アリステア・マクラウド『彼方なる歌に耳を澄ませよ』(中野恵津子・訳)

カナダ東部を舞台としたファミリーサーガ
物語の舞台は1990年代後半で、主人公は、18世紀にスコットランドのハイランド地方からカナダのケープ・ブレトン島へ移民してきた男の子孫であり、自らの半生と一族について物語っていく。
カナダというのは何となく知っているような気がしてしまう国なのだけど、しかし、いざカナダを舞台とした小説を読んでみると、全然知らない国だったなと思い知らされる*1
例えば、確かに多文化共生の国、というのはキャッチコピー的には知っていても、具体的な多民族国家っぷりはあまりよくイメージできていなかった。多民族といっても、本作で出てくるのはヨーロッパ系の人々ばかりではあるけれど、しかし、主人公を含むキャラム・ルーアの人々からして、英語とは別にゲール語という母語を持ち、英語を母語として話す人々と一線を画している風が見て取れる。
もっとも本作は、あくまでもある家族の物語であって、カナダの多民族性とかをテーマにした作品ではない(が、色々と垣間見えるところはある)。
ところで、原題はNo Great Mischiefといい、日本語にするなら「たいしたことない損失」となる。邦題は随分と異なるのだが、この作品は死者への思いといった面があり、原題も邦題も死者のことを示唆している点で共通しているのだろう(原題は、反語的表現で、世界や社会全体から見たらたいしたことない損失だが……、ということだと思う)。
主人公は、いわば階級上昇を果たした側だが、自分のルーツや家族への愛着や、あるいは負い目のようなものをずっと抱えているのだと思われる。
  

本作は、カナダでは1999年に発表され、2005年に日本語訳が出版された。
それまで寡作で知る人ぞ知る作家だったマクラウドを、世に知らしめるベストセラーになったらしい。
『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 短編コレクション1』 - logical cypher scape2を読んだ際に、マクラウドの「冬の犬」という短編が面白かったので、それまで全く名前も知らない作家だったけれど、今回、海外文学読むぞ期間の一環として読むことにした。
新潮社クレスト・ブックスは、レーベル名だけ知っていたけれどこれまで読んだことがなかった。
版元のページには「これまでに、『朗読者』『停電の夜に』などのベストセラーをうみだし、カナダのアリステア・マクラウドウクライナアンドレイ・クルコフなど、世界各国の知られざる作家たちを紹介してきました。」とあり、このレーベルを代表する作家だったようだ。
https://www.shinchosha.co.jp/crest/

あらすじなど

主人公が、半ばアル中と化した兄のキャラムをボロアパートに見舞うシーンから始まる。
歯科医として成功し裕福な生活を送る主人公と、生きることに倦み酒に溺れる兄、何が彼らの境遇を分かち、そして何がそれでもなお彼らの関係を繋ぎ止めているのか。
物語はその後、おおむね主人公の生い立ちを時系列順に辿りながら進んでいくが、現在の出来事もたびたび挟まれる。
具体的には、主人公の回想を主な筋としつつ、主人公が歯医者になって以降の出来事の断片的な回想、妹が主人公に語ったこと、兄のキャラムを見舞っている時に酒を買いに行きながら眺めた風景がたびたび挟まれることになる。
節に分けられているが、大きな章分けなどはされていなくて、わりと淡々と進んでいく。


主人公の本名は、アレグザンダー・マクドナルドというが、家族の間では「ギラ・ベク・ルーア(小さな赤い男の子)」と呼ばれている。
20世紀の終わりには55歳になる年齢
彼の祖先は、1779年にスコットランドからケープ・ブレトンに移住してきたキャラム・ルーア(赤毛のキャラム)という男で、彼の子孫は「クロウン・キャラム・ルーア」と呼ばれている。
彼らの一族は、赤毛が多いことと双子が多いことが特徴で、主人公は赤毛かつ双子である(双子の妹がいる)*2
また、英語ももちろん話すのだが、身内しかいない時にはゲール語を話し、ゲール語の歌を歌う。彼らは一族の歴史、言語を非常に大事にしている。


主人公の家族構成だが、
父方の祖父母(おじいちゃん・おばあちゃん)と母方の祖父(おじいさん)
歳の離れた3人の兄、主人公とその双子の妹となっている。
主人公の両親と、4番目の兄は、主人公が3歳の時に亡くなっている。
父親は灯台守をして家族は小島に住んでいたのだが、ある日、4番目の兄と双子を連れて祖父母のところへ来ていた。双子は祖父母のところに泊まることになり、両親と兄は帰宅したのだが、流氷の上を犬ゾリで走っていたら海の中へ落下してしまったのである。
その後、双子は祖父母のもとで育てられることになった。
一方、3人の兄たちは既に10代後半で彼らだけで掘立小屋で暮らし始めるのである。
主人公は、親が亡くなったことで「運の悪い子ども」と言われる一方、祖父母に育てられることについて「運の良い子ども」とも呼ばれる。
というのも、兄たちが、漁労で生計をたてその後大人になると鉱夫になる一方で、主人公は州都ハリファックスの大学に進学し矯正歯科医となり、妹は遠くアルバータ州の大学に進学し、石油会社勤務の夫を得、2人は都市部で裕福な生活を送れるようになるのである。
(親よりも祖父母の方が経済的余裕があったことが示唆されている)
主人公と兄の道を分けたのは、両親の死だったといえるわけだが、さらに彼らを結び付け、かつ道を分けてしまったのは、もう一人別の親族の死である。


主人公が大学を卒業した日、主人公の従兄弟であるアレクザンダー・マクドナルド(主人公と同姓同名)が、鉱山で事故死する。
この頃、長兄キャラムがリーダーとなって、主人公の兄たちや従兄弟のアレクザンダーら、キャラム・ルーアの男たちは鉱夫として働いていた。キャラムらは、新たな坑道を切り拓く際のプロフェッショナルと会社から買われており、カナダだけでなく南米などにも働きにいく日々を送っていたが、その時は、カナダ・オンタリオ州サドベリー近郊のウラニウム鉱山で働いていた*3
従兄弟の葬儀を終えた後、キャラムらが鉱山に戻る際、従兄弟の穴を埋めるため主人公も同行し、その鉱山で働き始める。
この鉱山には、キャラム・ルーアの男たちだけでなく、アイルランド系、イタリア系、ポルトガル系、果ては南アのズールー族など様々なルーツを持つ労働者グループがいたが、そのなかでもキャラルたちと確執の深いグループとして、フランス系カナダ人グループがいた。
従兄弟の死は、単なる事故ではなかったのではないかという話もあるなか、最終的に、2つのグループの間で乱闘騒ぎが起きて、キャラムは、フランス系カナダ人たちのリーダーを殴り殺してしまうのである。
あれほどバイタリティのある生活を送っていたキャラムが、今やアル中同然の生活をしているのは、この罪により10年以上刑務所に入っていたためだったのである。


というのが、非常に大雑把なあらすじだが、そこに至るまでに様々なエピソードが展開されていく。

カナダに渡ってきたキャラム・ルーアは、主人公から数えて6代前であり、その子孫は相当数おり、必ずしも互いに面識があるわけではない。しかし、どこかで赤毛ゲール語を話す人に出くわすと、彼らはそこに絆を見いだす。
そういったエピソードがいくつもあるのだが、例えば、キャラムたちが宿を探していて断られた際に、ゲール語で罵り言葉を叫んだら、そこの家の奥さんがやはりスコットランド系だったために泊めてくれた話とか。
あるいは、主人公の双子の妹は、こうした見ず知らずの親戚との出会いにエンパワーされているところがあるらしく、主人公に対してこの手のエピソードをいくつか語っている。その大きな一つとしてスコットランド旅行がある。夫の出張に同行してスコットランドに行った際に、1人で、キャラム・ルーアの出身地を訪ねたところ、そこにいた女性から「あなたはここの人でしょ」と話しかけられ、宴席がもうけられたエピソード。妹は、大学以降アルバータ州で暮らしていたのでゲール語から長く遠ざかっていたのだが、そのときは、自然とゲール語の歌を歌えたことを感慨深く主人公に語っている。
ところでこの手のエピソードで一番印象深いのは、鉱山でのジェームズ・マクドナルドだろう。
主人公がキャラムらとともに鉱山で働いていた際、鉱山のゲートの外には、仕事を探したり人探しをしたりしている人やあるいは借金取りがたむろしていたのだが、その中に、赤毛でヴァイオリンを持った男がいて、キャラムは仕事を探していた彼を鉱山の中に連れてくる。
キャラム・ルーアの人々は、歌う際にヴァイオリンをよく弾くのだが、このジェームズ・マクドナルドはその名手であって、彼がヴァイオリンを弾き始めると、キャラム・ルーアの人々だけでなく、フランス系カナダ人までもがヴァイオリンを持ち出してきて一緒に演奏したのだ。彼らもおそらくケルト系ということで、共通した音楽を知っていたのだ。
この音楽でつながりあうシーンは感動的ではあるのだが、すぐに終わってしまう。
ジェームズは音楽の才はあったが鉱山で働く肉体は持ち合わせておらず、ある日、ひっそりとお礼の手紙を残して姿を消す。

  • おじいちゃんとおじいさん

主人公には、父方の祖父母(おじいちゃん・おばあちゃん)と母方の祖父(おじいさん)がいて、彼らとの話が非常に多い。
また、彼らの昔語りの中で、祖先の話もよく出てくる。
おじいちゃんとおじいさんは、非常に対照的な性格をしているのだが、それでいて互いに親しい友人同士でもある(子ども同士が結婚する前からの知り合い)。
おじいちゃんというのは、お酒大好き、下ネタ大好き、何でも陽気に笑い飛ばす感じの人で、
対して、おじいさんは、酒も下ネタも好まず、教養のある物静かなタイプの人。
おじいさんは元々大工で、彼が地元の病院を手がけたさいに、建設後にその病院の管理人になる人物として、おじいちゃんを推す(そのために、病院のことを教え込む)。
それまで、日雇い仕事で収入が不安定だったおじいちゃんは、定職を得ることになる。
で、このおじいさんだが、生まれる前に父親が亡くなっており、この父親は自分に子どもがいたことをおそらく知らないままに亡くなっている。母子家庭で育ち、進学せずに大工になっているのだが、歴史に興味があって読書家で、一族の歌の歌詞を一言一句間違えずに覚えている。中年になってから一人娘(=主人公の母)が生まれるのだが、お産の際に妻が亡くなり、父子家庭として娘を育てることになる。そして、その娘にも先立たれることになる。
このおじいちゃんとおじいさんの存在が、主人公(とその双子の妹)に強い影響を与えている。
主人公の妹が、おじいさんが母親をどのように育ててきたのかを想像混じりに語るところはなかなかぐっとくるものがある。

  • 犬や馬との絆

初代キャラム・ルーアがカナダへ渡る時、飼い犬を置いていくつもりだったのだが、その犬は漕ぎ出した舟を泳いで追ってきて、キャラムはその犬もカナダへと連れて行くことにするのである。
こうして「情が深く、頑張りすぎる犬」の一族もまた、ケープ・ブレトン島に住み着くことになる。
主人公の両親が海に落ちたとき、難を逃れた犬もまた「頑張りすぎる犬」だった。この犬は、主人たちの危機を伝え、そして主人たちの無事を信じて、再び海へ向かうような犬だった。この犬はのちに、主人公の父親を継いで灯台守になった男に射殺されてしまうのだが。
この「頑張りすぎる犬」に、キャラム・ルーアの人々はシンパシーを抱いている。
また、動物との関係としては、主人公の兄キャラムと馬のクリスティとの信頼関係も見逃せない。
舟を、波でさらわれないところまで運び上げるのに、キャラムが口笛を吹くとクリスティはやってくるのである。キャラムが自分の虫歯を抜くのをクリスティに引っ張ってもらうというエピソードがある。

全体の中ではかなり些細なエピソードだが印象に残ったものとして
主人公が歯科医として学会に行った際に話しかけてきた人が、「ウクライナ人なんていない。彼らはロシア人だ」という主張を主人公に対してしてくる。
主人公は、国境が変わってウクライナ人もいるんですよというようなことを答える。おそらく時期的にソ連崩壊によるウクライナ独立をさしているのではないかと思われる。
ここでは、連合王国やカナダ連邦の中でゲール語を話す人々である主人公たちの一族の関係と、旧ソ連ウクライナの関係が、うっすらと重ね合わせられながら示唆されているのだろうと思われるエピソードだが、2023年に読むとなかなかドキッとさせられる言動ではある(むろん、1999年当時であっても、この発言はいささか厄介な言動だっただろうが)。
ところで、この作品は必ずしも民族問題を主題に扱っているわけではないものの、しかし、やはりそのことも意識されているところはある。
既に述べた通り、主人公が兄たちとともに働いた鉱山は、各国からの出稼ぎ労働者たちがいたわけだが、それ以外にも、主人公が兄を見舞った時点の話で、郊外の農場の描写が度々出てくる。そこでは、農業体験に訪れた都会に住む裕福なカナダ人家族と、海外からの出稼ぎ労働者が対比的に描かれている。また、鉱山には、彼らハイランダーケベックのフランス系カナダ人との根深い対立があった。多様なルーツを持った人たちが同じ場所に暮らしながらも、必ずしも融和していない状況が描かれている。


この作品は、文章としては読みやすいし、単純に家族賛歌・血族の絆を尊ぶ物語として読むことができるし、実際、それは主要なテーマとなっているだろう。
しかし、この主人公による語りは、どこか淡々としていて、描かれている出来事に対してどこか距離を保っているところがある。また、ここで語る内容が、聞き伝えと自分の想像が混じったものであって、必ずしも正確な事実ではない、ということに何度か注意するようなところもあって、あくまでも、一つの視点からの主観的な語りなのだということにも自覚的な文章になっている。
主人公が、島から出て都会で裕福な生活を送っていて、また、あるいは歴史に詳しいおじいさんからの影響もあって、ハイランダーや自分の一族の歴史について少し距離を置いて見ることができる視点を持ち合わせているのだろう。
しかし一方で、自分の今の立ち位置が、これまでの祖先や家族たちによるものであることも自覚していて、その連なりへの愛着と、しかしそこから自分が距離を置いた生活を送っていることの後ろめたさのようなものもまたあるのだろう。
既に述べた通り、主人公が高等教育を受けられるようになった背景には、両親の死がある。そしてまた、従兄弟の死もまた、彼と兄との関係に重要な影響をもたらしている。主人公と兄は、もし親があのとき死ななかったなら、ということを話しているくだりがある。
それだけではなく、彼らはさらにハイランダーとカナダの歴史にも思いをはせる。あの戦争の時、あの将軍が死ななかったなら、キャラム・ルーアの運命もまた違っていたのではないだろうか、と。
しかし、そうした反実仮想は必ずしも広がってはいかない。彼らの死がなければ違った運命が待ち受けていたかもしれないが、しかし、彼らは死んでしまったのだ、と。その死は変えられない。


ちなみに、原題はNo Great Mischiefだが、これは、カナダ史の中のある言葉からとられている。
ハイランダーたちは、名誉革命の際に英王室への併合に抵抗して反乱を起こし、その際、フランスとの同盟を結んだことがある。が、後に、フレンチ・インディアン戦争の際には、イギリス側に立っている。このため、イギリス側の将軍は、ハイランダーたちを必ずしも信用しておらず、彼らは秀でた兵士だが、死んでも「大した損失ではないNo Great Mischief」とされる。なお、この戦争では、フランス語を話すことのできたハイランダーたちが、フランス兵を欺瞞したことで、イギリス側が勝利したとされている。

*1:ちなみに『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 短編コレクション1』 - logical cypher scape2では、アトウッドがアメリカに留学しても留学生だと思ってもらえないカナダ人学生について描いている。カナダ人とアメリカ人、確かにあまり区別して認識できない気がする

*2:ただ、物語中には赤毛はたくさん出てくるが、双子は主人公しか出てきていない気がする

*3:日本への輸出用ウランの需要により、再開発が進められたらしい

フリオ・コルタサル『悪魔の涎・追い求める男他八篇』(木村榮一・訳)

タイトルにあるとおり、10篇を収録した短編集
日本オリジナル短編集っぽくて、『動物寓話譚』『遊戯の終わり』『秘密の武器』『すべての火は火』といった短編集から、いくつかずつ採って編まれたもののようである。なお、これらの短編集もそれぞれ翻訳されている。
海外文学読むぞ期間の一環として、コルタサルは読もうと以前から考えていたが、『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 短編コレクション1』 - logical cypher scape2で「南部高速道路」を読んだら面白かったので、当初の予定通り読むことにした。
SFやファンタジーのような設定やガジェットはでてこないし、目立った奇想もでてくるわけではないのだが、いつの間にか日常から少しズレた世界へと誘い込まれるような作品が多い。
そのズレ自体も面白いのだが、読んだあとには、そうした奇妙なアイデアだけでなく、どこか不穏な感じも印象に残る。多くの作品において、結末に、何らかの形で死があるからかもしれない(登場人物が死ぬとか、殺されそうになるとかそういった結末が多い)。
(その点「南部高速道路」は、(物語の途中で人は死ぬものの)結末に人の死はなくて、これに当てはまらないのだが、一時的な共同体の終わりにより物語も結末を迎える)
イデア面以外に、なんとも言えない味わい(?)がある気がして、そこがコルタサルの魅力なのかもしれない。
表題作の「悪魔の涎」はちょっとあんまりよく分からなかった。
もう一つの表題作「追い求める男」は、日常からズレるような話ではなく、薬物中毒のジャズマンを描いた話だが、こちらはそこそこ面白い。
やはり「南部高速道路」が一番面白いと思う。


コルタサルは、アルゼンチン出身ラテンアメリカ文学作家の一人であるが、親の仕事の関係で生まれはブリュッセルであり、30代後半にパリへ移住している。このためか、本作収録作品のほとんども、舞台はヨーロッパ(多くがパリ)である。

続いている公園

数ページのショートショート
主人公は不倫している男女の小説を読んでいる。2人は夫を殺そうと決めて、女がナイフをもって夫の部屋に入っていく。すると、そこには小説を読んでいる男が、というメタフィクション的なオチ

パリにいる若い女性に宛てた手紙

タイトル通り、手紙の形式で書かれている。
手紙を書いている男は、彼女がパリに行っている間彼女のブエノスアイレスの部屋を借りている。
ところで、この彼は子兎を吐くという謎の体質を持っている。普段は子兎を吐くインターバルが決まっていて、借りている間は吐かずにいられそうだと思っていたのだが、いざ借りた部屋で暮し始めたら、何匹も子兎を吐いてしまい、彼女の部屋のタンスの中でこっそり育て始める。が、最終的にはこの子兎らを殺すことにする
ということを、彼女に対して告白している手紙

占拠された屋敷

40代で独身のまま2人暮らしをしている兄妹
仕事もしていないっぽくて、午前中は掃除や食事の支度などをして、午後や夜は、兄は読書、妹は編み物をしている
ところが、突然屋敷の一部が何者かに占拠される。何者かなのかは全く分からない。とにかく突然占拠されて、2人は屋敷の一部に行くことができなくなる。
最初は、掃除するところが減ってよかったというくらいでいるのだが、次第に占拠されている範囲が増え始めて、色々と不自由が出てくる(本が占拠された側にいってしまって、読書ができなくなるとか)。

夜、あおむけにされて

バイクで事故った男が、入院中に見る夢と現実が入り交じり、どちらが夢でどちらが現実か分からなくなっていく。
夢の中ではどこかジャングルにいて、他の部族に捕まって、殺されそうになる。

悪魔の涎

パリで写真を趣味にしている主人公が、少年と女の姿を半ば盗撮する。少年は逃げ出し、女はフィルムを渡せと怒るが、主人公は応じない。
その後、現像した写真を見ていたら、その写真が動きだす。
なお、アントニオーニ『欲望』はこの作品に触発されて撮られた映画だとのこと。

追い求める男

100ページほどあり、本短編集収録作品の中では一番長い作品。
サックス奏者ジョニーについて、彼の伝記を書いた音楽批評家であるブルーノの視点で語られる。
ジョニーは天才的な演奏家であるのだが、その一方で、薬物中毒者であり、突然演奏をすっぽかしたり、サックスを壊したりなくしたり、よく分からないことを語ったりして周囲を困惑・翻弄させている。
ジョニーは時々時制のおかしなことを話し、独自の時間についての考察をしたりする。
客観的には、よく出来た演奏のレコーディングを消せと言ったりもする
ブルーノは、かなり長きに渡ってジョニーの友人であり続けているけれど、彼の言うことをあまり真に受けないという距離感でいるために、うまく関係を続けていられている。
ブルーノは、ジョニーは全く偉人ではないし、どこにでもいる普通のサックス奏者と地続きの人間でありながら、天才的な奏者でもあると。
ジョニーには、その時々の恋人がマリファナを調達している、というか、ジョニーに絆されてマリファナを渡してしまうのだが、さらに別に、公爵夫人という人がいて、ジョニーへの金銭的支援を陰に陽にやっていて、実際のところ、マリファナもおそらくこの公爵夫人が手を回しているっぽい。
ジョニーは、ジャズを通して何かを追い求めようとしている。
別れた妻との末子が急死する。
ジョニーがブルーノに、ブルーノの書いた本の感想を告げる。ジョニーが言う通り、ブルーノはジョニーの伝記を脚色している、というか、彼の薬物体験の話などは伏せている。彼の音楽についてを書き、ジャズ論を展開して、好評を博している。
ブルーノは、自分の書いたジョニーの伝記と矛盾することをジョニー自身が公に言い出したらどうしようと危惧し始めるが、杞憂に終わる
ジョニーは結局ニューヨークで亡くなる

南部高速道路

『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 短編コレクション1』 - logical cypher scape2で読んだので、あらすじ等省略
この作品はやはり面白い。
食料や水の調達は何度も出てくるのだが、車のガソリンの調達はあまり出てきていなくて(燃料を節約して、みたいな記述はあったような気がするが)、そこらへん突き詰めちゃうと、当然だが、あまりに非現実な話だということがあらわになってしまうのだろうが、その点を置いておくと、現実にありそうな渋滞が現実にありそうな雰囲気のまま、このありえない事態を描いていて、面白い。
災害時に生じる共同体、みたいな雰囲気があって、そのあたりにリアリティがあるのかもしれない。
上述したとおり、この作品は他の作品と違って、人の死は結末に置かれていないが、共同体の終わりが物語の結末となっていて、その点で、読後感は他の作品と異なるが、他の作品読後感をどこかスケールアップしたような感じともいえるかもしれない。
なんだろう、そこでぷっつりと切れてしまう感じが共通しているような。

正午の島

飛行機の客室乗務員である男が、正午に上空を通るギリシアの島に魅了される
その時間帯は、窓からその島を眺めて、業務を他の乗務員に任せてしまう。
そして、ついにはその島へと来訪する。漁で生活している一家族しか住んでいないような島で、そこに住み着くことを決める
最後、飛行機が墜落して乗客・乗員の遺体が海岸に流れ着く。

ジョン・ハウエルへの指示

ロンドンの劇場にふらっと立ち寄って芝居を見始めたライスは、突然座席で話しかけられて、舞台裏へ連れてこられる。
謎の男に、あなたはハウエルですと言われて、第2幕から突然舞台に立たされる。
ハウエルの妻のエバ役の女性が、舞台上ですれ違いざま「助けて、殺される」とライスに囁くが、その後、他の役者に邪魔されて彼女には近づけない。
第2幕は流されるままだったライスだが、第3幕では指示に逆らうような芝居をして、最終幕を前に放逐される。
最終幕では、再び客席に戻るライス。第1幕でハウエルを演じていた役者が再びハウエルを演じている。そして、エバが舞台上で殺される(これはお芝居上の殺人なのか実際の殺人なのかは明らかではない)のを見て、ライスは思わず劇場から逃げ出すのだった。

すべての火は火

古代ローマの闘技場と現代のパリとが交互に出てくるのだが、技法上面白いのが、この舞台の切り替えが文章上切れ間なく行われるところ。
最初は、段落が変わると舞台も変わる。これだけでも、行空けだったり、明示的なフレーズだったりがなく突然行われるので一瞬戸惑うのだが、読み進めていると、同じ段落の中でも突然舞台が切り替わったりするようになる。
古代ローマの方は、とある地方の闘技場で、その地方の総督夫妻が主人公。腕のたつ剣闘士を呼んでいるのだが、総督の妻がその剣闘士を気に入っている。総督は、ヌビア人の大男を相手にした対戦カードを組む。
パリの方は、男の元に浮気相手らしき女性から電話がかかってくる。男のパートナーがその女のもとにいったらしい。電話が切れた後、パートナーが男のもとに帰ってくる。
どちらもある種の浮気が描かれているのだが、最後に、パリパートで起きた火災と古代パートで起きた火災とが重ね合わされる。パリパートの主人公が見ていた夢が古代パートなのかなとも思わせる描写にはなっているが、この2つの関係ははっきりとはしていない。

解説

コルタサルは、1914年ブリュッセル生まれ。1918年にアルゼンチンへ帰国。病弱で本をよく読む少年時代を送り、ヨーロッパの幻想文学ロマン主義シュールレアリスム文学に傾倒。
大学を中退し、1937年から1945年まで教員生活をしていたが、その後、ブエノスアイレスで出版関係の仕事につき、「占拠された屋敷」を雑誌編集部に持ち込み掲載に至る。なお、その際の編集者がボルヘスだった。
1951年、留学生として渡仏し、以後はフランスに定住する。
パリに行く直前に友人たちがコルタサルの原稿を取り上げて出版社に持ち込んだ末出版されたのが『動物寓意譚』で「占拠された屋敷」「パリにいる若い女性に宛てた手紙」収録
「続いている公園」「夜、あおむけにされて」は『遊戯の終わり』(1956)
「悪魔の涎」「追い求める男」は『秘密の武器』(1959)
「南部高速道路」「正午の島」「ジョン・ハウエルへの指示」「すべての火は火』は『すべての火は火』(1966)に、それぞれ収録されている。
ともに短編の名手とされるボルヘスコルタサルが比較されており、ボルヘスは異様に見えてもある秩序のもとに世界を捉え、外部世界を収めた光輝く球体のような作品を作るのに対して、コルタサルは個々の人間に潜む狂気や夢、幻想に興味を持ち、意識の深奥を照らす一条の光のような作品を作るとしている。

伊坂幸太郎編『小説の惑星 ノーザンブルーベリー篇』

伊坂幸太郎が、自分の好きな小説でドリームチームを組んだという短編アンソロジー
自分は先に伊坂幸太郎編『小説の惑星 オーシャンラズベリー篇』 - logical cypher scape2を読んだが、どちらから先に読めばよいとかいうことはないので、このちょっと不思議な名前になっているようだ。
ショートショートや掌編が多め。
一條次郎「ヘルメット・オブ・アイアン」が傑作。

眉村卓「賭けの天才」

ショートショート
会社の同僚が、賭けが好きで、非常に些細なこと(課長の電話が午後に何回鳴るかとか)でも賭けにして、しかも全て勝っている。
主人公の語り手はさすがに訝しんで、「お前、未来視してねぇ?」と聞く(実際のセリフはこんなセリフではないです)
その後、その同僚は会社を辞めて格闘技を習い始める。主人公は、あいつは一体どんな未来を見たんだろうと恐れる。
同僚自身は、未来視能力があるともないとも言わないので、主人公のただの妄想という可能性も残した宙づり状態になっている。

井伏鱒二「休憩時間」

これも掌編小説
井伏鱒二は、国語の教科書か何かで「山椒魚」は読んだことがあったと思うのだけど、もう何も覚えていない……。
これは、大学の文学部の教室で休み時間に思い思いに過ごす学生たちの話
禁止である下駄を履いてきて、寮監の学生に連行される奴がいたり、その学生を助けるために靴をカンパしたいと巫山戯半分で宣言する奴がいたり、黒板に詩を書き殴って部屋を出ていく奴がいたり
全体的に、まるで舞台劇を見ているかのようでもある。
今の学生、というか自分の学生時代だった頃だって、こんなことは起きえなかったし、全体的に芝居がかった話なのだが、一方で、学生特有のエートスみたいなものとしてはひょっとして今でもリアルなところがあるんじゃないかなと思わせる作品

谷川俊太郎「コカコーラ・レッスン」

掌編小説というべきか散文詩というべきか
少年が、言葉を知る

町田康「工夫の減さん」

町田康って、雑誌に載ってた短編を2作ほど読んだことがあるくらいで、これまでほとんど読んだことがなく、それで読んだ時もそこまでピンとこなかった作家
とはいえ、世間的な評価は高いし、伊坂も収録作を選ぶにあたり、作品名ではなく作家名で思い浮かんだのが町田康であり、町田作品ならどれでも面白いと絶賛している。
で、実際この作品は、わりと面白かった。
タイトルにある「減さん」は人名で、何かと節約のための「工夫」をするのだけど、それのせいで逆にうまくいかなくて、貯金もうまくいかないという人
どうしようもない人のどうしようもない人生、というか

泡坂妻夫「煙の殺意」

テレビ大好きな刑事が、殺人現場であるアパートの一室につくなり、その部屋のテレビをつける。
テレビでは、現場からほど近い百貨店で出た大規模な火災のニュースを繰り返し流している。
現場の実況見分よりもそちらが気になって仕方ない刑事と、逆にそのような世間のニュースには全く興味がなく遺体に並々ならぬ興味を寄せる鑑識の2人が事件を推理していく。
犯人も自首していて、動機も凶器もはっきりして、ある意味では何のニュースバリューもなさそうな殺人事件と、多くの犠牲者を出して世間の耳目を集めている大火災とが、次第に結びついていく。
非常に些細な現場の矛盾から、いかにもミステリ的な(?)荒唐無稽な動機が浮かび上がってくる推理の過程が面白いが、テレビ大好きの刑事が実はすごい推理するのかなと思って読んでいたら、実は全然そんなことなくて、その推理を主導しているのが鑑識の方というのも面白かった。
あと、火災の起きている百貨店が、「品質の悪いものを高く売る」というモットーで、接客態度も悪い(ことを逆にウリにしている)という謎の設定だった。

佐藤哲也『Plan B』より「神々」「侵略」「美女」「仙女」

それぞれ1ページにも満たない超ショートショート
SFないしファンタジー的な設定・ボキャブラリーを用いながら、おかしみのあるオチがついている。

芥川龍之介杜子春

超有名な作品だけど、読んだことなかったかもしれない。
収録理由は、次の一條作品にある。
(伊坂は、芥川で好きな作品は他にあると述べている)

一條次郎「ヘルメット・オブ・アイアン」

一條次郎は、伊坂幸太郎も選考委員を務めた公募賞から2015年にデビューした作家とのこと。
本作は「杜子春」のパロディであるのだが、単なるパロディであることを超えて、夢と現実との境界が失われ、自分とは何かも分からなくなっていくディック的な結末が待っている。
結末はディック的なのだが、本作全体に漂う雰囲気は非常にユーモアに満ちていて、一体何を読まされたんだという感覚になる。

古井由吉「先導獣の話」

去年の9月に古井由吉『木犀の日 古井由吉自薦短編集』 - logical cypher scape2で読んだので、半年ぶりの再読。また、『戦後短篇小説再発見』の9巻にも収録されているようで、評価の高い作品なのだろう。
とはいえ、なかなか難しい作品ではある。
大雑把に言えば、先導獣・無垢・無恥・パニックを引き起こすもの・個性・自己への耽溺・犬儒と、群れ・秩序が対比されていて、主人公は前者に憎しみを抱いている。
しかし、殲滅兵器とかいまいちよく分からないし、単純にどっちかに区分されるというわけではなくて、その境界のグラデーションみたいなものも感じられる(隠れて喧嘩してる2人とか)。そもそも、都会の静けさと田舎の騒がしさの対比とかは、また別の対比だと思うし。
主人公は、前者を憎んでいるけれど、主人公自身にそうした気配がないともいえない。


群れの中で、突如走り出す獣の話。あるいは、チーターに追われて、追い抜かれても走り続ける草食獣のパニックならぬパニックについて。
都会育ちの主人公が、会社の転勤で田舎暮しをして、その後妻子を伴って再度都会へ戻る。すると、都会の静けさ(通勤ラッシュの、人が多いのに整然としている感じ)が恐ろしく感じられるようになる。
駅で見た男の話
会社のとある先輩の話
電車の事故で動きの止まった群衆と隠れて喧嘩する男たち
殲滅兵器
学生運動のデモに巻き込まれて怪我した話

宮部みゆきサボテンの花

宮部みゆきはこれまで、SF傑作選とかに収録されたSF短編はいくつか読んでいたことがあるのだけど、ミステリは読んだことがなかった。
といって、本作がミステリと言えるかどうかは分からない。
小学校の教頭先生が主人公。
6年生でクラス別に卒業研究を行うという学校で、6年1組が「サボテンに超能力があるか調べる」というテーマを掲げたのに対して、担任がさじを投げてしまい、教頭は1組の生徒たちの自主性を重んじようとしている。
1組の生徒たちの「自主性」には、これまでも大人たちは困らされてきた中、教頭はそんな彼らができるだけ自由にやれるようにやってきた。
その教頭が困り果てて相談相手にしているのは、秋本という大学生。
この秋本も、実は1組の生徒たちが「スカウト」した学生で、秋本は彼らのことを面白い奴らだと思っている。
で、この超能力の研究が、実は一体なんだったのか、というのが最後に明らかになる。
謎があり、それが明らかになるという点では、ミステリといえばミステリか。
紋切り型な言い方になってしまうが、小学校の先生と生徒との間の感動的な心の交流を描いた作品、という言い方もできると思う。
「1組の奴ら、なかなかやるじゃん」みたいな結末である。
謎の解決と感動とがうまく結びついている話で、伊坂はそこがすごく気に入っているようで、自分で小説を書くときは「サボテンの花」のように書こう、と思っているらしい。

伊坂幸太郎編『小説の惑星 オーシャンラズベリー篇』

伊坂幸太郎が、自分の好きな小説でドリームチームを組んだという短編アンソロジー
自分は伊坂幸太郎をほとんど読んだことがない(『死神の精度』と阿部和重との共著である『キャプテンサンダーボルト』くらい)が、収録されている作家を見て気になったので読んでみることにした。
最近読んだ文学 - logical cypher scape2の延長戦的な

永井龍男「電報」

東京と京都を商売で行き来している男が、電車内で元カノを見かける
なお、まだ新幹線ではない時代で、食堂車とかがある。電車内に電報が送られてくる。
小説ドリームチームの先鋒が何故この作品なのかは正直ちょっとよく分からなかったが、伊坂としては、嫌な感じの男が肩すかしにあうオチがちょっと笑えて面白い、ということらしい。

絲山秋子「恋愛雑用論」

「恋愛雑用論」というタイトルだけど、恋愛小説ではなく、いや恋愛小説的なところも少しはあるかもしれないが、実は震災小説であり、しかし震災小説と言ってしまってよいかというとそうでもないという小説で、じゃあなんだかよく分からない作品なのかといえばそんなことはなくて、すごく上手い小説である。
R…町の工務店で事務員をしている主人公は独身女性で、20~30代までは人から結婚しないのかと言われていたが、40を過ぎて(姉を除けば)あまり言われなくなってきた、という人
恋愛とは雑用なのだ、という持論が冒頭で展開されるが、この人、非モテとかそういうわけではなく、その時々で彼氏がいたり、あるいは彼氏には至っていないがデートする人とかはいる。ただ、「いい人紹介してあげるよ~」とか人から言われるのがすごい苦手というか嫌い。
さて、事務員をしていると色々なお客さんの相手をすることになるが、この話は主に、その中でも常連である、信用金庫につとめる「小利口くん」とのやりとりで進んでいく。
「小利口くん」が何か面白い話ないっすかと聞いて、彼女が、この前デートした男について話したりする。
彼女の日常や恋愛観、人間観についての語りを読んでいく話なのだが、作中、2回ほど、震災への言及がある。
R…町は被災しておらず、彼女や彼女の家族も同様で、彼女はテレビの被災シーンを見て泣いていたというくらいなのだが、そのあっさりとした震災への言及だけで、小説として成り立つのだなあ、という。

阿部和重Geronimo-E, KIA」

2011年、アメリカ特殊部隊がパキスタン領内に極秘に侵入するところから始まる。ビンラディン暗殺作戦の様子だが、読み進めていると次第にこれが、実際の暗殺作戦そのものではなく、それをベースにしたVRゲームの様子だということが分かってくる。
中学生が、実際に行われたビンラディン暗殺作戦をいかに忠実にトレースできるかという競技になっていて、初めてパーフェクトを達成できるかという話。
軍事小説かと思って読んでいたら最後は部活小説になっているという、摩訶不思議な、しかし、阿部和重っぽいといえば阿部和重っぽい話

中島敦「悟浄歎異」

タイトルから分かるとおり『西遊記』を元にした作品で、沙悟浄の視点から孫悟空三蔵法師猪八戒についての人物評が書かれている。
というか、めちゃくちゃ悟空上げの文章で、悟空のことを賞賛しまくっている。また、分量的には悟空より少ないものの、三蔵と八戒についても同様。
悟浄が悟空の何にそんなに感嘆しているのかというと、まあ色々あるのだが、頭でっかちの「俺」に対して、身体性を伴った知性を持っているあいつはすごい、というような感じで、悟空から学ばなければと思っている。
知識は確かになくて天体や動植物について名前は知らないけれど、それが一体どういうものなのかはよく分かっていて、それはそれで教養だとか、過去の出来事とか全く覚えてないんだけど、過去の失敗からえた教訓とかは完全に身体化されて、同じミスで負けることはないとか。一方、悟空が珍しく覚えている話として、お釈迦様の掌のエピソードが語られていたりする。
あと、悟空と三蔵はタイプは正反対だが、自分の凄さを自覚していない点でよく似ていて、よいコンビだなとか、八戒は、最初下品な奴だと思ったけど、世の中の快楽という快楽をよく知っていて、何かを楽しむのにも才能がいるのだな、とか思っている。
なお、この作品は、前編・後編の後編らしいのだが、伊坂としては、ラストシーン(野宿中に星空と三蔵の寝顔を見る悟浄)がおすすめで、あえて後編を採ったとのこと。なるほど、確かによいシーンではある。
また、『わが西遊記』というシリーズものになる予定だったらしいが、未完のままとなっている。確かに、八戒についての話などは未回収のままになっている。

島村洋子「KISS」

中学時代の同級生がグラビアアイドルになっていた男子大学生の話
当時、いじめられていた彼女に対して、自分もやや家庭に事情があってある種の同情のような仲間意識のようなものをもって接していたら、ある日、突然キスをされ、その後彼女は転校していった。
アイドルとしての彼女には特に興味はなかったが、彼女のファンである友人に連れられて一度サイン会へ行ってみると、特に向こうは覚えていない様子。
しかし、その後、テレビ番組の中で彼女が当時の話とサイン会の時のことを話すのを見て、彼女が自分のことを好きだったことを知る一方、当時の自分が、いじめられていた彼女からの恋心を気付かないようにしていたことも思い出す。
(テレビの中で彼女が主人公のことを「今でも優しそうでした」と言うのに対して、自分は「優しい人」ではなく「優しそうな人」だよなと思うなど)
伊坂が恋愛小説を依頼された際に、恋愛小説を色々読んでこの作品に出会ったらしい。

横光利一「蠅」

言わずと知れた作品だが、未読だったので、読めてよかった。
本書を読むにあたって目当ての一つであった。
収録作品の中では一番短い作品。
宿場で、馬車に乗るために、息子が危篤という知らせを受け取った女性、駆け落ち中と思しき男女、幼い息子を連れた親子、大金をもうけたばかりで息子への土産について考えている田舎紳士がやってくる。蒸したての饅頭を食べることを日々の楽しみとしている馭者は、饅頭ができるまで出発しない。
そしていざ出発となるが、馭者が居眠りしてしまい……という話。
冒頭と結末が、蠅視点で書かれており、崖から転落する馬車を蠅が悠々と飛びながら見ているところで終わる。

筒井康隆「最後の伝令」

Amazonレビューとかでも書かれているけれど「はたらく細胞」的な奴
日頃の不摂生や仕事のストレスでヤバい40代男性の身体の中で、もうヤバいよっていう臓器からの連絡を脳に伝えようとする情報細胞の話。
身体の中の機能を、「はたらく細胞」のように擬人化しているようで、しかし、伊坂も指摘しているように、実際の身体機能に対応した比喩にはなってなさそうな箇所もある。
電子メールなんて言葉も出てくるが、カプセルの中に入って移動するというちょっと古めかしいSF的な描写もあったり、胃のあたりでは日本風の部屋の庭先で胃壁の様子がモニターされていて、ご隠居がいるとうシーンがあったり、そもそも最後、脳髄にいるメリーさんとは一体何なのとか、謎めいているが魅力的な描写・シーンに惹きつけられる。


人体を舞台にしていることはわりとすぐに明らかになるが、冒頭では一応そのことは伏せられていて、ちょっと戦争ものかスパイものかという雰囲気がある。
この身体の持ち主は戦中世代らしいが、細胞たち(?)が、戦後の時代についていけていないのかも、ポストモダンだし云々みたいな話をしている。

島田荘司「大根奇聞」

自分にとって、初・島田荘司だった。伊坂もあまり読んでいないし、ミステリとはニアミスしつつも*1読まない人生を送ってきた。
さて、タイトルからはどんな話かよく分からないが、御手洗潔シリーズの外伝みたいな話だった。
ただし、御手洗は最後の方に少し出てくるだけで、ほとんど出てこない。
語り手である石岡が偶々知り合った大学教授から、とある謎を持ち込まれる。
その教授は鹿児島出身で、歴史研究者の父親が長年研究していたが最後まで解けなかった謎を遺言として聞く。
幕末の薩摩藩西郷隆盛に影響を与えたという、酒匂帯刀*2の子ども時代について。
酒匂帯刀、幼名・矢七は、7才の頃に保護者である和尚とともに薩摩へやってくるのだが、折り悪く、桜島の噴火で薩摩藩全体が飢饉に陥っていた。餓死寸前でとある老婆に助けられるのだが、老婆のところにも食べ物はない。しかし、その近くに薩摩藩で唯一作物がなった大根畑があった。ところが、この大根畑はお上が勝手に収穫するのを禁止し、破ったら打ち首としていた。
しかし、直前に孫をやはり餓死させていた老婆は、今度は助けるとばかりに、その大根を盗んでくる。大根を食べさせてもらった矢七は、外を見て絶望する。桜島の火山灰が降り積もったあとに、老婆が大根を引きずってきた跡がくっきりと残っている。これでは、老婆の打ち首は避けられない。
が、どうも、何故かこの打ち首は避けられたらしい。
矢七改め帯刀は、明治になってからこの時のことを「大根奇聞」として書いているのだが、ここから先の部分が失われている。教授の父親は、この謎が解けなかったとして息子の教授に託し、教授は、これをさらに石岡、ひいてはその先にいる御手洗に託そうとしている。
最後、海外にいっている御手洗から電話がかかってきて、石岡がこの話をすると、御手洗が見事この謎を解決する。
時代小説っぽいがミステリで、教授が石岡に話す最後の方は、「こういうことは?」「いや、それはこういう理由でありえないです」みたいな、この問題設定の条件を詰めていってるようなところがあって、本格ミステリ読み慣れてるともしかしたら普通なのかもしれないけど、なんか独特の読み味だった。
あと、合理的な解決だし、ミステリにありそうなトリック(?)なのかなという気もするのだが、これ、読者解けるの? という謎
解けないことはないけど、御手洗のように証拠を集めるのは読者には不可能というか。
伊坂は、同じトリックを思いついたとしてもこんな小説にはしないだろう、みたいな小説を島田は書く、と述べている。
 

大江健三郎「人間の羊」

大江の初期の短編。『死者の奢り・飼育』に収録されているみたい。
「僕」が家庭教師のバイト帰りに乗ったバスには、キャンプの外国兵たちが乗っていて、そのうちの1人が女性といざこざを起こしていた。そのとばっちりを受けて「僕」は外国兵に服を脱がされ尻を叩かれる、という屈辱を受ける。
さらに、バス乗客の何人かと運転手も同じ目に遭う。外国兵たちは叩きながら「羊撃ち羊撃ち」と歌い、バスの乗客は「羊」にされた側とされなかった側とに分かれる。
外国兵たちが降りていったあと、羊にされなかった側の乗客たちが同情の念を示し、特にその中の1人である「教員」が、泣き寝入りせず訴えてやりましょうと声をあげるのが、「羊」たちは押し黙る(唖になってしまった、と書かれている)。
「僕」は、バスの中で起きた出来事を早く忘れて屈辱などなかったことにして家に帰りたいのだが、あろうことか、下車後も「教員」がしつこく「僕」につきまとってくるのである。交番に連れて行かれるが、警察はキャンプのことには及び腰であり、「僕」に訴える気がないのであしらわれる。
疲れ果ててしまった「僕」はただひたすら逃げ回るだけなのだが、「教員」はしつこく追いかけてきて、必ず「僕」の名前を突き止めてやるぞ、とまで言い放つ。
バスで屈辱を受ける前半とバスを降りてから教員に追いかけ回される後半とに分かれるわけだが、前半から後半のような展開になるとは予想がつかず、なんとも曰く言いがたい読後感となる。
例えば、性犯罪などは被害者が被害を明かしたがらないというようなことがあると言われているが、ここで描かれる「僕」の内面の動きはそれに近いものがあるのだろうなということを考えさせられる(交番の警官が、尻を叩かれただけでしょw みたいな態度をとっているのも同様)
寓話っぽい雰囲気も漂う作品ではあるが、バスの乗客は「日本人」と明示されている(ので、「外国兵」というのも米兵のことなのではあろう)。
ところで冒頭、僕がバスに乗り込んですぐのところで、「僕は小さい欠伸をして甲虫の体液のように白い涙を流した。」という一文があって、いきなりすげえ比喩だな、と思った。
伊坂は、本アンソロについて、基本的に明るめの作品を集めるようにしたけれど、大江作品だけは例外である旨述べており、また「大江健三郎はヤバい」とも述べている(「ヤバい」は今ではかなり多義的な意味で使われるが、その全ての意味でヤバいのだ、とも)。

*1:ミステリ好きな友人がいたりとか

*2:小松帯刀のことかと思ったら架空の人物のようだった

『思想2023年1月号(ウィトゲンシュタイン――『哲学探究』への道)』

ウィトゲンシュタインについて、全然読んでいるわけではないけれど、雑誌で特集とかあるとつい気になって手にとってしまう。 
鬼界訳『哲学探究』は、半分くらいまで読んだところで止まっている……(この『思想』を読みながら、少しだけ『探求』も読み進めたが)。
自分にとっては、ウィトゲンシュタインよりも、ウィトゲンシュタインを通して鬼界先生の授業を思い出したりするのが面白いかもしれない。ウィトゲンシュタイン自体も面白くはあるけれど。

【小特集】ウィトゲンシュタイン──『哲学探究』への道
思想の言葉  野矢茂樹
〈討議〉ウィトゲンシュタインを読むとはどういうことか  鬼界彰夫野矢茂樹・古田徹也・山田圭一
表出と疑問  飯田 隆
形式と内容としての対象──『論考』的対象の形式主義的解釈の試み  荒畑靖宏
ウィトゲンシュタイン研究私記──『哲学探究』翻訳までの道  鬼界彰夫
進化と安定性──後期ウィトゲンシュタインの言語観  松阪陽一
意味は体験されるのか──『哲学探究』第一部と第二部の違いを考える  山田圭一
哲学探究』研究解題  谷田雄毅
日本のウィトゲンシュタイン研究  谷田雄毅


思想対象としての20世紀中国──『世紀の誕生 ― 中国革命と政治の論理』序論(下) 汪 暉/丸川哲史

思想の言葉  野矢茂樹

『論考』は、「操作と基底」という一点から読めた
『探求』は、鬼界訳の「いわば頭を水面に上げておくことが難しいのだ」という一節から読めた、と感じたという話

〈討議〉ウィトゲンシュタインを読むとはどういうことか  鬼界彰夫野矢茂樹・古田徹也・山田圭一

山田の司会で、それぞれウィトゲンシュタインとの出会いから始まっての座談会。
鬼界と古田は、初めて読んだときから面白かったと答え、野矢は最初はあまりピンと来てなかったような感じ。
草稿を全て読んでいきウィトゲンシュタインの人生とも照らし合わせながら読んでいく手法の鬼界と、あくまでも最終版のテクストから読み解けるものを読んでいく手法の野矢とで、解釈が分かれているという印象。
例えば独我論について、「私」の問題は『探求』にはそこまで強くでてないのではないかという野矢と、そうではないのではないのかという鬼界
あるいは、「語りえないもの」としての倫理についてとか。『探求』では、より徹底して、語らないことを実践しているのだという鬼界と、そうではないのではないかという野矢
『論考』は『探求』の中にどのくらい残っているのかということについて、鬼界は、哲学をよくしようという意志が残っていると答えている。
あと、最後は比喩の話をしたりしている。
それから、哲学の方法論というか文章の書き方として、ウィトゲンシュタインのスタイルと分析哲学のスタイルとの違いについてとか

表出と疑問  飯田 隆

表出文の意味論と、疑問文の意味論についてのスケッチ

形式と内容としての対象──『論考』的対象の形式主義的解釈の試み  荒畑靖宏

『論考』に出てくる「使用」について

ウィトゲンシュタイン研究私記──『哲学探究』翻訳までの道  鬼界彰夫

哲学探究』解釈の話としては、鬼界彰夫『『哲学探究』とはいかなる書物か――理想と哲学』 - logical cypher scape2のダイジェストだけど、そこにどうやって至ったのかという話がなされていて興味深い。
元々『哲学探究』と出会ったのは、大学院生時代の読書会の時。しかし、その時は、この本は体系的に読むことはできないのではないかという衝撃を受けて、決して研究対象にはせず趣味で読むにとどめよう、と思ったらしい。
アメリカ留学時代に、カーツによる解釈に触れ、体系的な解釈が可能かもしれないと思うようになり、筑波大学就職以後、演習授業で読むようになった、と。
また、奥雅博研究室に、『確実性について』の手稿コピーがあることを知ったことも契機だったようだ。
『確実性について』を読む中で、「スレッド-シークエンス法」を編み出す
講談社の上田哲之氏からの依頼で、2003年に『ウィトゲンシュタインはこう考えた』を出版した後、2009年にやはり上田氏から『哲学探究』の翻訳依頼を受けた、とのこと。
『探求』を訳すにあたって、いくつか解決すべき謎があったということで、テクスト内の解釈の話と、ウィトゲンシュタイン自身の生との関係の話とを挙げている。
最後に、キルケゴールからの影響が謎として残ったが、鈴木祐丞『〈実存哲学〉の系譜』によって説けた、という話で締めくくられている

進化と安定性──後期ウィトゲンシュタインの言語観  松阪陽一

後期ウィトゲンシュタインの言語観が、ダーウィニズムっぽいという話。
繰り返し注意されているが、ウィトゲンシュタインダーウィンから直接影響を受けたという話では全くない。
結果として、後期ウィトゲンシュタインの言語観とダーウィン的な生物観が似ているのではないか。というか、後期ウィトゲンシュタインの言語観を、ダーウィニズムと比較すると理解しやすいのではないか、ということ。
つまり、言語(生物種)には、本質というものはなくて進化していくものなのだ、という考えである点で似ていると考えてみると、後期ウィトゲンシュタインが理解しやすくなるのではないかという話として読んだ。。

意味は体験されるのか──『哲学探究』第一部と第二部の違いを考える  山田圭一

哲学探究』第一部と第二部の違い
一次的意味と二次的意味
一次的意味は、その言葉の普通の意味で、二次的意味は、一次的意味を踏まえた上で特定の文脈の中での意味
第一部では、「意味」や「理解」の一次的意味を扱っていて、第二部では、「意味」や「理解」の二次的意味を扱っているのではないか
「意味」の一次的意味は、例えば入れ替えが可能かどうかで判断できる。
「私は四月にはもう学校にいません」と「おれは四月はもう学校に居ないのだ」は入れ替えても、同じ文であるという一次的意味で「理解」することができる。
しかし、「おれは四月はもう学校に居ないのだ」は、宮沢賢治の詩の中で出てくる一文で、これを「私は四月にはもう学校にいません」に入れ替えることはできない。これは二次的な意味での「理解」での入れ替え不可能性。
文字の見た目とか音の響きとかリズムとかが大事になる
一次的意味があってこそだが、二次的意味もまた人間の生にとって必要なものではないか、と

哲学探究』研究解題  谷田雄毅

中期から後期への変遷は「計算的な見方から人類学的な見方へ」「文法から使用へ」と要約される
この変遷は、経済学者スラッファから「この身振りの文法は何か」と問われたことがきっかけとされる
ところで、後期のメルクマールとして、ことばをチェスの駒と比較することをやめ、音楽や絵画と比較するようになったところにあると注釈されていた。音楽で喩えるのは、上述の山田論文の中でも出てきていた
使用をみろ、というのは、言葉の使われ方のルールを見ろ、ということだけではなく、その言語ゲームがどのように生活の中に埋め込まれているかというポイントを見ろ、ということでもある。
「生活形式」というのは、それが一体どういうものかを巡って色々解釈されてきたが、その内実にはあまり重点はなくて、言語ゲームのポイントを前景化させるための方法論的な概念であるとのこと
ウィトゲンシュタインは、われわれの実践と酷似しているのにどこか「関節が外れてしまっている」実践を創り出す天才である。」この、関節のはまっているゲームと関節の外れているゲームとの断絶を位置づけるために便宜的につけられたラベルが「生活形式」
アスペクト論について
バズは、既存のアスペクト論解釈を(a)アスペクトとは概念のことである(b)すべての知覚はアスペクト知覚である」(c)「あらゆる知覚は概念化されている」という3つのテーゼのいずれにコミットしているかで分類しつつ、ウィトゲンシュタイン自身はこのどれにもコミットしていないと見ている。
ウィトゲンシュタインは、画像が複数のアスペクトを持つように、ことばも複数の使い方をもつと論じていた
谷田は、ことばが複数の言語ゲームで使用されるところに、ことばの「魂」や「表情」のようなものがでてくると論じる。

日本のウィトゲンシュタイン研究  谷田雄毅

まず、日本のウィトゲンシュタイン研究者を3つの世代にわける
第一世代(1920~40年代前半生まれ):大森、黒田、黒崎、藤本、奥ら
第二世代(1940年代後半~1950年代前半生まれ):飯田、野家、永井、鬼界、野矢ら
第三世代(1970年代以降生まれ):荒畑、山田、古田ら
そのうえで、特に第二・第三世代を中心に、翻訳、概説書、『論考』研究、『探求』研究を整理している
『論考』研究について
吉田寛による解釈の分類
決然たる読みとの距離での位置づけ
従来の標準的解釈とも決然たる読み解釈とも異なる大谷弘
『探求』研究について
クリプキの強い影響を受けた世代として「第二世代」を捉える
(ところで、冒頭の討議で野矢自身、クリプキ論文をリアルタイムで読んだという話をしているが、一方の鬼界はクリプキにはあまり影響を受けなかったと述べている)
ここでは、大谷弘の本を例に挙げながら、第三世代が、クリプキを経由せずに『探求』を読んだ世代としている
また、第三世代の特徴として、アスペクト論研究の充実も挙げている。

ミハイル・A・ブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』(水野忠夫・訳)

ソ連時代のモスクワを舞台に、悪魔たちが大暴れする話
今現在、個人的に海外文学読むぞ期間を実施中で、この期間に入ってから度々「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」に言及しているけれども、その収録作品の中でも人気の高い作品らしいので、手を取った。
池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」については、下記の2つのブログをかなり参照させてもらっている。
『巨匠とマルガリータ』ブルガーコフ - ボヘミアの海岸線
1-05『巨匠とマルガリータ』ミハイル・ブルガーコフ/水野忠夫訳 - ウラジーミルの微笑
なお、集英社から刊行された訳が、「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」において全面改訳され、それが岩波文庫に収録されたものを読んだ。
巨匠とマルガリータ』というタイトルの作品だが、上述記事にある通り、「巨匠」も「マルガリータ」もなかなか登場しない。
本作は全32章で構成されていて、1~18章が第一部(岩波文庫版ではこれがそのまま上巻となっている)、19~32章が第二部(同じく下巻)という構成になっているのだが、「巨匠」が登場するのは第13章、マルガリータが登場するのは第二部第19章からとなっている。
上述記事を読んでいたので、かなり後からの登場になることは知っていたのだけど、巨匠が登場する第13章のタイトルがその名も「主人公の登場」だったのにはちょっと笑ってしまった。


冒頭に「悪魔が大暴れ」と書いたが、
第一部では、ヴォランド率いる悪魔の一行が、突如モスクワへと訪れたところから始まり、モスクワ作家協会議長であるベルリオーズの死を皮切りに、登場人物たちが次から次へと破滅させられていく。
彼らがモスクワに訪れた理由は、第二部によって明かされるが、悪魔の舞踏会を開催するためだった。しかし、舞踏会を開催するのには女主人が必要で、それはマルガリータという名前の女の中から選ばれる。
かくして、マルガリータは、ヴォランド一味に協力することになるのだが、これは悪魔から課せられた試練のようなもので、マルガリータは愛する巨匠と再会するべく、この試練を乗り越えていく。
第一部ではあれだけ人々を翻弄したヴォランド一味だが、巨匠とマルガリータに対しては、救済をもたらしてくれる。
第一部のあれやこれやは、スターリン政権下での不条理を下敷きにしているのかなとも思うけど、悪魔なので魔法的なことを使ってくる。


ヴォランドは、「黒魔術の教授」や「外国人特別顧問」を名乗り、悪魔たちのリーダー格。
コロヴィエフは、チェックのジャケットに騎手の帽子をかぶり、荒っぽいことをする悪魔
アザゼッロは、赤毛で山高帽をかぶり、どちらかといえば下手にでた話し方をする
ベゲモートは、二本足で歩く黒猫
ヘルラは、全裸または半裸で出てくる魔女。登場回数は少ない。


第一部(上巻)

1 見知らぬ人とは口をきくべからず

作家協会の議長ベルリオーズと新進気鋭の詩人イワンが、黒魔術を専門とする外国人特別顧問ヴォランド教授と出会う
この時点では名前も出てきていないし台詞もほとんどないが、コロヴィエフとアザゼッロも登場している。

2 ポンティウス・ピラトゥス

ヴォランドが物語るピラトゥス総督の話
エス(作中ではヨシュア)が、総督の前に引っ立てられて死刑判決を受けるまで

3 第七の証明

ヴォランドの予言通り、ベルリオーズが電車に跳ねられて首切り死体となる。

4 追跡

イワンが、ヴォランドを追いかけ始めるが、全く追いつけない。
赤毛の男と二本足で歩く猫が加わるが、3人(?)とも見失う。
イワンは、人の家に忍び込んで蝋燭と聖人画を盗み、川へと飛び降りる。

5 グリボエードフでの事件

作家協会がある建物、通称グリボエードフは、レストランと作家協会の事務局がある。
ベルリオーズの訃報が伝わる。
そこに、ズボン下1枚でびしょ濡れのイワンがやってきて、教授を捕まえろと大暴れする。

6 予言どおりの精神分裂症

イワンは精神病院送りになる。

7 呪われたアパート

ベルリオーズの同居人で、ヴァリエテ劇場の支配人であるリボジェーエフのもとにも、ヴォランド一行が現れる。
朝起きると突然部屋の中にいたヴォランドが、リボジェーエフの記憶にない劇場での公演契約について言い始める。
言いくるめられたリボジェーエフは、気付くとヤルタにいた。

8 教授と詩人の対決

イワンは、精神病院の教授に、自分の身に起こった出来事について話す

9 コロヴィエフの奸策

ベルリオーズの住むアパートの居住者組合議長であるボソイのもとに、悪魔コロヴィエフがやってくる。
コロヴィエフから受け取ったお金が、途中で外貨にすり替わって、コロヴィエフからの通報をうけた警察に踏み込まれ、ボソイは逮捕される。

10 ヤルタからの知らせ

ヴァリエテ劇場の経理部長リムスキイと総務部長ヴァレヌーハのもとに、リボジェーエフがヤルタにいるという電報が入ってくる
いつの間にやら変な教授の公演を決めているし、電話したばかりでヤルタなどに行けているはずもないので、一体どういうことかと悩む2人だが、本当のヤルタではなくて、ヤルタという店にいて悪ふざけをしているのではないかと思案する。
その後、ヴァレヌーハは、コロヴィエフとベゲモートにボコられる

11 イワンの分裂

ヴォランドを告発するための手紙を書いているうちに、ベルリオーズの死を気にしなくなったイワン

12 黒魔術とその種明かし

ヴァリエテ劇場で、ヴォランド一行がモスクワ市民の前で黒魔術ショーを行う。
元々、「黒魔術とその種明かし」をするという予定だったようで、司会者はそのように紹介したのだが、ヴォランドらはそれを一蹴して、高額紙幣を客席に降らせたり、女性客にパリから取り寄せたというドレスやハイヒール、アクセサリー、香水を配ったりする。

13 主人公の登場

イワンが入院している精神病院の病室に、別の病室から窓をつたって他の患者がやってくる。
彼は「巨匠」を名乗り、自分の書いた小説とマルガリータと過ごした日々を語る。

14 雄鶏に栄光あれ!

深夜の劇場、1人残っていたリムスキイ。
ヴァレヌーハが戻ってくる。
ヘルラが襲ってきて、からがら逃げ出す

15 ニカノール・ボソイの夢

逮捕されたボソイは、その後、イワンと同じ精神病院に送られる。
そこで見た夢は、外貨取引で捕まった者たちが客としてきている舞台。司会者から、一人一人舞台にあげられ、外貨取引を認めるように促される。

16 処刑

ゴルゴダの丘でのヨシュアの処刑

17 落ち着かない一日
18 不運な訪問者たち

第二部(下巻)

19 マルガリータ

マルガリータは、科学者の夫をもち、誰もがうらやむ邸宅に住み、何不自由ない暮らしをしていたが、ある日、巨匠と出会い恋に落ちてしまう。
が、巨匠が彼女の元を去ってから、失意の日々を過ごしていた。
ある日、何かが起こりそうな予感がして街を歩いていたら、ベルリオーズの葬列に出くわす。
そして、アザゼッロが声をかけてくる。
巨匠の原稿の内容とマルガリータが密かに思っていたことを全て言い当てられ、マルガリータはアザゼッロの誘いに乗る。

20 アザゼッロのクリーム

アザゼッロは、21時半きっかりに裸になってこのクリームを全身に塗り、その後にかかってくる電話の指示に従えという。
そのクリームを指示通りに塗ると、肌がみるみるときれいになっていき、マルガリータは魔女となった。
小間使いのナターシャを置いて、家を出る

21 空を飛ぶ

ほうきに乗ってモスクワの空を飛ぶ。誰にも姿が見えなくなっている。
作家たちが多く住むアパートを見つけ、巨匠を侮辱した批評家が住んでいることに気付くと、部屋を破壊して回る。

22 蠟燭の明りのもとで
23 悪魔の大舞踏会

ヴォランドを主人と呼び、舞踏会の客を出迎えることになるマルガリータ
客たちはみな墓から蘇った者たち

24 巨匠の救出

ヴォランドからの試練をやり遂げたマルガリータ
ヴォランド一行の打ち上げパーティもなんとか卒なくこなす。
そして、ついにヴォランドの力により、巨匠との再会を果たす。

25 イスカリオテのユダを総督はいかに救おうとしたか

25章と26章は作中作。巨匠の書いている小説の内容で、第2章の続き
ヨシュアの処刑から一夜明けて、一睡もできなかった総督が、秘密護衛隊長に指示をくだす。
処刑された者の埋葬と、イスカリオテのユダを守ること。

26 埋葬
27 五〇号室の最後

警察による捜査

ベゲモートと警察の銃撃戦
50号室の炎上

28 コロヴィエフとベゲモートの最後の冒険

外貨専門店での食い逃げと放火
グリボエードフで、2人に気付いた支配人の海賊

29 巨匠とマルガリータの運命は定められる

モスクワの市街を眺めるヴォランドとアザゼッロのもとに、マタイが現れる。
「あの人」も巨匠の小説を読み、巨匠とマルガリータに安らぎが訪れることを望んでいるとヴォランドに伝える。
ヴォランドは、自分のことを忌み嫌うマタイに対し、悪がなければお前のような善もないのだぞと言い放つ

30 出発の時

かつて巨匠が暮していた地下室に戻ってきた2人は、落ち着きを取り戻し、巨匠は本当に悪魔と出会ったのかと思うようになっていた
そこにアザゼッロが訪れる。
巨匠とマルガリータは、アザゼッロがワインに盛った毒で殺された後復活する。
巨匠は、イワンの病室に訪れ別れを告げる。
その後、イワンは隣の病室の患者(つまり巨匠)が亡くなったことを知らされる。

31 雀が丘にて

アザゼッロに連れられて、空飛ぶ馬に乗った巨匠とマルガリータは、ヴォランド一行と合流する。
ヴォランド一行は、馬を進めるうちに、真の姿を見せていく

32 許しと永遠の隠れ家

ヴォランドは、巨匠を、苦しみに苛まされ続けるピラトゥスと対面させる。
巨匠はピラトゥスに対して「お前は自由だ」と伝える
ヴォランドたちは去り、巨匠とマルガリータは、永遠の隠れ家へとたどり着く

エピローグ

ヴォランドたちが去ったモスクワの話。
生き残った人たちがどうなったかについての色々
イワンは退院し結婚もしたが、何年経っても、満月の夜になると苦しみに悩まされつづけていた。

解説

ブルガーコフの生涯と再評価などについて
ブルガーコフは、1891年生まれ1940年没。本格的に文筆活動を始めたのは1920年代から。
キエフ生まれで、白衛軍の軍医として働いていた。その後、『白衛軍』という長編第一作を書いている。
「モスクワ三部作」とも言われる中編小説3編を書いた後、『白衛軍』を自ら戯曲化した「トゥルビン家の日々」が成功を収める。戯曲家として評価を集め、自身も舞台へとのめりこんでいくが、この作品が白衛軍賛美ととられて、小説などが発禁となる。
その後も、モスクワ劇場で働き続けるも、晩年は密かに長編小説『巨匠とマルガリータ』などを書きためていた。
スタリーン亡き後の雪解けの時代になって、再評価する声がでるようになり、未亡人が未発表原稿を保存していたこともあり、『巨匠とマルガリータ』も出版の日の目を見ることになる。しかし、最初ソ連で出版された際には検閲がかかったため、未亡人は後にフランスで検閲の入っていない版を発行している。また、その後、文献研究が進んで、新たな版も発行されている。
翻訳は、70年代の版をもとにしつつ、近年の文献研究も踏まえたものであると言い添えられている。
訳者は、ブルガーコフが政治との対立を越えて、政治とは自立した小説世界を作り上げようとしてそれに成功した作家と評価している。

ブルガーコフの作品との出会い

訳者は、早稲田大在学時代に、米川訳による中編を読んだ。
また、やはり大学時代の師であった野崎韶夫は、「トゥルビン家の日々」を実際にその目で観劇しており、ブルガーコフについて熱く語っていたという。
訳者である水野は、ブルガーコフの中編小説などを翻訳している。
巨匠とマルガリータ』は、「悪魔とマルガリータ」というタイトルで1969年に、水野の友人でもある安井侑子により翻訳されていたが、1977年に水野訳が刊行され、1990年、2008年(「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」)にそれぞれ改訳されている。

木原善彦『実験する小説たち』

アメリカ文学研究者で翻訳者である筆者が、主に20世紀後半以降に書かれた実験小説を色々紹介してくれる本。
今、海外文学読むぞ期間を個人的に展開中だけれど、それのガイドになればなあと思って。それ以前から気になっていた本ではあるけれど。
どういう手法を使っているのかという解説だけど、あらすじも紹介されていて、物語の面でも普通に面白そうな作品が多い印象。
また、各章末に、その章で取り上げた作品と手法などで似ている作品のブックガイドもついている。
ナボコフ『青白い炎』パヴィチ『ハザール事典』ベイカー『中二階』ダニエレブスキー『紙葉の家』ミッチェル『クラウド・アトラス』フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』が面白そうだな、と思った。


第1章 実験小説とは

『トリストラム・シャンディ』などを例に出しながら、実験小説とは何かについての説明と、本書で取り扱う実験小説の範囲などについて書かれている。
『トリストラム・シャンディ』って名前は知ってるけど、18世紀にこんな作品が既にあったのか、ということに驚く。
ところで、もともと「実験小説」という言葉は、ゾラが自分の自然主義の方法論を示すのに使い始めた言葉だったらしいんだけど、もちろん今現在「実験小説」と呼ぶ場合、この意味で使われることはまずない。

第2章 現代文学の起点:ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』(1922)

自由間接話法の話が主なのだけど、今の視点で見ると、もはや普通に見かける技法になっていて、それほど前衛感はないなと思ってしまった。

第3章 詩+註釈=小説:ウラジーミル・ナボコフ『青白い炎』(1962)

タイトルにあるとおり、詩があって、それに対する注釈という形で構成されている作品
注釈を読んでいくと、詩人の身に起きた出来事についての物語が立ち上がってくるというもの
また、作中の注釈者について、信頼できない語り手として論じていて、章末ブックガイドでは、信頼できない語り手の出てくる作品などを紹介している。

第4章 どの順番に読むか?:フリオ・コルタサル『石蹴り遊び』(1963)

作者から二通りの読み方があると最初に宣言されている本
一つは順番通りに読み進めて途中の章で終わる読み方
もう一つは、指示通りに読み進める読み方
本作は、大きく3つに分けられており、第一部はパリを舞台にした話、第二部はアルゼンチンを舞台にした話、第三部は雑多な章の集まりとなっている。
1つ目の読み方だと、第一部と第二部がそのまま順序通りということになる。
2つ目の読み方だと、上述の物語の合間合間に第三部の章が差し挟まれることになる。
2つ目の読み方は、ある意味で「ディレクターズ・カット版」なのだ、とのこと。
ブックガイドでは、他に、どの順番で読んでも構わない小説が紹介されている。

第5章 文字の迷宮:ウォルター・アビッシュ『アルファベット式のアフリカ』(1974)

日本語未訳作品。『残像に口紅を』的な奴。
残像に口紅を』は、だんだん使える単語が減っていくが、こちらは、最初の章はaで始まる単語だけ、次の章はaとbで始める単語だけ、と増えていき、26番目の章で全ての単語が使えるようになり、また折り返し減っていくというものらしい。
“another xx”で「新たなxx」と訳すんだなー
このように、特定の語を使わない作文法をリポグラムとして、有名な作品としてジョルジュ・ペレック『煙滅』も

休憩1 タイトルが(内容も)面白い小説

アンドロイドは電気羊の夢を見るか』とか『高慢と偏見とゾンビ』とか

第6章 ト書きのない戯曲:ウィリアム・ギャディス『JR』(1975)

これも未訳作品
ギャディスは、デビュー作がジェイムズ・ジョイスを継ぐ傑作と評されるが、難解すぎるせいで、2作目『JR』が出るのはその20年後だった。3作目はその10年後、4作目はその9年後に出ている
章や節の区切りが一切なく、セリフは「 」でくくられず、――(ダッシュ記号)で示されるだけで、誰が言ったセリフなのかが書かれていないという状態で延々続くらしい。
あらすじも書かれているが、結構混みあっていて、富裕な一族の相続をめぐる話と芸術家たちの話と、JRというイニシャルの少年がネットを使って投資していく話とが進んでいくらしい。

第7章 2人称の小説:イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』(1979)

カルヴィーノは以前いくつか読んだことはあった*1が、これは未読。二人称小説として有名なのは知っていたが、それ以上どういう感じの作品なのかも知らないままだった。
次から次へと、作中作が出てくる話のようだ。

第8章 事典からあふれる幻想:ミロラド・パヴィチ『ハザール事典』(1984)

この作品は、以前どこかで書評か何か読んでから気になっている。
ハザール族の君主がかつて、イスラム教、キリスト教ユダヤ教それぞれの代表者を呼んで論争させた「ハザール論争」、それにすいての死霊を集めたのが「ハザール事典」で、さらに付属文書なるものがついている。
これらの個々の項目を、魔術的リアリズムで書かれた短編として読んでいくこともできるし、これらは辞書になっていて、各項目が参照しあっているのでそれを辿ってハイパーテキスト的に読むこともできる、と。
特に、巻末の付属文書は、ハイパーテキスト的な読み方について2つの大きな辿り方があることを示している、と。
また、男性版と女性版があるが、この2つのは相違は10数行ほど、ただし、この付属文書が示す殺人事件と関係しているとのこt
章末ブックガイドは、架空の〇〇を巡る作品ということで『鼻行類』『完全な真空』『アメリカ大陸のナチ文学』『本の中に生きる』(未訳)が紹介されている。

第9章 実験小説に見えない実験小説:ハリー・マシューズ『シガレット』(1987)

フランスの実験小説集団「ウリポ」に所属する作家の一人であるマシューズの作品
なお、ウリポには、レーモン・クノーマルセル・デュシャンジョルジュ・ペレックイタロ・カルヴィーノもメンバーとなっている。また、ウリポは死者も現役メンバーとされるらしい。
この作品は、登場人物2人ごとに章わけされており(「アランとエリザベス」「アランとオーウェン」「モードとエリザベス」……というように)、また、2つの時間を往復するような構成になっているらしい。
しかし、それだけでは実験小説とは言えないだろう。実際、普通に読んで面白い作品らしくて、章タイトルのように「実験小説に見えない」らしい。
では何が実験小説なのかというと、作品を作るにあたって、何らかの数学的アルゴリズムを用いたらしい。
しかし、このマシューズという作家、方法論的にはなんか色々やってる作家らしいのだが、その方法論を公開していないばかりか、作家本人の言によれば、書いた先から忘れていっているらしい。だから、実際にはどんな方法が使われたかは不明、という。

休憩2 小説ではないけれど、興味深い試みをしている本や作家

ルイジ・セラフィーニ『コデックス・セラフィニアヌス』など
これは、未知の世界についてその世界の言語で書かれた百科事典だとか。未訳
あと、色々切り貼りした作品とか、バイオテクノロジー詩とか

第10章 脚注の付いた超スローモーション小説:ニコルソン・ベイカー『中二階』(1988)

サラリーマンが、昼休みに昼食を取ってからオフィスに戻るためにエスカレーターにのっている間の10秒間の思考について書かれた200ページほどの作品。
時間的にはものすごく短い間のことを、すごく引き延ばして(?)書いている
『青白い炎』同様、脚注小説
プルーストの『失われた時を求めて』とも少し絡めている

第11章 逆語り小説:マーティン・エイミス『時の矢』(1991)

時間を引き延ばしてスローモーションになっている『中二階』に対して、時間を逆転させているのが本作
ただ、これはうまくいっているのかどうかよく分からないらしい。しかし、筆者はそういう作品が好きだ、ということで紹介している。
章末ブックガイドは、時間の流れに関連した作品として筒井康隆虚人たち』、ヴォネガットスローターハウス5』、ベイカー『フェルマータ』が紹介されている

第12章 独り言の群れ:エヴァン・ダーラ『失われたスクラップブック』(1995)

作者は、ポスド・ギャディスとも称される覆面作家
ピリオドを用いずに、内的独白の一人称の語りが続き、なおかつ、その語り手が切れまなく別の語り手へと交代し、様々な挿話が語られる、という作品らしい
章末ブックガイドでは、独白からなる小説、ポスド・ギャディス、ポスト・ピンチョンという枠
ダーラと作風が近い作家としてデヴィッド・フォスター・ウォレス『ヴィトゲンシュタインの箒』という作品が紹介されている。ところで、14章にでてくるマークソンの代表作は『ウィトゲンシュタインの愛人』
実験小説とウィトゲンシュタインは何かひき合うものがあるのか?

第13章 幽霊屋敷の探検記?:マーク・Z・ダニエレブスキー『紙葉の家』(2000)

冒頭で『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』と比較されている。
『紙葉の家』はゴシック・ホラーだが、その見せ方に独自性がある、と
ある謎めいたフィルムとそれについての記録、そしてそれに対する注釈と、さらにそれに対する編集という4層構造
さらに、屋敷の迷路が入り組むのにあわせて、版組も複雑になっていくというタイポグラフィーの仕掛けがなされている作品で、さらにメタフィクション的な仕掛けもあるとか
また、ペーパー版ではhouseという単語が青く印刷されているが、ハードカバー版ではminotaurという単語が赤く因されていて、さらにもっと別の版もあるとかないとか。
章末ブックガイドは、タイポグラフィーで遊ぶ作品

第14章 これは小説か?:デイヴィッド・マークソン『これは小説ではない』(2001)

自己言及的な内容や、他のテキストからの引用からなる作品
引用したテキスト同士を組み合わせて、疑似会話のように見立てていたりなどしている。
筆者はこれを東浩紀の「データベース」概念と絡めて論じている。

休憩3 個性際立つ実験小説

未訳の作品で、他の章のブックガイドで紹介しきれなかった本をあげている

第15章 サンドイッチ構造:デイヴィッド・ミッチェルクラウド・アトラス』(2004)

6つのストーリーからなっているのだが、第1章から第6章まですすんだあと折り返して、第7章が第5章の続き、第8章が第4章のつづき、という構成をしているらしい。
また、入れ子構造になっていて、第1章のテキストは第2章の中にでてきて、第2章は第3章の中に出てきて、というふうにもなっているらしい。
映画化もされている、とのこと。
舞台も、19世紀の南太平洋、1970年代のベルギー、1930年代のアメリカ、現代のイギリス、近未来の韓国とバラバラで、弱肉強食がテーマになっている、と。
未来を舞台にした章では、単語や文体も異なっているとか
独創的な構成とリーダビリティが共存した作品とも評している
カナダの批評家ダクラス・クープランドが、「いくもの時代や場所をめぐりつつ現在を照射するような作品」を超越文学と読んでいるらしく、章末ブック開度は、超越小説が紹介されている

第16章 ビジュアル・ライティング:ジョナサン・サフラン・フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(2005)

これ、映画化されている作品だというのは知っていたけれど、原作小説が、実験的な作品だというのは知らなかった。
赤の書き込みがなされていたり、1行だけ印刷されているページや、活字が重なり合って読めない部分があったりとか、そういうことがされている=ビジュアル・ライティング
また、作品自体は、主人公オスカーの語り、オスカーの祖父の手紙、オスカーの祖母の手紙という3つの語りが交互に進行する形。オスカーの父親は911で亡くなっていて、その父親が残した鍵が何の鍵かをオスカーが探す物語

第17章 疑似小説執筆プログラム:円城塔『これはペンです』(2011)

「叔父は文字だ。文字通り」から始まる作品
あらすじを紹介しつつ、筆者(木原)の解釈が論じられている

第18章 どちらから読むか?:アリ・スミス『両方になる』

15世紀の画家の魂が現代に読みがえってある少女を見守るというパートと、その少女の成長物語の2つのパートからなる
のだが、すっぱんされている部数の半分が、前半が画家の話、後半が少女の話になっていて、もう半分は逆に、前半が少女の話、後半が画家の話になっている、という次第
なお同じ本だけど2つのバージョンがあるものとして『ハザール事典』の男性版と女性版があるが、あれは表紙や奥付で区別されているのに対して、こちらは、表紙やISBNで区別されておらず、実際に読んでみるまでどっちか分からないという仕掛け
また、タイポグラフィーによる仕掛けもなされている。