ウィリアム・フォークナー『アブサロム、アブサロム!』(藤平育子・訳)

フォークナーのヨクナパトーファ・サーガを構成する長編作品の一つ。
ミシシッピ州ヨクナパトーファ郡ジェファソンに突如現れて、大地主となったトマス・サトペンの盛衰を、関係者たちの回想の語りが描き出す。
原作は1936年刊行。
訳者解説によれば、フォークナー39歳の時の作品であり、長編小説としては9作目にあたる。
タイトルがやたらかっこいいが、これは旧約聖書からの引用らしい。アブサロムはダビデ王の息子の名前で、彼は父王に反旗を翻す。亡くなった息子に対してダビデ王が「アブサロム、アブサロム!」と叫んだとか何とか。
フォークナーの最高傑作としても名高い。
今回読んだ岩波文庫版では上下巻に分かれているが、上巻を読み終わった段階では、「決してつまらなくはないが、この癖のある文章にずっと付き合わされるのか、うむむ」みたいな感想だった。しかし、下巻を過ぎると、読むのが止まらなくなり「なるほど、これは確かに面白いぞ」となった。
トマス・サトペンという男が固執した「血」を巡って、メロドラマ的な悲劇が展開される物語で、確かに家族と土地を巡ったサーガであった。

読むに至った経緯

海外文学を読むぞ期間の一環として、いよいよフォークナーに手を出してみることにした。
そもそも自分にとっては、文学への入口として、阿部和重神町サーガと佐藤友哉鏡家サーガ*1があったわけで、ヨクナパトーファ・サーガもいつか読まなきゃいけないのではと思っていたが、読むの大変そうなのでずっと敬遠していたところがある。
しかし、今年は文学読むモチベーションが高まっているので、この機会を逃してはならないなと思って読んでみることにした。
ただ、一口にフォークナーといっても作品数が多くて、どれがどれだか分からなかったのだが、今回、海外文学読む期間を始めるにあたって、池澤夏樹の世界文学全集の収録作品一覧を眺めていたら、本作『アブサロム、アブサロム!』が入っていたので、ではこれから読んでみるか、と思った次第。
さて、作品が多いだけでなく、翻訳も何種類かある。
アブサロム、アブサロム!』については、大橋訳(1965)、篠田訳(1966)、高橋訳(1970)、藤平訳(2011)がある。新訳で読みたいなと思ったので岩波文庫の藤平訳で読むことにした。なお、池澤夏樹の世界文学全集はものによっては新訳・改訳を謳っているのだが、『アブサロム』については篠田訳を用いている。


岩波文庫版の表紙は、フォークナー自身が描いたジェファソンの地図で、これの日本語訳も収録されている。
他のものと比較していないが、岩波文庫版では、この地図のほか、登場人物紹介、家系図、各章のあらすじ、訳者解説、年表などがついていて解説が手厚い。ただし、巻頭にある登場人物紹介や各章のあらすじには、誰がいつ死ぬか書かれており、容赦ないネタバレを食らう。
もっとも、古典にいまさらネタバレなどないということかもしれないし、本作はそこはあまり重要ではないということかもしれない

語りの構造

物語内容自体は、サトペン一代記みたいな話なのだが、それがどのように語られるのかというのが独特で、フォークナー作品の読みにくさの一因でもあり、また、フォークナーが高く評価される由縁でもある。
聞き手・語り手となっているのは、クエンティン・コンプソンという18歳の青年で、彼は、トマス・サトペンの友人だったコンプソン将軍の孫である。
本作は、このクエンティンが、トマス・サトペンの義理の妹であるローザ・コールドフィールドや、あるいは自分の父親から、サトペンについての話を聞き、さらにクエンティン自身が、ルームメイトのシュリーブとサトペンについて話す、という構成になっている。
ローザが語るサトペン、クエンティンの父が語るサトペン、クエンティンがそれらを聞いて解釈するサトペンがそれぞれ異なっていて、自分が直接見聞きしたことだけでなく、伝聞や推量、思い込みなどが多く入り込んだ語りを読者は読んでいくことになる。
なお、既に述べた通り、岩波文庫版では巻頭に各章のあらすじがあるのだが、これは、それぞれの章が誰がどういう状況で語っているのかという説明になっている。そして、その説明は本文中ではほとんど書かれていないので、この説明は非常に助かる。


(特に上巻は)ほとんど地の文というものがなく、ひたすら彼らの語りによって物語は展開していく。
そんなに長々と喋るものかと思うほど長いセリフが続くが、一人称小説だと思えばそれはまあ不自然ではないとしても、なかなか読みにくい文が続く。
一つには、一文の長さが長い文が多い。ギネス・ブックに文学史上最も長い1文に認定された文があるとかないとかなのだが、あまりにも長いので、形容詞や節が一体どこにかかっていったのか、油断すると分からなくなってしまう。それどころか、読み直しても全然分からん文すらある(一番極端な奴は訳注で、難解で解釈が分かれるくらいのことが書いてあった気がする)。
また、語りが入れ子状になっている部分が多数ある。例えば「ここには○○があった(この○○というのは~)。」みたいな感じで、( )書きで説明を始める箇所がある。これ自体は普通の小説にもよくあるが、その( )だけで1ページ以上あるみたいなことが普通にある上に、その( )の中に会話文が入ってきたりする。あるいは、聞き手の側が、何かを思い出したり、思いついたりしたことが挿入されてきたりすることもある。例えば、クエンティンとシュリーブとの会話のさなかに、クエンティンがそういえば父親がこんなこと話してたなと思いだして、父親による語りがそのまま始まったりする。
また、一つ一つのことを説明するのにあたり、やたらと色々な形容をつけて話すので、出来事が進む速度が遅い。これだけのページ数読んだけど、起きた出来事ってこれだけか? ってなったりする。
あと、人称代名詞が誰を指しているのかもわかりにくい。この文の「彼は」の彼は一体誰を指すのか、と。まあ、これは辿れば分かるし、また、時々作者も「彼(クエンティン)は」と書いて補足してくれたりしている。

上巻

上巻は、1~5まで
1と5は、ローザからクエンティンへの語り、2~4は、ミスター・コンプソンからクエンティンへの語り
トマス・サトペンという男は、ある時突然、黒人たちとフランス人建築家を連れてジェファソンへと現れる。どこからともなく現れたかと思うと、インディアンの土地の権利をいつの間にか手に入れて「サトペン100マイル領地」として、そこに、黒人たちとともに一から屋敷を建てていく。
その後、サトペンは、ジェファソンで商店を営んでいたコールドフィールドと何らかの取引を行い、娘のエレンと結婚し、ヘンリーとジュディスという二児をもうける。
ローザはエレンの妹なのだが、ジュディスよりも年下で、年上の姪、年下の叔母という関係にある。
元々ローザは叔母に育てられていて、かなり世間知らず、偏屈な感じで育ち、サトペンへの憎しみをずっと抱き続けた人であり、彼女によるサトペン家についての語りは、結構一方的で省略されたところが多い。
その後、ミスター・コンプソンの語りの中では、ローザはこのことは知らないだろう、という旨のことが時々言われたりもしている。
サトペンは、黒人同士を殴り合わせる見世物をやっていて、まだ子どもだったヘンリーやジュディス、サトペンが黒人奴隷に生ませたクライティ(ジュディスの異母姉)もこれを見ている。エレンは子どもに見せるのは辞めてくれと頼むのだが、当のジュディスは全然気にしていない風というエピソードが、1の終わりで語られていて、ローザから見たサトペンやサトペンの血をひいた子どもたちの不気味さ、非道徳性を強調しているのかなという気がする。
ヘンリーは、ミシシッピ大学に入学して、チャールズ・ボンという男と友人になる。ヘンリーよりも10才年上で、大学生としては浮いている男なのだが、ヘンリーはすっかり惹かれて、家に連れてくる。エレンは、ヘンリーから送られてきた手紙を読んだ時点でチャールズのことを気に入ってしまい、ヘンリーもエレンも、チャールズ・ボンとジュディスを結婚させようとする。
しかし、クリスマスにサトペンとヘンリーとの間に起きた「何か」がきっかけで、この結婚話は暗礁に乗り上げる。ヘンリーはチャールズ・ボンに対して「保護観察」期間をもうける。この保護観察期間というのは、2人が南北戦争に行っていた期間でもある。
南北戦争にはトマス・サトペンも従軍しており、彼は当初サートリス*2の部下であったが、その後、連隊長になっている。
また、エレンとローザの父親は、南軍に反対し、自室に閉じこもるようになり、ハンストの末に餓死する。
南北戦争後、サトペン領地へ戻ってきたヘンリーは、チャールズ・ボンを射殺し、行方をくらます。
ジュディス、クライティとローザはチャールズを埋葬し、この3人は共同生活をするようになる。また、以前からサトペン領地に暮していた貧しい白人であるウォッシュが、度々手伝いをするようになる。
サトペンも戦争から帰ってくる。ローザと婚約するが、領地復興に精力を傾け、さらにローザを侮辱し婚約は解消される。
ジュディスとクライティは、チャールズの遺児を引き取って育てる。
ローザはクエンティンに対して、今はクライティしかいないはずのサトペン屋敷に数年前から何かが隠れていると言って、一緒に屋敷に行くように頼む。

下巻

上巻がつまらないわけではないが、下巻から面白くなっていく感じはある。
クエンティンが、ローザや父親から話を聞いている上巻の舞台は9月だが、下巻では1月になっていて、父親から送られてきた手紙をきっかけに、ハーバード大学生寮でクエンティンとルームメイトのシュリーブが、サトペンがいかにして「構想」を抱き、そしてその構想に挫折していったかを再構築していく。
冬の夜のケンブリッジで、非常に寒いのだが、カナダ人のシュリーブは何故か(風呂上がりだったかな)上半身裸で話をしている。
彼らは語り合う中で次第に2人で1人になるようになっていく。同じことを考えながら話しているので、どちらが話しているかはもはや問題ではなくなっていた、というように言われている。
さらに、2人は、あるいは4人は、今やサトペンの屋敷にいた、みたいな文が出てくる。ここで言われる4人というのは、クエンティン、シュリーブ、ヘンリー、チャールズで、クエンティンとシュリーブが、およそ50年前の出来事に完全に没入していっている様子が描かれており、読者もまたそこに引き込まれていくことになる。

サトペンの話

トマス・サトペンという男は、ジェファソンの人々にとっては余所者であり、その時点で既に得体の知れない人物なのだが、彼は何年もかけてジェファソンへと馴染んでいく。
しかし、一方で彼はその本心をごく限られた人物(具体的にはクエンティンの祖父)にしか明かしておらず、クエンティンの祖父にすらその全てを語っているわけではないだろう。
アブサロム、アブサロム!』は、多くの人の語りによって構成され、また、その語り手たちは、見知らぬ人物の内面についても勝手に推測しながら語っていくわけだが、そのような中でも、サトペンの内面・考え・心情はほとんど語られることがないため、読者にとっても、得体の知れない人物として物語の中心に居続ける。
ただ、語り手が変わる度に、その様相は変わっていき、少しずつ核心へ近付いていく構造になっている。
例えば、ローザはサトペンのことを悪魔的な人物として語っており、彼女の語りからはサトペンが極悪人のようにしか思われない(ところで、シュリーブもサトペンのことを「悪魔」と呼び続けるが、これはシュリーブがサトペンのことを悪魔的だと思っているというよりも、むしろローザのことを面白がっているように思われる)。
これが、クエンティンの父親による語りに変わると少し雰囲気が変わってくる。何らかの悪事を働いていたことは確かなようだが、それは、貧しい身の上から地主へと成り上がる上でやってきたことであって、「悪魔」的な印象ではなくなっている。
ただ、クエンティンの父親は、ローザよりも事情に詳しいとはいえ、サトペンについて肝心なことを分かっておらず、クエンティンの父親の語りの時点では、サトペンに対する得体の知れない人物だという印象はさほど変わらない。
下巻に入り、サトペンがクエンティンの祖父に語ったことが、クエンティンを通じて明かされる。これにより、サトペンの経歴が分かり、彼がジェファソンで何をしようとしていたのかがようやく分かる形になっている。
彼はもともと非常に貧しい白人家庭に生まれ、黒人奴隷の存在すら知らなかったが、ある時、とある屋敷に赴いた際、黒人奴隷の執事に追い払われる経験をして、白人間の貧富の差や白人黒人間の差について初めて思いを巡らせるようになる(なお、こうしたサトペンのあり方は「無垢」と称されている)。
ハイチにわたり、農園での奴隷反乱を鎮圧し、農園主の娘と結婚、一児をなすのだが、その娘に黒人の血が入っていることを知り、自分の「構想」にそぐわないと考えて、離婚する。
そうして彼は、自らの「構想」のためにジェファソンへとやってくる。
彼がジェファソンに来て早くから妻を探していたというのはローザが語っているところだが、何故コールドフィールド家だったのか、というのが謎とされてきた。しかし、要するに自分の財力でコントロールできるが、階級上昇する際にそこそこ通用するくらいの家ということで選ばれていたのだった。
ヘンリー、チャールズ、ジュディスの件でこの「構想」はまたも頓挫。
しかし、サトペンは諦めることをせず、とはいえ自分の年齢的に時間がないことに焦りながら、ローザと婚約しようとするがこれは失敗。続いて、ウォッシュの孫娘との間に子をなすが、生まれた子が女児だったため、罵る。これにキレたウォッシュが、サトペン、孫、ひ孫もろとも惨殺。ウォッシュは保安官に撃たれて死ぬ。
(ウォッシュは、サトペン領地への不法侵入者であったが、サトペンと酒を飲み交わす仲であり、サトペンのことを「英雄視」していた)
サトペンの最期についてはあまり同情の余地なし、というところではあるのだが、彼の「構想」というか野望は、ある種分かりやすく俗っぽいものでもあり、その点では得体の知れない人物ではなくなる。とはいえ、一方で、彼がこの「構想」を持つに至る感情の動きや、この「構想」を実現する際のある種の合理性みたいなものは、やはり常人離れしているところがある。そのあたりは結局何考えているのか分からない人物、というままではある。

チャールズ・ボンの話

アブサロム、アブサロム!』は、最終的には、チャールズ・ボンの悲劇として一応結実することになる。
パート8は、クエンティンとシュリーブが、チャールズとヘンリーの間に一体何があったのかの結論に達して終わる。
もっともこの結論は、クエンティンが父親から聞いた話に2人が推論を重ねた上で作られたものであって、事実であったかどうかは不明だが、一方で既に書いたとおり、2人はこの2人の出来事に完全に没入しており、読者は一つの事実として読まされることになる。
さて、チャールズであるが、彼は都会であるニューオーリンズで育っており、また、サトペンは離婚にあたり禍根を残さぬようにかなりの大金を残していたため、金に困らぬ生活は送っていた。しかし、チャールズの母はサトペンのことを憎んでおり、チャールズを復讐の徒として育てようとしていた。
チャールズはそんな母親の思惑には気付いており、彼女の憎しみに取り込まれることはなかったが、一方で、自分は一体何のために生きるのか、ということが自分でも分からずに生きていた。
彼はミシシッピ大学でヘンリーと出会うことになるわけだが、彼がミシシッピ大学に進学したのも、母親が雇っていた弁護士の差し金であった。
さて、何も知らないヘンリーは、すっかりチャールズを慕うようになり、妹のことも捧げてしまうが、しかし、あるクリスマスの日に「何か」が起きて、4年間の南北戦争従軍後、ヘンリーはチャールズを射殺する。
一体何故なのか。
アブサロム、アブサロム!』全体を通じて物語を動かしているのは、主にこの問いである。
これに対する答えは、重婚疑惑→近親相姦のおそれ→人種混淆のおそれと移り変わっていく。
まず、チャールズには実は妻子がいる。相手はオクトルーン(八分の一黒人)の女性である。黒人を愛人としてその間に子どももできる、というのはこの当時珍しいことではなく、それ自体は問題ないのだが、チャールズが彼女と結婚式を挙げていたらしい、というのをヘンリーが問題視した、というのが、まず最初に語られる説である。
次に、ヘンリーが態度を変えたクリスマスの夜に、実はサトペンがチャールズが自分の子である、つまり、チャールズがヘンリーとジュディスの実兄であることを告げたのではないか、ということが語られる。
しかし、下巻の後半、クエンティンとシュリーブは、あの「保護観察期間」に何があったかを語る。ヘンリーは、近親相姦も問題視しなかったというか、受け入れようと努めたのであろう、と。だが、南北戦争も終わりに近付いた頃、連隊長である父親と久しぶりに再会することになったヘンリーは、チャールズに黒人の血が入っていることを知らされる。
クエンティンとシュリーブは、それが理由だったのではないかと考えるに至る。
ところで、このチャールズという人物、上巻では、どちらかといえば軽薄そうな人物で、やはりまた何を考えているのかよく分からない感じで描かれる。
しかし、後半、チャールズ寄りで描かれることによって、かなりチャールズの内面へと肉薄していくことになる。
先述したとおり、彼は自分が何をしたいのか分かっていないため、その点での軽さは確かにあるが、彼の思いとしては、サトペンに自分を認識してほしいという一点に尽きるのである。
彼は実のところジュディスと結婚するつもりもなくて、ただ、サトペンが自分に反応してさえくれれば、姿を消そうと思っているのである。
しかし、サトペンはこの件について、流れに身を任せているというか、あまり積極的に動いているところがない。ニューオーリンズに一度行っているのだが、チャールズへの直接的な働きかけはないのだ。
純粋な白人の血だけからなる自分の「家系」を作ろうとする男と、その男のもとに生まれたが母方の祖先に黒人がいたがためにその男を父と呼べなかった息子との間に起きた悲劇、とまあそんな風にまとめてしまうこともできるだろう。
サトペンにはやはりなんともいえない酷薄さがあって同情できないのに対して、チャールズはその点、ジュディスに対する冷たさのようなものも理由があってのことで、最終的には、チャールズ可哀想だなあ、となる。

クエンティンと南部の話

ところで、単にチャールズ可哀想だなあだけで終わる話でもない。
チャールズとヘンリーの顛末を語り終えた後、さらに、9月にクエンティンがローザとともにサトペン屋敷で何を見たのかが語られる。
夜中に、馬車でサトペン屋敷に向かう中、クエンティンが疾駆する黒馬を幻視するあたりとかエモい(サトペンがジェファソンの町へ行くのに、度々馬を走らせているシーンが出てくる)。
実はクライティが数年前からヘンリーを屋敷に匿っていたというのだが分かるのだが、その後、クライティは屋敷に火を放ち亡くなる。
ところで、この屋敷にチャールズの孫で白痴のジムという男もいるのだけど、クエンティンは子どもの頃にジムと会っていたりする。
で、最後の最後に、シュリーブはクエンティンに「何故南部を憎んでいるの」と聞くと、クエンティンはベッドの中で震えながら「憎んでなんかいないさ」と答えるのである。
ところで、これは登場人物紹介や解説などを読んで知ったことだが、クエンティンは実はヨクナパトーファ・サーガの一作である『響きと怒り』の主人公でもあり、その中で自殺している。
このクエンティンとシュリーブの会話は1910年1月のことなのだが、1910年にケンブリッジで自殺しているらしい。そして、クエンティンは妹のことで悩んでいたらしい。
アブサロム、アブサロム!』では、クエンティンのこのような事情は何も語られていないが、彼はヘンリーに自らのことを半ば重ね見ていたはずなのである。
カナダ人であるシュリーブにとっては、合衆国南部の人種差別というのは実感のないことであり、50年前に起きたサトペン家の悲劇などは歴史上の出来事のようなものだが、そのシュリーブが指摘するように、クエンティンにとっては、その50年前の出来事を容易に回想できるような連続性が自分の生まれ育った土地にある。
そういうわけで、最後の「憎んでなんかいないさ」というクエンティンの台詞にかかっている重みというのはなかなかずっしりくるものがある。
なので、本作は、トマス・サトペンの野望の破局とチャールズ・ボンの悲劇が一体どういうものだったのかが解明されていくというプロットの面白さがあるわけだが、さらに、何故、その50年後の直接的には彼らとは関係のない青年が聞いたり、語ったりという構造の中でその物語が展開されるのか、ということに理由があって、その語りの重層性の凄みがある、という作品なのである。

他のキャラクターについて

ここでは、サトペン、チャールズ、クエンティンにおおよそ的を絞って書いたが、
ローザはローザでなかなか強烈なキャラクターであり、あの人一体なんだったんだとはなる。シュリーブなんかはおそらく、ローザがお気に入りのキャラクターなのだろうなあという気がする。
とはいえ、エレンやジュディスも、負けず劣らずヤバそうな人たちではあり、この記事の冒頭でサトペン一代記と書いたが、やはりファミリー・サーガなのだよなあとは思う。
クライティは記述が少ないのでどういう人なのか分かりにくいが。
ウォッシュもウォッシュで、単なるロクデナシみたいな人ではあるけど、サトペンとの関係は掘り下げるとそれはそれで複雑そうであったりする。

その他

タイトルが聖書に由来するのは上述した通りだが、他にも聖書やシェイクスピアギリシア神話に由来する言葉、言い回しがちょくちょく出てくる(というのが訳注を見ると分かる)

*1:文学じゃなくてミステリだけども

*2:同じくヨクナパトーファ・サーガの一作である『サートリス』の登場人物

久永実木彦「わたしたちの怪獣」(『紙魚の手帖vol. 6 AUGUST 2022』)

先日、日本SF大賞候補作が下記の通り発表された。

樋口恭介(編)『異常論文』(早川書房
荒巻義雄『SFする思考 荒巻義雄評論集成』(小鳥遊書房)
小田雅久仁『残月記』(双葉社
小川哲『地図と拳』(集英社
久永実木彦「わたしたちの怪獣」(東京創元社紙魚の手帖 vol.6 AUGUST 2022」)

この中で「わたしたちの怪獣」は、SF大賞史上初、短編単独での候補作となった作品らしく、ちょっと話題になっていたので、読んでみた。
あと、東京創元社から『紙魚の手帖』なる雑誌が出てるの、知らなかった。
なお、本作が掲載されている号の特集は、翻訳ミステリとホラーで、特にSF特集だったわけではない。


主人公の「わたし」は高校生で、家族にも友人にも隠れて自動車の運転免許をこっそり取得する。
その日、家に帰ると妹のあゆむが父親を殺害し、東京には怪獣が上陸した。
「わたし」は、父親の遺体を怪獣の近くへと遺棄しにいくことにする。


怪獣まわりの描写や展開は、かなりシン・ゴジラ風である。千葉県(というか、作中では名前が違うがディズニーランド)から上陸し、西葛西を経由して東京都を北上していく。自衛隊は、荒川ついで隅田川をそれぞれ最終防衛ラインに設定するのだが、為す術もなく突破される。
このあたりの経過は、ニュース番組や自衛隊の報告書、首相会見、動画アプリでの配信番組の書き起こしといった形式で、作中に挿入されていく。
政府が怪獣と呼ばずに「巨大移動体」と呼称したり、怪獣の進行方向に皇居があったり、最終的に米軍の核兵器使用が検討されたりなど、色々とシン・ゴジラを連想させるシーンが多い。
とはいえ、本作のメインプロットは、そこにあるわけではない。
怪獣の都内侵攻を背景として、主人公の「わたし」のクライムロードムービー的な家族小説が展開される。
シン・ゴジラ的なのは、あえてそうしていて、そうすることで最小限の描写で読者にリアルな背景を想像させることに成功している。
一方で、シン・ゴジラは個人の物語を描かなかったが、こちらは「わたし」の一人称により、あくまでも個人の物語に寄り添っており、また、この「わたし」は部分的に信頼できない語り手であり、その点、小説だからこその怪獣作品になっている。


そういうわけで「わたし」関連のあらすじや設定だが
上述したとおり、運転免許を取得して家に帰ると父親が既に遺体となっており、妹のあゆむが殺していた。
事情は物語が進むに連れて次第に明かされていくのだが、端的に言ってしまうと、数年前に不祥事(SNS炎上)を起こした父親は、再就職に大変苦労した上で、その後、あゆむを虐待するようになっていた。母親は行方をくらまし、「わたし」もあゆむを気遣いつつも虐待を見て見ぬふりをしていた。
「わたし」にとって、あゆむが父親を殺してしまったのは意外ではなく、一方で、あゆむを連れて逃げ出すために運転免許を密かにとっていた。
だからこそ、「わたし」は父親の遺体を怪獣の近辺に捨てることで、証拠、というかあゆむの殺人自体をなかったことにしてしまうことを目論む。
「わたし」は、埼玉から(つまり怪獣とは逆方向から)1人カローラに乗って都内へ向かうのである。
車内でネット番組を聞きながら、警察の質問をかろうじてかわしながら、誰もいなくなったコンビニを彷徨いながら、夜明けに怪獣の姿を見つけながら、「わたし」は「わたしたちの怪獣」について語る。


先ほど、怪獣パートについてはシン・ゴジラを連想させると書いたが、当然、シン・ゴジラとは異なるところもある。
一つはその見た目である。まるで内臓を絡みつけたかのような見た目をしており、ネット上ではその見た目から「白腸(しろわた)」とあだ名される。さらには、触れたものを消滅させるシャボン玉のような球体を放つ。
ところで、こうした見た目や怪獣の上陸地、進路を「わたし」は、家族の思い出に結びつけていく。まだ、4人家族として幸福に過ごしていた頃、西葛西に住んでおり、かのテーマパークにも遊びに行っており、バルーンアート(内臓のような見た目は見ようによってはバルーンアートで作られたようにも見える)やシャボン玉も家族の思い出であり、怪獣は父親が不祥事を起こす前につとめていた勤務地を目指しているのだ、と。
つまり、父親が死んだ直後に現れたあの怪獣は、つまり父親に他ならない。あるいは、娘を虐待した父、その父を殺した妹、何よりそこに至る経緯を見て見ぬ振りし続けた自分……「わたしたち」の姿が怪獣として現れたのだ、と。
いよいよ怪獣を至近距離で目撃した「わたし」は、怪獣の眼が父親の眼と同じだと見て取る。


さて、凡百のSFであれば、まさに怪獣と父親を同一化させてしまったかもしれないが、本作はそうではない。
3年後のことがエピローグとして添えられている。「わたし」は、被災者支援の仕事をするようになっているが、もはやあの怪獣の眼が父親の眼だったようには思えない。
自分が免許をとって妹が父親を殺してしまった日に怪獣が現れたという偶然を、主人公は運命だと捉えて、怪獣と「わたしたち」を同一視したが、しかしやはり偶然であったに過ぎない。個人の事情を一方的に怪獣に投影していたわけだ。
だからこそ、怪獣の姿形や進路に自分たち家族の思い出を反映させていったくだりの彼女は
「信頼できない語り手」であり、また、だからこそ小説ならではの表現だったといえるだろう。そしてそれゆえに、怪獣という巨大な災害とある個人・ある家族との関係が見事に描かれたのだともいえる。
加えて、もう少し怪獣というジャンルからの話をすると、平成ゴジラ平成ガメラシリーズで見られた超能力少女の系譜のことも想起してしまう。
平成ゴジラ平成ガメラでは、ゴジラガメラと通じ合うことのできる超能力少女が登場していたが、しかし、彼女たちと怪獣たちとのつながりは、シリーズが続くにつれて一方的なものに変わっていったように記憶している(なにぶん随分昔に見たきりの話なので、このあたりは話半分で読んでもらえればと思う)。怪獣のことを理解したと思ったが、実際のところ、一方的な思い込みでしかなかったのかもしれないという点で、通じるものがあるように思った。
ところで、シン・ゴジラとの違いをもう一点挙げると、核兵器の使用が挙げられる。というか、シン・ゴジラは、核兵器を使わせないために巨災対が奮闘することが物語をドライブさせていたが、本作はそうではなく、むしろ物語を終わらせるためにあっさりと核兵器は使用されるに至る。ただ、このあっさりとした核兵器の使用は、しかし、2022年現在において決してご都合主義と言えるものではなく、ある種のリアリティを感じざるをえないわけで、そこにも「わたしたち」の怪獣性はあるのではないか。

マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』(旦敬介訳)

ノーベル賞作家が、19世紀ブラジルで実際に起きたカヌードスの乱という出来事を描いた長編歴史小説
海外文学読んでくぞ期間第一弾として。
橋本陽介『ノーベル文学賞を読む』 - logical cypher scape2を読んで知って以来、気になっていた。
タイトルがSFっぽく見えなくもないが(?)、ここでいう終末は、キリスト教の終末思想からきている。上述のカヌードスの乱というのが、キリスト教系の運動なのである。
なかなか分厚くて、二段組みということもあって、怯んでいたのだが、読んでみると結構読みやすい。
ブラジル北東部のとある州で、キリストの教えを説く男のもとに、貧民や元盗賊、障害者などが集まるようになり、共和国から独立したコミュニティを形成する。で、軍隊がこれを鎮圧しにいく、というストーリー。
まず、とにかく色々なキャラクターの人たちが描かれていて、彼らの人生模様を読んでいくのが面白い。
また、貧民や元盗賊たちが集まったところでその最後は推して知るべしというところだが、実は彼らは3度、鎮圧部隊からの攻撃に耐え抜いており、次は一体どうなってしまうのかというハラハラ感もありつつ、しかし、最後の攻防戦は、まさに戦争というべき凄惨さというか、泥沼の籠城戦が展開され圧倒される(攻める側も守る側もどちらも地獄)。


ラテンアメリカ文学というと、マジック・リアリズムとか幻想文学とかが思い浮かぶが、本作はそういう要素は全然ない。
登場人物がとても多くて、読み進むにつれて、それぞれの経歴紹介みたいなことが少しずつなされていくし、焦点人物も次々変わっていくこともあって、必ずしも時系列順に進んでいくわけではないが、そのあたりは決して読みにくくはない。
全部で四部構成になっているが、その中がさらに細かいパートに分かれている。
分量的には、第一部+第二部、第三部、第四部がそれぞれ同じくらいの長さ


第三部まで普通に面白く、第四部で圧倒される。
バルガス=リョサ、他の作品も読んでみたい。


以下ダラダラと書いてるので、まとまりない感じです。

あらすじ

舞台は19世紀末のブラジル、その北東部にあるバイア州の内陸部(セルタンゥ)である。
ブラジルは1889年に帝政から共和制へ移行しており、その頃の話
帝政末期から、ある男がセルタンゥ中を回って辻説法をしていて、次第に信者ができて一緒について回るようになる。彼は、コンセリェイロ(教えを説く人)と呼ばれた。
このコンセリェイロは、共和国の新税制に憤慨し、共和国をアンチ・キリスト扱いし、カヌードスを拠点とするようにする。コンセリェイロは、共和国の政策(税制のほかに、法律婚や国家と宗教の分離、墓地の扱い、国勢調査など)に一切従わないように説き、カヌードスに新しい教会を建築しはじめる。
コンセリェイロは、正規の教会には煙たがられている存在だが、敬虔なキリスト教徒のほか、貧民、元奴隷*1、元盗賊や人殺し、障害者など様々な理由で今住んでいるところに住んでいられなくなった者たちが、彼の元に集ってくることになる。それを、橋本陽介『ノーベル文学賞を読む』 - logical cypher scape2では水滸伝梁山泊に喩えているけど、まさに梁山泊よろしく、色々な性格、才能をもった人たちが集まってきて、それぞれの能力に合わせた働きをしていく。
物語は、このコンセリェイロと叛徒たち(ジャグンソ)を中心に描きつつ、さらに他にも彼らを外から見る登場人物たちもいる。
1人は、ガリレオ・ガル(偽名)というスコットランド人。パリ・コミューンにも参加していたことがあるアナキストで、カヌードスの乱を無産革命と勝手に位置づけている。宗教コミュニティに原始共産制の夢を見ている、とでもいうか。ガルという偽名は骨相学者のガルに由来し、自身も骨相学を修めて、珍しい頭の形をみると触りたくなる。
もう1人は、『ジョルナル・ジ・ノチシアス』の記者。主要登場人物の中では名前が出てこず、単に記者とされている。仕事でカヌードスの乱の取材を始め、討伐隊を率いるモレイラ・セザル大佐に同行する。特定のイデオロギーは持ち合わせていないが、この叛乱やセザル大佐に熱い興味を抱いている。
さらに舞台となるバイア州の政治家たちや軍人も重要な登場人物である。
まずは、進歩共和党党首であり『ジョルナル・ジ・ノチシアス』の社主でもある、エパミノンダス・ゴンサルヴェス
バイア州は、保守的な地主層である自治党が与党で、彼ら進歩共和党は野党であるが、カヌードスの乱を奇貨として勢力拡大を目指している。カヌードスの乱の背後には帝政復活を企む自治党と英国がいると喧伝し、連邦政府を介入させ、自治党の勢力を削ごうとしている。
さて一方の自治党だが、もともとバイア州は、帝政期にはカナブラーヴァ男爵の支配下にあり、自治党もこの男爵の党である。共和制に以降した後も、州知事も州議会も有力な農園主もみな、この男爵の影響下にある。カヌードスも、もとは男爵の所有する農園である。
コンセリェイロ自身は宗教家で、こうしたブラジルの政局を意識していた感じはしない(喩えるなら「コンセリェイロに政治は分からぬ、しかし邪悪には敏感であった」とでもいうか)が、カヌードスの乱は、バイア州における政治対立と絡み合って拡大していく。
なお、カナブラーヴァ男爵は、名前だけなら最初の方から出てくるが、本人が登場するのは第三部に入ってから。
第三部からは、もう一人重要な人物が登場する。モレイラ・セザル大佐である。
帝政打倒クーデタを成し遂げた元帥の部下で、共和国成立後は、南部で起きた複数の反乱を鎮圧してきた実績を持つ。連邦政府は、セザル大佐をカヌードスの乱鎮圧のために派遣する。
コンセリェイロが原始的な宗教コミュニティを立ち上げようとしているのに対して、訳者解説にもあるが、19世紀的近代文明を代表する人物が、ガル、男爵、大佐の3人である。
特にガルと大佐は、男爵により「理想主義者」と言われており、イデオロギーを行動原理としている。ガルと大佐のカヌードスに対する評価はそれぞれ相反するものだが、彼らのその評価はカヌードスへの誤解に基づいている。一方で2人とも男爵を敵視しているところが共通している。
先述したとおり、ガルはアナーキストであり、自分の理想をカヌードスへと投影している。アナーキストであるため、当然貴族階級である男爵は敵なのである。
大佐は、苛烈で残酷な人物ではあるが、共和国の理想を抱いている人で、政敵からは「ジャコバン派」と呼ばれている。帝政への復古主義者を決して許さないので、反共和国であるカヌードスや、保守主義の男爵はやはり敵なのである。
一方の男爵であるが、彼は確かに封建領主であるが、精神的にも貴族であり、また現実主義者のところもあって、いざ登場してみると、ガルや大佐よりもよっぽど人間的にはまともな人物ではある。

登場人物

カヌードスの人たち
  • コンセリェイロ(教えを説く人)

本名はアントニオ・ヴィセンチ・メンデス・マシエルだが、この名前は最初に1回出てくるだけで、あとはずっとコンセリェイロと呼ばれる。なお、訳者によるとコンセリェイロというのは、カウンセラーと同語源の語。
コンセリェイロを焦点人物として書かれるパートはないため、彼が何を考えていたのか、あるいは彼がどういう経歴によってコンセリェイロになったのかというのは、伏せられている。
セルタンゥは貧しい地域であり、帝政末期には干魃に襲われたこともあって、コンセリェイロみたいな人物はこの時期何人もいたらしい(男爵がそういう話をしているし、訳者あとがきでも書かれている)。その中で、コンセリェイロは何か突出して人を惹きつけるところがあったらしく、付き従う人が増えていくことになる。

  • ベアチーニョ(敬虔坊や)

幼い頃に両親が亡くなり親戚のもとで育てられたが、敬虔なキリスト教徒で、コンセリェイロと出会い、彼についていく。
カヌードスでは、宗教的な行事をとりしきり、また、新たにカヌードスへ入ってくる者たちを面接する役割を負う

元黒人奴隷。主人が、家畜を交配するように奴隷たちを交配させて生まれた。
主人の妹が彼を気に入り育てていたが、ある日、ジョアンは彼女を惨殺し逃亡する。
コンセリェイロと出会い改心し、カヌードスでは荒事担当の一人となり、後にコンセリェイロを守るカトリック親衛隊の隊長に任命される。

サルヴァドールからモンテ・サントまで歩いてやってきて、洞で暮らし始め、敬虔な信者として有名になる。コンセリェイロが訪れた際、誰もがコンセリェイロに「うちに泊まってほしい」と申し出る中、コンセリェイロはマリア・クアドラードの洞に泊まった。
その後、マリア・クアドラードはコンセリェイロに同行するようになり、いつしか「人類の母」と呼ばれるようになった。また、カヌードスでは、病人や老人を世話する「健康の家」を指揮したが、のちにコンセリェイロの身辺の世話に専念することになった。
また、第四部において、彼女のサルヴァドール時代が明かされ、罪人であったことが判明する。

  • アレジャンドリーニャ・コリア

干魃の時代に地下水の場所を言い当てたことにより、予言者扱いされる。大切に扱われる一方、距離も置かれて、孤独な人生を歩んでいた。ドン・ジョアキン司祭と事実婚の関係となるが、のちにコンセリェイロ一行に加わる。
カヌードスでは、「健康の家」での仕事をするなどしていた。

かつてジョアン・サタンとも呼ばれた元カンガセイロ(盗賊)
育ての親である伯父夫婦が、町の人たちの裏切りにあい、カンガセイロ狩りをしている警官隊に殺される。天涯孤独の身となったジョアンはカンガセイロとなり、いつしか悪魔のジョアン、ジョアン・サタンと呼ばれるようになり、町の人々を皆殺しするという復讐を果たした。
残酷で情け容赦ないことで鳴らしたが、部下には慕われていた。
コンセリェイロからジョアン・アバージ(神の子)と名乗ればよいと言われて、ついていくことになる。
コンセリェイロとともに巡っていた際、カタリーナという女性と出会う。彼女は、ジョアンが皆殺しにした町の生き残りであり、のちにジョアンの妻となる。
カヌードスでは軍に対する迎撃作戦を指揮し、「現場指揮官」と呼ばれるようになる。

  • パジェウ

セルタンゥ中に悪名をとどろかせた元カンガセイロ(盗賊)
顔に傷跡がある。
彼については、その過去や経歴が説明されるエピソード自体はないが、名前が出てくると大体「あのパジェウもいるのか?!」みたいに驚かれ、恐れられている。奪った金品を貧しい者に分け与える義賊っぽい人であったらしい。
カヌードスでは遠征部隊みたいなものを率いていて、軍の様子を偵察に行ったり、カヌードス外での迎撃を行ったり、あるいは、他の農園へ行って物資を手に入れてきたり何だりといったことをしている。

  • アントニオ・ヴィラノヴァ/オノリオ・ヴィラノヴァ/アントニア・サルデリーニャ/アスンサン・サルデリーニャ

ヴィラノヴァ兄弟(アントニオが兄で、オノリアが弟)とサルデリーニャ姉妹(ヴィラノヴァ兄弟の従姉妹で妻)
何度か全財産を失っているが、商売上手の兄弟で、その度にその商才を発揮してきた。
カヌードスでは物資の管理と住人への仕事の割り当ての一切を担う。
アントニオとオノリオは兄弟であると同時に親友で、互いに相手のことを「相棒」と呼び合っている。
兄は商売一筋な一方で、弟は交友関係や趣味も広い感じ。かつては、兄のアントニオが各地を回り、オノリオが店を守るという関係だったが、カヌードスではアントニオはカヌードスにとどまり、オノリオが各地を回るようになった。
サルデリーニャ姉妹は「健康の家」の仕事をしていた。
コンセリェイロに一番深く傾倒しているのは兄のアントニオで、コンセリェイロについていくことを突然決めた。オノリオやサルデリーニャ姉妹がコンセリェイロをどう思っているかは実はあまり明示されていない(アントニオへの信頼でついてきた節があり、アントニオはむしろ無理矢理連れてきてしまったのではないかと心配している)。

脚が短い奇形児で、四つ足で歩いている。レオンはあだ名(ライオンの意)。
読み書きに秀でている、というか、活字中毒みたいな人。
一度、ジプシー・サーカス団に入れられそうになったが、逃げだし、コンセリィエロについていった。
カヌードスでは、コンセリェイロの言葉を全て書き留めている。

  • ペドロン

巨人のペドロンと渾名される元カンガセイロ(盗賊)
コンセリェイロに従った元カンガセイロとして「ジョアン・アバージ、ジョアン・グランジ、パジェウ、ペドロン」といった感じで度々名前が挙がるが、直接登場してくることは少ない。第四部で、ラッパ銃よりも火縄銃を使うのを好むというエピソードが出てきた。

元カンガセイロの1人
彼も第四部になってちゃんと出てきた。というか、ジャグンソの一員に加わったのが遅めだったはず。
しかし、老将と呼ばれ、一目置かれている

クンベの教区司祭
いわゆる生臭坊主で、司祭としての仕事はちゃんとしているが、酒も飲むし肉も食うし女好き(ゆえに親しみやすい司祭であるともいえる)。
クンベに着任後、次第にアレジャンドリーニャ・コリアと惹かれあうようになり、いつしか事実婚の関係になった。
異端認定されたコンセリェイロが教会で説法することを許していた珍しい司祭だが、コンセリェイロが、聖職者にあるまじき行為をする聖職者を批判する話をするので、いたたまれなくなり、コンセリェイロのが説法する際には姿を見せず、また、アレジャンドリーニャ・コリアとも人前では話さなくなった。
最終的に、アレジャンドリーニャ・コリアはカヌードスへ行ったが、ジョアキンはカヌードスには加わらなかった。しかし、カヌードスの協力者となり、定期的にカヌードスを訪れミサを行い、支援物資を運ぶようになった。

ガリレオ・ガルとその周辺人物

既に何度か書いているが、アナーキストスコットランド
本作は基本的に三人称で書かれているが、ガルはポルトガルかどこかの機関誌かなんかにブラジル滞在記的なものを書き送っており、本作では時々このガルの書いた文章がそのまま載っている箇所があり、そこは一人称で書かれている。
ガルは、エパミノンダスから武器をカヌードスに運んでくれないかという依頼を受け、一も二もなく引き受ける。
ケイマーダスという村に住んでいるルフィーノという男を道案内として雇う。
ガルは革命に身を捧げるために10年ほど禁欲していたのだが、ルフィーノが別の仕事でケイマーダスを離れている間に、ルフィーノの妻であるジュレーマに突然欲情してしまい、彼女を強姦する。
その後、ガルは何者かに襲撃され武器を奪われることになるのだが、ジュレーマはガルを助け、ガルとジュレーマは逃避行を始めることになる。

  • ルフィーノ

カナブラーファ男爵のもとで働いていた追跡屋。
名誉を重んじるルフィーノは、ジュレーマを奪われた復讐のため、2人を追う。
色々行き違いがあったりするのだが、最終的にルフィーノとガルは決闘することになる。

ガルを助けたのはガルを好きになったからとかではなく、無理矢理であってもガルの女にされてしまったから。ルフィーノによって殺されることを望んでいる。
ジュレーマは道中、ガルの話をたくさん聞かされることになるが、むろんジュレーマは彼の革命思想など理解しない。
一方、ガルはガルで、ルフィーノの女を奪ったという意識はなく(ガルは結婚制度を廃した自由恋愛による乱婚制をおそらく理想視している。カヌードスが共和国の法律婚制度を否定していることをこの点で誤解している)、ルフィーノやジュレーマの考えが全く理解できていない。

  • カイファス

かつて男爵のもとで働いてた際のルフィーノの友人
ガルを襲撃した張本人
実はエパミノンダスによるガルへの武器輸送の依頼自体が、そもそも陰謀で、カヌードスの背景に外国人の手引きがあるように見せかけることにして、連邦政府の介入を図った。
カイファスは、エパミノンダスの依頼によりガルを殺すことになっていたが、ジュレーマの思わぬ反撃により殺し損ねる。
後、ジュレーマからガルの髪を入手し、代わりの遺体とともにエパミノンダスへ引き渡した。

  • ジプシー・サーカス団

ジプシー、鬚女、小人、蜘蛛男、巨人ぺドリン、白痴などがいるサーカス団
セルタンゥを興業して回っていた。
次第にメンバーが亡くなり、ガリレオ・ガルやジュレーマと遭遇したときは、髭女、小人、白痴の3人に減っていた。

バイア州の有力者・軍人
  • エパミノンダス・ゴンサルヴェス

バイア州議会の野党である進歩共和党の党首であり、『ジョルナル・ジ・ノチシアス』の社主
ガリレオ・ガルを英国人スパイに仕立て上げ、カヌードスの乱は、帝政復古をもくろむ国内勢力と英国が結託して起こした事件だということにして、連邦政府の介入をお膳立てした。

  • カナブラーヴァ男爵

バイア州の有力者。物語冒頭では渡欧中で、第3部でバイアへと帰還してくる。
カヌードスは男爵所有の農園
バイア自治党を率いて、帝政崩壊後もバイア州の実質的な支配者であった。
ルフィーノの名誉を重んじる気持ちなどをよく理解している。
優秀な政治家でもあり、帰国後、セザル大佐を歓待し、セザル大佐の部隊が敗走した後はエパミノンダスとも即座に和解している。
元々、バイア自治党の党是は連邦政府を州に介入させないことだったので、セザル大佐の歓待は当初、他の議員や農園主から不可解な目で見られるのだが、カヌードスを放置する方がなお悪いということで、セザル大佐支援に回るのである。
ガリレオ・ガルが実は生きていることを知り、確保させ、面会するが、ある種の狂信者であると見て取り、そして何故かガルに対して同情の念を覚えて身柄を解放する。

  • ピレス・フェレイラ中尉

一番最初にカヌードスの乱の鎮圧に赴いた士官。
カヌードス手前のウアウアという村の近くで、祭列にしか見えなかった一団に急襲され敗走する。
のち、セザル大佐の部隊で病人の世話係に回される。
第四部でも登場し、4度のカヌードス討伐全てに参加している士官となるが、腕を失い、戦場で若い見習い軍医と親しくなり、ある依頼をすることになる。

  • フェブロニオ・ジ・ブリート少佐

2番目に、カヌードスの乱の鎮圧に赴いた士官。
迎撃を一度は撃退するが、疲労困憊で野営していたところを再度襲撃され敗走。
のち、セザル大佐の部隊で家畜の世話係にされる。

セザル大佐とその周辺人物
  • モレイラ・セザル大佐

「首狩り隊」と異名される第七連隊の司令。痩せていて小柄。
軍による政治が民衆のためになると考えている。州知事の出迎えなどは全く無視し、新聞記者なども歯牙にもかけないが、『ジョルナル・ジ・ノチシアス』の記者のことは少し気に入っている。
共和国に反抗的な者一切を許さず、カヌードスは当然として、共和制移行後も帝政時代の支配関係を温存しようとしている保守主義者のことも憎んでいる。
持病の発作により、意に反して、男爵のカルンビ農園で休息をとる。

  • 『ジョルナル・ジ・ノチシアス』の記者

近眼で分厚いメガネをして、物書き盤とインク壺、鵞鳥の羽ペンをいつも抱えている。
以前は、男爵の新聞社で働いていたこともあって、男爵からも、エパミノンダスからもあまりよくは思われていない。
コンセリェイロに人々が熱狂する現象に興味があるようで、望んで、セザル大佐の部隊へ従軍した。従軍中は、セザル大佐の近くに潜り込む術を身につける。

セザル大佐の副官たち
タマリンドは大佐だが高齢のためアドバイザー的な立場の人っぽい。


第三部

男爵と大佐が登場し、大佐の部隊がカヌードスへと進軍する。
ガリレオ・ガルは、ルフィーノと決闘し相打ちとなる。
大佐は狙撃による負傷がもとで死亡し、大佐が率いていた部隊はぎりぎりまで攻め込みながらも敗走することになる。
男爵の領地である農園は、コンセイリェイロの命を受けたパジェウによって燃やされる。大佐の死を知った男爵は、エパミノンダスと和解し、政治から引退する。
ある意味で近代的な人間の物語は、第3部で終わることになる。
ガル、男爵、大佐は、それぞれ違った意味で19世紀的な近代精神を体現している。彼らの思想などについて、現代の読者は共感はできないにせよ、どういう立ち位置のものなのかは理解可能である。しかし、ガルと大佐は第3部で退場してしまう。
第三部を読み終えたときは、残りの第四部は一体何なのだろうかと思ったのだが、しかし、第四部が本編だった。

第四部

第四部は、カヌードスの乱が全て終わって数ヶ月後、ブラジルに一時帰国した男爵のもとに「記者」が訪れるところから始まる。
そこから、記者と男爵が話すパートと、4度目の鎮圧作戦時のカヌードスおよび鎮圧部隊の様子を描くパートが交互に進行する。
基本的には、記者が当時の様子を回想して男爵に対して語るパートと、現在時制でカヌードスを描くパートは、改行により区別されているのだが、例えばp..511では、男爵の問いかけに対して、あたかもジョアン・グランジが答えているかのように、シームレスに2つのパートが移行しているシーンがあったりする。他にも、基本的に三人称常体で書かれている地の文において、記者の語りである一人称敬体の文が混じっていたりする(自由間接話法的な奴)。
この記者と男爵が話しているパートは、記者がカヌードスで起きたことやその後彼がカヌードスについて書かれた文章を調べて知ったことを男爵に対して語る、だけでなく、男爵も男爵で、記者の話と関係したりしなかったりすることを回想しているところが書かれていたりして、結構複雑な状態になっていることが時々あるのだが、とはいえ、それが全面的に押し出されてくるわけではなく、抑制的に行われているので、読んでいて混乱してしまうことは少なく物語世界の中に入っていくことができる。


さて、物語内容であるが
まず前提として、セザル大佐が死んだことにより、リオ・デ・ジャネイロサン・パウロを中心にブラジル全体で反カヌードスの世論が沸騰し、軍は数個大隊を派遣することを決める。また、保守派への風当たりも強まっていく。
近眼の記者は、セザル大佐の部隊に従軍した際、混乱に巻き込まれ、ジュレーマ、小人とともにジャグンソに捕らえられる。
泥沼の戦争が展開される。
何故ブラジル軍が大軍を率いてやってきたのにカヌードス側がしのぐことができたかというと、
一つには、4度目にやってきた部隊は近辺の地理に疎く、まだ大型の大砲を持ってきたこともあり、従軍ルートが読まれて、ジャグンゾが待ち伏せしてる先におびき寄せられ、緒戦で劣勢となった。
もう一つには、物資に関してなのだが、軍が雇った地元のガイドが実はジャグンソで、食糧が悉く奪われていったのである。銃器や銃弾については、連邦政府や世論が思っていたような王党派や英国による支援はなかったが、カヌードス内で鍛冶屋が鋳造したものと、やはり軍から奪ったものを使っていた。
また、軍側はもともと士気は高かったのだが、セルタンゥの過酷な乾燥気候の中での行軍、ジャグンソたちの巧みなゲリラ戦(茂みの中に伏せった状態で至近距離まで接近したところで銃撃する)、物資を奪われたことによる食糧不足、そして、王党派や英国軍と戦うつもりでやってきたら、そうした者らの影も形もなく、同じカトリックでありながら、しかし得体の知れない信仰をもつ者たちと戦う羽目になったことなどが、彼らの士気を奪っていった。
もっとも、ジャグンソらの戦い方もかなり残酷であったため、それに対する復讐心はあった(コンセリェイロは、共和国を悪魔の犬と称しており、悪魔の犬が地獄へ落ちるため、ジャグンソらは遺体に対しても暴力を働いていた)
圧倒的に軍有利と思われる戦力差の中、一時は戦線が膠着するなど、カヌードス側は粘り強さを見せるが、しかし、軍側に援軍が到着し、大砲からの砲撃がカヌードスをじわじわと削り、また物資の奪取もうまくいかなくなってくると、カヌードス側は悲惨な籠城戦を強いられることになっていく。
ある時期から、子どもたちが偵察や工作にかり出されることになり、彼らは「ぼうや」と呼ばれた。
食糧が減ってくると、食糧は優先的に前線で戦う者たちへ渡されるようになり、「ぼうや」たちや後方支援の女性や老人たちは絶食を強いられるようになっていく。
激しい砲撃に耐え抜いてきた、カヌードス中心の教会もついに砲撃に倒れる。
コンセリェイロは遺言として、アントニオ・ヴィラノヴァとその家族についてはカヌードスの外に脱出するよう(また、あわせて記者・ジュレーマ・小人もそれに同行させるよう)指示し、衰弱死する。
この脱出を助けるため、パジェウらが決死隊を結成するが、パジェウは捕殺される。
包囲網がどんどんと狭まっていく中、ベアチーニョは女・老人を連れて降伏する一方、最後まで残って戦った者たちは全滅する。
ベアチーニョは終盤なかなか可哀想ではある。
コンセリェイロが亡くなった際に取り乱し、葬儀を出す指示をするのだが、ジョアン・アバージから、コンセリェイロの死をこのタイミングで明らかにするわけにはいかない、極秘に埋葬すべきだと即座に窘められてしまう。
死に居合わせた者たち(いわば側近たち)の手によって埋葬されるが、共和国軍から隠すため3mもの深さに埋められ、誰にもこの場所を明かさぬよう彼らは誓いをたてる。
ところで、このコンセリェイロの亡くなるシーンは第四部の終盤も終盤だが、一方で、第四部の前半の方で、男爵と記者との会話の中で、コンセリェイロの遺体は掘り返されていることが明らかになっている。しかも、当のベアチーニョが口を割ってしまったらしい。そして、ベアチーニョも共和国軍の手によって殺されている。
ただ、訳者あとがきによれば、史実の上では、ベアチーニョとともに降伏した者たちは助かっているようだ。
また、降伏した者や脱出したヴィラノヴァ兄弟を除けば全滅しているわけだが、本作では、ジョアン・アバージの生死に関しては若干ほのめかした記述になっている。


訳者あとがき

まず、カヌードスの乱について、ブラジルにとってどのような事件だったのかという解説と
『世界終末戦争』についての解説

  • カヌードスの乱について

まず、ブラジルという国(あるいはアメリカ大陸)が、非常に人種混淆的であり、ヨーロッパとは異なり19世紀的な「人種」概念が全く無効な土地であることを指摘している。
ブラジルやアメリカが、自分たちがヨーロッパとは異なるというアイデンティティを持ち始めたのはいつなのか、というとまさに19世紀の後半だということになる。
カヌードスの乱というのは、ブラジルに対してそれを突きつける事件だったのだ、と。
そもそも、このセルタンゥという土地がブラジルにとっては忘れ去られた土地であった、と。ブラジルは沿岸部で発展した国で、まずは砂糖交易でバイア州のサルバドールが発展し、その後、金鉱が発見され、中心部はリオ・デ・ジャネイロへと移った。サンパウロもまた交易で栄えた沿岸部の都市であり、内陸部は長年無視されてきた。南部については、アマゾン開発により多少は目が向けられていったのだが、乾燥した北東部内陸部は、何百年も孤立した世界であったという。
カヌードスの乱は、ブラジル沿岸部に暮すブラジル国民たちに、自分たちブラジル内部に他者としてのブラジルがあることを突きつけたのだと、訳者は解説している。
沿岸部の人たちは共和国を作り、自分たちがヨーロッパ的な国としてやっていけると考えていたところ、実はそうではないということを突きつけられた。
最終的には数千人もの軍隊が派遣されながら、苦戦を強いられるという全く予想外の展開を見せ、裏に王党派がいるのではないかという陰謀論も囁かれたわけだが、訳者によれば、正規の戦争をしようとした、あるいはそういう戦争しかできない軍に対して、ジャグンソたちはいわばゲリラ戦を仕掛けたのであって、これは「ベトナム戦争」だったのだ、と。「王党派が~」という「ヨーロッパ」的な語彙で理解しようとしてもできない、ブラジルがまぎれもなくヨーロッパではないということが、戦闘の面でも現れていたのだ、と。


ところで、このヨーロッパ的な語彙で理解しようとしてもできない、というのは、まさにガリレオ・ガル、セザル大佐、男爵、近眼の記者に現れている。
内なる他者としてのブラジルを理解できなかったガルとセザル大佐は、それをコントロールすることができず死ぬことになり、第四部における男爵と近眼の記者の会話は、それをどうにかして理解しようとする試みであったといえる。

  • 『世界終末戦争』について

カヌードスの乱については、エウクリデス・ダ・クニャによる『セルタンゥ』というノンフィクションがあり、バルガス=リョサはこれに多くを負っている。
さて、ルイ・ゲーラという映画監督が、カヌードスの乱を映画化しようとして脚本担当として白羽の矢を立てたのがバルガス=リョサであった。この映画自体は結局制作されずじまいになるのだが、これをきっかけとして『世界終末戦争』が書かれることになる。
訳者は、本作はバルガス=リョサ作品の中でも一番読みやすい作品なのではないかと論じる。一つには、技法が安定していることを挙げ、もう一つには、図式的に読みやすいことを挙げている。
図式的な読みの一つとして「文明」vs「野蛮」があり、これはバルガス=リョサの他の作品にも見られるテーマであり、また本作の取材元である『セルタンゥ』にも見られる。
が、これに加えて「マチスモ」と「反マチスモ」があるという。マチスモを克服できなかった者は死に、男爵と記者はマチスモを乗り越えたのだ、と。


訳者の解説を踏まえて、この点を少し確認しておく。
記者は、第四部でジュレーマ、小人とともにカヌードスにいる。眼鏡が壊れ、ほとんど目が見えなくなってしまった彼は、極度の恐怖と不安に襲われ、ジュレーマや小人と極力離れないように過ごす。一方のジュレーマは、次第にカヌードスの生活に慣れて、女たちの手伝いをするようになるとともに、怯え続ける記者のことを自分の子どもであるかのように感じ始める。パジェウからの求婚を断った彼女だったが、最終的に記者、小人への愛を抱くようになる。
ここでいう愛には性愛も含まれており、戦争の状況が過酷を極めほとんど絶食を強いられた時期に、記者とジュレーマは結ばれている。その際、小人が「離れていた方がいいか」と訊ねてきたので、一緒にいてほしいと答えるシーンがある。
ここまでジュレーマは、1人の男性が1人の女性を所有するという男女関係を当然としていた。ガルに強姦された後にガルに従いながらも、ルフィーノに殺されることを望んだのもそのような伝統的な価値観が染みついていたからだろう(襲われたことで彼女はガルのものになってしまったのであり、一方、自分のものを奪われたルフィーノは名誉にかけて奪い返すだろう、と)
また、記者は記者で、醜悪な容姿のために売春婦以外の女性と関係をもったことがなかった。
死への恐怖と半盲による不安とで、四六時中泣きわめき、男としてのプライドなどなくなってしまった状況において、また、戦争という非日常的な状況の中で互いだけを拠り所として生きた結果として、3人は互いに互いが不可欠な関係となり、そこに愛を見いだしていく。


男爵の件はもう少しわかりにくい。
彼は、カヌードスの乱によって多くを失ったわけだが、その中で最も大きいのは、エステラ夫人の正気だった。政治から引退することを決意したのも、ヨーロッパへ移住することにしたのも、それが原因である。
記者が訪れた際、カヌードスを思い出すようなことには一切触れないように述べる男爵は、しかし、記者を追い出さずに話を聞くことになる。男爵自身何故そうしてしまったのか分からないのだが、記者が帰った後、男爵は自分の中のある思いに気付く。
そして、エステラが最も信頼し、最も献身的にエステラに使える使用人のセバスチアーナを抱くに至る。
男爵も、ガリレオ・ガルがそうだったように、しかしガルと違い無意識的にであったが、禁欲生活を送っていたが、それを破ったことになる。
ところで、これ単に使用人の女に手を出した不倫なのかというと、複雑で、男爵はエステラを愛しているからこそだと述べる。そして、その様子を当のエステラが見ている。
エステラとセバスチアーナの間には、男爵との結婚前からの強い絆があり、新婚時、男爵はそれに嫉妬したことが別の場所に書かれている。
記者とジュレーマと小人が3人での愛の関係を結んだように、男爵もまた3人での関係を結ぶことで自らの夫婦関係を安定させようとしたのではないだろうか。そしてそれはマチスモな一夫一妻制ではない

*1:ブラジルは帝政期に奴隷解放を行ったので奴隷身分の者はいないが、解放後も経済的な理由で元主人とほぼ同じ関係になっている者たちが多かった模様

『Newton2023年1月号』

史上初の「惑星防衛」実験に成功(協力 吉川真 執筆 小熊みどり)

DARTの話

スマホと脳の最新科学(監修 髙橋英彦 執筆 西村尚子・尾崎太一)

立ち読みなのでざっと見出し眺めてっただけ。
スマホ見なくても近くにあるだけで集中力落ちるとか、電子書籍は紙より集中力が落ちるとか、わりとネットとかで読んだことある話が多かった。
電子が紙より~の奴、なんか呼吸が浅くなるかららしい。

空から見る 世界の都市(監修 中島直人 執筆 加藤まどみ)

ヨーロッパの城塞都市多め。星形要塞都市すげーな。
あと、キャンベラが計画都市だって知らんかった。
それから、アメリカにサンシティっていう高齢者専用都市がある。どの住宅からも各種施設がある中心部への距離が規定以内におさまるように、完全に円形をしている。

未来の宇宙ステーション(監修 柳川孝二 執筆 荒舩良孝)

アクシオムとかオービタル・リーフとかオービタルの宇宙ホテルとか
ゲートウェイや天宮も載ってた

『日経サイエンス2023年1月号』

ボイジャー最後の挑戦 未踏の星間空間を行く T. フォルジャー

ボイジャー1号、2号について、そのあらましを振り返る記事
惑星直列していてスイングバイの好機だったから、という理由だったのか。
175年に1回のチャンスだ、急げとばかりに始まった計画で急ピッチで打ち上げたみたいだけど、議会の理解を得るのは難しくて、木星まで行く計画として承認もらいつつ、技術者側で選べる場合は、可能な限り予算の高い方の選択肢を選んで開発していったっぽい。
同型機を2つ打ち上げ。当時は、同じものを2つ打ち上げるものだったらしい(ある関係者のそういうコメントが引用されていたが、半分冗談か?)。
40年以上運用しているし、ある時期からは少数のメンバーでやっているので、メンバー同士一緒に旅行してたりかなり家族っぽくなってるとか、新しく入ってきたメンバーの中にはボイジャー打ち上げ時にはまだ生まれてなかった人もいるとか。
ボイジャーからのカメラ映像は、施設の廊下だかどっかに設置しているテレビに映し出されるようにしていたらしいのだけど、初めてイオの映像がきたときは、学生がイタズラでピザを映したのかと思った、みたいなコメントもw 木星の衛星について、完全に予想外の姿だったらしい。ちなみに、カメラについては、既にスイッチが切られている。
ヘリオポーズを脱したとされているが、磁気と放射線のデータが予想と一致せず(放射線は一気に増えたのに磁気は弱まっていないとかなんとか)、チーム内で解釈が一致するのに時間がかかったとか。そもそも今も、ヘリオポーズが一体どんな形をしているのかなど議論が出ている(クロワッサン形をしているという説が有力になりつつある)。
ボイジャーは、実際に観測してみると予想と違ったということを色々発見していて、やっぱ現地行って観測するのが大事だよねーというようなことが書かれている(けど、現地行くの大変すぎる……)。
ボイジャーは今、原子力電池による電力がどんどん低下していて、ヒーターや観測機器のスイッチを切っていっている。コンピュータの近くにあってその熱を得られる磁力計となんかの観測装置は最後まで残す予定とか。
2030年頃まではなんとか運用し続ける予定。
ボイジャーのすごいところは、マイクロプロセッサを使っていないところ。コンピュータプログラムがない時代に作られたから、ソフトウェアでどうこうするみたいな発想がそもそもない。もう、ボイジャーみたいな探査機を作ること自体できないだろうとも言われているとか。

AIに論文書かせてみた A. O. トゥンストローム

タイトルがすごいが、タイトルそのままの記事(なお、原題はAI Writes about Itself)
GPT-3という文章作成AIがあり、こいつはこれまでも人間が読んでも遜色ないブログ記事とかを書いていたはずだが、これは、GPT-3にGPT-3についての論文を書かせてみた、という内容。
試しに書かせてみたらどうなるかなーくらいのノリで書かせたら、思いの外、ちゃんとした論文が出てきてびっくりした、という話。
ちなみに、何故GPT-3について書かせたかというと、GPT-3についての論文は比較的少ないので、その内容を学習していないから。論文形式の文章をちゃんと書けるかを試したいので、既に論文が大量に書かれているテーマを使うと、それを学習しちゃっててそのままアウトプットしてきちゃうから。あと、仮にGPT-3が書いた論文が今後発表されるとして、誤ったことが書かれたとしても、影響が少なかろうという理由から。
で、基本的には、ほとんど指示は出さずにGPT-3任せで論文を書かせて、わりとちゃんとした論文ができたので、投稿してみることにした、と。
この記事は、GPT-3がどんな論文を書いたのかというより、AIが書いた論文を雑誌に投稿しようとしたら、当たり前のことに色々戸惑うことになったという筆者の経験を綴ったエッセイという感じかもしれない。
例えば、GPT-3の姓は一体なんだ? とか、 メールアドレスは自分のアドレスを書いておくか、とか。
また、投稿しようとすると雑誌側の規定で「全ての著者が投稿に同意していますか」とか「利益相反はありませんか」とかがあるので、この筆者はこれらをいちいちGPT-3に訊ねる、ということまでしている。ここらへんは、どこまで冗談でどこまで本気なのかよく分からん感じだったが、書いてる本人も奇妙な感じだったようだ。
なお、この記事を書いている段階で査読結果はまだ出ていないとのこと。


追記
ググったら、論文本体を見つけた
プレプリントの奴
hal.archives-ouvertes.fr
https://hal.archives-ouvertes.fr/hal-03701250/document
下のURLは、論文pdf。


自分のヘボ英語力だと、違和感なく読める。
どういうプロンプトを与えて、何番目の出力を採用したかなど人間側共著者のコメントもついている。
基本的には、1番最初の出力を使っているっぽい。
メソッドについては、このキーワードを使って書け、と細かく指示しているけれど、他の部分については、かなりシンプルな指示(プロンプト)しか与えてない
なお、人間側共著者のコメントとして

The system was far too simplistic in its language despite being instructed that it was for an
academic paper, too positive about its ability and all but one of the references that were
generated in introduction were nonsensical.

ともあった。
too positive about its ability って言われてるのうけるw
最後に参考文献が5つくらいあがってるけど、それがほとんどnonsensicalだったということかな。
あと、論文の最後に、筆者らが何の資金を受けているかと利益相反についてのコメントがついている。
筆頭著者は、セカンドオーサーのサラリーから3ドル29セントの資金を受けてるよーと(OpenAIへの使用料かな)w

最近読んだ文学

以前、文学読もうかという気持ち - logical cypher scape2という記事を書いたが、
2ヶ月ほど経ち、日本戦後文学について、自分の中で一段落ついてきたので、これに該当する奴をリンクしておく。
なお、上記の記事を書いたよりも前のものも含む。

日本文学(戦後)

青木淳編『建築文学傑作選』 - logical cypher scape2
古井由吉『杳子・妻隠』 - logical cypher scape2
古井由吉『木犀の日 古井由吉自薦短編集』 - logical cypher scape2
安岡章太郎『質屋の女房』 - logical cypher scape2
『戦後短篇小説再発見4 漂流する家族』 - logical cypher scape2
小島信夫『アメリカン・スクール』 - logical cypher scape2
『戦後短篇小説再発見 6 変貌する都市』 - logical cypher scape2
庄野潤三『プールサイド小景・静物』 - logical cypher scape2
『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』 - logical cypher scape2
『戦後短篇小説再発見18 夢と幻想の世界』 - logical cypher scape2
島尾敏雄『夢屑』 - logical cypher scape2
島尾敏雄『その夏の今は・夢の中での日常』 - logical cypher scape2
島尾敏雄「離脱」色川武大「路上」古井由吉「白暗淵」(『群像2016年10月号』再読) - logical cypher scape2
澁澤龍彦『高丘親王航海記』 - logical cypher scape2
『建築文学傑作選』と『杳子・妻隠』は1月の記事。『木犀の日 古井由吉自薦短編集』から9月の記事。
もう少し読む予定のものもあるが、まあ大体こんなところで。
庄野潤三島尾敏雄を知ることができたのが収穫。
また、小島信夫も読むことができて、その重要性が分かった気がする。
(最後の澁澤龍彦を除くと)短編ばっか読んだので、いずれ長編も読んだ方がいいかなと思いつつ、短編で色々読むのが楽しい。
『戦後短篇小説再発見』はとりあえず18巻中4巻を読んだが、もうちょっと他にも読んでみてもいいかなあというのもあるし、あるいは、特定の作家縛りでもう少し読むことも考えられるし……。

日本文学(女性)

藤野可織『おはなしして子ちゃん』 - logical cypher scape2
藤野可織『いやしい鳥』 - logical cypher scape2
藤野可織『来世の記憶』 - logical cypher scape2
まあ、「日本文学(女性)」というか、単に藤野可織読んだだけだが。
『おはなしして子ちゃん』は去年の12月。
あと、『ピエタとトランジ』も文庫が出たので近いうちに読む予定。

海外文学

さて、日本文学について一区切りつけて、これから海外文学に手を出すかなと思っている。
既に色々と読みたいタイトルは考えていて、日本文学は短編メインだったのに対して、海外文学は長編メインになりそうなので大変そうだけど、12月から1月にかけて読んでいきたい。
で、ちょっとばかり参考にしてみようかなと思って、池澤夏樹『現代世界の十大小説』を気になったところだけ拾い読みした。
また、藤野可織がインタビューで好きな作品の一つに『悪童日記』を挙げていて、ブクマカが好きな小説ベスト108でも『悪童日記』が驚きの1位になっていて、タイトルは知ってるけどどんな作品なんだろと気になっていたところ、本書で取り上げられているようだったので、そこも読んでみた。
第3部に出てくる『老いぼれグリンゴ』『クーデター』『アメリカの鳥』が気になった。
なお、以下に取り上げられている10作のうち、『百年の孤独』『悪童日記』を除く8作は、池澤夏樹編集の『世界文学全集』に収録されている。というか、この『現代世界の十大小説』自体が『世界文学全集』を編集したこときっかけで書かれている。

第1部 「民話」という手法
 第1章 マジックなリアリズム――ガルシア=マルケス百年の孤独
 第2章 「真実」だけの記録――アゴタ・クリストフ悪童日記
第2部 「枠」から作り直す
 第3章 恋と異文化――ミルチャ・エリアーデ『マイトレイ』
 第4章 名作を裏返す――ジーン・リース『サルガッソーの広い海』
 第5章 野蛮の復権――ミシェル・トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』
第3部 「アメリカ」を相対化する
 第6章 国境の南――カルロス・フエンテス『老いぼれグリンゴ
 第7章 アフリカに重なるアメリカ――ジョン・アップダイク『クーデタ』
 第8章 正しい生きかたを探す若者――メアリー・マッカーシーアメリカの鳥』
第4部 「体験」を産み直す
 第9章 消しえない戦争の記憶――バオ・ニン『戦争の悲しみ』
 第10章 闇と光の海――石牟礼道子苦海浄土

澁澤龍彦『高丘親王航海記』

澁澤龍彦の遺作にして代表作(唯一の長編らしい)。
高丘親王が天竺を目指す道中を描く作品だが、怪奇・幻想的な風景が、エキゾチックかつユーモラスな文体で綴られている。
元々、特に読もうと思っていたわけではなかったのだが、図書館で島尾敏雄作品を借りた際に、棚の近くにあったのでつい。
とはいえ、澁澤作品は青木淳編『建築文学傑作選』 - logical cypher scape2で「鳥と少女」を、『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』 - logical cypher scape2で「ダイダロス」を読み、いずれも面白かったので、本作に興味がないわけではなかった。
ページ数自体それほど長くないということもあるが、文体も読みやすく内容も面白いので、するすると読み進めることができた。
まあとにかく、様々に奇妙な動物やら国やらが出てきて、不思議なことが次々起こる物語でそれが面白いが、古今東西の文献を自在に引用していく技巧もすごい。9世紀後半の話だが、登場人物が突然コロンブスに言及したりもする。この時代にはないだろうカタカナ語なども遠慮なく使われているのだが、世界観は全く崩れていない。
また、虚実入り交じるだけでなく、登場人物の夢の中の話も度々入っており、一体どこからどこまでが作中で起きたことなのかも曖昧になっている部分もあったりする。

高丘親王やあらすじや澁澤龍彦について

おおむねWikipediaからの受け売りになるが、史実の高丘親王について
平城天皇*1の第三皇子。薬子の変に伴い廃太子されるが、関わった証拠がなく、後に復権した。
しかし、23才の時に出家し、空海のもとで修行する。
63才で唐へ渡った後、天竺へ向けて出発するが、その後消息を絶った。
歴史上の人物としては、おおよそこれくらいの感じらしいが、この天竺へ向けて出発した後の記録のない期間を描いたのが、本作ということになる。
本作では、広州を出発した後、今でいうところのベトナムカンボジアラオスミャンマー雲南などを巡った後、ベンガル湾からセイロン島を目指す途中、風に流されスマトラ島に漂着。マレー半島へ渡ったところで終わる。
というわけでナチュラルにネタバレしてしまったが、天竺を目指しつつも天竺には到達できなかった話ではある。なお、やはりWikipediaによれば、実際の高丘親王マレー半島あたりで亡くなったと伝えられているらしい。
66才ないし67才で亡くなったようだが、作中でも67才で亡くなっている。
ところで、澁澤自身はこれを遺作として59才で亡くなっている。病床で執筆していたらしいが、作中で高丘親王が自らの死を予期するところが描かれており、澁澤本人とどうしても重ね合わせたくなってしまう。ここはまあ『ハーモニー』と伊藤計劃本人をどれくらい重ね合わせるのかという問題(?)とも似ているかもしれない。


儒艮

広州から船で出発して、南シナ海を南下し、チャンパー当たりに上陸する話
親王には、安展と円覚という2人の僧侶が同道しているのだが、出発間際になって、逃亡奴隷である少年(のちの男装した少女だと分かる)が一行に加わり、親王により秋丸と名付けられる。
船旅の途中、儒艮(ジュゴン)に出会う。人間に似た姿に秋丸は最初恐れるが、懐いて連れていくことになる。姿が人間に似ているだけでなく、人の言葉をしゃべれるようになる。
このジュゴンは、上陸後も一緒についていくが、暑さのために途中で死んでしまう。
さらに一行は、人語を話す大蟻食にも出会う。
大蟻食が出てきたとき、円覚は「わたしもあえてアナクロニズムの非を犯す覚悟で申し上げます」といって、この生き物は今から600年後にコロンブスが新大陸で発見した生き物で、こんなところにいるわけがないと主張しだす。すると、大蟻食は大蟻食で我々は新大陸にいる生き物のアンチポデスなのだ、とか言い出す。
親王は蟻塚にはまっていた、鳥の入った石をもぎとる。
この大蟻食のことについて、後で話してみると、一行の他のメンバーは誰も覚えていなかった。


この儒艮の章では、親王が何故天竺へ行くことに情熱を燃やしているかについて、回想シーンが入っている。
父親である平城帝の寵姫であった藤原薬子から、幼いころに天竺の話を聞かされたのがきっかけで、その時、薬子は何か光るものを「そうれ、天竺まで飛んでゆけ」と言って放り投げている。薬子が、いずれ今投げたものが卵になって自分がそこから生まれ変わるのだと嘯いたのが、親王にはいつまでも記憶に残った。
蟻塚にはまっていた石はもしかしてそれだったのでは、というエピソード

蘭房

真臘(カンボジア)のトンレサップ湖にて
親王が釣りをしていると、これからジャヤヴァルマン1世の後宮に行くのだという謎の男に声をかけられる。親王を止めようとする秋丸と2人で、男についていくことにする。
男曰く、ジャヤヴァルマン1世の後宮には、単孔の女がいて、王の80歳の誕生日に妓楼として一般開放(?)されるのだという。
入るためには、手形となる貝が必要なのだが、その男の持っていた貝では入れないと門番の白猿に言われる。ところが、何故か秋丸がその貝を持っていて、親王一人入ることが許される。
そこで、頭が女で体が鳥の女が、しかし死んだようにうずくまっている姿を見る。
ところで、後宮へ向かう途中、小舟の中で親王は眠ってしまい、薬子の夢を見る。琵琶湖の竹生島に薬子と2人で向かう夢で、三重塔の壁に描かれた絵に、鳥の姿をした女がいて、薬子から、それは迦陵頻伽(カリョービンガ)というのだと教えられる。
なお、この章の最後に地の文で、ジャヤヴァルマン1世は200年前の王であり、親王の天竺行の際に80歳の誕生日を迎えるのはありえない、と書かれてたりする。

獏園

扶南が南下してできた盤盤という国に訪れた時の話
大きな丸いキノコのようなものを見つけて、秋丸はその香りの虜になる。しかし、さらにその先で見つけた別のそれは、ひどい悪臭で秋丸は倒れてしまう。
しかしてその正体は、獏の糞であった。
その後、親王と秋丸は、土民に捕まってしまうのだが、親王が毎日夢を見るということを知ると、盤盤の太守が作った動物園の中の獏園へと連れてこられる。
獏は夢を食べるが、南方の人間は夢を見ないので、夢を見る人間を求めていたのだという。
また、太守の娘が憂鬱症なのだが、獏の肉が薬になることもあって、獏を健やかに育てる必要があった。
毎日夢を見ていた親王だが、夢を吸われてしまい夢を思い出せなくなる。が、ある時、生まれて初めての悪夢を見る。薬子が父帝を毒殺しようとして、親王はそれを止めようとするのだが、薬子から「おとうさまをころしてくれとは、なんということをいうのですか」と逆に言われてしまう、という夢
太守の娘であるパタリヤ・パタタ姫が獏園を訪れる。興奮している獏を口で絶頂させる姫。
ところで、この獏園のくだりが全て、親王の夢の中の出来事であることが最後に明かされる。

蜜人

盤盤の太守から船をもらうが、風に流されてアラカン国へ漂着してしまう
そこで、犬頭人に出会う。犬頭人は、マルコ・ポーロなど数百年後の出来事をなぜか知っている。
ラカンの海岸には、大食国の商人(アラビア人)がいて船に乗せてもらおうとするのだが、アラビア人商人は、その代わりに蜜人を取ってきてほしいと頼む。
蜜人は、アラカン国の山脈の向こうの砂原で死んで乾燥した遺体で、妙薬として高く売れるのだという。
むろん、安展、円覚、秋丸は反対するのだが、親王は1人で取りに行くことにする
砂原はそのまま歩くと熱気で死んでしまうので、帆を張った丸木舟に乗って、足で漕いでいく。
親王はまた夢を見て、空海上人の夢を見る。
親王雲南まで行ってしまう。
空海は入定して、即身仏つまりミイラになっているのだが、蜜人も一種のミイラであって、蜜人を見つけた親王空海の思い出と重ね合わせている。


ところで、蜜人というと、イアン・マクドナルド『旋舞の千年都市』 - logical cypher scape2にも出てきたので、目次を見たとき「お、蜜人?!」と思った。

鏡湖

親王は一人、雲南の山に囲まれた南詔国へやってくる
洞窟の入口で、秋丸そっくりの少女に出会うのだが、言葉が通じない。そこに男たちが現れ、彼女は南詔国の宮廷の妓女で、無断で逃げ出した罪に問われているという、
親王は、彼女を春丸と名付け、男たちとともに南詔の王城へと向かう。
ところで、この妓女というのは、落雷により感応した女から卵で生まれた娘だという。春丸もやはりそのような卵生の女であった。
なお、地の文において、もし親王が迦陵頻伽のことを知っていたら、春丸と秋丸は迦陵頻伽なのだと思ったことだろうと触れられている。
ところで、王城へ向かう途中、琵琶湖のような鏡のような湖があって、そこに顔が映らない者は1年以内に死ぬという迷信を聞かされるのだが、果たして、親王は自身の顔が湖に映らなかったことに気づく。
さて、南詔の王はまだ若く、ご乱心の噂がある。ある時、親王はその王と2人で会う機会に恵まれるのだが、王から負局先生と間違われる。王は、とある鏡をひどく怖れていた。親王はその鏡を封印するという芝居をして、王の信頼を得る。
春丸は無罪放免となり、親王は彼女を連れてアラカン国へと戻り、安展、円覚と合流する。しかし、2人によると、秋丸は少し前から行方をくらましてしまったという。

真珠

アラビア人の船に乗ってセイロン国を目指す。
親王は己の死期が近いことを感じはじめる。
ベンガル湾で、死んだはずのジュゴンに再会する。
親王は、船内で天文術に長けたカマルという男と親しくなる。
真珠採りの男たちと遭遇し、その技を見せてもらい、真珠を一つもらう。円覚は、美しいものは不吉なものではないかと口を挟むが、安展がそれを笑い飛ばす。
セイロンが近づいてきたはずなのだが、急に風がやみ船が動かなくなる。船乗りたちの中に気がくるって海に身投げする者が出てくる。
そして、幽霊船のような船が現れ、幽霊たちに襲われる。真珠を奪われそうになった親王は、それを飲み込む。
それから、親王は喉に痛みを感じるようになる。
ところで、Wikipediaによると、澁澤は癌で喉を切除している。また、それを真珠を呑んで声を失ったのだと見立てて、「呑珠庵」と号したらしい。
上に「幽霊船のような船」と書いたが作中で幽霊とは書かれていない。時代錯誤の軍船で、ひゃらひゃらと言う男たちが乗り込んでくるのだが、多分幽霊。

頻伽

「びんが」と読む。
船はベンガル湾の魔の領域からスマトラ島へと流されてしまう。
一行はそこで、人の体液を吸ってミイラにしてしまうという花(ラフレシア)を見る。ラフレシアについて地の文で説明されるのだが、そこで、親王も安展も円覚も「後世の事情にはからきし疎いほう」などとさらりと書いてあったりする。
ここまでも散々時系列を無視して古今東西の文献が引用されてきたので今更驚くには値しないが、プリニウスの『博物誌』なんかも引用されたりしている。
円覚が本草学に詳しい博覧な人物という設定なので、仏典などからの引用が基本的に多いが、他に天竺に渡った先人ということで義浄の書からの引用も時々なされていて、しかし、地の文とかだと不意にプリニウスとかが出てきたりする。
親王は、スリウィジャヤに輿入れしたパタタ姫に再会する。パタタ姫は、歴代王妃が眠る墓廟へ親王を案内する。
この国では王子を生んだ妃は、王子を生んだ後ラフレシアの上に乗ってミイラになるのだという。そして、パタタ姫は史上最年少で墓廟に入れることを心待ちにしていた。
また、親王が病状の身であることと、死んでも天竺に行きたいということを知り、ある提案をする。
マライ半島の南端にある羅越には、天竺と行き来している虎がいるという。その虎に食われれば、(死んでしまうが)虎に天竺まで運んでもらえるのではないか、と。
安展、円覚、春丸は当然反対するが、親王はこの提案に乗り気になる。
しかし、親王は病気で弱弱しくなるばかり。
ある日、かつての薬子の真似をして「そうれ、天竺まで飛んでいけ」といって石を投げるふりをしたりする。
その後、夢の中にパタタ姫が現れ、親王の喉の奥の真珠を取り出すと、そのパタタ姫が薬子に変わり「そうれ、日本まで飛んでいけ」といってその真珠を投げる。
一行は、再び旅立ち、羅越のシンガプラ島へ渡り、親王は1人藪の中で幾晩も過ごし、ついに虎に食われる。
春丸は鳥の姿になって飛び立っていき、安展と円覚は、あれは頻伽だなと言って、親王のプラスチックのような骨を拾う。
なお、この「プラスチックのような骨」という表現は、本作のコミカライズをしている近藤ようこがインタビューの中で「素晴らしい」と言って紹介している(ので、ここでも引用してみた)。
近藤ようこさん「高丘親王航海記」インタビュー 澁澤龍彦作品の“明るさ”に惹かれて|好書好日

感想

とここまで各章のあらすじをまとめたが、駆け足でざっくりまとめたので、面白さがスポイルされている気がする。まあ、あらすじなので仕方ないのだが。
読んでいる最中は、各地方に出てくる奇妙な動物やら風習やら景色やらのディテールが読んでいて楽しいのだけど、改めてこうやってまとめてみると(読んでいる最中にも意識はしていたけれど)、薬子というある種のファムファタルの物語であることが分かる。
薬子自身は、親王の夢や回想の中でしか登場しないが、秋丸・春丸、パタタ姫、蘭房の女たちなど、作中に出てくる女性はみな何らかの意味で薬子と重ねあわせるような描写が出てくる。その重ね合わせのために用いられているのが、迦陵頻伽という、頭が女性で身体が鳥の生き物である。そして、卵、石、真珠などの様々な球体も、薬子=鳥と結びついて用いられているが、これが次第に親王自身の死というテーマとも結びついていくことになる。
そういうモチーフとテーマの連なりが、一本縦糸として入っているのが、この物語の読みやすさ・面白さに繋がっているのだと思うが、この縦糸のまわりに、きらびやかな横糸(ディテール)が溢れんばかりに絡みついているのもまた魅力なのだろう。
ダイダロス」は、陳が最後蟹になってしまって、焦点人物が消滅してしまう、みたいなところがとても面白かったのだけど、
本作だと、この地の文の語り手は一体何者なのかとか、一体どこからが作中の事実でどこからが夢や回想なのかとかで、ナラトロジー的な批評もできそうだけど、そのあたりはむしろもうそういうものなのだなと浸ってしまう感じ
(つまり、「ダイダロス」だと「この結末テクニカルですげー」って感じなのが、本作だと、語りのテクニカルさはもはや自然すぎて逆に意識されないな、と)


DTPについて

文春文庫2017年版で読んだのだが、DTP担当が言語社だった*2

*1:という名前だが、奈良時代ではなく平安時代天皇。譲位後、平城京に移り住んだ

*2:本当に単にそれだけをメモするために立てた項目だが、一応補足しておくと、ミステリ作家である笠井潔の息子、笠井翔が代表を務める会社である。彼とは過去に何度か会ったことがあるので、「あ!」と思ったというだけの話。なお、別の本でも言語社の名前を見たことはある