『戦後短篇小説再発見 6  変貌する都市』

織田作之助「神経」(1946)から村上春樹レキシントンの幽霊」(1996)まで、都市をテーマに12篇を収録したアンソロジー
『戦後短篇小説再発見4 漂流する家族』 - logical cypher scape2に引き続き、読んでみた。
同シリーズは全18巻だが、さすがに全部読む気はないので、気になった巻だけ読んでいっているところ*1
村上春樹を除くと、名前は聞いたことあっても馴染みのない作家が並ぶラインナップだったが、都市というテーマに惹かれて読むことにした。
島尾敏雄「摩天楼」、森茉莉「気違いマリア」、村上春樹レキシントンの幽霊」が特に面白かった。次点としては織田作之助「神経」、福永武彦「飛ぶ男」、清岡卓行「パリと大連」

織田作之助「神経」

戦後すぐの大阪は千日前の話。
千日前というのは、大阪の劇場や演芸場などが集まっている街
正月3ヶ日は外の様子を見たくないから家にいて、その代わり、ラジオを聞いていたら、宝塚のレビュの実況番組があって、それで10年前に亡くなったとある少女のことを思い出すとこから始まる(ところで、ちょっと宝塚disってたりする。宝塚に限らず声の芸術全般について、変な型があるな、これが好きな人はこの型が好きなんだろうな、そういえば小説も型があるな、となっていくので必ずしも宝塚だけdisってるわけではないが)
レビュが好きで1人で大阪に出てきて着の身着のまま劇場に通っていた少女が殺されたことがあって、そのことをつらつら思い出している。
語り手(織田自身だろう)がよく行っていた喫茶店や飴屋(タバコも売っている)に、その少女も客だったらしく、死後、そこの店主から「あの子、よく見かけたよ」みたいな話を聞く。
話の後半は終戦後、焼け跡になってしまった千日前の話で、行きつけだった本屋や喫茶店が、しかし何とかまた店をやり直そうとしているのを見かけて、それを「起ち上がる大阪」というタイトルで雑誌に書いたという話。しかし、語り手の中には、そんなタイトルの文章を、もともと実話美談とかは嫌いのはずなのに書いてしまったことになんとなく負い目のようなものもありつつ、そこの主人からはそれぞれ感謝される、と
1930年代から40年代にかけて、娯楽の街として栄えていたところが、文字通り灰燼に帰してしまったことへの、作者の複雑な思いが反映されているような作品
我々はズルチンを恐れない神経になってしまったのか、自分は少女のために建てられた地蔵にはまだ参れていない
初出:1946年4月『文明』

島尾敏雄「摩天楼」

語り手の夢の中に出てくる街の話(正確に言うと、起きている時でもまぶたをとじると見えてくる、というような言い方をされているので、夢というか想像の中の街なのかもしれないが)。ちなみに、NANGASAKUという名前がつけられている
幻想的な街なのだが、そこに、摩天楼ないしバベルの塔ができて、語り手はそれを登っていく。各階にはあらゆる「雑踏」ができていて、あるいは抽象的な化け物などもいたりするのだが、最後に女をさらう魔物に出くわす。飛行(ひぎょう)の術を手に入れていたが、それもうまく発動できない。
翌日、朝方のNANGASUKUの広場にて、摩天楼にいた者たちが普通の出で立ちで暮しているのを見る。
夢の中の街、というシュールレアリスム的な設定と、改行少なめでやや難しめの語彙の文章の雰囲気がとてもよかった。
島尾敏雄ほとんど知らなかったのだが、最近、第三の新人*2あたりのwikipediaAmazonを見ていて『死の棘』のあらすじだけちらっと眺めていた記憶があったが、その際は、あまり好みではなさそうとスルーしていた。
解説によると、島尾作品には、『死の棘』など妻との関係を書いた作品の系列、戦争体験(特攻隊)を書いた作品の系列、そして本作のような夢を書いた作品の系列の3系列があるらしい。
初出:1947年8月『文藝星座』

梅崎春生「麺麭の話」

戦後、まだ配給が続いていた時期の貧困を描いた話
電車に乗って知人の家へ向かいつつ、回想が混じる構成
主人公は犬を飼っているのだが、知人が主人公の家を訪れた際に帰り間際に「面白い犬だな、ゆずっておくれよ」と言っていて、主人公はその話を受けるために知人の家へ向かっている。
さらにその背景として、小学生の息子が隠れて麺麭(パン)を食べていたのを目撃してしまったというのがある。
単に、息子に食べさせたくて犬を売ることにしたというだけでなく、息子への憤りみたいなのも混ざっている(犬をかわいがっているのは息子なので)。
電車は大混雑していて、老婆の背負った荷物が当たったことに対して憤り、密かな反撃をする。
さて、問題の知人であるが、主人公が役所勤めで入札関係の仕事をしているので、本来ならどうもその件で不正を持ちかけようとしていたらしい。ところが、主人公が、犬を買ってほしいと言い出したので、何を言ってるんだこいつは、と思われている。
それで知人から「犬をゆずってくれとは言ったが、金を払って買うとは言っていないよ」と断られてしまって、借金を頼んで断られたような気持ちにさせられる。
帰りの駅では、数人の盲人たちが列をなして「人間列車」となってホームを歩いていた。
という、終始どんよりするような話であった。
「神経」「摩天楼」もまた、終戦後の焼け跡におけるどんより感を描いた作品ではあるが、「麺麭の話」は、まさに食うや食わずの生活をしている者が主人公になって、その生活を写実的に描いているので、一番どんよりしている。
どこが都市かというと列車のシーンなのかなあと思う。日曜日なのに満員でぎすぎすした雰囲気とか
初出:1947年12月『別冊文藝春秋

林芙美子「下町」

タイトルは「下町」とかいて「ダウン・タウン」とルビが振ってある。
りよの夫はシベリアに抑留されたまま何年も復員してこない。彼女は、息子を連れて上京し、茶の行商をしていた。行商の際にたまたま出会った鶴石という男性と、少しずつ親しくなっていく。彼もシベリア抑留を経験しており、戻ってきたら妻は別の男と一緒になっていたという。
息子にも親切にしてくれて、次第に男女の仲としても惹かれていき夜をともにすることもなるのだが、その後、鶴石は事故で亡くなってしまう
世間は次第に戦争の雰囲気が過ぎ去っていくのに、夫が帰ってこないことで自分だけまだ戦争が続いているような気がするところから、鶴石と知り合ってそれが少し払拭された、という話なのかな
不倫といえば不倫の話ではあるのだが、結ばれた直後に男が死ぬせいか(といってしまうと言い方悪いが)後味はそこまで悪くないというか、女もいったん拒んでいるし、男も誠実さも見せるし、そのあたり、倫理的な悪さを感じさせないような工夫(?)がなされていた気がする。
どのあたりが都市なのかというと、田舎の静岡から行商のために上京してきたという点や、行商で回っていた住宅街の様子や、3人での上野からの浅草見物のくだりとかかなあと思う。浅草に行ったことないというので連れて行ってもらったけど、期待外れだったというところから、そのまま雨宿りしてなし崩し的に泊まりになるくだり。
初出:1949年4月『別冊小説新潮

福永武彦「飛ぶ男」

入院先から抜け出した男の話
病院の8階からエレベータで下りるシーン(単にエレベータに乗るだけなのだがやけに冗長な語りがなされる。落ちる鳥だの隕石だの)から、男の入院中の様子と病院から抜け出していく様子とが交互に展開される。
入院中は、完全に寝たきりで、右向きになったり左向きになったりするのが唯一の気晴らしみたいな状態。
男の独白部分が、漢字カタカナ混じり文になっている。
神の創造において、6日目に人じゃなくて天使が作られたがあまりにも神に近く、部分的には神を凌駕した存在になってしまったので、創造それ自体が全てやり直しになって作られたのが人なのだ、みたいな話が途中展開されている。
病院で窓を見ていると、急にすべてのものが浮き上がる。壁が崩壊し、ベッドや自動車や家が空中に浮かび、終わりの日の様相を呈する。
一方、病院を抜け出した方の男は、ビル街を通り抜け、街外れの橋から病院を見る。病院から男が身を投げ出して空へ飛び立つ? みたいなシーンで終わる。
福永武彦というと、池澤夏樹の父親で池澤春菜の祖父という認識しかなかったが、略歴見て別名でSFとか書いているということを知った。
初出:1959年9月『群像』

森茉莉「気違いマリア」

以前、『群像2016年10月号(創刊70周年記念号)』その1 - logical cypher scape2で読んだことがあった。
かなり笑いながら読んだ。
父親(鴎外)と母親の気違いが遺伝したとか、永井荷風からも遺伝したとか。
鴎外が風呂に入らないきれい好きだというところから始まる。風呂に入るのは他人の垢をつけることだから入らない、と。で、そういう性格をマリアも受け継いでいるのだ、と。
マリアは、自分が暮らしているアパートの共同の流しで夜中に食器を洗うのだが、他の住人があちらこちらに痰を飛ばしているから、ちょっと床やら壁やらに手や食器が触れるたびに絶叫しながら食器を洗っている。
終始そんな感じ
痰飛ばし族とか、世田谷族とかいう呼び名をつけている。また、マリアは銭湯で風呂に入っているのだが、世間の女というのは大半は女ではなく「女類」だ、とかそんなことも言っている。
なお、「マリアは~」という三人称で書かれているものの、これはほぼ一人称みたいなものだろうが、「マリアは婆で」と、やたらと婆を連呼していたりもする。
人前で痰を飛ばすというのは、まあまあ昭和期の後半くらいまではあったようだが、今ではもう見られない風景なので、なかなか迫力があるし、当時の都市生活者の風景を垣間見せてくれる作品かなと思った。
また、マリアは、自分はエリート主義ではないといい、同じ痰飛ばし族でも、浅草の人はいいのだみたいなことを言っていたりする。パリや浅草に住んでいた時はすぐに馴染むことができたけど、世田谷は無理ということを延々書いている作品でもある。
もともと市外だということも言っていて、マリアが東京を線引きしているのもうかがえる。
初出:1967年12月『群像』

阿部昭鵠沼西海岸」

自分がかつて住んでいた海岸地区への愛憎を吐露しながら、回想している。
子どもの頃、友達と遊んでいても同居していた兄の泣き声が聞こえてくるのが嫌だった、と
(阿部には知的障害の兄がいたらしい。この作品の中では、知的障害とは明言されていなくて、戦争帰りで心を病んだようにも読めた)
その兄が行方不明になり、母親とともに夜の海岸を探す。後日、遺体が発見されたと警察から連絡があり、それを確認しにいく。
その頃親しくしていた少女がいたのだけど、彼女は引っ越してしまう。兄が亡くなったあと、手紙を出してみると、返事が戻ってくるが、もう当時の彼女ではないことを思い知らされる手紙だった

初出:1969年7月『群像』

三木卓「転居」

引っ越すにあたり、近くの薬局やらなにやらから箱をかき集めてくる。
で、荷造りを始めようとしたら、もう使わなくなった物品がどんどん溢れ出てきて部屋があふれかえってしまう。もう何のために買ったのかもよくわからないものもたくさん出てくるが、自分の過去にかかわっていたもので、忘れ去っても残るものなのだ、と
初出:1978年10月『文芸』

日野啓三「天窓のあるガレージ」

主人公が、高校生くらいになって家のガレージを自分の部屋にしていく
断章形式で書かれている
父親への反抗
ニューウェーブロック
キリスト教系の学校に通っており、キリスト教には興味がなかったが、聖霊という概念がよく分からず気にかかる
そして、宇宙人・宇宙船の話がたびたび出てくる。ガレージを宇宙船にしようとしている少年。天窓からの光。
初出:1982年12月『海燕

清岡卓行「パリと大連」

パリを訪れて、凱旋門のあるシャルル・ド・ゴール広場(旧称・エトワール広場)を歩きながら、生まれ育った大連の広場と比較する話
大連は、当地をロシアが支配していた時期にパリをモデルとした都市計画のもと開発がすすめられ、それを後に日本が引き継いで造られた都市
大連の大広場は、エトワール広場をモデルとしているのだが、門は立っていない。また、エトワール広場には12条の道がつながっているのに対し、大広場は10条などの違いがある。
類似を探そうとしたのだが、実際には違いが多いなあと思いつつ歩いていると、広場の周縁を歩く時の感覚を突然思い出して、類似点を見つけだす。
また、大広場の構造についてのちょっとした謎が解決したりする。
最後に、エトワール広場に植えてあった樹が、槐だったことが分かるところで終わる
初出:1989年1月『群像』

後藤明生「しんとく問答」

八尾市にある俊徳丸鏡塚へ訪れた際のことと、俊徳丸伝説について筆者が調べたことが書き連ねられている。
俊徳丸は、折口信夫が『身毒丸』という小説にしており、これの読みは「しんとくまる」で、タイトルの「しんとく」はそこから。
正直、どこらへんが都市なのか、もっと言ってしまうと、これは小説なのかエッセイなのかすら分からない作品で*3、終わり方もよく分からない終わり方をする
(塚の上にポールが立っているのだけど、このポールが何か市のあちこちの部署に聞いてもたらい回しされるだけで結局よく分からないという終わり方)
なお、鏡塚へは「写ルンです」を持っていって撮影しており、度々「写ルンです」が連呼されていて、その点になかなか時代を感じさせる。
初出:1995年3月『群像』

村上春樹レキシントンの幽霊

国語の教科書に掲載されていることで有名な本作。
自分もやはり教科書で読んだ記憶があるが、当時はあまり印象に残らず、内容については忘れていた。
今回、こうやって読んでみると、やはり村上春樹は面白いと思わずにはいられなかった。
村上春樹作品は、だいぶ昔にいくつかの作品は読んでいて、その時も決して面白くなくはなかったが。
この作品は、作家である「私」が実際に起きた経験を話すという体で書かれているので、その意味では私小説の系列にあると言えなくもないとはいえ、しかし、その文体やはっきりとした物語性などは、明らかに隔絶しているというか、少なくともこの短篇集のこの流れで読むと、全然雰囲気が違うと感じられる。
「私」が、レキシントンに住んでいるケイシーという建築家から、留守番をしてくれと頼まれて何日か1人で泊まることになるのだが、その最初の晩に幽霊たちがパーティをしている音を聞いたという話。
で、その後、ケイシーから、母親が亡くなった時、自分の父親は何週間も眠り続けた、そして、その父親が亡くなった時には、自分もまた同じように長く眠ったという話を聞かされる。
眠りの世界と死後の世界というのが重ねられていて、そういう異界に触れてしまった物語として仕上がっている。
また、50代男性のケイシーは30代男性のジェレミーレキシントンの家で一緒に暮しているが、ジェレミーは自身の母の具合が悪くなってからは実家に帰ってしまい、様子も変わってしまったという。そして、ケイシーは自分のために眠ってくれる人はいないのだと悲しげに語る。このあたりから、同性愛者なんだろうなあということも分かる。
ところで、レキシントンの家で留守番する際の持ち物の一つに「ポータブル・コンピューター」(コンピューターにいちいち傍点が振られていた)があった。
ノートパソコンのことかなと思うのだが、96年当時の普及状況がよく分からないし、実際のところどういうものを指していたのがちょっと気になる。
「しんとく問答」の写ルンですとともに、当時はそう思われていなかっただろうけど、古びれてしまって時代を感じさせることになってしまった名詞という感じがする。
初出:1996年10月『群像』

*1:というか、とりあえず読もうと思っているのは4冊だけだが。そのうちの2冊目

*2:島尾は基本的に第二次戦後派とされるが、第三の新人とされることもある、くらいの位置づけの人らしい

*3:もっともそれを言い出すと、私小説自体が小説なのかエッセイなのかよく分からなくなってしまうが

藤野可織『来世の記憶』

藤野可織の最新短編集。長さ的には、掌編・ショートショート的なものも結構入っている。
初出媒体は文芸誌を中心としつつ、結構色々な媒体が混ざっている。
初出で最も古いのは2009年の「れいぞうこ」だが、それを除くと、2014年~2019年の作品+書き下ろし1篇が収録されている。
本書は、「その只事でない世界観、圧倒的な美しい文章と表現力により読者を異界へいざない、現実の恐怖へ突き落とす。これぞ世界文学レベルの日本文学」という出版社の惹句がつけられている。
自分は海外文学をあまり読まないので「世界文学レベル」というのが何を指すのかはよく分からないが、ストレンジな作風にそういうところを感じないわけではない。
そして頗る面白いのは確かで、その独特なアイデアで展開される世界観と、ところどころ不気味な描写を丹念に描く文章は読んでいて引き込まれる。
ところで、藤野作品は、大森望がたびたびSFアンソロジーに収録している。藤野作品には時折SFっぽいガジェットが出てくることもあるし、奇想SFっぽいところがないわけでもない。しかし、普通の意味ではやっぱりSFではないよなとも思う。
SFかどうかというのは別に大した話ではないのだが、例えば、SFがセンス・オブ・ワンダーを目指す文学だとして、藤野作品は不思議なもの、ストレンジなものをいっぱい書いている割に、多分そこを目指していないのだろうという感じはある。
あるいは、仮にSFが人間よりも世界の仕組みに関心を向けるジャンルだとすると、藤野作品は、世界よりも人間、ひいては「私」に関心を向けているような気がして、その意味ではいわゆる狭義の「文学」に位置づける方が、しっくりくるかもなあとは思う。
なお、第218回:藤野可織さんその6「各国の小説、そして自身の新作」 - 作家の読書道 | WEB本の雑誌を読むと、読書遍歴の中にSFが含まれていないことも分かる。
藤野作品のストレンジさは、どちらかといえば、彼女のホラー・怪談への嗜好から生み出されているっぽい。その点、あえてSFとのつながりでいうなら、ニュー・ウィアードが近しいのかもしれない。
それから、フェミニズム文学としても読むことができる作品が多いとも思う。
一つは、女の子同士の関係、特にある種のクラス内カーストというか、そういうものをテーマにした作品がいくつかある。
もう一つには、男女の差異をテーマにしたもので「切手占い殺人事件」「ニュー・クリノリノン・ジェネレーション」「怪獣を虐待する」などが顕著だが、それ以外にも、恋人同士、夫婦同士でのすれ違いを描いている作品もある。
フェミニズム、と聞くと身構えてしまう人がもしかしたらいるかもしれないが、しかし、ことさら何かを批判するというものではなくて、やはり何か不気味なもの、ストレンジなものとして描かれているというところがある。むろん、それを通じて性差別的なものへの批判もこめられてはいるだろうし、男性読者として、居心地の悪い思いをする作品もある。しかし、おそらくは、女性が読んでも不気味に思ったり、居心地悪く感じる作品があるはずで、それは出版社が「現実の恐怖へ突き落とす」と書いていることにも通じるだろう。
なんともいえない読後感をもたらす作品も多々あり、しかしそれも含めて、間違いなく面白い作品集である。


個人的には「れいぞうこ」「ピアノ・トランスフォーマー「フラン」「時間ある?」「鈴木さんの映画」「眠るまで」「ネグリジェと世界美術大全集」「鍵」が特に面白かった。

  • 最近読んだ藤野作品

藤野可織『おはなしして子ちゃん』 - logical cypher scape2
藤野可織『いやしい鳥』 - logical cypher scape2

前世の記憶

前世におっさんだった記憶をもつ少女の話
地球滅亡後の宇宙ステーションに暮らす少女の前世は、妻を殴り殺したおっさんだった。
宇宙ステーションには、地球にあった様々なものを人工的に再現しており、その再現の緻密さに感動している。
彼女の親友の前世は、まさにその妻に他ならないのだが、前世の記憶はない。
初出は、資生堂の雑誌『花椿

眠りの館

あまりに眠くて友達とカードゲームをしているうちにソファで寝入ってしまう主人公
その後、うつらうつらしていると「仕事に行かなくていいの?」とか「結婚式に遅れちゃうよ?」とか声をかけられるのだが、その度に起きることができず再び眠りにおちてしまう。
それを繰り返す度に、戦争が起きて世界が滅んでしまってから、ようやく目覚める。

れいぞうこ

冷蔵庫で寝るようになった少女の話
クラスの女の子はみんな、腐るのを少しでも遅らせるために、冷蔵庫で寝ることになった。
まだ身体が小さいので、身体を折り曲げると、なんとか入り込むことができるが、背が伸びた子は冷蔵庫に入れなくなる。
両親に見咎められるが、仲間はずれになってしまうという主張に、しぶしぶ冷蔵庫で寝ることを認められるが、代わりに防寒着を着込むように言われる。
いつか自分も背が伸びて冷蔵庫では寝られなくなるし、そもそも両親は冷蔵庫で寝ることができないが、将来は、みんなが寝ることができるような冷蔵庫を開発するのだという「こころざし」がある。

ピアノ・トランスフォーマー

ピアノを習っていたが全くピアノのことが好きではない姉妹
ある日、ピアノが人類に反撃しはじめたのだが、自分たちは散々ピアノに対してひどいことをしてきたので全く仕方ないことなんだけど、割を食っているのはピアノを愛していた人たちで大変だな、という話
姉妹は、個人でピアノの先生をやっている人のところに通っていたのだが、その先生の息子もピアノを習っていて、彼は当然ながらとてもピアノが上手かった。
しかし、ある時期から、ピアノを演奏すると演奏しながら寝てしまう奇癖が出てきた。
それはピアノ・トランスフォーマーになってしまう前兆だった。
世界中で、ピアノは生きものとなって、人がピアノを演奏しようとすると噛みつき、勝手にピアノを演奏するようになった。そして、一部のピアノ奏者はピアノになってしまった。

フラン

自分の娘が、大阪駅が新しくなったんだよと言って、それ聞いたことあると答えることで、自分自身が19歳だったころの出来事を思い出す(デジャビュみたいな感じで)。
当時、友人から誘われた際には行かなかったが、片思いしていた相手から誘われて一緒に大阪駅へ行ったというエピソードで、初デートだと思ってはりきって出かけるのだが、どうも相手はそう思っていなかったようだという話(彼は友人たちとゾンビ映画を撮る計画をたてていてそのロケハンだった。ロメロのゾンビ映画を見た際に、何故自分が普段と違う女の子っぽい格好をして彼に少しがっかりされたのかが分かる、という後日談つき。なお、「フラン」は『ゾンビ』の主人公の名前)
ところで、これらは全て回想で、この主人公は現在においては、2人の夫と1人の妻がいる(そういう結婚が可能になった未来世界に生きている)。
お金が無限にあれば食べたいと思ったパンを全て買いたいが、そうではないし食べきれないので、食べれるだけのパンを買う。
それで十分幸福な人生を送っているし、19才の頃のことなんか普段は忘れているけれど、しかし、消え失せないでほしいな、と

切手占い殺人事件

女の子が一人殺され、語り手の「ぼく」がそれに至るまでのクラスの女子たちの間で起きた奇妙な流行を回想する
タイトルにある通り、それが「切手占い」で、最初は切手を集めることが流行り始める。そして、どうやらそれで占いをしているらしいことが分かるのだが、男子に対しては切手について一切話をしないので、男子にはどういう占いなのかは全く分からない。
そして、最初は切手を交換したり、複数人で占いをしていたりしたのだが、次第に、1人で占いをするようになっていく。
しかし、この作品の不気味さは、この女子の間で流行る謎の「切手占い」よりも、語り手の「ぼく」や男子たちが無邪気に前提している性差別的な価値観にも由来する。
彼らは、女子の切手占いブームに困惑するのだが、それは女子たちが自分たち男子のために存在しているわけではないことを突きつけてくるからだ。
「ぼく」は、次第に女子たちの見分けがつかなくなる。よく見れば、顔かたちなどが全く違うのは了解されるのだが、彼女たちの美醜や振る舞いが自分たちのためになされていないことにより、パッと見で見分けがつかなくなってしまうのだ。
女子の見た目を序列化し、またその見た目が男子を意識したものであるという考えを無邪気にひけらかす10代の少年というのは、大人として読んでいると、感情移入しがたい存在ではある。しかし、女子の気を引くためにちょっと巫山戯た口調で話しかけたり、「学年で1番とは言わないがクラスでは1番かわいい」といった評価だったり、そうしたもの自体は自分とも無縁だったとは言えない。
そのあたりの居心地の悪さみたいなものが最後まで続く

キャラ

「キャラ」というものをみんなが被っている世界。概念的な話じゃなくて物理的に。
アイデンティティを的確に示し、また感情表現などもしてくれる代物なのだが、それを捨てる人が時々いる。
東京に遊びに来た主人公とその友達が、その場面を目撃して驚くという話
ちなみに、1行あたりの文字数が他より少なくて、前後の余白が大きい組版になっている。初出をみると「毎日新聞

時間ある?

主人公が親友の結婚祝いにサンスベリアを贈るところから始まる。
基本的には、時々その親友と主人公が電話で会話するシーンで進む。
タイトルの「時間ある?」は、親友が話を切り出す時の決まり文句。
ひたすら何でもない愚痴やのろけに付き合う話なのだけど、次第にどこか歪な関係なのではないか、というのが分かってくる。
親友は何でも開けっぴろげに話すタイプで、両親に対しても包み隠さず何でも話していた
彼女はからっぽで、親友の人生の大部分は両親か自分のものだと主人公は思っている。
彼女は何も話すことがなくなってしまい泣いてしまう。かつて両親の前で泣いてしまい、両親は両親で娘のことを非常に大事に育てていたので、一体何があったのかを頑張って聞き出そうとした結果、「親友と喧嘩した」という話を作り上げてしまい、その時、親友に指名されたのが主人公だったが、その時まで別に親しかったわけでもなんでもない。
が、主人公はその後、彼女の「親友」となる。
親友は何でも親に話すタイプだが、性に関する話は両親が否定的だったこともあって話しておらず、逆に主人公に対しては話していた。
結婚から2年たって、主人公は親友の家に訪れる。サンスベリアに覆われてしまっているマンションの部屋……。

スパゲティ禍

人がスパゲティになって死んでしまうようになった世界で、スパゲティを食べ続けることができる男の話。
元々、市販のスパゲティを炊飯器でゆでるお手軽メニューが好きな主人公
ある時、世界中で人間が突然ゆでたてのスパゲティの姿に変わってしまう現象が発生。何の前触れもなく老若男女の区別なく、突然スパゲティになってしまう。
主人公は、この現象が初めて起きたときに、小学校の息子がスパゲティになってしまった母親の回想記事をいつも手元に持っている。
そんな現象が起きるようになってからも主人公はスパゲティを食べているのだが、世界中のほとんどの人はスパゲティを食べられなくなってしまう。
ごく一部の人間だけがスパゲティを食べ続け、疎まれるようになり、ついには隔離されてしまう
隔離された先で、主人公は延々とテレビで時代劇を見てスパゲティを食べる生活を送る。
ちなみに、第218回:藤野可織さんその6「各国の小説、そして自身の新作」 - 作家の読書道 | WEB本の雑誌によると藤野は子どもの頃から時代劇をよく見ていたらしい。
初出は『美術手帖』なんだけど、こんな小説載ってることあるんだ

世界

喉仏が人よりも大きい彼氏が、有名な写真家に写真を撮られる。
美術館でその写真家の個展が開かれた時、彼女はそれを見に行き、彼氏は美術館には入らずその外で彼女が出てくるのを待っている。
彼女から時々電話がかかってくるのだが、他に客がいないこと、展示写真がものすごく多いこと、まるで世界のようだということ、しかし彼氏の写真が見つからないので必ず見つけ出すことなどを伝えてくる。
明らかに彼女の様子がおかしいので早く出てくるように伝えるが、なかなか出てこない

ニュー・クリノリン・ジェネレーション

クリノリンを新たな器官として獲得した人類の話
クリノリンの形をした骨と肉ができた女が生まれ始める。これにより女は自分たちの性の自由を手に入れ、逆に、男性へ性的視線を向けることになり、最後男性もクリノリンを獲得するというショートショート
ちなみに、1行あたりの文字数が他より少なくて、前後の余白が大きい組版になっている。初出をみると、KCI(京都服飾文化研究財団)広報誌

鈴木さんの映画

会社の健康管理室には、ニコラス・ケイジの3Dホログラムの健康管理AIがいる。
導入した当時から時代遅れになりはじめていたこのAIは、新人がきたときに紹介されるくらいで、ほとんど見向きもされていないが、新卒の鈴木さんは、お昼休みに話し相手にしていた。
ニコラス・ケイジ起動」と「ニコラス・ケイジ終了」が面白すぎる。
なお、藤野可織のインタビュー(https://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi218_fujino/)を読んでいて知ったのだが、藤野はニコラス・ケイジ好きで有名らしい

眠るまで

寝る前に死体の写真を見る主人公
日々の生活の細かな言動に悔んだり悔まなかったりしながら、死体の写真を見る。
「そのうちにこんなことはしなくなって、していたことすらすっかり忘れてしまうだろう。十年後か二十年後にも、私はそう思うかもしれない。まだ出会っていない夫と子どもが寝静まったあと、缶ビールで手を濡らして、食卓においたノートパソコンの前で。時間が私をそこへと、さらにその先へと追いやり、押し流していく。数多の死体の方向へと」
この最後の段落の時間の流れ方というか、書き方になかなか痺れる。
ちなみに、1行あたりの文字数が他より少なくて、前後の余白が大きい組版になっている。初出は『文學界


ネグリジェと世界美術大全集

高校時代、友人が2人登校拒否になった。
少し複雑な時制で展開される話が、主人公が老人になっている現在と、高校時代の回想とが交互に展開されるが、さらに大学時代の話もあり、大学時代の話もまた現在時制で書かれている。というか、大学時代と老人時代とが何故か繋がっている。
主人公は、AとBそれぞれと友人だったが、AとB同士は友人ではなかった。しかし、その2人が同時に登校拒否になったとき、主人公には2人が結託したように感じられて憤りを感じていた。
Aは「みんなで群れてバカみたい」というタイプで、Bは「自分がみんなから浮いていないか不安」というタイプで、主人公は、普通に同級生と群れることができるタイプ。
2人が登校拒否になった後、Bだけは図書室登校するようになり、主人公は度々Bのもとを訪れるのだが、主人公はBよりもむしろ『世界美術大全集』に夢中になる。
法学部に入った主人公は、大学の図書館で『世界美術大全集』に再会し借りるのだが、本のサイズが大きすぎて、本を片手に抱えて自転車に乗る羽目になり、転倒してしまう。
というようなあたりから、シームレスに老人になる。
AとBによる復讐らしいというような台詞があり、老人になった主人公は自分が暗い色の服しか持っていないことに気付き、唯一明るい色のネグリジェを着て自転車に乗って出かける。
同じく老人になってしまった同級生たちがそれを見て、やはりネグリジェなどを着て出かけるようになる。
主人公の孫がやってきて、なんでみんな同じような恰好をしているのと泣き始める。

スマートフォンたちはまだ

電車に乗ってスマートフォンを見る。
スマートフォンから入ってくる情報の流れが地の文に書き起こされている(乗り換え案内やニュース、SNSなど)。それがまた「わたし」とスマートフォンの間の会話のようにも読める。
途中、スマートフォンに対して「おまえ」と話しかけているところがある。過去の記憶やこれからどうすべきかまで教えてくれるようになれ、と。
最後、電車の中からみんなで朝焼けを見る。
ちなみに初出は『ユリイカ2016年7月号特集=ニッポンの妖怪文化』調べてみると、他に米澤穂信田辺青蛙西岡兄妹が創作を寄せていたらしい。

怪獣を虐待する

タイトル通り、怪獣を虐待する話
森の中に怪獣がいて、周辺の住民はみんな、その怪獣を虐待している。
男たちは堂々と虐待しに行き、女たちは隠れて虐待しているが、それは母親世代までで主人公たちは友達同士連れだって虐待しにいっていて、母親から女の子がそんなことしてと眉をひそめられている。
怪獣を虐待した日の夜、彼女たちは決まって自分が陵辱される夢を見る
一方、男子たちは怪獣が死んでしまう夢を見る

植物装

姉が先生をやっている音楽教室の合唱発表会の手伝いのバイトにきた主人公は、子どもたちに花柄の衣装を着させる。
花柄ではなく植物柄のスカート
ちなみに、1行あたりの文字数が他より少なくて、前後の余白が大きい組版になっている。初出は、『GINZA』

夜の帰り道で遭遇する「赤いおばあちゃん」に恐怖する夫
主人公は夫に対して、自分も夜道では暴漢に襲われる不安があって、そんな時は鍵を握りしめて反撃するつもりだと話すのだが、夫にはそれが全く伝わらない。
しかし、夫は「赤いおばあちゃん」を不気味だと恐怖する。
ある日、主人公は「赤いおばあちゃん」をすぐ近くで目撃し、彼女も自分と同じなのだと確信する。ウォーキングのために赤いTシャツを着て夜道を歩きながら、見知らぬ男性への不安から警戒心を抱いている女性。
2人で、仮想暴漢に対して反撃するシミュレーションをしながら、それを呆然とみている夫。
ちなみに主人公は妊婦。

誕生

出産が早まり、帝王切開のため急遽産院に入院することになった主人公。
入院初日の夜、異様に救急車のサイレンが聞こえてくる。翌日から、何故か看護婦も夫も外の様子を見せてくれなくなる。
なお、初出は西崎憲プロデュースの『kaze no tanbun』vol.1
『kaze no tanbun』気になるな。

いつかたったひとつの最高のかばんで

大森望編『ベストSF2021』 - logical cypher scape2で読んだ
本書書き下ろし作品だったようだ。
以前読んだ際、「「一体これのどこがSFなんだと思ったけどやっぱりSFかもしれない」枠」と書いたが、やっぱりSFではないよな、これ

ハヤカワSFコンテストと創元SF短編賞

春暮康一『オーラリメイカー』 - logical cypher scape2が第7回ハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作だったのだが、「あれ、そういえば自分、今までハヤカワSFコンテスト受賞作ってそんなに読んでいないのでは?」「創元SF短編賞の方が読んでいる気がするなー」と思ったので、Wikipediaで受賞作を確認していたところ、その自己認識とは違って、大体同じくらい読んでいるようだったので、表にしてみた。
なお、ハヤカワSFコンテストが今年で第10回、創元SF短編賞が第13回で、「え、どっちももう10年やってるの」ということにも驚いた。

ハヤカワSFコンテスト

第1回から第5回までの各回について、受賞作のうちいずれか1つは読んでいた。
で、第6回受賞作は読んでいなくて、第7回が上述の『オーラリメイカー』
第8回以降は全く読んでいない(なお、第10回受賞作はまだ本になっていないようなので、そもそも読もうとしても読めない)。
受賞作は大体その年の11月に単行本化されているようだが、自分の場合、その直後に読んでいる作品はほぼない(例外は『最後にして最初のアイドル』くらい)。
一応、読んだ本のブログ記事を見ると「本作は第○回ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作で~」などと書いてはいるのだが、ハヤカワSFコンテスト受賞作だからという理由で読んでいなくて、普通に書評とかで気になったから読んでいるので、あんまりハヤカワSFコンテスト受賞作を読んだという自己認識がなかったのだと思う。
あと受賞作家のラインナップを見てると、小川哲はかなり継続的に読んでいるのだが、あんまり積極的にフォローしている作家がいないかもという印象はある。
逆に、倉田タカシ、春暮康一は、受賞後に書かれた他の作品を読んで興味をもったので、遡って受賞作も読んだ作家である。
また、最終候補作については出版されたものが少ないので、便宜上「未読」としたが、そもそも読もうと思っても読めないものがほとんど。

第1回(2013年) 大賞 六冬和生『みずは無間』 - logical cypher scape2  
最終候補 『ファースト・サークル』坂本壱平/「オニキス」下永聖高/『テキスト9』小野寺整/「新世界より」泉氏 未読
第2回(2014年) 大賞 柴田勝家『ニルヤの島』 - logical cypher scape2  
最終候補 倉田タカシ『母になる、石の礫で』 - logical cypher scape2 倉田タカシは先に他の短編を読んでいて後追いで本作を読んだ
最終候補 『鴉龍天晴』神々廻楽市/「「オルフェウスの妻」伏見完/「月の王冠」梶原祐二 未読
第3回(2015年) 大賞 小川哲『ユートロニカのこちら側』 - logical cypher scape2  
佳作 『世界の涯ての庭』つかいまこと 未読
最終候補 「暗黒惑星」冬乃雀/「花屋旦那の事件帳 狗駆ける夜」茶屋休石/「Dystopiartwork」維嶋津 未読
第4回(2016年) 大賞 該当作なし  
優秀賞 『世界の終わりの壁際で』吉田エン/『ヒュレーの海』黒石迩守 未読/吉田エンは『小説すばる』収録の短編を1作読んだことあり
特別賞 草野原々『最後にして最初のアイドル』 - logical cypher scape2  
最終候補 「マキガイドリイム」斧田小夜/「ゴリンデン」西川達也 未読
第5回(2017年) 大賞 津久井五月『コルヌトピア』 - logical cypher scape2  
大賞 『構造素子』樋口恭介 樋口恭介については短編を2編程読んだことがある
最終候補 『赤いオーロラの街で』伊藤瑞彦/「スターダスト・レイン」愛内友紀/「オルゴール」平島摂子/「記憶の熱量」若里実 未読/この若里さんって漫画家の若里さん?
第6回(2018年) 大賞 該当作なし
優秀賞 『トランスヒューマンガンマ線バースト童話集』sanpow(三方行成) 未読。三方行成については短編を数編読んだことあり
最終候補 「陰花 kagehana」梶原祐二/「無名標」九条鷹/「最初の殺人」耳目/「名前と臓器が交差する220と284」小橋徹/「なかよくしようよ」蒜山目賀田 未読
第7回(2019年) 大賞 該当作なし  
優秀賞 春暮康一『オーラリメイカー』 - logical cypher scape2  
特別賞 「不可視の檻」葉月十夏 未読
最終候補 「耳調師セツと小さな赤の女王」成田杣道/「Earth II Europa」瀧本無知/「ハチェットマンズ・ディストーション」水町綜 未読
第8回(2020年) 大賞 該当作なし  
優秀賞 「ヴィンダウス・エンジン」十三不塔/「電子の泥舟に金貨を積んで」竹田人造 未読。竹田作品は『人工知能で10億ゲットする完全犯罪マニュアル』に改題されている
最終候補 「それがぼくらのアドレセンス」酒田青枝/「サムライズ・リグ」毒島門左衛門/「識閾の弔歌」満腹院蒼膳 未読
第9回(2021年) 大賞 『スター・シェイカー』オスタハーゲンの鍵 未読
優秀賞 『サーキット・スイッチャー』安野貴博 未読
最終候補 「機構―In the System―」満腹院蒼膳/「ドーン・プロトコル」江島周/「このしらす」塩崎ツトム 未読
第10回(2022年) 大賞 『標本作家』小川楽喜 未読
特別賞 ダイダロス』塩崎ツトム 未読
最終候補 「スランバー・デイズ」江島周/「アクアリウム・ララバイ」麻上柊/「白のマチエール」小田明宜 未読

創元SF短編賞

第1回の宮内悠介『盤上の夜』を除くと、第3回までは受賞作を全然読んでいなかった。
しかし、作家ベースで見ると、高山羽根子オキシタケヒコなどかなり積極的に単著を読んでいる作家もいるし、坂永雄一や酉島伝法など、年刊SF傑作選などを通じてわりと読んでいてもう少し読みたいなあと思っている作家もいる。
オキタケヒコについていうと、創元SF短編賞とっているのをあまり認識していなかったな。
逆に、第4回から第10回までは、なんと毎回受賞作を読んでいる!
これは、これらが収録された『年刊日本SF傑作選』をほぼ毎年読んでいたためである。
自分の中で「創元SF短編賞はよく読んでるなー」という認識があるのはこのためである。
*1
一方で、この時期の受賞作は、個別に面白かったり、同じ作家の他作品を別のアンソロジーで読んだり等もしているのだが、その後積極的にフォローしている作家はいなさそう。
第11回以降は『年刊日本SF傑作選』がなくなったために、新たに創刊された『Genesis』というアンソロジーに受賞作が掲載されているが、自分はこのアンソロジーを読んでいないため、読めていない。
また、ハヤカワSFコンテストのところで、第8回以降は読めていないと書いたが、第8回は2020年で、創元SF短編賞の第11回も2020年なので、2020年以降読んでる本の数が減ったので読んでいないともいえる*2

1回(2010年) 受賞 「あがり」松崎有理 未読
佳作 「うどん キツネつきの」高山羽根子 未読。2019年頃から読むようになった。ところで、高山のWikipediaを見るに本作の単行本が出たのは2014年で作家活動もそれ以降本格化したようだ?
大森望 「さえずりの宇宙」坂永雄一 未読。短編をいくつか読んではいる
日下三蔵 「土の塵」山下敬 未読
山田正紀 宮内悠介『盤上の夜』 - logical cypher scape2  
第2回(2011年) 受賞 「皆勤の徒」酉島伝法 未読。短編をいくつか読んではいる
佳作 「繭の見る夢」空木春宵 未読
大森望 「花と少年」片瀬二郎 未読。短編を2編ほど読んだことはある
日下三蔵 「Kudanの瞳」志保龍彦 未読
堀晃賞 「ものみな憩える」忍澤勉 未読
第3回(2012年) 受賞 「〈すべての夢|果てる地で〉」理山貞二 未読。短編を2編ほど読んだことはある
優秀賞 「プロメテウスの晩餐」オキシタケヒコ 未読。2013年にSFMに掲載された「エコーの中でもう一度」から知って読み始めた
大森望 「テラの水槽」皆月蒼葉 未読
日下三蔵 「頭山」舟里映 未読
飛浩隆 「エヌ氏」渡邊利道 未読。かなり以前から相互フォローしている方。最近は創元SF文庫の巻末解説をよく書かれているという印象
第4回(2013年) 受賞 「銀河風帆走」宮西建礼 年刊日本SF傑作選『極光星群』 - logical cypher scape2
優秀賞 該当作なし  
大森望 「The Unknown Hero: Secret Origin」鹿島建曜 未読
日下三蔵 狂恋の女師匠」高槻真樹 未読
円城塔 不眠症奇譚」与田Kee 未読
第5回(2014年) 受賞 「風牙」門田充宏 大森望・日下三蔵編『年刊日本SF傑作選さよならの儀式』 - logical cypher scape2
受賞 ランドスケープと夏の定理」高島雄哉 未読
優秀賞 該当作なし  
大森望 「女友達」有井聡 未読
日下三蔵 「懐柔」浦出卓郎 未読
瀬名秀明 「剣はデジャ・ブ」合戸周左衛門 未読
第6回(2015年) 受賞 「神々の歩法」宮澤伊織 大森望・日下三蔵『折り紙衛星の伝説 年刊日本SF傑作選』 - logical cypher scape2
優秀賞 該当作なし  
大森望 「この凍えた世界に生まれる前に」宇部詠一 未読
日下三蔵 「君たち教室に入りなさい」伊藤知子 未読
恩田陸 「バッコちゃん」逸見真由 未読
第7回(2016年) 受賞 「吉田同名」石川宗生 大森望・日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 アステロイド・ツリーの彼方へ』 - logical cypher scape2
優秀賞 該当作なし  
大森望 「細胞れみんの冥界震度ライブ」フカミレン 未読
日下三蔵 「狂えよ。」梓見いふ 未読
山本弘 「虹の石」各務都心 未読
第8回(2017年) 受賞 「七十四秒の旋律と孤独」久永実木彦 大森望・日下三蔵編『行き先は特異点 年刊日本SF傑作選』 - logical cypher scape2
優秀賞 該当作なし  
長谷敏司 「銀の滴降る降る」久野曜 未読
第9回(2018年) 受賞 「天駆せよ法勝寺」八島游舷 大森望・日下三蔵編『プロジェクト:シャーロック 年刊日本SF傑作選』 - logical cypher scape2
優秀賞 「機械はなぜ祈るか」南雲マサキ 未読
大森望 「夏の結び目」織戸久貴 未読
日下三蔵 「感喜に染まれ」能仲謙次 未読
新井素子 「アドバーサリアル・パイパーズ、あるいは最後の現金強盗」竹田人造 ハヤカワと両方とってたのかこの人!
第10回(2019年) 受賞 「サンギータ」アマサワトキオ 大森望・日下三蔵編『おうむの夢と操り人形 年刊日本SF傑作選』 - logical cypher scape2ラゴス生体都市」でゲンロンSF新人賞も受賞している。そちらは未読だkindle積んでる
優秀賞 「飲鴆止渇」斧田小 未読
日下三蔵 「『サハリン社会主義共和国近代宗教史料』(二〇九九)抜粋、およびその他雑記」谷林守 未読
宮内悠介賞 「回転する動物の静止点」千葉集 未読
第11回(2020年) 受賞 「蒼の上海」折輝真透 未読
選考委員奨励賞 「大江戸しんぐらりてい」夜来風音 未読
第12回(2021年) 受賞 「射手座の香る夏」松樹凛 未読
優秀賞 「神の豚」溝渕久美子 未読。相互フォローしているのだけどSF書いているの知らなかったので受賞知ったとき驚いた記憶
第13回(2022年) 受賞 「風になるにはまだ 」笹原千波 未読

*1:なお、第1回から第3回の受賞作も『年刊日本SF傑作選』に収録されているが、何故かこの3年間は『年刊日本SF傑作選』自体を読んでいない。

*2:参考:文学読もうかという気持ち - logical cypher scape2

春暮康一『オーラリメイカー』

惑星系を改造するような宇宙生物が登場し、知性の役割を問い直す宇宙SF
第7回ハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作で、その後出た春暮康一『法治の獣』 - logical cypher scape2と世界観を共有している。
短編「虹色の蛇」も収録
『法治の獣』が面白かったのでこちらも読んでみたが、こちらもこちらでとても面白かった。
オーラリメイカーのスケールの大きさにワクワクする。
しっかりSF読んだなあという気分になれる作品。


オーラリメイカ

太陽系人類であるイーサー、人工知能の「わたし」、篝火人、オーラリメイカーのそれぞれの視点からなる章が交互に展開する構成をしている。
物語は、イーサーが、《水-炭素生物連合》に加盟する他の4種族の代表者とともに、オーラリメイカーと仮称される何者かの存在が示唆される恒星系へ訪れたところから始まる。
その恒星系では、9つの惑星のうち4つまでが公転面が傾き、楕円軌道を描くエキセントリック・プラネットで、意図的に軌道を調整されていた。
そのようなことを可能にする高度な知性が存在しているのかを調査し、そして、最終的には連合への加盟を打診することを目的にイーサーたちはやってきていた。
なかなかオーラリメイカーは見つからないのだが、エキセントリック・プラネットは恒星系の重力位井戸を昇降するためのエレベーターになっているとか、そのスケールの大きさになかなか痺れる。
さて、この宇宙は、自然知性の種族からなる《水-炭素生物連合(アライアンス)》と、人工知性の種族からなる《知能流(ストリーム)》の大きく二つの潮流に分かれている。知能流は次第にその勢力を増していたので、連合は新たに加盟する種族を常に探しているのである。
イーサーは、しかし、オーラリメイカーを追うために連合を抜けて知能流へと参加する。ただ、知能流というのが、基本的には内に籠り、あまり宇宙探査などをしないのに対し、イーサーは、知能流の持っているインフラを利用してオーラリメイカーを追っているので、知能流の中では異端者。
人工知能の「わたし」は、もともとある種族に奉仕するために作られた人工知性で自意識を持っていなかったが、マスターからの色々な要求にこたえるうちに、自意識が発生してしまう。ところが、ちょっと特殊な発生の仕方をしたので、一つの知性の中に二つの部分をもち、片方は全くコミュニケートとれない狂った状態となっている。「わたし」からももう半分がどうなっているからは把握できず、のちに、ジキルとハイドと呼ばれるようになる。その特殊な状況から、知能流からも参加を拒まれ、宇宙を孤独のうちに彷徨っていた。
オーラリメイカーの正体は、わりと最初のほうで明かされるのだが、実は自意識を持つような知性ではない。社会性昆虫のような群体生物で、恒星系外へと播種するために恒星系を改造しているのだ。
篝火人というのは、とある惑星に誕生した知的生命体なのだが、この惑星はたびたび小惑星の衝突に見舞われていて、その度に技術革新に成功してきていた。そのために彼らは、神の試練が自分たちには課せられているというかなり強い宗教心を持つようになる。
世代交代しながら、銀河中心部から次第に外縁部へと移動していくオーラリメイカーを、銀河の最外縁まで達したから彼らはどうするのだろうかという興味で追いかけていくイーサーは、ジキルと出会い、ともにオーラリメイカーと篝火人の行方を観察するようになる。
オーラリメイカーは、光合成生物が生まれるように惑星を改造するが、それは播種の際に用いる酸化剤を集めるためで、酸素を消費する生物の出現を嫌う。
ところが、恒星篝火系では、オーラリメイカーと火を使うまでに進化した知的生命体が共存していた。
知性を持たないとされるオーラリメイカーは、銀河越えをするために、知性をわざと進化させて銀河を超えられるような技術を作らせていたのである。
神の御心と信じて、重力レンズを用いて恒星系ごと移動する技術を開発し、ついに銀河脱出の日を迎える篝火人たち
一方、イーサーは、次第に篝火人たちへと同情するようになっていく。


楕円軌道になっていて、遠日点と近日点がそれぞれ別の惑星の軌道と接するので、エレベーターになっているという設定なのだけど、それと公転面が傾いていることがどう両立しているのか自分にはよく分からなかった……。
自分はそんなレベルなのでハードSFかどうか判定できないけど、系外惑星やアストロバイオロジー好きなので、そのあたりの話がばんばん出てきて楽しかった。


なお、『法治の獣』収録の「主観者」の話が、はるか昔に起きた悲劇として少し言及されている。
『法治の獣』収録作品はいずれも、連合なんてものができる以前の話で、逆に言えば「オーラリメイカー」の世界は『法治の獣』で描かれた世界の遠未来となっている。
複数のスケールやレベルの異なる知性体の相互作用(?)という点では『法治の獣』収録の「方舟は荒野を渡る」と通じるところがあるかもしれない


内容的には大分違うけれど、
『ラブ、デス&ロボット』シーズン3 - logical cypher scape2の中の「巣」を想起したりもした。

虹色の蛇

「オーラリメイカー」よりも過去、連合ができた少しあとくらいの時代の話
(『法治の獣』収録作品よりも未来)
恒星「白」系の惑星「緑」は、連合の中では辺境に位置するが、〈彩雲〉と呼ばれる雲状の生物を目当てとした観光が成立していた。
身体改変したことにより疎外されることになった者同士の物語でもある。
〈彩雲〉は、文字通り色のついた雲で、群れによって色が異なる。それぞれの群れの縄張り争いにより、空が様々な色に染められる奇観が観光資源となっている。しかし、〈彩雲〉の群れ同士が接触すると、激しい雷が発生するという危険がある。
主人公はこの惑星で観光ガイドを行っているが、可視光線以外の電磁波を検知することができる身体改変が施されており、(雷が近付いていることを他のガイドよりも細かく察知できるため)他の観光ガイドたちを出し抜くような案内が可能で、それにより人気のガイドであるし、他のガイドからは嫌われている。
ある日、彼の前にやってきた予約客は、明らかに未成年で保護者の姿なく1人であった。保護者の同意書はあったため引き受けるが、空気を読まずに個人的なことを聞いてきたり、危険なところへ行くよう求めたりするので、どうもぎくしゃくする。
一方、この惑星で新たな計画が実施される。それは、避雷針による柵の設置。この避雷針は、空気中の電荷に介入することで、ある一定の範囲を安全圏にするが、それ以外の範囲では逆に雷をランダムに発生させて逆に危険性を高めてしまうので、ガイドたちの間では取り扱い注意の代物であった。
しかし、これを設置することで、より安全に〈彩雲〉を観察するエリアを作ることで可能で、さらにこれは主人公のアドバンテージを失わせるものであった。かの未成年の客からも、契約解除を言い渡される。
主人公はこれも潮時かと思い、自分の来し方を振り返る。
実は彼はもともとは外交官で、彼の能力はそのために施されたものであった。
太陽系人類以外の知的生命体が、太陽系人類と同じ波長帯でコミュニケーションをとるとは限らない。他の種族と外交するために、様々な波長などを検知できるような身体になっていた。
しかし、それは過渡期の話で、連合ができると、異種族間での通信プロトコルが確立され、外交官は不要になった。彼自身、このプロトコル確立のために尽力し、自分が失業することを分かった上でプロトコル成立の条約に署名した一人であった。
ところで、このプロトコルは「オーラリメイカー」の冒頭、イーサ-含む5種族が一堂に会するシーンでまさに使われていて、プロトコルがあってさえ、異種族間での交信が一筋縄ではいかないところが描かれている(速度が違ったりするので)。
先ほどの未成年の客が一人でバギーに乗って危険エリアへと爆走するのを目撃してしまい、しかし、主人公は彼を助けに向かう。
そこで主人公は彼の秘密を知る。彼は、いわゆる無痛人でそのような身体改変を施されているのだが、本来、身体改変は責任能力を有する成人になってからでないとできないのに対し、彼の場合、両親が違法な遺伝子改変によって生み出した子であった。両親にとっては純然たる愛情によるものであったのだが、しかし、当然逮捕投獄されている。
彼の冒険旅行は、消極的な自殺の試みであったのだ。
最終的には、2人ともそれぞれ新しい旅に出るというところで終わる。


〈彩雲〉の生態についても色々設定があり、それが物語にも反映されているが、物語の主眼はこの異星生物よりも、2人の身体改変者が自らの身体改変とどのように折り合っていくのかというところにある話であった。
その意味で、よくまとまった短編SFではあるが、宇宙生物SFみ(?)は筆者の他の作品と比較すると薄いかもしれない。
ところで、無痛者の視点から、〈彩雲〉の美を感じるのは恐怖が必要なのかもしれない云々という話が少しなされる。恐怖と美の関係まで、本作ではそれほど深掘りされるわけではないが、このあたりの話から本作を自然美学SFと位置づけることも可能かもしれない。
もちろん、美学の専門用語に倣うのであれば、これは「美」ではなく「崇高」ということにはなるだろう。また、雷を鑑賞するという意味では、アースアートとの比較から某か論じたり考えたりすることもできるかもしれない。
作中では、主人公が、〈彩雲〉に魅了されたのは漂流する者という自己投影であって、しかし、実際の〈彩雲〉はもっと能動的な存在だったのだなあと気付かされていくという感じの物語になっている(ので、その点、あんまり美学的考察になっているわけではない)。


内容違うけど、山岸真編『SFマガジン700【海外編】』 - logical cypher scape2で読んだジョージ・R・R・マーティン「夜明けとともに霧は沈み」を少し思い出したりした。

千々和泰明『戦後日本の安全保障』

サブタイトルは、「日米同盟、憲法9条からNSCまで」
防衛政策史研究者による本で、タイトル通り、戦後日本の安全保障政策の歴史を論じた本である。
小林義久『国連安保理とウクライナ侵攻』 - logical cypher scape2を調べていたら、関連する本として出てきたので、あわせて手に取った。
この本自体は、ウクライナ侵攻とは直接関わりはしないが、ロシアによる軍事侵攻、そしてそれを中国が台湾へのテストケースとして見ているのではないかという推測などがあり、日本としてもあまり他人事ではないだろう。
先に国連安保理の話を読んだのも、自分としては、日本の安全保障を考えるにあたって国連による集団安全保障の枠組みが前提になるだろうと考えてのことだが、その一方で、むろん現実としては、国連よりも日米安保が日本の安全保障を実現していたわけで、それについても知っておいた方がよいだろう、と思い読むことにした。
内容としては、まさに(?)政策史研究という感じで*1、政策が成立する過程が緻密に追いかけられている。
日米安保憲法については政治家レベル(官僚についても国会答弁)の話だが、防衛大綱などは閣議決定文書であることもあって、防衛庁の課長レベルの話などまで出てくる。
本書で繰り返されるのは、日本の安全保障政策の多くが、その場しのぎでの発案がその後の政策を拘束していったというストーリーで、金科玉条のようになっているものも、歴史的偶然によってそうなっただけだから変えていくことができるし、変えるべきだということを示唆している感じになっている(研究者の本なので、こういう風に変えるべきとまで踏み込んだ記述はあまりないが、そのような方向性を示唆しているところはある)。
示唆されている方向性については、信条的にあまり同意するわけではないが、政策の決定過程の歴史を読むのは結構面白かった。
歴史の本を読むという趣味的な立ち位置にたつと大変面白いのだが、一方で、現実問題、民主主義国家の有権者としての立ち位置で読むとなかなか困惑してしまうところもある(何らかの政治思想が導いてきたというよりは、その時々の、よりミクロな事情が影響していたりすることが多いから)。


ところで、全然関係ないが久しぶりに中公新書を読んだ気がする。
ここ数年、『世界哲学史』シリーズや『○○史講義』シリーズを読んでいたこともあり、ちくま新書率が非常に高かった。というか、最近に限らず、自分の持っている新書やこれまで読んできた新書の中で一番多いのは多分ちくま新書なのだけど、その次に多いのはおそらく中公新書で、意図してこの2つのレーベルを読んでいるわけではないはずだけど、気になるタイトルを手に取ってみると結果的にこの2つのレーベルだったことが多い。
というわけで、中公新書はわりと慣れ親しんだ新書なのだけど、久しぶりだな、と*2


第1章から第5章まで下記のトピック別に並べられている。
同盟(1章)、法(2章)、整備(3章)、運用(4章)、組織(5章)ということらしい。
なお、この順序なのは、概ねそれぞれが成立した時系列順。

第1章 日米安保条約―極東地域に「開かれた」同盟
第2章 憲法第九条―「必要最小限の実力」を求めて
第3章 防衛大綱―基盤的防衛力構想という「意図せざる合意」
第4章 ガイドライン―地域のなかの指揮権調整問題
第5章 NSC―「司令塔」の奇妙な制度設計
終章 歴史に学ぶこれからの日本の安全保障

第1章 日米安保条約―極東地域に「開かれた」同盟

日米安保は、日本からみると2カ国間の関係のようにみえ、そのため、極東条項や朝鮮密約に対する不快感や不可解さがあるが、アメリカからみると、極東地域の集団的安全保障の一機能であると、筆者は立論している。
そして、何故そのようなことになったかについて、筆者が提唱しているのが「極東一九〇五年体制」である。いわく、1905年のポーツマス条約までに、大日本帝国が確保した朝鮮・台湾を含む領域について、戦後「力の空白」を避けるためにアメリカが引き継いだという考えである。
日米の2カ国同盟なのではなく、米日・米韓(場合によって米台)の同盟関係は、アメリカを中心としたハブ&スポーク構造となった多国間同盟の様相をもっているのだということである。
日米安保は、日本がアメリカから軍事力を提供してもらう代わりに基地を使用させるという条約だが、日本の防衛だけでなく極東地域での安全保障にも米軍は基地を使うことができる(極東条項)。ただし、その際には日本との事前協議が必要となるが、朝鮮有事の際には事前協議が必要ないという密約がある(朝鮮密約)。
この朝鮮密約というのは、そもそも朝鮮戦争の際の国連軍という奴が事実上米軍と同じだったというところからなる。

第2章 憲法第九条―「必要最小限の実力」を求めて

憲法9条は、国体護持のバーターであったことを踏まえつつ、この章の主な論点は、「集団的自衛権違憲説」が、自衛隊の合憲性を守るために唱えられた「手品」であった、と。
自衛隊の合憲性としては、芦田修正と呼ばれる9条解釈に基づくという説があるが、政府の正式見解として芦田修正がとられたことはなく、ゆえに筆者は、自衛隊の合憲性の根拠は芦田修正ではなく集団的自衛権行使違憲説にあるとしている。
芦田修正の方が、自衛隊の合憲性を主張するにあたっては素直な解釈だが、芦田修正が政府見解とならなかったのは、当時の憲法解釈からは隔たりがあり、この見解へ移行するのは難しかったためだろうとしている。
もともと、政府は侵略のためであれ自衛のためであれ戦力を持つことは禁止されている、という見解をとっていたが、自衛隊設立において、自衛権は認められるとした上で、必要最小限の戦力なら認められるという解釈をとった。
そこで持ち出された「手品」が、集団的自衛権であったという。
そもそも、個別的自衛権集団的自衛権は、自衛権の種類の違いであって、その2つは並行的なものである。しかし、当時、自衛隊の合憲性を守るためにこの図式を転倒させ、この2つが程度の違いであるようにしたのがこの「手品」なのだ、と。
つまり、集団的自衛権は個別的自衛権よりも上の自衛権で、9条で許される必要最小限の戦力は個別的自衛権までだ、という上限をそこに設定することで、集団的自衛権違憲だが自衛隊は合憲であるという解釈を作り出したのだ、と。
PKO参加の際も、やはり同様の必要最小限論から、「武力行使との一体化」は許されないという論がなされた。これに対して、小沢一郎(を中心とした調査会)が、PKOは国際平和のための活動で9条が禁止している戦争ではないから、自衛隊PKO参加は9条に抵触しないという議論(小沢理論)を展開した。しかし、これは政府見解としては採用されなかった。筆者は小沢理論と芦田修正が似ているが、結局、政府見解としては採用されなかったという同じ流れがあったことを指摘している。

第3章 防衛大綱―基盤的防衛力構想という「意図せざる合意」

防衛大綱は、自衛隊の装備についてその規模などを定めるための指針で、1976年に策定され、その後何度か改訂されている。
それ以前は、5カ年ごとの防衛力整備計画というものがあった(一次防などと略され四次防まである)。
もともと○次防は、「脅威対抗論」に基づき、脅威(要するにソ連)に対抗するためにはどの程度の整備が必要かという観点から作られてきたが、70年代にデタントが進むという国際情勢の中、「脱脅威論」に基づき「基礎的防衛力構想」による防衛大綱が策定されるようになった、というのが定説的な見解であったが、実際の政策課程はそうではなかった、ということを論じている章となる。
○次防は5カ年計画であり、防衛庁側からすると5年分の予算の前取りという認識であったが、四次防についてこれが守られなかった。防衛庁としては、ポスト四次防を作るにあたって、大蔵省がこれを守ってくれないのであれば○次防は作る意味がなくなってしまった。
○次防を止める代わりにどうするかといった時に、防衛大綱を作ることとし、では何故防衛大綱に代えるのか、という名目作りとして、基盤的防衛力構想がでてきた、という。
つまり、デタントによる国際的情勢の変化が脱脅威論を生み、そのために防衛大綱を作ることになった、という定説的な見解と実際とでは、目的と手段が逆転していたのだという。
脱脅威論を提唱したのは、当時の防衛局長(のち防衛事務次官)であった久保卓也で、通称KB論文と呼ばれる論文を著し庁内に配布したという。
しかし、これがそのまま庁内のコンセンサスを形成したわけではない。
実際には、整備計画担当の課長が、先の理由で五次防を作らないための大義名分として、このKB論文に目をつけたということになる。脱脅威論に同意したと言うよりは、プラグマティックな理由で脱脅威論を利用したのである。
だが一方で、制服組は脱脅威論には同意できなかった。軍事的には、脅威があって必要な装備を考えることができるので、脱脅威論という考えにはなじめなかったのである。
そしてその後、「基盤的防衛力構想」は脅威対抗論とも脱脅威論ともとれるような両義的なものとして扱われていく。
そして、そのように両立してしまったからこそ、長く続いていったのだと。


ところで、一九九五年大綱で「限定小規模侵略独力対処」を削除するとき、それに最後まで反対したのが、社会党自衛隊だったという。
ここで、限定小規模侵略独力対処について、社会党は上限と考え、自衛隊は下限と考えていた、というのがちょっと面白かった。
これは、基盤的防衛力構想が、脅威対抗論とも脱脅威論とも捉えられる両義的なもので、そのどちらとして捉えるかで、同じ概念が防衛力の上限を定めるものとも下限を定めるものとも捉えらえるという例であった
さて、この「限定小規模侵略独力対処」が「自主防衛論」と考えられることがあるが、実際はどうかという話もしている。
筆者は、自主防衛か日米同盟かというのは正しくなく、整備か運用かという軸で考えた方がよいとする。
つまるところ、整備のための予算を獲得するためには、独力で対処するための装備として説明する方が都合がよいが、実際の運用を考える場合には、米軍なしでやるということにはならない、と。

第4章 ガイドライン―地域のなかの指揮権調整問題

第3章が整備の話だったのに対して、第4章は運用の話。
ここでは再び第1章で出てきたような日米同盟が、アメリカの極東地域安全保障体制の一機能であるという観点が出てくる。
日米安保は、原則的には人と物(軍隊と基地)の協力だが、人と人(軍隊同士)の協力がないわけではない。
その中で一番重要となってくるのが指揮権調整問題。
もし何らかの有事があって、複数の国の軍隊で共同で動く場合、連合軍司令部が設置され、その司令官が各国軍に対して指揮することができる、というのが一般的である
しかし、日米同盟においてはそうなっておらず、米軍と自衛隊はそれぞれ指揮権を有することになっている(指揮権並列)
アメリカとしては、指揮権並列という考えにそもそも馴染みがないので、日米関係においてはたびたび指揮権の統一を要求してくるのだが、日本は、同盟の「対等性」を維持するためにこれを拒んできたという経緯があるらしい。
実際のところ、この指揮権をめぐる話はもう少し複雑で、米韓同盟も関係してくる。
在日米軍自衛隊の指揮権を一本化した際、場合によっては、韓国軍もその指揮権の下に入っていて、在日米軍自衛隊、在韓米軍、韓国軍が事実上一体化する可能性もありえたのだ、と。
実際のところ、米軍側の組織編成によって、在日米軍と在韓米軍の司令部が一体化することがなかった(そういう案はたびたび出ていたようだが)のだが、日米安保は二カ国間の関係だけでなく、米韓との関係も視野に入れないといけない、という話

第5章 NSC―「司令塔」の奇妙な制度設計

NSCとは、2013年に設置された国家安全保障会議のことである。
アメリカにもNSCがあり、それの日本版と言われることもあるが、実際にはアメリカのそれとは結構異なるものであるという。
さて、NSCにはこれに対応する事務組織として内閣官房国家安全保障局などがある。
NSCの前身として安全保障会議があり、これの事務組織は、内閣官房内閣安全保障室だったり内閣官房内閣安全保障・危機管理室だったりする。
さらにその前身としては、国防会議と国防会議事務局がある。
本章では、これらを総称して「内閣安全保障機構」と呼び、内閣安全保障機構にどのような機能・役割が付されているかということを見ていく。
また、日本のNSCはかなり複雑な構成をしているのだが、これが、内閣安全保障機構の役割の歴史から解説される。
内閣安全保障機構は、文民統制のための慎重審議という役割が課せられている。
アメリカのNSCは決定機関だが、日本のNSCは審議機関である。日本の場合、意思決定できるのは閣議(内閣が連帯して議会に責任を負うため)であり、一部の大臣だけで構成されるNSCでは意思決定できない。
NSCは、四大臣会合と九大臣会合という複数の会議体からなるのだが、NSC以前の内閣安全保障機構の頃からあった、慎重審議機能を維持するために、複雑な構成をとるようになった。
さて、この文民統制のためのネガティブコントロールとしての慎重審議というのはどのようにして作られたのか
自衛隊創設を前にして、野党改進党が国防会議を設置するという案を提出する。これは、旧軍人を送り込むための策であった。しかし、これに吉田茂自由党は反発する。
色々あった結果として、国防会議自体は設置されることになるのだが、当初、改進党が主張していた民間議員(つまり旧軍人)は含まれず、また、事務局も内務省系(警察官僚)が据えられ、自由党の換骨奪胎により、旧軍人を国防に送り込むという策は阻まれる。
ここから、内閣安全保障機構は、文民統制のためのネガティブコントロールとしての慎重審議をするという役割が付されることになった、と。

*1:いや、政策史研究の本なんて読んだことないけど、最近ちくま新書で読んでた『○○史講義』シリーズ読んで形成された政治史研究のイメージと合致する

*2:確認するために検索してみたら、今年の2月に中公新書読んでた! でも、あれはごく一部を拾い読みしただけで一冊フルで読んでないからノーカン!! 1冊フルで読んだ中公新書は2018年まで遡らないとなかった。一方、ここ数年だと光文社新書率が高いことが分かった

小林義久『国連安保理とウクライナ侵攻』

珍しく時事ネタ。
タイトルにある通りで、ロシアのウクライナ侵攻を受けて改めて国連安保理とは何かについて書かれた本。
筆者は、共同通信で長年国連取材に当たっていた記者で、その経験を踏まえて、国連安保理の歴史について書かれている。
研究者ではなく記者が書いている本なので、専門的な知見が書かれているというものではなく、日常的にニュース等をしっかり読んでいる人であれば、既知の内容も多いだろうとは思うが、改めて今年前半に起きたウクライナ侵攻の流れと、国連の歴史が整理されているので、勉強し直すのにちょうどいい案配の本ではないかと思う。
第1章では、2022年2月から5月までの流れを改めて振り返る章*1で、第2章から第5章にかけて国連安保理についてその歴史や課題、今後の改革について書かれている。最後の第6章は付録的な感じで台湾問題について扱われている。
第1章は、つい半年程度前の出来事であり、また、2022年10月現在も状況は継続中なわけだが、開戦当初の緊迫感みたいなものが、自分の中でいつの間にか薄れていたことに気付かされた。
さて、本書の主眼は国連安保理の話であり、ロシアの拒否権発動で安保理が動けなかったことで国連の機能不全がやにわに注目されるようになったと思うが、そもそも常任理事国とは一体何なのか、拒否権は一体どういう経緯で付与されることになったのか、戦後の集団安全保障はこれまでどのような経緯を辿ってきたのか、安保理改革の試みとしてはどのようなものがあるのか、ということが書かれている。
筆者自体、常任理事国(Permanet member 5、略してP5。本書を通してずっとこの略称が使われているので、本記事でもこれ以降P5とする)に拒否権という強すぎる特権があることを問題視しているし、これを変えることの難しさが、いやという程書かれている。
一方で、国連やその関連組織(国連よりも古くに遡る組織もある)は、人道・人権分野において、実績を積み上げており、期待された役割を担ってきているし、ウクライナ問題においても活動できていることを指摘し、ここに国連の意義はまだあるとしている。また、安保理改革についても、ここに突破口がありうる可能性についても触れられている。


この本を読もうと思った人のほとんどが、ウクライナ侵攻後にロシアが拒否権を発動したことで国連安保理が事実上何もできなくなったことについて、色々思うところがあって手に取ったのだと思うが、自分も例に漏れずそれが理由である。
おそらく自分は国連主義者というかそういった心持ちがあるのだと思うのだけど、これは、90年代に子ども時代を過ごしたことと関係しているのではないかと思っている。
本書でも少し述べられたが、米ソ冷戦が終結した90年代は、確かにその反動としての地域紛争が増えた時代でもあるが、その仲介のために国連の活動が活発化した時代でもあった。
さすがに92年の国際ニュースについては記憶にはないが、おそらくそういった空気を、例えばフィクションを通じて感じていたのではないかと思う。
具体的には、平成ゴジラシリーズがあり、このシリーズではゴジラと戦う組織であるGフォースが国連直轄組織であった。
また、個人的に影響を強く受けたのは『沈黙の艦隊』で、あの作品は、今思うと、国連改革をフィクションならではのかなりファンタジックな方法で描いた作品だったのかなーと思うけど、あの作品から受けた影響は結構大きいと思う。
国連を中心とした安全保障の枠組みについて、まだどのような可能性が残されているのか、そのような期待を込めて読んだ。

第1章 壊された国連

2022年2月から5月にかけての流れを、安保理周辺の動き、経済制裁の動き、人道犯罪に関わること、停戦に関わることの4つに分けてまとめている。
まず、安保理周辺の動きについては、改めてここに書き直すまでもないが、国連総会の緊急会合で、4月にロシアの人権理追放決議があったのを自分が認識していなかった気がするのでメモ
また、総会では3月2日、3月24日、4月7日の3回、対ロシアの決議があるが、賛成票が減っていったという
経済制裁についても、欧米がどういうことを目指してどういうことをやったか、しかし、欧州のエネルギー問題や中国などが穴になっていることによって、十分な効果を挙げるにいたらなかったという、この点でもここでは改めて詳しく書き直さないが、G20が2022年11月にインドネシアで開催予定で、インドネシアがロシアの参加を容認しているというのは知らなかった。
人道犯罪については、そもそもICC国際司法裁判所)がどういう組織で、ロシアの戦争犯罪は裁くことができるのかという話。
ICCは現在123か国が参加しているが、中国、ロシア、アメリカは未参加とのこと。ロシアとアメリカはそれぞれ一度は署名したのだが、アメリカは2002年に、ロシアは2016年にそれぞれ署名を取り下げた、と。
もし訴追されることになったとして、ウクライナに身柄を確保されたロシア兵は裁判にかけられる可能性があるが、ロシアは未加盟なので仮にロシア国内にいる軍幹部などに逮捕状が出ても、身柄の引き渡しがなされないだろう、と。
停戦に関しては、ロシアはクリミアやルガンスク・ドネツクを譲らないだろうということと、一方、ウクライナも、ブダベスト覚書を反故にされているから、より実効力のある多国間の安全保障枠組みを求めている、という、これまたニュース見てれば分かる話だが、まとめられていて、最後に、3月28日からグデレス国連事務総長が停戦交渉の仲介に乗り出しており、5月6日に安保理がこれに「強い支持を表明する」旨の声明を出していることに触れ、国連の役割があるかもしれないとしている。

第2章 戦後の世界秩序とは何か

1941年、ルーズベルトチャーチルの会談時に、ルーズベルトの中には「4人の警察官」構想があった。米英ソ中が戦後秩序を担う構想で、のちに、イギリスの強い意向でフランスが加えられることになり、これがP5の原型
なお、ソ連は当初国連加盟にあたり、連邦構成15ヵ国すべての加盟を要求。最終的には、ロシア、ウクライナベラルーシの3カ国の加盟となった。つまり、ソ連だけで総会で3票行使できる、と。
ちなみに、国連本部の場所をどこにするかには、欧州派と米国派に分かれて、国連創設から1年も決まらなかったらしいが、最終的にはロックフェラー家がニューヨークのあの土地を寄付して本部が置かれることになったらしい。
さて、安保理には、経済制裁と武力制裁を決定する強い権限があり、P5には拒否権という特権が与えられている。これは、P5に安保理に参加する動機を与えるためであった
第5章の方で触れられているが、最上敏樹『国際機構論講義』において、国連は国際連盟の失敗から、ある意味で学びすぎてしまった、と述べられているらしい。
国際連盟国際連合の違いはよく知られているところだが、大国が脱退したりそもそも加盟しなかったりしないように与えたのが拒否権だった、と
第2章に話を戻すと、安保理改革がうまくいかない、特になぜドイツや日本が常任理事国になれないかという理由として、旧敵国条項の存在が挙げられている。
敵国条項については、特に日本が、ロシアとの間で和平条約を結べていない、中国との間に領土問題を抱えていることから、戦後処理を終わらせていないと判断され削除ができていない。
実は、1995年に、旧敵国条項の削除を求める決議が賛成多数で可決されている。しかし、国連憲章の改正には常任理事国を含む加盟国3分の2の批准が必要で、結局ここでもP5の特権の強さによって阻まれている。
なお、ロシアは北方領土交渉にこの旧敵国条項を利用している。筆者は、国連取材中に各国外交官から、ロシアの外交官がいかに国連関係の条約などを熟知しているかをよく聞かされたということを書いている。


さて、国連発足後の安保理であるが、創設直後は機能したものの、冷戦が始まることで機能不全に陥る。
早くも朝鮮戦争の際には、ソ連安保理を欠席。ソ連欠席のまま安保理決議を採択し、一応、国連軍という名前の軍が組織されるが、当初、ルーズベルトチャーチルが構想していたような、5大国による連合軍では全くなかった。
スエズ戦争の際には英仏が拒否権を発動。直後に総会の緊急会合が開かれ、PKOが編成される。もともと、国連憲章にはなかったが、カナダのピアソン外相が、強制行動を定めた第7条とも平和的解決に関する第6条ともいいがたい窮余の策として持ち込んだアイデアで、その後、ノーベル平和賞を受賞
いずれにせよ、冷戦期において国連の紛争介入は難しく、1948年~1988年の40年間で設置されたPKOは15に過ぎない
対して、冷戦終結後、紛争が増えた一方で安保理も機能するようになり、1989年~2019年の30年間で編成されたPKOは56にのぼる。
なお、PKOに人を出しているのは大半が途上国、という話にも触れられている。
第2章は最後に、冷戦期の集団安全保障としてのNATOについても解説している。

第3章 中国の台頭と対テロ戦争の時代

第3章では、2000年代から現在までの中国の台頭の経緯を見ていく。
具体的には、北朝鮮核問題、対テロ戦争、中国の影響力の拡大の3つのトピックがある。
まず、そもそも2000年代は、中露と米英仏の間の協調の時代だったとして、北朝鮮核問題が挙げられる。
2002年、北朝鮮のウラン濃縮計画が明らかになり第二次核危機が起こり、2003年に六か国協議が開催される。米中の協調路線の象徴で、のち、2006年の安保理による経済制裁決議へとつながる
ところが、2009年のミサイル実験の際、非常任理事国であった日本が、決議の採択を主張するが、中露がこれをけん制し、拘束力のない議長声明となる。ちなみに、筆者は当時これを取材していて、知り合いである韓国の外交官が非常によく状況を把握していたことに驚かされたと書いている。
その後、北朝鮮は核実験を繰り返すようになるが、これに対しては安保理決議が採択され制裁がなされるも、2022年のミサイル発射の際には、米ロの拒否権発動により、制裁決議が否決。北朝鮮への制裁決議について、2006年以降採択され続けてきたのが、ここにきて初めて否決されることになった、と。


中露は、2000年代には西側との協調路線をとっていたが、これが近年では対立するように変化した。
この原因の一つは、経済が上向き自信をつけたことにあるが、筆者はそれだけでなく、アメリカのイラク戦争が悪い見本になったのだという。
イラク戦争で、アメリカは大量破壊兵器疑惑を持ち出しイラクを攻撃しようとした。国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)やIAEAが査察を行い、アメリカは何とかして攻撃しようと、査察に介入しようとする。パウエルらが査察に注文をつけるのに対して、UNMOVICのブリクス委員長が反論する様子が、当時のIAEA事務局長エルバラダイの回想録から引用されている。
結局アメリカは、安保理決議をとることを諦めて、開戦に至る。
自国の都合で国連を無視するところを、中露に対して示してしまった。


ロシアは、2000年代を通じての原油価格高騰で経済成長を遂げ、いったん大統領を退き首相になっていたプーチンが2012年に再び大統領となり、2014年にクリミア併合、2015年にシリア内戦へ介入
中国については、WTOに加盟したことで経済成長をとげ、近年ではアメリカとの間で貿易摩擦が生じている。2012年に習近平が書記長に就任し、その後、一帯一路構想を打ち出す。
中国の影響力増加については、コロナ禍下におけるWHO事務局長テドロスの態度から取り上げている。テドロスは何故中国に遠慮していたのか。テドロスが事務局長選で当選したのは、G77の支援が大きいといわれていたが、その「領袖」こそが中国だったのである。
P5が拒否権を持つ安保理と違い、国連総会は多数決で決まる。
そこで影響力を持っているのが、国連の最大会派と言われるG77で、これは途上国からなるグループ。また、冷戦下で東西いずれの陣営にもつかなかった非同盟諸国NAMも同様である。
中国はG77の一員であり、NAMのオブザーバー国
こうした政治力により、近年、国連関連機関のトップ人事を制しているということである。

第4章 核兵器と五大国

第4章は、核兵器についてである。
ロシアの核兵器原発攻撃の話、IAEAについてなども触れられているが、主にはP5とNPT(核拡散防止条約)ならびに核兵器禁止条約の話である。
なぜP5はずっとP5として君臨しているのか、ということについて、核兵器を独占しているからであると筆者は論じる。NPTは、核兵器を広げないという名目で、P5のみが合法的に核を持つことができるという条約でもある。
実際には。P5以外に印パ、イスラエル北朝鮮核兵器保有国だが、いずれもNPT非加盟である。
保有国には核軍縮義務があるが、2000年代以降この動きは停滞している。
ところで、1970年代に南アが核兵器開発に成功しているが、1990年に放棄し、NPTに加盟していたらしい。そして、南アはその後核兵器禁止条約を推進することになる。
さて、その核兵器禁止条約だが、2010年にコスタリカがモデル案を国連に提出。その後、核兵器の非人道性に関する国際会議が何度も開かれ、2017年にこの条約は採択され、2021年に発効された。
日本は当初、核兵器の非人道性に関する国際会議には参加していたが、2017年の交渉には不参加で、条約に署名していない。
もともと、当時外相で広島出身の岸田は参加する意向を示していたらしい。
この条約にアメリカが反発しており、日本だけでなくアメリカの核の傘の下にいるNATO諸国も交渉には参加していない。唯一、オランダだけが反対票を投じるために参加した。
ただし、スウェーデン、スイスは署名しなかったものの、交渉には参加し、賛成票を投じている。また、締約国会議には、この2カ国に加えて、ドイツやノルウェーがオブザーバー国として参加したという。筆者は、欧州諸国の核兵器に対する危機感の強さが背景にあるのではないかと述べている。

第5章 これからの国連

安保理改革について。
これまでも何度か、安保理改革の機運が高まった時期はあり、まずはその歴史についてまとめられている。
まず、1950~1960年代。この時は、非常任理事国を6→10に増やすことに成功
次は、1990~2000年代。
1993年に安保理改革討議のための作業部会を設置する決議を採択。当初、日本とドイツを常任理事国入りさせる方向だったが、それ以外の国々も常任理事国へ立候補し、またP5である中露からも疑問の声があがる
続いて、2004年に、日本・ドイツ・インド・ブラジルのG4が安保理改革へ向けての共同声明を発表。しかし、そのライバル国である韓国・イタリア・パキスタン・アルゼンチンが「コーヒークラブ」を結成し、G4の動きをけん制
P5による反対の声もあがり、さらにコーヒークラブへの賛同国も増える。
2009年に政府間交渉が始まるもこれも決裂


国連の人道面での取り組み
国連の主たる設置目的は、集団安全保障にあるけれども、ここまで見てきたとおりそれは十全に果たされてきたとは決して言えない。そして、ウクライナ侵攻はその悪いところを決定的に白日のもとにさらしてしまった。
しかし、だからといって国連は、ウクライナ問題に関して何もできていないわけではない。国連難民高等弁務官事務所国際移住機関、国連児童基金、世界食糧計画などが支援を行っている
これらの人道・人権活動を行う機関のほとんどがジュネーブに本部・拠点がある
ジュネーブには国際赤十字本部もあり、また、国連の人権理事会や国連人権高等弁務官事務所ジュネーブ
人道・人権活動については、国際連盟時代からの実績があり、たとえ安保理が止まっても、これらの活動は止まらないし、各国の支持もあるだろう、と。


スモールファイブ(S5)の取り組み
2005年から、スイス、リヒテンシュタインシンガポール、ヨルダン、コスタリカという小国5カ国が安保理改革のために活動を開始
協議の透明性を高めるよう求める決議案をまとめ、P5もこれを受け入れていく
また、ウクライナ侵攻の際、ロシアの拒否権発動に対して総会での説明を求める決議をまとめたのも、このS5が中心になったと言われる


フランスからの提案
実は2013年に、P5の一員であるフランスから、安保理改革の提案が出ている。
それは、ジェノサイドや深刻な戦争犯罪がある場合は、P5は拒否権行使を控えるという提案で、これの元になったのはS5の案であった。
問題は、どのような時がそれに当てはまるかだが、フランスは、国連事務総長国連人権高等弁務官か地理的多様性を反映した一定数の加盟国の意見に基づくという案を挙げている。
国連人権高等弁務官は人権理事会の事務局のトップで、人権理事会を無視して行動することはできない。一方、「地理的多様性を反映した一定数の加盟国」というのが何か明確ではないが、人権理はこの条件を満たす。
人権理事会は2005年に、人権委員会を格上げする形で作られた総会直属の組織で、理事国に拒否権はなく多数決で審議される。また、理事国を辞めさせることが可能で、ウクライナ侵攻を受けて、ロシアは国連総会の決議で理事国から外された。
事務総長は国連のトップと思われがちだが、事務局のトップであって決定機関ではないし、そもそも安保理の勧告に基づいて任命される職で、国連の意思決定機関は安保理と考えられている。
これに対して、フランスの提案は、人権理が安保理の権限を部分的に制限できるというもので、もし実現できたら、安保理を変える一撃になりうる。

第6章 中国は台湾に侵攻するのか

習近平政権が台湾を狙って動く可能性はある
アメリカはもともと台湾との間に、米華相互防衛条約を結んでいたが、米中国交正常化によりこの条約は1980年に失効。以後、アメリカ国内で台湾関係法を制定し、台湾への兵器供与を行っている
ここで、NATO憲章との条文の比較がなされていて、台湾関係法は防衛義務がなく、NATOよりも弱い同盟であることが指摘されている
台湾は国連加盟国ではないこと、また、国交を結んでいる国も減っており、さらに中国の台頭により様々な国際機関からの脱退を余儀なくされていることなど、世界の中での台湾のプレゼンスは低下していて、もし台湾有事があった場合、ウクライナの時以上に国連や国際社会は動かない・動けないかもしれないという
台湾が国ではないことにより、中国は内政問題だと主張する。ただし、コソボ紛争のように、当事者国が内政問題だといっても国連が介入したケースはある。
筆者は、クアッドをベースにインド太平洋地域の集団安全保障体制を構築するのがよいのではないか、と最後にさらっと意見を述べている。

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伊東・井内・中井編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 - logical cypher scape2
2014年のクリミア危機の頃に、ウクライナ史を少し読んでいたようだ
自衛隊を活かす会『新・自衛隊論』 - logical cypher scape2
伊勢崎賢治『日本人は人を殺しに行くのか 戦場からの集団的自衛権入門』 - logical cypher scape2
2015年の集団的自衛権を巡る議論があった頃に、伊勢崎賢治まわりを少し読んでいた。自分の感想として、クリミア危機について少し触れつつもそれを例外だと思おうとしていることがうかがえる。

*1:なお本書の刊行は2022年7月で、あとがきに付された日付は2022年5月である

小島信夫『アメリカン・スクール』

第三の新人」の1人である作家の初期作品を集めた短編集
最近色々文学作品を読んでやるぞ、と思ってる奴の一環である。
小島信夫を手に取ったのは、磯崎憲一郎が好きな作家の一人として名前を挙げていたからなのと、twitterで小島の「馬」について触れているツイートをみかけたから。


収録作は、戦争中ないし戦後すぐを舞台としている。
小島自身が中国への従軍経験があるので、その頃の経験を元にしたと思われる作品も多い。
羞恥心、卑屈さみたいなものを執拗に描いていくような作品が多く、また、ドタバタ喜劇のようになっている作品も多い。
そのノリに読んでいる内にだんだん慣れていったのか、「馬」なんかは読みながらかなり笑ってしまった。


以下、各作品のあらすじをメモしているが、小島作品はあらすじではあまり面白さが分からないような気がする。
上に羞恥心、卑屈さと書いたが、主人公に何らかのコンプレックスがあって、それが文体を通じてあらわになっているのだが、保坂和志が解説で書いているように、どうも突然すぎる展開があったり、他人にはわりとどうでもよさそうなところを丁寧に書いていたりといったことと組み合わさって、コミカルな効果が出ている。
ただし、裏表紙の概要には「一見無造作な文体から底知れぬ闇を感じさせる」とあり、「闇」とまでいえるかどうか読む人次第かもしれないが、単にコミカルなわけではない。
ところで、このちょっとコミカルさも感じさせるが、しかしどこか得体の知れない文体は、現代文学にも影響を与えているのだろうなというのも、なんとなく実感できた。
実際、小島信夫wikipediaを見ると、影響を与えたものの欄に例えば「堀江敏幸保坂和志磯崎憲一郎」とある。

汽車の中

戦後すぐの混乱期、地方から東京へ向かうすし詰めの汽車の中を描いた喜劇
主人公は地方の教員で妻とともに汽車へ乗り込むのだが、最初はギリギリのところで立っていて、カーブがくるたびに落ちそうになるところから始まり、このような汽車に乗り慣れている謎の男の采配により、なんとか椅子に座ることができる。
網棚の上に寝ている男、怪しげな論文を薦めてくる隣の男、耐えられず放尿する主人公
最後、荷物を盗られてしまう

燕京大学部隊

戦争中、諜報のために英語が分かる者だけ北京に集められた部隊の話
といって、別にエリート部隊とかそういうわけではなく、各隊の歩兵の中からかき集められてきただけの部隊で、かなりテキトー
主人公から、早く帰国できるのではないかと考えその部隊へ立候補しただけで、英語がそんなにできるわけではない(なお、帰国は叶わなかったが、一方で主人公の原隊はその後全滅している)。さらにいえば、階級章をいくつか持ち歩いていて、時々勝手に階級を偽ったりもしている。
上司への報告を適当にごまかしながら、日本人名を名乗る中国人娼婦のもとへと通う日々が描かれている。

小銃

デビュー作
小銃を内地にいたときに慕った女だと思って取り扱う「私」は、射撃の腕も優れていたのだが、中国人の女をその銃で処刑することになった時から、小銃の手入れを怠るようになり、女遊びをして病気する。隊での扱いも悪くなり、「私」の態度も荒れていく
ついには、小銃に火をかけてしまう。
終戦後、武装解除のため銃を運ぶ仕事をしているときに、すっかり荒れ果てた件の小銃を手にして終わる
この作品は、コミカルさみたいなものはないけれど、プロットがしっかり構成されている。

星とは軍隊の階級章についている星のこと
二等兵である「僕」の、星を信仰するかのような軍隊生活
僕はアメリカ二世であることから、部隊の中で道化のような扱いを受けていたが、僕はさらに匹田という別の兵士を嘲っていた。その匹田が転属したあとは、大尉の当番兵となる。
自分の星に名前をつけたり、あるいは参謀の星に見とれてしまうあまりに欠礼してしまう。そのことで切腹させられそうになるのだが、臍が星に似ていることを笑われ切腹はなしになる。一方、自分の腹に三等兵の一つ星があったことに僕は悲しみを覚える。
終戦後から、ほかの士官に英会話を教えるようになる。
引き揚げ船で、星を取られる。

微笑

小児麻痺の子供を持つ父親
幼稚園や小学校に通わせながら、「病気の息子」への愛情をなかなか持てない
小児麻痺患者のためのプール教室というものに連れて行った時に、新聞の取材があって、なんとも言えない微笑を浮かべた顔が写真に撮られてしまった、という話

アメリカン・スクール

占領下の日本で、アメリカン・スクールに見学へ行く英語教師たちの話
英語教師なのに英語絶対話したくないマンの伊佐と、どうにかして自分たちの実践するモデル・ティーチングをアメリカ人に認めさせたい山田と、英語教師たちの中で唯一の女性であるミチ子の3人のやりとりを中心としたコメディ

突如、自分の家の敷地に自分の知らぬ間に家が建ち始めた「僕」の話
妻であるトキ子が勝手に始めていた工事で、それに振り回される。
その費用のために昼も夜もなく働き詰めであったが、ある時、棟梁と妻の会話で、馬小屋を建てていることを知る。
馬小屋とは一体どういうことかと棟梁をとっちめようとしたところで、電線をつかんでしまって、電気ショックを受けてぶっ倒れてしまう、というコントみたいなやり取りがなされて、読みながら声をあげて笑ってしまった。
「僕」は入院して、入院先から家の工事を見守ることになる。妻によれば、馬を預かることにしたので馬小屋を建てることになったのだとこともなげにいう
また、間男らしき影を目撃してトキ子を問い詰めるのだが、それは、病院を抜け出したあなたではないかと言われる。
ついには馬小屋が完成し、1階には馬の五郎が、2階には「僕」が住むことになるのだが、トキ子と五郎の仲が親密になっていき、「僕」は嫉妬に狂うことになる。
最後、「僕」が五郎を乗り回そうとして逆に乗り回されるような羽目になるのだが、最後の最後に、トキ子から今まで聞いたことなかった愛の告白をされて終わる。
この作品はほんとうに、現代の作品と同じような感覚で読めたというか、これを読んで、小島の文体が磯崎憲一郎などに影響を与えているのだな、という実感があった。
あと、少し違うのだけれど、唐突に中原昌也のことも思い浮かんだりした。
なお、小島信夫「馬」で検索すると、どうも村上春樹が紹介したことがあったらしくて、村上春樹経由で読んだ人のブログがヒットしたり、あるいは、それ以外にも文学研究の論文がヒットしたりする。
あと、冒頭で触れたツイートは以下。



エンマという小さな運河に囲まれた島に引っ越してきた「私」の一家
自転車で通勤する「私」は、日曜日には子供がエンマに落ちないように見張る仕事をするのだが、つい眼を離してしまう
私にその家を紹介した画家のH。Hが誘うアメリカ人。私の忍耐。池に落ちた上衣

解説

江藤淳による解説と保坂和志による解説の2本収録されていた。
江藤は、小島のシンボリズムと「年上の女」「アメリカ」というライトモチーフについて
保坂は、前触れのない突然の展開や、「〇〇は」から始まる文が続く文体について