主人公の兄キャラムと馬のクリスティとの信頼関係も見逃せない。
舟を、波でさらわれないところまで運び上げるのに、キャラムが口笛を吹くとクリスティはやってくるのである。キャラムが自分の虫歯を抜くのをクリスティに引っ張ってもらうというエピソードがある。

全体の中ではかなり些細なエピソードだが印象に残ったものとして
主人公が歯科医として学会に行った際に話しかけてきた人が、「ウクライナ人なんていない。彼らはロシア人だ」という主張を主人公に対してしてくる。
主人公は、国境が変わってウクライナ人もいるんですよというようなことを答える。おそらく時期的にソ連崩壊によるウクライナ独立をさしているのではないかと思われる。
ここでは、連合王国やカナダ連邦の中でゲール語を話す人々である主人公たちの一族の関係と、旧ソ連ウクライナの関係が、うっすらと重ね合わせられながら示唆されているのだろうと思われるエピソードだが、2023年に読むとなかなかドキッとさせられる言動ではある(むろん、1999年当時であっても、この発言はいささか厄介な言動だっただろうが)。
ところで、この作品は必ずしも民族問題を主題に扱っているわけではないものの、しかし、やはりそのことも意識されているところはある。
既に述べた通り、主人公が兄たちとともに働いた鉱山は、各国からの出稼ぎ労働者たちがいたわけだが、それ以外にも、主人公が兄を見舞った時点の話で、郊外の農場の描写が度々出てくる。そこでは、農業体験に訪れた都会に住む裕福なカナダ人家族と、海外からの出稼ぎ労働者が対比的に描かれている。また、鉱山には、彼らハイランダーケベックのフランス系カナダ人との根深い対立があった。多様なルーツを持った人たちが同じ場所に暮らしながらも、必ずしも融和していない状況が描かれている。


この作品は、文章としては読みやすいし、単純に家族賛歌・血族の絆を尊ぶ物語として読むことができるし、実際、それは主要なテーマとなっているだろう。
しかし、この主人公による語りは、どこか淡々としていて、描かれている出来事に対してどこか距離を保っているところがある。また、ここで語る内容が、聞き伝えと自分の想像が混じったものであって、必ずしも正確な事実ではない、ということに何度か注意するようなところもあって、あくまでも、一つの視点からの主観的な語りなのだということにも自覚的な文章になっている。
主人公が、島から出て都会で裕福な生活を送っていて、また、あるいは歴史に詳しいおじいさんからの影響もあって、ハイランダーや自分の一族の歴史について少し距離を置いて見ることができる視点を持ち合わせているのだろう。
しかし一方で、自分の今の立ち位置が、これまでの祖先や家族たちによるものであることも自覚していて、その連なりへの愛着と、しかしそこから自分が距離を置いた生活を送っていることの後ろめたさのようなものもまたあるのだろう。
既に述べた通り、主人公が高等教育を受けられるようになった背景には、両親の死がある。そしてまた、従兄弟の死もまた、彼と兄との関係に重要な影響をもたらしている。主人公と兄は、もし親があのとき死ななかったなら、ということを話しているくだりがある。
それだけではなく、彼らはさらにハイランダーとカナダの歴史にも思いをはせる。あの戦争の時、あの将軍が死ななかったなら、キャラム・ルーアの運命もまた違っていたのではないだろうか、と。
しかし、そうした反実仮想は必ずしも広がってはいかない。彼らの死がなければ違った運命が待ち受けていたかもしれないが、しかし、彼らは死んでしまったのだ、と。その死は変えられない。


ちなみに、原題はNo Great Mischiefだが、これは、カナダ史の中のある言葉からとられている。
ハイランダーたちは、名誉革命の際に英王室への併合に抵抗して反乱を起こし、その際、フランスとの同盟を結んだことがある。が、後に、フレンチ・インディアン戦争の際には、イギリス側に立っている。このため、イギリス側の将軍は、ハイランダーたちを必ずしも信用しておらず、彼らは秀でた兵士だが、死んでも「大した損失ではないNo Great Mischief」とされる。なお、この戦争では、フランス語を話すことのできたハイランダーたちが、フランス兵を欺瞞したことで、イギリス側が勝利したとされている。

*1:ちなみに『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 短編コレクション1』 - logical cypher scape2では、アトウッドがアメリカに留学しても留学生だと思ってもらえないカナダ人学生について描いている。カナダ人とアメリカ人、確かにあまり区別して認識できない気がする

*2:ただ、物語中には赤毛はたくさん出てくるが、双子は主人公しか出てきていない気がする

*3:日本への輸出用ウランの需要により、再開発が進められたらしい

フリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男他八篇』(木村榮一・訳)

タイトルにあるとおり、10篇を収録した短編集
日本オリジナル短編集っぽくて、『動物寓話譚』『遊戯の終わり』『秘密の武器』『すべての火は火』といった短編集から、いくつかずつ採って編まれたもののようである。なお、これらの短編集もそれぞれ翻訳されている。
海外文学読むぞ期間の一環として、コルタサルは読もうと以前から考えていたが、『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 短編コレクション1』 - logical cypher scape2で「南部高速道路」を読んだら面白かったので、当初の予定通り読むことにした。
SFやファンタジーのような設定やガジェットはでてこないし、目立った奇想もでてくるわけではないのだが、いつの間にか日常から少しズレた世界へと誘い込まれるような作品が多い。
そのズレ自体も面白いのだが、読んだあとには、そうした奇妙なアイデアだけでなく、どこか不穏な感じも印象に残る。多くの作品において、結末に、何らかの形で死があるからかもしれない(登場人物が死ぬとか、殺されそうになるとかそういった結末が多い)。
(その点「南部高速道路」は、(物語の途中で人は死ぬものの)結末に人の死はなくて、これに当てはまらないのだが、一時的な共同体の終わりにより物語も結末を迎える)
イデア面以外に、なんとも言えない味わい(?)がある気がして、そこがコルタサルの魅力なのかもしれない。
表題作の「悪魔の涎」はちょっとあんまりよく分からなかった。
もう一つの表題作「追い求める男」は、日常からズレるような話ではなく、薬物中毒のジャズマンを描いた話だが、こちらはそこそこ面白い。
やはり「南部高速道路」が一番面白いと思う。


コルタサルは、アルゼンチン出身ラテンアメリカ文学作家の一人であるが、親の仕事の関係で生まれはブリュッセルであり、30代後半にパリへ移住している。このためか、本作収録作品のほとんども、舞台はヨーロッパ(多くがパリ)である。

続いている公園

数ページのショートショート
主人公は不倫している男女の小説を読んでいる。2人は夫を殺そうと決めて、女がナイフをもって夫の部屋に入っていく。すると、そこには小説を読んでいる男が、というメタフィクション的なオチ

パリにいる若い女性に宛てた手紙

タイトル通り、手紙の形式で書かれている。
手紙を書いている男は、彼女がパリに行っている間彼女のブエノスアイレスの部屋を借りている。
ところで、この彼は子兎を吐くという謎の体質を持っている。普段は子兎を吐くインターバルが決まっていて、借りている間は吐かずにいられそうだと思っていたのだが、いざ借りた部屋で暮し始めたら、何匹も子兎を吐いてしまい、彼女の部屋のタンスの中でこっそり育て始める。が、最終的にはこの子兎らを殺すことにする
ということを、彼女に対して告白している手紙

占拠された屋敷

40代で独身のまま2人暮らしをしている兄妹
仕事もしていないっぽくて、午前中は掃除や食事の支度などをして、午後や夜は、兄は読書、妹は編み物をしている
ところが、突然屋敷の一部が何者かに占拠される。何者かなのかは全く分からない。とにかく突然占拠されて、2人は屋敷の一部に行くことができなくなる。
最初は、掃除するところが減ってよかったというくらいでいるのだが、次第に占拠されている範囲が増え始めて、色々と不自由が出てくる(本が占拠された側にいってしまって、読書ができなくなるとか)。

夜、あおむけにされて

バイクで事故った男が、入院中に見る夢と現実が入り交じり、どちらが夢でどちらが現実か分からなくなっていく。
夢の中ではどこかジャングルにいて、他の部族に捕まって、殺されそうになる。

悪魔の涎

パリで写真を趣味にしている主人公が、少年と女の姿を半ば盗撮する。少年は逃げ出し、女はフィルムを渡せと怒るが、主人公は応じない。
その後、現像した写真を見ていたら、その写真が動きだす。
なお、アントニオーニ『欲望』はこの作品に触発されて撮られた映画だとのこと。

追い求める男

100ページほどあり、本短編集収録作品の中では一番長い作品。
サックス奏者ジョニーについて、彼の伝記を書いた音楽批評家であるブルーノの視点で語られる。
ジョニーは天才的な演奏家であるのだが、その一方で、薬物中毒者であり、突然演奏をすっぽかしたり、サックスを壊したりなくしたり、よく分からないことを語ったりして周囲を困惑・翻弄させている。
ジョニーは時々時制のおかしなことを話し、独自の時間についての考察をしたりする。
客観的には、よく出来た演奏のレコーディングを消せと言ったりもする
ブルーノは、かなり長きに渡ってジョニーの友人であり続けているけれど、彼の言うことをあまり真に受けないという距離感でいるために、うまく関係を続けていられている。
ブルーノは、ジョニーは全く偉人ではないし、どこにでもいる普通のサックス奏者と地続きの人間でありながら、天才的な奏者でもあると。
ジョニーには、その時々の恋人がマリファナを調達している、というか、ジョニーに絆されてマリファナを渡してしまうのだが、さらに別に、公爵夫人という人がいて、ジョニーへの金銭的支援を陰に陽にやっていて、実際のところ、マリファナもおそらくこの公爵夫人が手を回しているっぽい。
ジョニーは、ジャズを通して何かを追い求めようとしている。
別れた妻との末子が急死する。
ジョニーがブルーノに、ブルーノの書いた本の感想を告げる。ジョニーが言う通り、ブルーノはジョニーの伝記を脚色している、というか、彼の薬物体験の話などは伏せている。彼の音楽についてを書き、ジャズ論を展開して、好評を博している。
ブルーノは、自分の書いたジョニーの伝記と矛盾することをジョニー自身が公に言い出したらどうしようと危惧し始めるが、杞憂に終わる
ジョニーは結局ニューヨークで亡くなる

南部高速道路

『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 短編コレクション1』 - logical cypher scape2で読んだので、あらすじ等省略
この作品はやはり面白い。
食料や水の調達は何度も出てくるのだが、車のガソリンの調達はあまり出てきていなくて(燃料を節約して、みたいな記述はあったような気がするが)、そこらへん突き詰めちゃうと、当然だが、あまりに非現実な話だということがあらわになってしまうのだろうが、その点を置いておくと、現実にありそうな渋滞が現実にありそうな雰囲気のまま、このありえない事態を描いていて、面白い。
災害時に生じる共同体、みたいな雰囲気があって、そのあたりにリアリティがあるのかもしれない。
上述したとおり、この作品は他の作品と違って、人の死は結末に置かれていないが、共同体の終わりが物語の結末となっていて、その点で、読後感は他の作品と異なるが、他の作品読後感をどこかスケールアップしたような感じともいえるかもしれない。
なんだろう、そこでぷっつりと切れてしまう感じが共通しているような。

正午の島

飛行機の客室乗務員である男が、正午に上空を通るギリシアの島に魅了される
その時間帯は、窓からその島を眺めて、業務を他の乗務員に任せてしまう。
そして、ついにはその島へと来訪する。漁で生活している一家族しか住んでいないような島で、そこに住み着くことを決める
最後、飛行機が墜落して乗客・乗員の遺体が海岸に流れ着く。

ジョン・ハウエルへの指示

ロンドンの劇場にふらっと立ち寄って芝居を見始めたライスは、突然座席で話しかけられて、舞台裏へ連れてこられる。
謎の男に、あなたはハウエルですと言われて、第2幕から突然舞台に立たされる。
ハウエルの妻のエバ役の女性が、舞台上ですれ違いざま「助けて、殺される」とライスに囁くが、その後、他の役者に邪魔されて彼女には近づけない。
第2幕は流されるままだったライスだが、第3幕では指示に逆らうような芝居をして、最終幕を前に放逐される。
最終幕では、再び客席に戻るライス。第1幕でハウエルを演じていた役者が再びハウエルを演じている。そして、エバが舞台上で殺される(これはお芝居上の殺人なのか実際の殺人なのかは明らかではない)のを見て、ライスは思わず劇場から逃げ出すのだった。

すべての火は火

古代ローマの闘技場と現代のパリとが交互に出てくるのだが、技法上面白いのが、この舞台の切り替えが文章上切れ間なく行われるところ。
最初は、段落が変わると舞台も変わる。これだけでも、行空けだったり、明示的なフレーズだったりがなく突然行われるので一瞬戸惑うのだが、読み進めていると、同じ段落の中でも突然舞台が切り替わったりするようになる。
古代ローマの方は、とある地方の闘技場で、その地方の総督夫妻が主人公。腕のたつ剣闘士を呼んでいるのだが、総督の妻がその剣闘士を気に入っている。総督は、ヌビア人の大男を相手にした対戦カードを組む。
パリの方は、男の元に浮気相手らしき女性から電話がかかってくる。男のパートナーがその女のもとにいったらしい。電話が切れた後、パートナーが男のもとに帰ってくる。
どちらもある種の浮気が描かれているのだが、最後に、パリパートで起きた火災と古代パートで起きた火災とが重ね合わされる。パリパートの主人公が見ていた夢が古代パートなのかなとも思わせる描写にはなっているが、この2つの関係ははっきりとはしていない。

解説

コルタサルは、1914年ブリュッセル生まれ。1918年にアルゼンチンへ帰国。病弱で本をよく読む少年時代を送り、ヨーロッパの幻想文学ロマン主義シュールレアリスム文学に傾倒。
大学を中退し、1937年から1945年まで教員生活をしていたが、その後、ブエノスアイレスで出版関係の仕事につき、「占拠された屋敷」を雑誌編集部に持ち込み掲載に至る。なお、その際の編集者がボルヘスだった。
1951年、留学生として渡仏し、以後はフランスに定住する。
パリに行く直前に友人たちがコルタサルの原稿を取り上げて出版社に持ち込んだ末出版されたのが『動物寓意譚』で「占拠された屋敷」「パリにいる若い女性に宛てた手紙」収録
「続いている公園」「夜、あおむけにされて」は『遊戯の終わり』(1956)
「悪魔の涎」「追い求める男」は『秘密の武器』(1959)
「南部高速道路」「正午の島」「ジョン・ハウエルへの指示」「すべての火は火』は『すべての火は火』(1966)に、それぞれ収録されている。
ともに短編の名手とされるボルヘスコルタサルが比較されており、ボルヘスは異様に見えてもある秩序のもとに世界を捉え、外部世界を収めた光輝く球体のような作品を作るのに対して、コルタサルは個々の人間に潜む狂気や夢、幻想に興味を持ち、意識の深奥を照らす一条の光のような作品を作るとしている。

伊坂幸太郎編『小説の惑星 ノーザンブルーベリー篇』

伊坂幸太郎が、自分の好きな小説でドリームチームを組んだという短編アンソロジー
自分は先に伊坂幸太郎編『小説の惑星 オーシャンラズベリー篇』 - logical cypher scape2を読んだが、どちらから先に読めばよいとかいうことはないので、このちょっと不思議な名前になっているようだ。
ショートショートや掌編が多め。
一條次郎「ヘルメット・オブ・アイアン」が傑作。

眉村卓「賭けの天才」

ショートショート
会社の同僚が、賭けが好きで、非常に些細なこと(課長の電話が午後に何回鳴るかとか)でも賭けにして、しかも全て勝っている。
主人公の語り手はさすがに訝しんで、「お前、未来視してねぇ?」と聞く(実際のセリフはこんなセリフではないです)
その後、その同僚は会社を辞めて格闘技を習い始める。主人公は、あいつは一体どんな未来を見たんだろうと恐れる。
同僚自身は、未来視能力があるともないとも言わないので、主人公のただの妄想という可能性も残した宙づり状態になっている。

井伏鱒二「休憩時間」

これも掌編小説
井伏鱒二は、国語の教科書か何かで「山椒魚」は読んだことがあったと思うのだけど、もう何も覚えていない……。
これは、大学の文学部の教室で休み時間に思い思いに過ごす学生たちの話
禁止である下駄を履いてきて、寮監の学生に連行される奴がいたり、その学生を助けるために靴をカンパしたいと巫山戯半分で宣言する奴がいたり、黒板に詩を書き殴って部屋を出ていく奴がいたり
全体的に、まるで舞台劇を見ているかのようでもある。
今の学生、というか自分の学生時代だった頃だって、こんなことは起きえなかったし、全体的に芝居がかった話なのだが、一方で、学生特有のエートスみたいなものとしてはひょっとして今でもリアルなところがあるんじゃないかなと思わせる作品

谷川俊太郎「コカコーラ・レッスン」

掌編小説というべきか散文詩というべきか
少年が、言葉を知る

町田康「工夫の減さん」

町田康って、雑誌に載ってた短編を2作ほど読んだことがあるくらいで、これまでほとんど読んだことがなく、それで読んだ時もそこまでピンとこなかった作家
とはいえ、世間的な評価は高いし、伊坂も収録作を選ぶにあたり、作品名ではなく作家名で思い浮かんだのが町田康であり、町田作品ならどれでも面白いと絶賛している。
で、実際この作品は、わりと面白かった。
タイトルにある「減さん」は人名で、何かと節約のための「工夫」をするのだけど、それのせいで逆にうまくいかなくて、貯金もうまくいかないという人
どうしようもない人のどうしようもない人生、というか

泡坂妻夫「煙の殺意」

テレビ大好きな刑事が、殺人現場であるアパートの一室につくなり、その部屋のテレビをつける。
テレビでは、現場からほど近い百貨店で出た大規模な火災のニュースを繰り返し流している。
現場の実況見分よりもそちらが気になって仕方ない刑事と、逆にそのような世間のニュースには全く興味がなく遺体に並々ならぬ興味を寄せる鑑識の2人が事件を推理していく。
犯人も自首していて、動機も凶器もはっきりして、ある意味では何のニュースバリューもなさそうな殺人事件と、多くの犠牲者を出して世間の耳目を集めている大火災とが、次第に結びついていく。
非常に些細な現場の矛盾から、いかにもミステリ的な(?)荒唐無稽な動機が浮かび上がってくる推理の過程が面白いが、テレビ大好きの刑事が実はすごい推理するのかなと思って読んでいたら、実は全然そんなことなくて、その推理を主導しているのが鑑識の方というのも面白かった。
あと、火災の起きている百貨店が、「品質の悪いものを高く売る」というモットーで、接客態度も悪い(ことを逆にウリにしている)という謎の設定だった。

佐藤哲也『Plan B』より「神々」「侵略」「美女」「仙女」

それぞれ1ページにも満たない超ショートショート
SFないしファンタジー的な設定・ボキャブラリーを用いながら、おかしみのあるオチがついている。

芥川龍之介杜子春

超有名な作品だけど、読んだことなかったかもしれない。
収録理由は、次の一條作品にある。
(伊坂は、芥川で好きな作品は他にあると述べている)

一條次郎「ヘルメット・オブ・アイアン」

一條次郎は、伊坂幸太郎も選考委員を務めた公募賞から2015年にデビューした作家とのこと。
本作は「杜子春」のパロディであるのだが、単なるパロディであることを超えて、夢と現実との境界が失われ、自分とは何かも分からなくなっていくディック的な結末が待っている。
結末はディック的なのだが、本作全体に漂う雰囲気は非常にユーモアに満ちていて、一体何を読まされたんだという感覚になる。

古井由吉「先導獣の話」

去年の9月に古井由吉『木犀の日 古井由吉自薦短編集』 - logical cypher scape2で読んだので、半年ぶりの再読。また、『戦後短篇小説再発見』の9巻にも収録されているようで、評価の高い作品なのだろう。
とはいえ、なかなか難しい作品ではある。
大雑把に言えば、先導獣・無垢・無恥・パニックを引き起こすもの・個性・自己への耽溺・犬儒と、群れ・秩序が対比されていて、主人公は前者に憎しみを抱いている。
しかし、殲滅兵器とかいまいちよく分からないし、単純にどっちかに区分されるというわけではなくて、その境界のグラデーションみたいなものも感じられる(隠れて喧嘩してる2人とか)。そもそも、都会の静けさと田舎の騒がしさの対比とかは、また別の対比だと思うし。
主人公は、前者を憎んでいるけれど、主人公自身にそうした気配がないともいえない。


群れの中で、突如走り出す獣の話。あるいは、チーターに追われて、追い抜かれても走り続ける草食獣のパニックならぬパニックについて。
都会育ちの主人公が、会社の転勤で田舎暮しをして、その後妻子を伴って再度都会へ戻る。すると、都会の静けさ(通勤ラッシュの、人が多いのに整然としている感じ)が恐ろしく感じられるようになる。
駅で見た男の話
会社のとある先輩の話
電車の事故で動きの止まった群衆と隠れて喧嘩する男たち
殲滅兵器
学生運動のデモに巻き込まれて怪我した話

宮部みゆきサボテンの花

宮部みゆきはこれまで、SF傑作選とかに収録されたSF短編はいくつか読んでいたことがあるのだけど、ミステリは読んだことがなかった。
といって、本作がミステリと言えるかどうかは分からない。
小学校の教頭先生が主人公。
6年生でクラス別に卒業研究を行うという学校で、6年1組が「サボテンに超能力があるか調べる」というテーマを掲げたのに対して、担任がさじを投げてしまい、教頭は1組の生徒たちの自主性を重んじようとしている。
1組の生徒たちの「自主性」には、これまでも大人たちは困らされてきた中、教頭はそんな彼らができるだけ自由にやれるようにやってきた。
その教頭が困り果てて相談相手にしているのは、秋本という大学生。
この秋本も、実は1組の生徒たちが「スカウト」した学生で、秋本は彼らのことを面白い奴らだと思っている。
で、この超能力の研究が、実は一体なんだったのか、というのが最後に明らかになる。
謎があり、それが明らかになるという点では、ミステリといえばミステリか。
紋切り型な言い方になってしまうが、小学校の先生と生徒との間の感動的な心の交流を描いた作品、という言い方もできると思う。
「1組の奴ら、なかなかやるじゃん」みたいな結末である。
謎の解決と感動とがうまく結びついている話で、伊坂はそこがすごく気に入っているようで、自分で小説を書くときは「サボテンの花」のように書こう、と思っているらしい。

伊坂幸太郎編『小説の惑星 オーシャンラズベリー篇』

伊坂幸太郎が、自分の好きな小説でドリームチームを組んだという短編アンソロジー
自分は伊坂幸太郎をほとんど読んだことがない(『死神の精度』と阿部和重との共著である『キャプテンサンダーボルト』くらい)が、収録されている作家を見て気になったので読んでみることにした。
最近読んだ文学 - logical cypher scape2の延長戦的な

永井龍男「電報」

東京と京都を商売で行き来している男が、電車内で元カノを見かける
なお、まだ新幹線ではない時代で、食堂車とかがある。電車内に電報が送られてくる。
小説ドリームチームの先鋒が何故この作品なのかは正直ちょっとよく分からなかったが、伊坂としては、嫌な感じの男が肩すかしにあうオチがちょっと笑えて面白い、ということらしい。

絲山秋子「恋愛雑用論」

「恋愛雑用論」というタイトルだけど、恋愛小説ではなく、いや恋愛小説的なところも少しはあるかもしれないが、実は震災小説であり、しかし震災小説と言ってしまってよいかというとそうでもないという小説で、じゃあなんだかよく分からない作品なのかといえばそんなことはなくて、すごく上手い小説である。
R…町の工務店で事務員をしている主人公は独身女性で、20~30代までは人から結婚しないのかと言われていたが、40を過ぎて(姉を除けば)あまり言われなくなってきた、という人
恋愛とは雑用なのだ、という持論が冒頭で展開されるが、この人、非モテとかそういうわけではなく、その時々で彼氏がいたり、あるいは彼氏には至っていないがデートする人とかはいる。ただ、「いい人紹介してあげるよ~」とか人から言われるのがすごい苦手というか嫌い。
さて、事務員をしていると色々なお客さんの相手をすることになるが、この話は主に、その中でも常連である、信用金庫につとめる「小利口くん」とのやりとりで進んでいく。
「小利口くん」が何か面白い話ないっすかと聞いて、彼女が、この前デートした男について話したりする。
彼女の日常や恋愛観、人間観についての語りを読んでいく話なのだが、作中、2回ほど、震災への言及がある。
R…町は被災しておらず、彼女や彼女の家族も同様で、彼女はテレビの被災シーンを見て泣いていたというくらいなのだが、そのあっさりとした震災への言及だけで、小説として成り立つのだなあ、という。

阿部和重Geronimo-E, KIA」

2011年、アメリカ特殊部隊がパキスタン領内に極秘に侵入するところから始まる。ビンラディン暗殺作戦の様子だが、読み進めていると次第にこれが、実際の暗殺作戦そのものではなく、それをベースにしたVRゲームの様子だということが分かってくる。
中学生が、実際に行われたビンラディン暗殺作戦をいかに忠実にトレースできるかという競技になっていて、初めてパーフェクトを達成できるかという話。
軍事小説かと思って読んでいたら最後は部活小説になっているという、摩訶不思議な、しかし、阿部和重っぽいといえば阿部和重っぽい話

中島敦「悟浄歎異」

タイトルから分かるとおり『西遊記』を元にした作品で、沙悟浄の視点から孫悟空三蔵法師猪八戒についての人物評が書かれている。
というか、めちゃくちゃ悟空上げの文章で、悟空のことを賞賛しまくっている。また、分量的には悟空より少ないものの、三蔵と八戒についても同様。
悟浄が悟空の何にそんなに感嘆しているのかというと、まあ色々あるのだが、頭でっかちの「俺」に対して、身体性を伴った知性を持っているあいつはすごい、というような感じで、悟空から学ばなければと思っている。
知識は確かになくて天体や動植物について名前は知らないけれど、それが一体どういうものなのかはよく分かっていて、それはそれで教養だとか、過去の出来事とか全く覚えてないんだけど、過去の失敗からえた教訓とかは完全に身体化されて、同じミスで負けることはないとか。一方、悟空が珍しく覚えている話として、お釈迦様の掌のエピソードが語られていたりする。
あと、悟空と三蔵はタイプは正反対だが、自分の凄さを自覚していない点でよく似ていて、よいコンビだなとか、八戒は、最初下品な奴だと思ったけど、世の中の快楽という快楽をよく知っていて、何かを楽しむのにも才能がいるのだな、とか思っている。
なお、この作品は、前編・後編の後編らしいのだが、伊坂としては、ラストシーン(野宿中に星空と三蔵の寝顔を見る悟浄)がおすすめで、あえて後編を採ったとのこと。なるほど、確かによいシーンではある。
また、『わが西遊記』というシリーズものになる予定だったらしいが、未完のままとなっている。確かに、八戒についての話などは未回収のままになっている。

島村洋子「KISS」

中学時代の同級生がグラビアアイドルになっていた男子大学生の話
当時、いじめられていた彼女に対して、自分もやや家庭に事情があってある種の同情のような仲間意識のようなものをもって接していたら、ある日、突然キスをされ、その後彼女は転校していった。
アイドルとしての彼女には特に興味はなかったが、彼女のファンである友人に連れられて一度サイン会へ行ってみると、特に向こうは覚えていない様子。
しかし、その後、テレビ番組の中で彼女が当時の話とサイン会の時のことを話すのを見て、彼女が自分のことを好きだったことを知る一方、当時の自分が、いじめられていた彼女からの恋心を気付かないようにしていたことも思い出す。
(テレビの中で彼女が主人公のことを「今でも優しそうでした」と言うのに対して、自分は「優しい人」ではなく「優しそうな人」だよなと思うなど)
伊坂が恋愛小説を依頼された際に、恋愛小説を色々読んでこの作品に出会ったらしい。

横光利一「蠅」

言わずと知れた作品だが、未読だったので、読めてよかった。
本書を読むにあたって目当ての一つであった。
収録作品の中では一番短い作品。
宿場で、馬車に乗るために、息子が危篤という知らせを受け取った女性、駆け落ち中と思しき男女、幼い息子を連れた親子、大金をもうけたばかりで息子への土産について考えている田舎紳士がやってくる。蒸したての饅頭を食べることを日々の楽しみとしている馭者は、饅頭ができるまで出発しない。
そしていざ出発となるが、馭者が居眠りしてしまい……という話。
冒頭と結末が、蠅視点で書かれており、崖から転落する馬車を蠅が悠々と飛びながら見ているところで終わる。

筒井康隆「最後の伝令」

Amazonレビューとかでも書かれているけれど「はたらく細胞」的な奴
日頃の不摂生や仕事のストレスでヤバい40代男性の身体の中で、もうヤバいよっていう臓器からの連絡を脳に伝えようとする情報細胞の話。
身体の中の機能を、「はたらく細胞」のように擬人化しているようで、しかし、伊坂も指摘しているように、実際の身体機能に対応した比喩にはなってなさそうな箇所もある。
電子メールなんて言葉も出てくるが、カプセルの中に入って移動するというちょっと古めかしいSF的な描写もあったり、胃のあたりでは日本風の部屋の庭先で胃壁の様子がモニターされていて、ご隠居がいるとうシーンがあったり、そもそも最後、脳髄にいるメリーさんとは一体何なのとか、謎めいているが魅力的な描写・シーンに惹きつけられる。


人体を舞台にしていることはわりとすぐに明らかになるが、冒頭では一応そのことは伏せられていて、ちょっと戦争ものかスパイものかという雰囲気がある。
この身体の持ち主は戦中世代らしいが、細胞たち(?)が、戦後の時代についていけていないのかも、ポストモダンだし云々みたいな話をしている。

島田荘司「大根奇聞」

自分にとって、初・島田荘司だった。伊坂もあまり読んでいないし、ミステリとはニアミスしつつも*1読まない人生を送ってきた。
さて、タイトルからはどんな話かよく分からないが、御手洗潔シリーズの外伝みたいな話だった。
ただし、御手洗は最後の方に少し出てくるだけで、ほとんど出てこない。
語り手である石岡が偶々知り合った大学教授から、とある謎を持ち込まれる。
その教授は鹿児島出身で、歴史研究者の父親が長年研究していたが最後まで解けなかった謎を遺言として聞く。
幕末の薩摩藩西郷隆盛に影響を与えたという、酒匂帯刀*2の子ども時代について。
酒匂帯刀、幼名・矢七は、7才の頃に保護者である和尚とともに薩摩へやってくるのだが、折り悪く、桜島の噴火で薩摩藩全体が飢饉に陥っていた。餓死寸前でとある老婆に助けられるのだが、老婆のところにも食べ物はない。しかし、その近くに薩摩藩で唯一作物がなった大根畑があった。ところが、この大根畑はお上が勝手に収穫するのを禁止し、破ったら打ち首としていた。
しかし、直前に孫をやはり餓死させていた老婆は、今度は助けるとばかりに、その大根を盗んでくる。大根を食べさせてもらった矢七は、外を見て絶望する。桜島の火山灰が降り積もったあとに、老婆が大根を引きずってきた跡がくっきりと残っている。これでは、老婆の打ち首は避けられない。
が、どうも、何故かこの打ち首は避けられたらしい。
矢七改め帯刀は、明治になってからこの時のことを「大根奇聞」として書いているのだが、ここから先の部分が失われている。教授の父親は、この謎が解けなかったとして息子の教授に託し、教授は、これをさらに石岡、ひいてはその先にいる御手洗に託そうとしている。
最後、海外にいっている御手洗から電話がかかってきて、石岡がこの話をすると、御手洗が見事この謎を解決する。
時代小説っぽいがミステリで、教授が石岡に話す最後の方は、「こういうことは?」「いや、それはこういう理由でありえないです」みたいな、この問題設定の条件を詰めていってるようなところがあって、本格ミステリ読み慣れてるともしかしたら普通なのかもしれないけど、なんか独特の読み味だった。
あと、合理的な解決だし、ミステリにありそうなトリック(?)なのかなという気もするのだが、これ、読者解けるの? という謎
解けないことはないけど、御手洗のように証拠を集めるのは読者には不可能というか。
伊坂は、同じトリックを思いついたとしてもこんな小説にはしないだろう、みたいな小説を島田は書く、と述べている。
 

大江健三郎「人間の羊」

大江の初期の短編。『死者の奢り・飼育』に収録されているみたい。
「僕」が家庭教師のバイト帰りに乗ったバスには、キャンプの外国兵たちが乗っていて、そのうちの1人が女性といざこざを起こしていた。そのとばっちりを受けて「僕」は外国兵に服を脱がされ尻を叩かれる、という屈辱を受ける。
さらに、バス乗客の何人かと運転手も同じ目に遭う。外国兵たちは叩きながら「羊撃ち羊撃ち」と歌い、バスの乗客は「羊」にされた側とされなかった側とに分かれる。
外国兵たちが降りていったあと、羊にされなかった側の乗客たちが同情の念を示し、特にその中の1人である「教員」が、泣き寝入りせず訴えてやりましょうと声をあげるのが、「羊」たちは押し黙る(唖になってしまった、と書かれている)。
「僕」は、バスの中で起きた出来事を早く忘れて屈辱などなかったことにして家に帰りたいのだが、あろうことか、下車後も「教員」がしつこく「僕」につきまとってくるのである。交番に連れて行かれるが、警察はキャンプのことには及び腰であり、「僕」に訴える気がないのであしらわれる。
疲れ果ててしまった「僕」はただひたすら逃げ回るだけなのだが、「教員」はしつこく追いかけてきて、必ず「僕」の名前を突き止めてやるぞ、とまで言い放つ。
バスで屈辱を受ける前半とバスを降りてから教員に追いかけ回される後半とに分かれるわけだが、前半から後半のような展開になるとは予想がつかず、なんとも曰く言いがたい読後感となる。
例えば、性犯罪などは被害者が被害を明かしたがらないというようなことがあると言われているが、ここで描かれる「僕」の内面の動きはそれに近いものがあるのだろうなということを考えさせられる(交番の警官が、尻を叩かれただけでしょw みたいな態度をとっているのも同様)
寓話っぽい雰囲気も漂う作品ではあるが、バスの乗客は「日本人」と明示されている(ので、「外国兵」というのも米兵のことなのではあろう)。
ところで冒頭、僕がバスに乗り込んですぐのところで、「僕は小さい欠伸をして甲虫の体液のように白い涙を流した。」という一文があって、いきなりすげえ比喩だな、と思った。
伊坂は、本アンソロについて、基本的に明るめの作品を集めるようにしたけれど、大江作品だけは例外である旨述べており、また「大江健三郎はヤバい」とも述べている(「ヤバい」は今ではかなり多義的な意味で使われるが、その全ての意味でヤバいのだ、とも)。

*1:ミステリ好きな友人がいたりとか

*2:小松帯刀のことかと思ったら架空の人物のようだった

『思想2023年1月号(ウィトゲンシュタイン――『哲学探究』への道)』

ウィトゲンシュタインについて、全然読んでいるわけではないけれど、雑誌で特集とかあるとつい気になって手にとってしまう。 
鬼界訳『哲学探究』は、半分くらいまで読んだところで止まっている……(この『思想』を読みながら、少しだけ『探求』も読み進めたが)。
自分にとっては、ウィトゲンシュタインよりも、ウィトゲンシュタインを通して鬼界先生の授業を思い出したりするのが面白いかもしれない。ウィトゲンシュタイン自体も面白くはあるけれど。

【小特集】ウィトゲンシュタイン──『哲学探究』への道
思想の言葉  野矢茂樹
〈討議〉ウィトゲンシュタインを読むとはどういうことか  鬼界彰夫野矢茂樹・古田徹也・山田圭一
表出と疑問  飯田 隆
形式と内容としての対象──『論考』的対象の形式主義的解釈の試み  荒畑靖宏
ウィトゲンシュタイン研究私記──『哲学探究』翻訳までの道  鬼界彰夫
進化と安定性──後期ウィトゲンシュタインの言語観  松阪陽一
意味は体験されるのか──『哲学探究』第一部と第二部の違いを考える  山田圭一
哲学探究』研究解題  谷田雄毅
日本のウィトゲンシュタイン研究  谷田雄毅


思想対象としての20世紀中国──『世紀の誕生 ― 中国革命と政治の論理』序論(下) 汪 暉/丸川哲史

思想の言葉  野矢茂樹

『論考』は、「操作と基底」という一点から読めた
『探求』は、鬼界訳の「いわば頭を水面に上げておくことが難しいのだ」という一節から読めた、と感じたという話

〈討議〉ウィトゲンシュタインを読むとはどういうことか  鬼界彰夫野矢茂樹・古田徹也・山田圭一

山田の司会で、それぞれウィトゲンシュタインとの出会いから始まっての座談会。
鬼界と古田は、初めて読んだときから面白かったと答え、野矢は最初はあまりピンと来てなかったような感じ。
草稿を全て読んでいきウィトゲンシュタインの人生とも照らし合わせながら読んでいく手法の鬼界と、あくまでも最終版のテクストから読み解けるものを読んでいく手法の野矢とで、解釈が分かれているという印象。
例えば独我論について、「私」の問題は『探求』にはそこまで強くでてないのではないかという野矢と、そうではないのではないのかという鬼界
あるいは、「語りえないもの」としての倫理についてとか。『探求』では、より徹底して、語らないことを実践しているのだという鬼界と、そうではないのではないかという野矢
『論考』は『探求』の中にどのくらい残っているのかということについて、鬼界は、哲学をよくしようという意志が残っていると答えている。
あと、最後は比喩の話をしたりしている。
それから、哲学の方法論というか文章の書き方として、ウィトゲンシュタインのスタイルと分析哲学のスタイルとの違いについてとか

表出と疑問  飯田 隆

表出文の意味論と、疑問文の意味論についてのスケッチ

形式と内容としての対象──『論考』的対象の形式主義的解釈の試み  荒畑靖宏

『論考』に出てくる「使用」について

ウィトゲンシュタイン研究私記──『哲学探究』翻訳までの道  鬼界彰夫

哲学探究』解釈の話としては、鬼界彰夫『『哲学探究』とはいかなる書物か――理想と哲学』 - logical cypher scape2のダイジェストだけど、そこにどうやって至ったのかという話がなされていて興味深い。
元々『哲学探究』と出会ったのは、大学院生時代の読書会の時。しかし、その時は、この本は体系的に読むことはできないのではないかという衝撃を受けて、決して研究対象にはせず趣味で読むにとどめよう、と思ったらしい。
アメリカ留学時代に、カーツによる解釈に触れ、体系的な解釈が可能かもしれないと思うようになり、筑波大学就職以後、演習授業で読むようになった、と。
また、奥雅博研究室に、『確実性について』の手稿コピーがあることを知ったことも契機だったようだ。
『確実性について』を読む中で、「スレッド-シークエンス法」を編み出す
講談社の上田哲之氏からの依頼で、2003年に『ウィトゲンシュタインはこう考えた』を出版した後、2009年にやはり上田氏から『哲学探究』の翻訳依頼を受けた、とのこと。
『探求』を訳すにあたって、いくつか解決すべき謎があったということで、テクスト内の解釈の話と、ウィトゲンシュタイン自身の生との関係の話とを挙げている。
最後に、キルケゴールからの影響が謎として残ったが、鈴木祐丞『〈実存哲学〉の系譜』によって説けた、という話で締めくくられている

進化と安定性──後期ウィトゲンシュタインの言語観  松阪陽一

後期ウィトゲンシュタインの言語観が、ダーウィニズムっぽいという話。
繰り返し注意されているが、ウィトゲンシュタインダーウィンから直接影響を受けたという話では全くない。
結果として、後期ウィトゲンシュタインの言語観とダーウィン的な生物観が似ているのではないか。というか、後期ウィトゲンシュタインの言語観を、ダーウィニズムと比較すると理解しやすいのではないか、ということ。
つまり、言語(生物種)には、本質というものはなくて進化していくものなのだ、という考えである点で似ていると考えてみると、後期ウィトゲンシュタインが理解しやすくなるのではないかという話として読んだ。。

意味は体験されるのか──『哲学探究』第一部と第二部の違いを考える  山田圭一

哲学探究』第一部と第二部の違い
一次的意味と二次的意味
一次的意味は、その言葉の普通の意味で、二次的意味は、一次的意味を踏まえた上で特定の文脈の中での意味
第一部では、「意味」や「理解」の一次的意味を扱っていて、第二部では、「意味」や「理解」の二次的意味を扱っているのではないか
「意味」の一次的意味は、例えば入れ替えが可能かどうかで判断できる。
「私は四月にはもう学校にいません」と「おれは四月はもう学校に居ないのだ」は入れ替えても、同じ文であるという一次的意味で「理解」することができる。
しかし、「おれは四月はもう学校に居ないのだ」は、宮沢賢治の詩の中で出てくる一文で、これを「私は四月にはもう学校にいません」に入れ替えることはできない。これは二次的な意味での「理解」での入れ替え不可能性。
文字の見た目とか音の響きとかリズムとかが大事になる
一次的意味があってこそだが、二次的意味もまた人間の生にとって必要なものではないか、と

哲学探究』研究解題  谷田雄毅

中期から後期への変遷は「計算的な見方から人類学的な見方へ」「文法から使用へ」と要約される
この変遷は、経済学者スラッファから「この身振りの文法は何か」と問われたことがきっかけとされる
ところで、後期のメルクマールとして、ことばをチェスの駒と比較することをやめ、音楽や絵画と比較するようになったところにあると注釈されていた。音楽で喩えるのは、上述の山田論文の中でも出てきていた
使用をみろ、というのは、言葉の使われ方のルールを見ろ、ということだけではなく、その言語ゲームがどのように生活の中に埋め込まれているかというポイントを見ろ、ということでもある。
「生活形式」というのは、それが一体どういうものかを巡って色々解釈されてきたが、その内実にはあまり重点はなくて、言語ゲームのポイントを前景化させるための方法論的な概念であるとのこと
ウィトゲンシュタインは、われわれの実践と酷似しているのにどこか「関節が外れてしまっている」実践を創り出す天才である。」この、関節のはまっているゲームと関節の外れているゲームとの断絶を位置づけるために便宜的につけられたラベルが「生活形式」
アスペクト論について
バズは、既存のアスペクト論解釈を(a)アスペクトとは概念のことである(b)すべての知覚はアスペクト知覚である」(c)「あらゆる知覚は概念化されている」という3つのテーゼのいずれにコミットしているかで分類しつつ、ウィトゲンシュタイン自身はこのどれにもコミットしていないと見ている。
ウィトゲンシュタインは、画像が複数のアスペクトを持つように、ことばも複数の使い方をもつと論じていた
谷田は、ことばが複数の言語ゲームで使用されるところに、ことばの「魂」や「表情」のようなものがでてくると論じる。

日本のウィトゲンシュタイン研究  谷田雄毅

まず、日本のウィトゲンシュタイン研究者を3つの世代にわける
第一世代(1920~40年代前半生まれ):大森、黒田、黒崎、藤本、奥ら
第二世代(1940年代後半~1950年代前半生まれ):飯田、野家、永井、鬼界、野矢ら
第三世代(1970年代以降生まれ):荒畑、山田、古田ら
そのうえで、特に第二・第三世代を中心に、翻訳、概説書、『論考』研究、『探求』研究を整理している
『論考』研究について
吉田寛による解釈の分類
決然たる読みとの距離での位置づけ
従来の標準的解釈とも決然たる読み解釈とも異なる大谷弘
『探求』研究について
クリプキの強い影響を受けた世代として「第二世代」を捉える
(ところで、冒頭の討議で野矢自身、クリプキ論文をリアルタイムで読んだという話をしているが、一方の鬼界はクリプキにはあまり影響を受けなかったと述べている)
ここでは、大谷弘の本を例に挙げながら、第三世代が、クリプキを経由せずに『探求』を読んだ世代としている
また、第三世代の特徴として、アスペクト論研究の充実も挙げている。