山口輝臣・福家崇洋編『思想史講義【大正篇】』

ちくま新書の歴史講義シリーズから、新たに『思想史講義』シリーズが始まり、その第1回配本にあたる。シリーズ全体としては、明治1、明治2、大正、戦前昭和の4篇を予定しているとのこと。
最近、筒井清忠編『大正史講義』 - logical cypher scape2筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2を読んだので、それの延長で手に取った
なお、編者の福家は『大正史講義』の執筆者の1人でもある。


ところで、本書を読みながら、平成思想史というものを同様に編むことは可能なのだろうかと思ったりした。平成の時代において、世の中に影響を及ぼす思想とかオピニオンリーダーってあったのか・いたのか、と。まあ、何かしら色々とトピック自体は思い浮かばないこともないけれど。
100年後とかに書かれることになる平成思想史を読むことができたとしたら、おそらく、「こんな風にまとめるのか」というところが色々あるんじゃないかなと思う。となると、逆にこの本を、大正時代の人が読んだとしたらどう思うだろうか。


やはりというか何というか、マルクス主義アナキズムアジア主義と国家改造論あたりが面白い。このあたりは筒井清忠編『大正史講義』 - logical cypher scape2でも面白かったので。
また、大本もほとんど知らなかったので、面白かった。

はじめに……福家崇洋
第1講 憲政擁護論……小山俊樹
第2講 天皇機関説論争……住友陽文
コラム1 雑誌メディアと読者……水谷 悟
第3講 民本主義……平野敬和
コラム2 生存権の思想……武藤秀太郎
第4講 教養主義……松井健人
コラム3 文化主義……渡辺恭彦
第5講 大正マルクス主義……黒川伊織
コラム4 日ソ国交論……富田 武
第6講 大正アナーキズム……梅森直之
コラム5 労働運動論……立本紘之
第7講 アジア主義と国家改造論……萩原 稔
コラム6 思想史のなかの「院外青年」……伊東久智
第8講 民族自決論……小野容照
コラム7 植民地政策論……平井健介
第9講 小日本主義自由主義……望月詩史
コラム8 国際協調主義……酒井一臣
第10講 女性解放思想……小嶋 翔
コラム9 パンデミック精神史の断片……藤原辰史
第11講 新教育……和崎光太郎
コラム10 能率増進論と科学的管理法……新倉貴仁
第12講 皇道大本と「大正維新」……永岡 崇
第13講 水平社の思想……佐々木政文
コラム11 社会政策・社会事業論……杉本弘幸
第14講 関東大震災と民衆……北原糸子
第15講 政党政治論……奈良岡聰智
編・執筆者紹介
人名索引

第1講 憲政擁護論……小山俊樹

大正デモクラシーの第1期である第一次護憲運動
立憲主義帝国主義が結びついている

第2講 天皇機関説論争……住友陽文

昭和になって、天皇機関説を唱えた美濃部は公職追放の憂き目にあるが、本講に書かれているのはその前段、大正期になされた学問的な論争としての天皇機関説論争
こちらでは、美濃部説が論争には勝っていて、通説となっていた。
重要なのは、天皇が国家機関かどうかというよりは、大日本帝国憲法において国体や政体はどのような位置づけにあるのか、という論争だったという点で、「天皇機関説」という名称はあまり正しくないようだ*1


美濃部の主張は、天皇機関説というより国家法人説と呼ぶ方が適切
公法と私法の関係を見直し、国家を私法領域である民法概念である法人に当てはめることで、権力の無制限性を否定する
対して、美濃部を批判する穂積・上杉であるが、実は彼らも、天皇が国家の一機関であること自体は否定していない。しかし、国家を有機体と呼ぶことに嫌悪感を示す。


また、大きな争点は、統治権や国体に関するもの
統治権について
美濃部は、国の統治権の主体は国家(団体)であると考えるが、穂積・上杉は、統治権天皇(自然人)であると考えた。後者にとって、国家の意思とは、自然人たる天皇の意思(精神作用)
国体と政体について
上杉にとって、君主国か共和国かは国体の区別、立憲国が専制国かは政体の区別
憲法は、国体と政体の両者について書かれている(国体政体二元論)
対して、美濃部は、国体は法律上の概念ではなく、君主国か共和国か、立憲国か専制国かはいずれも政体の別だとした(政体一元論)
国体を法学上に問う上杉らの議論こそ「不謹慎」であり、国体は日本固有のもので憲法より一段高いところにあり、国民道徳と同じ次元にあり、統治権の主体を天皇のものとするのは西欧主義的君主制に基づくのでかえって国体に背くと論じた。


既に述べたように、論争自体は美濃部有利で、穂積の死後、上杉は孤立
上杉は、直接民主制へのシンパシーもあり、主意主義的な国民精神と天皇の意思の一体化に国体を見いだしていく。


筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2を読んだ時、国体よく分からんって書いたんだけど、これ読んで、当時の学者の間でも理解が割れてたのなら、わからんのも仕方ないだろ、と思った。
あと、これ、途中までは美濃部説に対して同意しながら読めるのだけど、国体の話になった途端、美濃部の話がわりと理解不可能になる。これ、ある種の方便(国体の議論をさせないためにあえて持ち上げている)なのか、ガチの勤王主義なのか、というあたりが。

  • 追記(20221223)

国体について、以下の論文を斜め読みした
「近代国体論の誕生」米原
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjpt2000/8/0/8_282/_pdf/-char/ja
明治末以降に国体についてなされた言説を「近代国体論」と呼んだ上で、そこで展開されている概念的枠組みが幕末期に成立していたと論ずるもの
遡ると、荻生徂徠本居宣長が「国体」という言葉を使っているらしい*2が、特に水戸学者である会沢正志斎の『新論』が理論的に論じている、と。
あと、国体/政体二分論とかが幕末期に既に出てきている(ただし、上杉の二元論よりも美濃部の一元論に近い考え方だろう)。
西欧諸国の強さをキリスト教というイデオロギーに見て取った会沢が、西欧のキリスト教に対して、日本には「国体」があるのだ、として論じたものらしい。
また、ペリー来航以降の幕末期の文書には「国体」という語の登場頻度が急増するらしいが、「(一)国家の体面あるいは国威、 (二) 国家の気風、(三)伝統的な国家体制、(四)万世一系の皇統を機軸とする政教一致体制」の4つの用例が入り交じっており、これらが最終的に(4)へと統合され、教育勅語へ至る、ということらしい。
水戸学というのは、儒学国学があわさったもので、また上述したとおり、会沢は西欧におけるキリスト教に対するものとして「国体」を挙げているわけで、国体というのは、単に天皇制という政治体制を指すというよりは、儒教的な道徳体系(そして、それを体現した日本人の「国民性」みたいなもの)が渾然一体となった言葉なのだろう。
(そのように理解すると、筒井清忠編『大正史講義』 - logical cypher scape2に「男女平等を求めることは、治安維持法が禁ずる「国体の変革」にあたる可能性が」あったと書かれていたが、どういうことが分かってくる。)
これでようやく、「国体」という言葉の分かりにくさが腑に落ちてきた感じがする。どちらにしろ、意味不明な概念だなという感想には変わりはないのだが、その意味不明さが何に由来しているのかが少し分かった、ということ。
美濃部の国体論について、この人一体何言ってんの感があったが、国体概念解釈としては正当解釈なのだな、と。
追記終わり


1910年代には他にも色々論争があったという豆知識(?)も(邪馬台国論争、南北朝正閏論争、堺利彦大杉栄論争(のちのアナ・ボル論争)、平塚らいてう与謝野晶子論争(のちの母性保護論争))

コラム1 雑誌メディアと読者……水谷 悟

多くの雑誌が創刊され、読者の投書欄が言論空間を形成していったという話
もし、平成思想史講義が書かれるなら、匿名掲示板、ブログ、SNSの変遷が論じられることになるのかなーと思いながら読んだ

第3講 民本主義……平野敬和

吉野作造民本主義について*3
民本主義というのは、大日本帝国憲法の枠組みとデモクラシーは両立できるという主張。
吉野は、国家主権の概念を「所在」と「運用」に分けた
法律上、主権の所在は天皇にある(だから民主主義ではない)けれど、それを政治的にどのように運用するか、という点で民衆の声を反映させる(具体的には、普通選挙と議会政治)、と。


民本主義への批判として、2方向からの批判がある。
山川均が、民主主義と言わずに民本主義とか言っていることについて批判しているが、しかし、吉野としては、社会主義者はむしろ味方にしたいので、直接批判に答えることはなかった、と。
他方で、上杉は君主主義から批判している。
吉野は、こっちはこっちで国体論との衝突は避けていたらしいが、のちに浪人会との対立があり、黎明会・新人会結成へとつながっていく云々がある。(筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2参照)


吉野は、帷幄上奏(軍機について内閣から独立して上奏すること)を二重政府として批判
また、民本主義社会主義が矛盾しないことを主張し、無産政党結成にも関わる。ただし、民本主義自体は、マルクス主義の浸透とともに影響力を失う

コラム2 生存権の思想……武藤秀太郎

経済学者の福田徳三*4は、社会主義に対抗するための「社会政策論」の根本思想として「生存権」を置いた
生存権は、朝鮮独立運動の根拠にも用いられた
一方、経済学者の森本厚吉は、生存権ではなく「生活権」の主張を行い、文部省の生活改善運動に関わった

第4講 教養主義……松井健人

大正教養主義がどのように成立したか
旧制高校でのドイツ語教育や東京帝大のケーベルが関わってきたとされているが、実態として、ドイツ語できるようになった学生はごく一部だし、ケーベルについてもドイツ語と英語のみで授業したので、交流できたのは少数の学生のみ
その少数の学生が、阿部次郎、安倍能成和辻哲郎など
阿部次郎の『三太郎の日記』が、非政治的・非社会的で読書によって人格形成を目指すという教養主義ステレオタイプイメージを形成。
阿部は後に満州各地で講演を行っているが、新カント派由来で魂の不滅を説き、また非政治的・非社会的であるが故に、素朴に植民地主義的言説を展開する


本講、前半では、当時のドイツ語教育が暗記一辺倒で話せるようにならないことや、当時の東京帝大生のケーベル先生の授業とったけど何言っているのか全然わからんみたいな回想が引用されてて、ちょっと面白かった。
後半の、満州講演のアレな感じとあわせて、教養主義の残念なところを指摘している


東大、一方でこういう非政治的な教養主義があり、他方で新人会があったんだなー、と。

コラム3 文化主義……渡辺恭彦

新カント派由来の文化主義について

第5講 大正マルクス主義……黒川伊織

1910年代、堺利彦河上肇により唯物論が紹介され、山川均がそれを日本史へと当てはまる
1919年、ロシア革命により社会主義運動が活発化し、社会主義関係の雑誌が増える。
河上は学問的関心から実践運動から距離を置いたのに対して、山川はボルシェヴィズムへ関心を向けるようになる
1920年コミンテルン大杉栄接触1921年には日本共産党(第一次)が結成され、山川が初代委員長に。創立直後はアナキストとも協力関係にあったが、1922年にはボルシェヴィキのみの組織へ
共産党は、大衆的示威行動を重視し議会や普通選挙を否認していたが、一方で、普選実施を見据えて合法無産政党を作る動きも
コミンテルンからの指示された方針や、党員の一斉検挙などもあり、山川は議会進出を容認する。1923年にはまずはブルジョア民主主義の実現を目指すことを方針とし、24年には共産党自体を解党
一方、福本和夫による「少数の前衛」論がエリート学生の支持を集めるようになり、また、河上は実践へと身を投じることになる。なお、ここで、新人会に出入りしていた1人として大宅壮一の名前が出てくる。
福本主義のもと、非合法組織としての日本共産党(第二次)がつくられ、コミンテルンの指導下にはいる。河上も非合法共産党へ入党し、後に逮捕される
一方の山川は、議会を通じた非共産党マルクス主義の立場を選択する


共産党マルクス主義の歴史は、独特の用語があり、固有名詞もばんばん飛び交うので、なかなか難しいのだが、大正時代を通じて、河上肇と山川均の立場がある意味で入れ替わっていったのかなあというなんとなくの理解
「山川は、後年の回想では、第一次共産党との関係を全否定している」とあるのに、地味にびびる。
まあ、元々は直接運動論を展開し、普通選挙や議会政治を否定していたのが、それを180度展開し、以後その立場に立ったということで、そこに何か(本人的にも、思想史的にも)ポイントがあるんだろうけど、Wikipediaにもコトバンクweblio辞書にも、共産党結党に関わったことが書いてあるレベルの周知の事実なのに、否定しているのか、と
参考文献で米原謙『山川均』という評伝が紹介されているけれど、これは「非合法共産党での役割については、深入りしない立場をとっている」と書かれている。


ここらへんのよく分からんなーと思うところは、我々は後世の人間なので、歴史研究によって誰が何をしたのかって分かっていることになっているけど、リアルタイム世代の人間にとって、ここらへんどれくらい知られていることだったんだろう、と
山川均自体は、共産党結党以前から言論人であるし、また、共産党も非合法組織とはいえ『改造』で宣伝していたらしいので、そのあたりで、関係しているんだろうなっていうのは察せられていたのかもしれないが、一方で、そうはいっても非合法組織であって、公然と知られたら逮捕だろうしなー、と。

コラム4 日ソ国交論……富田 武

後藤新平の対露政策について
親露的態度は、伊藤博文からの影響が大きいと指摘されている
1920年頃、シベリア撤兵がメーデーのスローガンであり、また、ロシアでの飢饉に対する救援運動もあり、対露国交要求が、リベラルだけでなく日本主義者にも支持されていた、という背景もあった、と


小川哲『地図と拳』 - logical cypher scape2は、満州事変・日中戦争の背景にロシア・ソ連警戒論があったことを描いていたが、そっちの思想の系譜についても気になる。

第6講 大正アナーキズム……梅森直之

松沢弘陽は日本の社会主義運動の変化を「明治社会主義、大正アナーキズム、昭和マルクス主義」と要約。大正は、アナーキズムの時代
徳富蘇峰は、大正時代の青年を日露戦争の勝利により国家の基礎が確立された世代とみる。国家の独立やナショナリズムではなく、個人がどう生きるかが思想的課題となった、と*5
筆者は、アナーキズムがこの課題への応答(の一つ)だったとみる


本講では、大杉栄について主に論じられる
大杉は、『近代思想』『平民新聞』を創刊、労働組合運動(アナルコサンジカリズム)で活躍し、中国やフランスにわたるなど国際連帯の活動も行い、また、アナーキズムの文献だけでなくファーブル昆虫記やロマン・ロランの民衆芸術論などの翻訳出版も手がけ、また、パートナーの伊東野枝は青鞜社に参加しており、大杉自身も女性解放運動に関わった。
大杉は、労働運動を、社会の革命と同時に個人の革命とし、労働者の自己獲得・自律を目指す。自主自治からの労働組合へ、とつながる。
アナーキズムは、支配・被支配の関係に反逆することだったが、近代以前の共同体や「未開社会」へそのイメージが求められることもあった
大杉は、芸術と運動を区別せず、芸術論も展開した
前述の通り、上海やフランスにも滞在していたことがあるが、フランスでもっとも関心をもったことは、ウクライナボリシェヴィキに抵抗したマフノの闘いであったという


アナーキズムはおろか、マルクス主義すら見る影もない世代なので、なかなかリアリティをもつのは難しいが、大杉栄の思想や活動は、現代から見ても魅力的な面もあるように思えた。もっとも、近代以前や「未開社会」に理想を見る視線などは、かなり要注意だけれども。
マフノの闘いの話は、ある意味ですごくタイムリーでもあるし。
っていうか、マフノの闘いって佐藤亜紀『ミノタウロス』 - logical cypher scape2の元ネタか

コラム5 労働運動論……立本紘之

相互扶助を目的とした「友愛会」→より戦闘的な「日本労働総同盟」へ→アナルコサンジカリズムの浸透→アナ=ボル論争→ボル系の「日本労働組合評議会」結成へ

第7講 アジア主義と国家改造論……萩原 稔

北一輝について
話の枕として、手塚治虫北一輝を主人公にしたマンガを描いていた(打ち切り)とあって、知らんかった(手塚作品に詳しいわけではないので知らないのも当然だが)。
手塚が北に興味をもっていたというの不思議と言えば不思議


アジア主義と国家改造論は、北以前から既にあったが、それを結びつけたのが北の特質


日露戦争後の『国体論』に、アジア主義と国家改造論結びつきの萌芽はあるが、まだ、アジアとの連帯は過渡的な位置づけ
中国革命に関わり、中国やインドとの連帯を説きつつ、領土拡張の野望も示される。
北にとっての仮想敵国はイギリスとロシアで、アメリカとは提携可能と考えていた
また、中国との連帯を説きつつも、満州は日本が確保すべきとも考えており、満州事変は支持していた(日中戦争アメリカと対立するので反対)
猶存社の満川・大川からの依頼に応えて『日本改造法案大綱』を書く


『改造法案』
まず、天皇大権の発動が書かれており、天皇主義者の共感を得たが、北の意図は、天皇の絶対化ではなく、天皇の権威を利用した軍事クーデター
(なお、二・二六事件の失敗の要因として、天皇の御心に委ねればうまくいくと考える「天皇主義者」と、あくまでも天皇はシンボルでそれをもとに国会改造が必要と考える「改造主義者」が混在し、なおかつ前者が多かったため、と)
国会改造の内容として、普通選挙の実施、私有財産制の否定や福祉の充実などがあるが、これらが青年将校を惹きつけることになる。戦後の日本国憲法との連続性については筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2で指摘されていたけれど、もともと三島由紀夫が指摘していたとのこと
一方、日本国憲法との違いは、国の交戦権を認めていたことで、自衛以外にアジア主義に基づく戦争や領土分配を要求するために大国へ戦争する権利を認めていた、と
アジア主義と武力的な領土拡張主義とがなんで両立するのか、現代の目からは理解しがたいところもあるが、そもそも北のアジア主義において連帯の対象は、中国、トルコ、インドにとどまり、他の国は言及がないらしい
北は、社会進化論的な優勝劣敗の論理に基づき、独立を失った国家は救済に値しないと考えたらしく、例えば朝鮮の独立には否定的とのこと
この独善的なアジア主義が、北の死後に「大東亜共栄圏」として実現したと筆者は論じている


戦前の大日本帝国的なものを、十把一絡げにしがちだけど、ここらへん実は色々と差異があって面白いなあ、と
例えば、上述の「天皇主義」と「改造主義」の違い。「天皇主義」というのは、天皇機関説論争の上杉みたいな立場なんだろうなあ。
ロシア・ソ連への態度というのも、右派の中でわりと違いがあるのだな、と。
本書のコラムにある通り、シベリア撤兵の時期は右派からも親露的な意見があり、筒井清忠編『大正史講義』 - logical cypher scape2にあったが、北を呼び寄せた満川・大川も親露派。
しかし、北は反露派だし、石原完爾とかもそうだし、ロシア・ソ連への警戒が満州事変となっていく。
それにしても、じゃあ日中戦争って何だったんだって話で、それは筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2でも小川哲『地図と拳』 - logical cypher scape2でも、中国なんて格下だろと舐めてかかっていたら、反日ナショナリズムによる強固な抵抗にあって、ずるずる長期化してしまったということが書かれている。
ここらへんは、日清・日露以降、国民側にも領土拡張主義的な気持ちが強くて、それに押されたところもあるのだろうなあ、と。で、これが実は第1講にあるとおり、大正デモクラシーにおいては、立憲主義とも結びついてた、とか考えるとほんと複雑。

コラム6 思想史のなかの「院外青年」……伊東久智

院外青年とは、日露戦争後から第一次大戦期にかけて、議会周辺(院外)で政治運動をしていた青年たちで、戦前昭和には代議士となっていく
思想的には相反する者同士が、同じ集団として結びついていたりして、このコラムでは、政治運動については、思想内容だけでなく、人間関係の次元からも理解することが重要だと述べられている。

第8講 民族自決論……小野容照

アメリカ大統領のウィルソンの原則で有名な民族自決
しかし、これが多義的な概念らしく、この概念の受入れ方などが論じられる。
そもそも民族自決と訳される原語がSelf-determinationで、民族という言葉は含まれていない。英語の時点で既に解釈の揺れがあるらしいが、主権在民という意味で解釈することが可能な言葉で、ウィルソン自身そういう意味で言っていたとされるらしい。
ところで、では何故民族自決という訳語が使われているかというと、実は、self-determinationという言葉を使ったのはウィルソンが初めてではなくて、元々社会主義者たちが使っていたが、日本に伝わったのは、二月革命によるロシア臨時政府の声明により。しかしそのときも、また民族ではなく国民と解釈されていた
これを被支配民族と結びつけて解釈したのが吉野作造で、さらに、10月革命でボルシェヴィキ政権が成立すると、この解釈が広まる。


ウィルソンの声明は、それに先だって出されたボルシェヴィキの声明を意識しているため、先述したとおり、ウィルソン自身は国民主権を意図しつつも、被支配民族の独立の意味を含むことを否定しない。ただし、ウィルソンは連合国の植民地については言及を避けた。
日本では、民族自決とは、ボルシェヴィキとウィルソンの提唱した概念で、適用範囲が異なることだけが違うと、当初は認識されていた
これが朝鮮の独立運動に結びつくことについて、吉野は指摘していたらしいが、ほとんど考えられていなかった。
一方、朝鮮人も、ウィルソンやパリ講和会議には期待していなかったものの、民族自決をもとに独立を求める宣言を出し、手を打ち、これが三・一独立運動へつながる。
これに対して日本では、朝鮮は民族自決主義の適用範囲を誤解していると論じたり、民族自決主義はそもそも「民族の幸福のため」だと解釈を変更するなどの反応が引き起こされた。
日本の大勢は、朝鮮ナショナリズムを否定した格好だが、黎明会や新人会などではこれと連帯する動きも見られたという。


民族自決という言葉の解釈を巡る動きとか全く知らなかったので、勉強になったのと
吉野という人は、ほんと大正思想史におけるキーパーソンなんだなあという印象

コラム7 植民地政策論……平井健介

外地、つまり帝国日本の植民地の行政というのは、結構自立していたよ、という話
経済政策において、内地と外地とで利害が対立するパターンが挙げられている
(1)外地独自の経済政策が内地の利害と対立するパターン(台湾の「南進工業化」構想)
(2)内地の利害が達成されたことで内地と外地の利害が対立するパターン(米の輸入代替)
(3)外地相互で利害が対立するパターン(砂糖の輸入代替)

第9講 小日本主義自由主義……望月詩史

小日本主義というと石橋湛山だが、石橋以前から東洋経済新社の歴代主幹において論じられてきたもので、その流れを追う
増田弘によれば、小日本主義を経済面から提起したのが植松孝昭、政治・外交面で補足したのが三浦銕太郎、思想上の感性段階に導いたのが石橋ということになる。


小日本主義は、植民地経営は日本にとって経済的な損失となる、という主張から始まる。なおこれは、条件が揃えば、植民地を持つことが利益になることもある、という経済的合理主義を伴っている。
また、帝国主義を放棄することで、国際社会での信用を高めるという期待もあった。
石橋においてはこれに、自由主義的な主張が加わる。
ホブソンやホブハウスらの新自由主義社会進化論プラグマティズムなどの影響をうけて、自由放任主義ではなく、国家が責任をもつ新自由主義。多元性を普通選挙・議会政治を通じて国家が調和させるということを考えていた、と
最低賃金や労働時間制限を主張したり、労働者への経営権拡大の提案などもしていたらしい

コラム8 国際協調主義……酒井一臣

国際協調主義的な政策をとっていたはずの日本が、昭和前期の満州事変において変貌したのは何故か、という観点から書かれている
ここでは、世論が国際協調主義を支持していたかどうかが着目される
大正デモクラシーだった「にもかかわらず」ではなく、「だったからこそ」ポピュリズムによる急展開があった、と論じている。
このあたり、第1講とも通じる話だし、大衆というのが大正のキーワードなのだなあと思う(筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2を見れば、大衆文化が花開く時代とも言えるし)。

第10講 女性解放思想……小嶋 翔

大正時代の女性解放運動の中で行われたいくつかの論争が紹介される。
平塚らいてう与謝野晶子が対立しているパターンが多い


「産む性」をめぐって(1911~1914)
与謝野は、産む性であることに女性としての誇りを持つ一方で、自由な創作がままならなくなることを自虐している
平塚は、事実婚となるが、経済的自立ができない状態では、子どもを持たないという


「堕胎論争(1915)」
青鞜』に掲載された原田皐月の短編小説「獄中の女より男に」をきっかけとした論争
堕胎罪により捕まった女性が、妊娠直後であればまだ自分の身体の一部であって罪にはならないと主張する小説である
これに対して、青鞜同人間でも賛否両論がでる
堕胎や避妊に批判的な論調が出てくることが、現代から見ると不思議だが、当時は、性愛と生殖が未分離だったからだと筆者は指摘する。
平塚も、避妊に対して嫌悪を覚えたと書いていて、避妊が、自立した人格同士の関係である性愛という行為を汚すように感じられていたらしい
バース・コントロールとしての避妊が認知されるのは、この後のことで、1922年以降、性の自己決定というよりは、貧困対策・優生政策の観点から論じられるようになる。


「母性保護論争(1918)」
出産・育児などの母性を保護するために、国が社会保障政策をとるべきとする平塚と
結婚・出産するには女性も経済的自立をすべきだとする与謝野
個人主義的であり、徹底的に男女平等的な与謝野と、女性の権利を国家が保護すべきだと考える平塚の対立は、その後も繰り返されることになる


花柳病男子結婚制限問題(1920)
1919年に、平塚と市川房枝が新婦人協会を結成する(筒井清忠編『大正史講義』 - logical cypher scape2に詳しい)
ここでは、女性の結社の自由や集会の自由を制限していた治安警察法の改正とともに、花柳病男子結婚制限立法が要求されていた。
この後者は、平塚が熱心にすすめていたもので、当時、不貞により性病にかかった夫から妻が感染するという問題が起きていたため、健康診断書がないと結婚できないという法律を作ろうとしていた。
これに対して反対したのが、やはり与謝野であった、と。
恋愛や結婚はあくまでも個人の自由であって、法律で制限するべきではないという与謝野と、
そうはいっても、他人を害する自由はなく、国家・社会の利益のためにも、一定の制限は当然あるとする平塚
筆者は、理想主義的な与謝野と現実主義的な平塚、という整理もしている。


社会主義との関係
母性保護論争にせよ花柳病男子結婚制限立法にせよい、平塚は、男性中心の社会が女性を傷つけているからそれを保護すべきだ、という考えがあるわけだが、
しかし、これを不徹底だとこきおろしたのが、社会主義者である山川菊栄で、女性による社会主義結社・赤瀾会を結成する。
もともと『青鞜』に属していた伊藤野枝大杉栄のパートナー)もこれに加わる。

コラム9 パンデミック精神史の断片……藤原辰史

大正時代にはスペイン風邪が流行っているが、これが日本思想史に影響を与えた形跡は小さい
ここでは、新聞の投書欄にあった文章を紹介している。曰く、マルクス主義などの危険思想に対処するにあたって、思想ワクチンが必要ではないか、というもの

第11講 新教育……和崎光太郎

1900年代頃に、従来の教育を批判するものとして登場した「新教育運動」について
新中間層の台頭などもあり盛り上がるが、「新教育」という一つの考え方があったわけではなく、この当時、色々な人が色々なことを言っていて、それらをまとめて新教育と呼んでいるっぽい
が、いわゆる「アカ」への弾圧と新教育への「弾圧」が起こる。ここでは、新教育の内容自体が問題視されたというより、スケープゴートにされたということが論じられている。
新教育運動は衰退していくが、部分的には、戦時下の教育に吸収されていったことが指摘されて終わっている

コラム10 能率増進論と科学的管理法……新倉貴仁

「文化」と同様、大正期に頻繁に用いられた「能率」

第12講 皇道大本と「大正維新」……永岡 崇

出口王仁三郎のいわゆる大本教について
近代社会批判と天皇中心の国家神道的な思想とが融合した「大正維新」を説く
現体制への批判があったので、官憲からは弾圧の対象となったが、天皇主義・国家主義的な思想でもあり、デモクラシーや社会主義とは敵対的だった。
西欧物質文明を批判し、日本古来の大和魂心霊主義を表明しているが、出口自身は、新聞や映画などその時々のニューメディアを利用した進取の気性のある人物でもあったらしい
で、出口は、心霊主義的な思想を実現するにあたって、憑霊術のようなものを取り入れていく。
本章のポイントは、この鎮魂帰神という霊を憑依させる行法を巡るところだろう。
明治末から大正にかけて、心霊現象ブームというか非合理の復権という現象があって、大本も注目を浴びたらしい
明治近代国家が、神道の脱呪術化を図っていたことの反動でもある
一方、大本においては、これの先に国家主義的な目的もあって、霊魂レベルで臣民を作り上げるという方法でもあった。
しかし、コントロールしにくい方法だったらしく、出口はこの手法を停止していたのだが、当時信者だった浅野和三郎はこれにハマって大正期の流行をもたらしていた。
出口の考えと信者たちの考えにズレがあって、それが大本理解のポイントだ、ということらしい。

第13講 水平社の思想……佐々木政文

被差別部落についての人文・社会科学的研究が、いかに実際の運動へ影響をもたらしたか
被差別部落の起源は何だったのかということについて、歴史学者喜田貞吉、そして喜田から影響を受けた社会学者の佐野学の議論がある
佐野は、徳川幕府が政策的に被差別身分を作り出したという説*6を唱え、それを踏まえて、運動による部落解放論を唱えた
奈良県被差別部落で結成された組合団体が、佐野の論文を読んだことで、水平社創立準備を進めていったらしい。
水平社の宣言には、佐野・喜田説からの影響がありつつも、彼らの主張からは逸脱するところもある、ということは指摘されている(喜田はそもそも水平社運動に批判的)
また、参考文献紹介の中で、水平運動が天皇の下での平等を追求していたことを明らかにしたという研究が紹介されていた。

コラム11 社会政策・社会事業論……杉本弘幸

第14講 関東大震災と民衆……北原糸子

震災以前から、不況の折もあり、内務省では社会政策を担当する部局として社会局が設置され、地方行政でもこれにならって社会局が設置された。
東京市社会局は、関東大震災の際に、バラックの管理等の業務を行うことになった。それについて論じられている。
バラック管理というのは要するに、バラックからの退去とそのための住宅供給事業なのだけど、十分ではなく、4割弱の6900世帯が住居をえられなかったという
バラック撤退について、内務省社会局長が東京市長に宛てた文書の中で、国家は直接個人の資産を供与すべきでない(無償の居住を与える政策はない)ということを書いていて、この原則が阪神大震災まで貫かれたことを、筆者は指摘している


また、家賃高騰があったり、一定の富裕層は田園都市構想の影響で郊外に向かったりと、震災後の東京市内は人口が減少した、とも

第15講 政党政治論……奈良岡聰智

憲政擁護運動以来、大正から昭和初期にかけて政党政治が行われる。
ここでは、吉野作造を中心にどのような政党政治論がなされたか論じられており、第1講や第3講と関連が強く、本書が実はぐるっと回るような構成になっていたことが分かる(?)
さて、どのような政党政治論がなされたか、と述べたが、実はあまり正面切って論じられることはなかったという。
というのも、大日本帝国憲法には議院内閣制についての規定がなく、国務大臣の任命も天皇大権となるため、政党政治憲法の関係が微妙なため。

*1:ありがち

*2:朝鮮通信使の接遇をどうするかという議論の中で出てきていたりするらしい

*3:民本主義という言葉自体は、万朝報の記者が先に使用していたらしい

*4:黎明会の1人

*5:これは例えば、筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】 - logical cypher scape2の第9講にも見られる

*6:1960年代以降に支持を集めたが、現在は一面的すぎるとして支持されなくなっているらしい

クレメント・グリーンバーグ「モダニズムの絵画」「ポスト・絵画的抽象」

グリーンバーグ批評選集』の中から「モダニズムの絵画」「ポスト・絵画的抽象」を読んだ。
グリーンバーグについてはいつか読まないととはずっと思っていたのだが、なかなか手つかずのまま、「カラーフィールド色の海を泳ぐ」展 - logical cypher scape2を機にようやく手に取った。
とりあえずこの2篇

モダニズムの絵画

いわゆるグリーンバーグに帰せられる主張として紹介されるような内容が書かれており、「なるほどこれが」と確認していくような感じで読んだが、やはり原著を読むと「そういうことだったのか」という発見もある。


モダニズム=カントに始まる自己-批判的傾向の強化
芸術におけるそれは、別の芸術のミディアムから借用されているものを除去して「純粋さ」に自己-限定すること
モダニズム絵画は平面性へと向かったが、対象の再現自体は問題ではなく、放棄されたのは空間の再現。
モダニズム絵画は、彫刻的なものへの反抗
リアリズム的なイリュージョンは、彫刻に多くを負っているが、一方、16世紀のヴェネチア以降、色彩という形で、彫刻への反抗も行われていた
ただし、印象主義以降、ドローイングvs色彩ではなく、触覚(の連想を受ける視覚)vs(純粋な)視覚、となった


モダニズムは、絵画が物体になる手前ぎりぎりまで条件をおしやる
彫刻的なイリュージョンもトロンプ・ルイユも許容しないが、視覚的なイリュージョンは許容しなければならない
その中へ入っていく空間のイリュージョンではなく、眼によってのみ通過できるような空間のイリュージョン


モダニズムの絵画と近代科学は方向性は同じ
伝統と断絶しているわけではなく、連続している


面白かったのは、追記*1で、「ここに書かれていること全てが筆者の立場の表明だというのは誤解である」旨のことが書かれていたこと。
例えば「純粋」とカギ括弧付きで書いたのは、そういう含みを持たせているんだとか。
また、平面性を美的な質の基準と見なしているとか、自己-限定を推し進めるほどよい作品になる、という荒唐無稽な解釈があった、とか。

ポスト・絵画的抽象

ヴェルフリンの「線的」「絵画的」という区別を援用して、「カラーフィールド」絵画をポスト・絵画的抽象(ポスト・ペインタリー・アブストラクション)と呼んだというのは、「カラーフィールド展」関係の記事を読む中で知っていたが、そもそも「線的」「絵画的」って何よ? というのが分からなかった。
どうも、輪郭線をはっきり描くのを「線的」、輪郭線を曖昧に描くのを「絵画的」と呼び分けたらしい。確かにその意味で「カラーフィールド」の多くの作家は「絵画的」かもしれないが、しかしやはり、その意味でもノーランドやステラは除かれる気がする。
また、これらの画家についてグリーンバーグは「開放性」と「明瞭さ」という形容をしている。このあたりが、前の世代の抽象表現主義と区別される特徴を示すキーワードのようだ。
展覧会のために書かれたので、論考として読むと短い。
オリツキーは特に言及されていなかった。


抽象表現主義は、まぎれもなく絵画的である
→しかし、マンネリズムに陥った
→だが、抽象表現主義を継承しつつ新鮮さをもつ画家たちが現れた
グリーンバーグは、そうした新鮮さの要因として「開放性」と「明瞭さ」を挙げる。
具体的にどういう性質のことを指しているのかよく分からないが、フランケンサーラーのステイニング技法を指して絵を「開放して」いると述べている。また、アーサー・マッケイについて「デザインの線的な明瞭さ」と述べている。
なお、「開放性」と「明瞭さ」は、新鮮さをもたらしているけれど、これらがあるから美的な価値があるとかそういうわけではないよ、ということをくどくどしく注釈しているところがあるw
それ以外の共通点として、明るい色調を持つという点と、(「身振り」などに対して)比較的匿名的な手法を好むという点を挙げている。
グリーンバーグは、ポップ・アートに対してて、あれは流行っているけど新鮮ではないと批判している。

*1:この文章の初出は1960年だが、訳出にあたっては1989年のものが底本になっているらしいが、末尾に1978年の追記がある

「カラーフィールド色の海を泳ぐ」展

ジュールズ・オリツキー天才かよ!
この展示会のキュレーターも天才!


川村記念美術館で「カラーフィールド色の海を泳ぐ」展を見てきた。
川村記念美術館自体は、2009年のロスコ展を見て以来の再訪となった。また行きたいなとは常々思っていたのだが、何ぶん遠いので……*1
さて、カラーフィールドだが、戦後アメリカで起きた抽象表現主義から派生した流れだと、とりあえず言うことはできる。まず、抽象表現主義と大きく括られる画家たちの中で、ジャクソン・ポロックなどはアクション・ペインティング、マーク・ロスコなどはカラーフィールド・ペインティングと分類されることが多い。
そう、自分は川村記念美術館には毎回(2回だけだが)、カラーフィールド・ペインティングの画家を見に行っていることになる。
ただし、正確に言うとこの言い方は正しくない。
今回の「カラーフィールド」展は、正確に言うとカラーフィールド・ペインティングの画家を扱った展示会ではない。実際、ロスコやニューマンなどは含まれていない。
クレメント・グリーンバーグによって「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」と呼ばれた作家たちが対象となっている。これは、ロスコやニューマンに続く第2世代のカラーフィールド、あるいはポスト抽象表現主義とされる作家たちである。
この両者の差異については、下記のブログ記事が参考になる*2
「カラーフィールド 色の海を泳ぐ」 : Living Well Is the Best Revenge


また、図録に収録されているサラ・スタナーズの論考では、「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」は様式ではなく実践だとされている。
実際、一つの様式と捉えるには、異なった画風の画家も含まれている。
ここでスタナーズが実践と呼んでいるのは、彼らの間に交流があったためである。彼らは、同じスタジオで制作をしていたり、一時的であれ共同生活を営んでいたり、同じ大学に出入りしていたりして、互いにかなり積極的な交流があったらしい。
モーリス・ルイスはステイニングという技法が特徴的だが、この技法自体は、ヘレン・フランケンサーラーが考案したもので、ルイスはフランケンサーラーのスタジオに訪れてこの技法を知ったという。また、これは余談だが、フランケンサーラーは当時、グリーンバーグの恋人だったらしい。
先述の通り、グリーンバーグは「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」という呼び方の命名者であり、例えば、カナダ人であるジャック・ブッシュが入っているのも、ブッシュとグリーンバーグの間で交流があったかららしい。
カナダ人がいるのがやや珍しい感じがするが、この企画展自体、カナダ人夫妻のコレクションによるものである。


さて、この「カラーフィールド」ないし「ポスト・ペインタリー・アブストラクション」の画家たちというのは、日本では、比較的マイナーな作家たちだろう。
無論、現代美術に関心がある人であれば、知っている名前を見つけられるだろうが、日本ではほとんど作品を見ることができない作家も含まれている。
この記事の冒頭で「ジュールズ・オリツキー天才かよ」と書いたが、オリツキーもまた、誰しもが知っている有名な画家とは言えないだろう。
実は自分は、Michael Newall ”Abstraction” - logical cypher scape2で言及されていたのを読んでいたので、名前(と、googleの画像検索結果)だけは知っていた。そのときは、気になりつつも「こんな画家もいるのかー」程度の認識だった。
ただ、上記のブログ記事などもあり、オリツキーへの興味は高まっていた。
今回、オリツキー作品が展示されている一角へと足を踏み入れた際、思わず息を呑んだ。
以前、ロスコ展で、シーグラム壁画を見たときとも似た感覚だったようにも思う。
その巨大さも相まって一気に作品へと引き込まれるし、スプレーガンを用いた独特の技法は、あまり他に類を見ない視覚経験をもたらしてくれる。
美術館の公式twitterによれば、来場者の人気も高いようだし、オリツキーがこれまであまり日本では紹介されていなかった(ように思う)のが不思議に思える。


オリツキーについて、詳しくは後述する。


また、同じく冒頭で「この展示会のキュレーターも天才!」とも書いたが、これについては、もちろんこの企画展についてもそうなのだが、常設展もこれにあわせた配置になっていて、これがまたよかったという話で、やはり後述したい。


ところで、美術館の企画展は必ず、出展作品一覧の紙が置いてあるが、本展の場合、各作品のカラー写真付きであった。
普段、この一覧に印象に残った絵は、どういう絵だったか備忘メモを残しているのだが、それを省略できた!
なお、その代わりなのか、作品タイトルなどのキャプションは展示室の壁などには貼っておらず、この一覧を参照して確認する必要があった。


ジャック・ブッシュ

作家ごとの展示になっているので、以下、作家ごとに簡単な感想など。
最初の展示室にはいると、一番広い部屋になっており、ブッシュ、ノーランド、ステラおよびカロが一つの部屋に展示されている。
ブッシュはカナダ人の画家で、60年代の作品から4点がきている。
抽象絵画といえば抽象絵画だが、わりと元のモチーフが分かるような絵になっている。

ケネス・ノーランド

まず、ノーランドといえば同心円の奴だが、まさにその作品として、「あれ」(1958-59)がある。
一番外周がもやもやっとした感じになっているのが特徴。タイトルも含めて、わりと好き
また、同じく同心円の奴として、「春の涼しさ」(1962)という作品も並んでいる。
他にキャンパスを45度傾けた作品である「馬車」(1964)や、キャンパスを切り取って多角形に変形させたシェイプド・キャンバスの作品である「向ける」(1976)などがある。

フランク・ステラ

1959年から1966年までの作品5点が展示されている。
ステラは、川村美術館も所蔵しており、以前見たことある作品も含まれていた。
黒地の作品から、シェイプド・キャンバスの作品まで

アンソニー・カロ

イギリスの彫刻家
1965年から1968年の作品4点。企画展の入口と、2つの展示室にそれぞれ作品が展示されていた。
それぞれ、一つの色で塗った抽象彫刻(例えば入口に置いてあったのは赤一色だったり)。

ヘレン・フランケンサーラー

2つめの展示室へ入ると、フランケンサーラーの作品が3点、ルイスの作品が4点、カロの作品が1点それぞれ展示されている。
この中では特にフランケンサーラーの作品がよかった。
ステイニングという、絵の具を画布に染みこませる技法を用いている。

  • シグナル(1969)

青色の棒状のものが画面中央をしめ、画面上部の色の面と重なっている。
2つのレイヤーが、互いに透けて重なっているので、どちらが上になっているか分からない感じが、面白かった。

ステインングも用いているのだが、線も描き込まれている。
いかにもステイニング的な淡い色調もある一方で、絵の具の物質感を感じさせるようなベタっとした箇所もある(そこもステイニングによるものなのだが)
「シグナル」が垂直的だったのに対して、水平方向の構図の作品だが、複数の質感が混在しているかのような画面で、じっくり眺めたくなる。
3作品の中では一番よかった。

  • ドライビング・イースト(2002)

2002年とかなり新しい作品で、まるで夜中の海岸を描いたかのような、画面が水平方向に黒く塗られた作品である。
個人的には思わずグッとくるタイプの作品なのだが、今回はそこまででもなかった。他の作品と比較してサイズが小さかったり、色あい的にも地味だったりするためかもしれない。また、2002年という制作年も評価が難しい。

モーリス・ルイス

  • ギメル(1958年)

これは、美術館蔵で以前も見たことがあった。
垂直軸がいくつもある作品で、今回のルイス作品の中では一番好き

  • 「無題(イタリアン・ヴェール)」「秋の終わり」(いずれも1960)

色のレイヤーが幾重にも重ねられている感じの作品
色をどう描くか、という観点でいうと面白いかもしれない。

リーデル・ズーバス

70年代から80年代にかけての作品が4点

  • 「開拓」(1972)「フェーン」(1974)

いずれも横長の作品で、アクリル絵の具により、色が力強く塗られている
いくつもの色の長方形が横にたなびくように描かれており、動きを感じさせるものになっているし、タイトルもそのことを意識させるようなものになっている。
タイトルに関していうと、アメリカとの関連が気になる(ここに挙げていないもう一つの作品はアメリカの地名がタイトルになっていたりする)。
やはり大きくて迫力があるし、とにかく色の長方形が走っているような感じが印象的
それぞれの長方形は、一方の辺は非常にくっきりとした輪郭なのだが、もう一方の辺などは曖昧な輪郭となっていて、そのあたりにカラーフィールド感(?)がある。

  • 捕らわれたフェニックス(1982)

本展のポスターなどに使われている作品
比較的普通の長方形のキャンバスに描かれており、「開拓」や「フェーン」にあったような動きのある構図ではないが、しかしそれらの絵にあった要素もありつつ、よりまとまっている感じもありつつ、ポスターに使われるのも納得の作品

ラリー・プーンズ

  • 大いなる紫(1972)

プーンズは、絵の具をキャンバスに垂らして描く作品が複数展示されており、「大いなる紫」はその内の一つ。
キャンバス表面に置かれた絵の具の質感は、手法としては異なるものの、ジャクソン・ポロックと似ているところがある。つまり、細い線が何本も重なりつつ、それらの線がキャンバス上に盛り上がって絵の具の物質感を強調しているところ。
一方、絵の具を垂らして制作しているので、ポロックと違い筆の動きはそこにはない。
まるで雨垂れのように縦の線が何本も何本も連なっている。
ある種の偶然性によって作られてはいるが、構図もはっきりとあって、この「大いなる紫」の場合、斜め横方向に色が切り替わっていく形で構図が作られている。
タイトルが「大いなる紫」ではあるが、紫よりも画面下部の黄色・オレンジの方が印象に残った(言われてみれば、確かに画面の中で紫の占める範囲が一番大きいのだが)

  • 「クララへ、ロベルトより」「アクセサリー夫人」「朝は午後の陽のなかに」(いずれも1976)

これは、より黒っぽい絵の具で制作されているもので、それぞれ非常によく似ている
それも当然で、絵の具を垂らしたキャンバスを3つに切り分けて、それぞれ別の作品としたものであるらしい。
しかし、全く同じキャンバスから作られ、互いに非常によく似ていたら、タイトルがそれぞれ全く異なるというのも面白い。
いずれも非常に縦長の作品で、「クララへ、ロベルトより」は最も幅が細く、「アクセサリー夫人」と「朝は午後の陽のなかに」が同じくらいの大きさか。
よく似ているにもかかわらず、個人的には「アクセサリー夫人」がもっともよかった気がする。黒だけでなく上部に赤っぽい色も置かれていて、画面に変化があるからかもしれない。
何をもって、それぞれ、これで一つの作品だ、ということを確定していったのかが気になる作品群だった。確かに「アクセサリー夫人」には、なるほどこれで一つの作品だな、という説得力があるように思えるのだが。

  • レグルス(1985)

さらに絵の具の物質性を強調するようになっていく。でこぼこした壁面のような作品。

ジュールズ・オリツキー

オリツキーについては、60年代から80年代まで10点の作品が展示されているが、これらがさらに60年代の5点、70年代の2点、80年代の3点に分けられ、年代ごとに手法が異なっている。
手法を次々と変えていくところに、オリツキーの特色があるようだ。
「オリツキー天才!」と書いたが、その理由の一つにはこの手法の変遷もある。60年代のスプレーガンは明らかに一つの到達点だと思うが、80年代には全く別の手法で別の到達点に達しているように感じられた。

  • 広がりのある夢(1965)

スプレーガンによる作品のうちの一つ
オリツキー自身は、霧状の色を定着させたいといい、先述したニューオルは、透明なものを描いていると論じている。
実際のところ、どのように表現すればいいのかなかなか捉えがたい作品群でもある。
リヒター作品にはよく写真のボケの表現があるが、そうした「ボケ」だけをさらに極大に拡大したような感じがある。
描写の哲学では、描写を奥行きのある視覚経験で特徴付けることがあり、例えば、抽象絵画においても、青い長方形の上に赤い長方形が重なっているように見える場合、この重なりをもって、描写になっていると論ずることがある。
ニューオルによるオリツキー論もその方向で、透けているものを通して見る、というところに奥行き感が生じていることを指摘していたのではなかったかと思う。
しかし、実際見てみると、オリツキーのスプレーガン作品に、そのような奥行きが感じられるかというと難しいところがある(それぞれの色のレイヤー間の関係を捉えるのが難しいという意味。例えば、青の“上に”赤があるとは言いがたい感じ)。とはいえ、全くフラットな感じなのかというとそうでもない。画面の向こう側への広がりがあるように感じられるところもある。
先ほど「ボケ」と書いたが、ピントのあわない感じが独特の視覚経験を生じさせているように思う。
ところで、この「広がりのある夢」に関していうと、左側に赤色が縦方向に配置されており、フレームを感じさせるところがある。

  • 高み(1966)

オリツキーで画像検索すると最初に出てくる作品(だと思う)。
主に青系の色で描かれている、単一の色ではなくもやもやとしている。霧状の色、というのは確かにその通りという感じである。
とにかくでかい。カラーフィールドの作品もどれも大きいが、今回展示されている作品の中で一番大きいのではないか。
とにかくこの大きさが没入感をうむ。
また、あまり目立たないが、キャンパスの4辺は、スプレーガンではなくくっきりと色が塗られており、明確なフレームがあるように思えた。

こちらは白系である。
見ていて「美だな」と思った。絵を見てこういう感想を抱くのは自分としては珍しい。
例えば、ロスコは圧倒されるが、必ずしも美しいとは感じない。
ここでオリツキーを美しいと感じたのは、ロスコと比較するならば、近寄りやすさ・受け入れやすさみたいなもののためかもしれない。よりポップというか。もっとも、それは単に暗い色で描かれるロスコに対して、明るい色で描くオリツキーということに由来しているかもしれない。
ところで、オリツキーもロシア(現ウクライナ)からの移民である。とはいえ、1才の頃にアメリカに来たようなので、ロシアの記憶はおそらくないだろうが、この絵のタイトルが「イルクーツク」なのはどのような由来によるのかは少し気になるところである。
ところで、この作品にはフレームのようなものは見られない。

  • 「ナタリー タイプ-3」(1976)「私たちの火」(1977)

この2点は、急に雰囲気が異なり、絵の具の物質性が出ていたり、明確な線が描かれていたりする。
正直、あのスプレーガン絵画のあとに、これを描いたのか、なんで? という感じはする

80年代に入ると、さらに「絵の具の物質感!」という感じの絵になる。
キャプションでは、色への追求が光へと至った、というようなことが書いてあって、それが補助線となった。
絵の具といっても新素材の絵の具を使用したもので、筆触によって生じる凹凸に光が反射した光沢がある。特にこの「アントニークレオパトラ」でそれは顕著である。
物質性の強調があるにしても、筆触よりも光沢に着目したそれになっている。
これまた個人的な、感覚的な物言いだけど、絵画よりも彫刻っぽいなと思った。
たぶん、このアクリル絵の具の生む光沢が、金属っぽい光沢だから、そう感じたのかなと思うけど。
ただ、あとで知ったけれど、オリツキーは絵画だけでなく彫刻も手がけているらしい。


とりわけ20世紀以降の美術というのは、「絵画とは何か」ということをそれぞれの画家がそれぞれに追求した試みともいえるはずで、抽象絵画というのは、そのエッジにあると思うので、個人的に興味があるのだと思う。
で、絵画とは何かということに答えるのは難しいけれど、個人的には、やはり二面性経験は基準の一つだと思う。その上で、抽象絵画で二面性経験が生じるのかというのは難しいところなのだけど、それでも自分は抽象絵画を見て、これはやはり絵画だな、と感じる瞬間が楽しかったりする。
また一方で、絵画とは何なのか、絵画になるかどうかの境界を攻めていって、結果として、その境界を超えてしまって、絵画ではなくなってしまった作品というのもあると思う。
個人的には、ステラは、シェイプド・キャンバスあたりから絵画ではなくなってしまったように思える。ステラは、絵画だと思っていたのかもしれないけれど。とはいえ、ステラはその後、立体作品を作るようになるわけで、やはりどこかで絵画ではなくなる線を越えたと思う。
それに比べれば、オリツキーの80年代の作品は、全然絵画側にいるようにも見えるが、そっとその一線を越えた作品のような気がする。
絵画のふりをしてもはや絵画ではない作品を作ってみせたのではないか、というのは、本当に何の根拠もない、ただの思いつきレベルの感想でしかないのだが、こうしたこともひっくるめて一言でまとめると「オリツキー天才かよ!」ということになる。
(ところで、ポロックやプーンズの作品には二面性経験はあまり生じないように思うものの、直観的には「絵画だな」と思わせるところがある。しかし、それが何かはよく分からない)

常設

企画展にあわせて、常設展は、色をテーマにした展示構成になっていた。
美術展について、個人的には、テーマ別の展示よりは経時的な展示の方が好みなのだが、今回の展示については、このテーマ別の構成がすごくフィットした。

緑/青

まず、最初の部屋は緑と青がテーマになっていて、
エルンストが2点、ルノワール、モネ、ポロック中西寛之、アルバース
ローランサン、キスリング、コーネルが2点、フランシス、リキテンスタインが2点、クラインの各作品が展示されていた。
モネの睡蓮は以前来たときも同じ位置に展示されていたので、通常時の展示をベースに、少しアレンジしているという感じなのかもしれない。
個人的にはエルンストの「石化せる森」がよかった。「緑……確かに緑だ!」っていう背景と、赤い円のコントラストが。
あと、リキテンスタインって、今まであまりピンときたことがなかったけど、「なるほど、確かに青だなー」と思いながら青の使い方を見てると、いい絵なのかもなーと思ったりした
コーネルは、以前見たときは、一つの部屋にまとめられていたのだけど、今回、他の画家の作品と隣り合った状態で見るというのも、面白いといえば面白かった。
あとは、キスリングの人物画もよかったような気がする。

赤/黒

緑/青の部屋の次は、レンブラント専用室で今回もそのまま。
で、その次の部屋に行くと、ばんっとシャガールの「ダヴィデ王の夢」とか置いてあって、よい。
さらに次の部屋では、マグリットマティス、ヴォルス、マレーヴィチ、山口長男
山口勝弘などが置いてあり、部屋の真ん中にカルダーが2点。それぞれ「黒い葉、赤い枝」「Tの木」という作品名で、カルダー作品って植物モチーフなのかと今更ながら気付く。
山口勝弘は、ガラスなどで作れらた少し立体的な作品

まず、デイヴィッド・スミスの「ヴォルトリ-ボルトン IV」という小さな彫刻。灰色っぽくはないのだけど、灰の部屋に置いてある。
続いて、ピカソ、マルグリット、ステラ、ジョーンズの作品が並んでいる。
これら、灰色という以外に共通点はあまりないが、キュビスムシュールレアリスム→カラーフィールド→ポップと、20世紀美術の歴史が端的にまとまっていていい。
ジョーンズ作品は鉛製で、一見、灰色の平面に見えるのだが、よく見るとアメリカ国旗になっているのが分かる。
他に、マン・レイやティンゲリの彫刻作品など

金/黄

再びコーネルの作品があり、レジェがある。レジェ作品について、あまり色に着目して見たことがなかった。黄色ないしオレンジで背景が塗られている作品だった。それほど広くない部屋に、黄色、金色、オレンジ色系統の作品が並んでいて、否応なしに色へと目が向く。
ブランクーシがあり、ノイマンの「無題」という作品がこの部屋の中では一番大きな作品。
リキテンスタインの「積み藁」とピサロ「麦藁を積んだ荷馬車、モンフーコー」が並んでおいてあって、なるほど、藁の黄色かーとなる。
山口長男はそのものずばり「黄」というタイトルだが、黄土色っぽいなあという印象

白/透明

2階にあがると、かつて「アンナの光」が展示されていた部屋が「白/透明」というテーマで4作品ほど展示していた。

ロスコルーム

1階最後の展示室は、ロスコ専用室でシーグラム壁画が展示されている。
何度見てもロスコにはやはり心惹かれるが、今回は、オリツキーなどカラーフィールド作家との比較という観点から鑑賞した。
先ほど紹介したブログから、やや長くなるが引用してみたい。

そしてかかる視覚は抽象表現主義がとりわけその形成期に神話や元型、無意識や崇高といった人の力を超えた超越性を主題化したこととの関係において論じられてきた。ロスコでもニューマンでもよい、彼らの色面は一種の不明確さ、晦渋さを湛えているように感じられないだろうか。これに対して「カラーフィールド」の作家たちの色面は視覚的に徹底的に明瞭であって精神性とは無関係である。カラーフィールド・ペインティングとグリーンバーグがその後継者とみなした作家たちとの懸隔は深く思考されるべきである。逆にかくも臆面なき視覚性、明瞭性こそが「カラーフィールド」の特性と考えられないだろうか。

これらの絵画はステイニングやスプレーといったいわば機械的な手法で制作されており、確かに苦悩や超越性といった主題性とは無縁である。それにもかかわらず絵画がこれほどの力を帯びうることに私は感銘を受けたのだ。オリツキーやズーバスの作品を私は初めて見たが、私はそれらを傑作と呼ぶに躊躇しない。

今回の展示から私が学んだ教え、そして今後考えるべき課題は(やや誤解されやすいタイトルが付されているとはいえ)いわゆるカラーフィールド・ペインティング、ロスコやニューマン、スティルら抽象表現主義の第一世代の画家たちと、ここに展示されたポスト・ペインタリー抽象、ルイスやノーランド、オリツキーら後続する世代の画家たちの作品の間の微妙で決定的な相違と関わっている。ペインタリーな抽象絵画という点においてともすれば等し並に扱われてきた彼らの絵画は本質において大きく異なるのではないか。そしてそれを検証する場所としてこの美術館ほど適切な場所はない。なぜなら私たちはこの展覧会を見た後、ロスコ・ルームに足を運ぶことができる
「カラーフィールド 色の海を泳ぐ」 : Living Well Is the Best Revenge


展示会場には、画家の言葉がいくつか引用されていたりするが、カラーフィールドの画家たちは色をどう描こうとしていたかという言葉が選ばれている。とりわけ、オリツキーなどは、霧状の色を描きたいということを述べていたりする。
一方で、ロスコの場合、私は感情を描いているのだという言葉が引かれていたと思う。
オリツキーにとっては、色そのものが描きたい対象だったのだろうが、ロスコの場合、色を描きたいわけではなく、ある色を通して何かを描こうとしていたのだろう。
実際、ロスコ作品を前にした時、それは実感される。オリツキーやズーバスやステラは色を描こうとしているが、ロスコは色を描こうとしているわけではなさそうだ。
最近、圀府寺司『ユダヤ人と近代美術』 - logical cypher scape2を読んだこともあり(あるいはこの本に限らずロスコについては同様のことが言われているだろうが)、見ているとどこか宗教的な何かを感じさせる*3。いや、信仰を持ち合わせていない自分にとって、ロスコが描こうとしていた宗教的な何かなどほとんど理解できていないだろうが、あの独特の矩形は、単なる矩形以上の何かを象徴しているように思える。
一方、オリツキーの霧状の色は、どこまでも美しい(霧状の)色なのであって、何かの象徴とはなっていないように思える。
もっともこれは、展示室のおりなす雰囲気も影響しているかもしれない。
明るく開放的な部屋に展示されていたオリツキーと、暗くどちらを見ても絵が目に入ってくるように展示されていたロスコ。
とはいえ、確かに一見似ているかもしれないが、この両者には違いがあるのだろう。
もっとも自分はどちらも好きで、ロスコに引き続き、オリツキーも自分にとって特別な画家の一人となった。

追記

図録に、加治屋健司による論考「カラーフィールド絵画における非コンポジション」が掲載されている。
また、加治屋にはほかに、
モダニズム美術のパフォーマンス-広島市立大学機関リポジトリ
カラーフィールド絵画とインテリア・デザイン-広島市立大学機関リポジトリ
という、カラーフィールド絵画について論じた論文がある。
モダニズム絵画におけるパフォーマンス」は、一部「カラーフィールド絵画における非コンポジション」と重なる部分もある。
カラーフィールド絵画というと、モダニズム絵画の中に位置づけられ、いわば絵画の純粋性をつきつめたようなジャンルとみなされ、それが故に評価され、それが故に急速に忘れ去れらたが、しかし、実はそうではない側面もあったのではないか、というのが上記3論文に共通する
加治屋の目論見ではないかと思われる。
コンポジションについては、そもそも自分がコンポジションをよくわかっていないところもあって、つかみかねているところがあるが
「パフォーマンス」については、フランケンサーラーのポロックからの影響についてのエピソードから始まっている
「カラーフィールド絵画とインテリア・デザイン」はちょっと面白くて、グリーンバーグが自宅にカラーフィールド絵画を飾っていて、美術館で鑑賞する芸術作品としてではなく、まさにインテリアとしても使用可能なカラーフィールド絵画というものを取り上げている。
いやいや、あんなの部屋に飾れるかよとも思うのだが、グリーンバーグ宅の写真もあって面白い。

*1:まあ、いうて東京駅からバスに乗って100分なのだが

*2:なお、自分はこの記事を見て、この企画展に行くことにした

*3:ところで、これらの作品はもともとレストラン用に依頼されていた作品ではあるのだが

磯崎憲一郎『鳥獣戯画/我が人生最悪の時』

長編「鳥獣戯画」、短編「我が人生最悪の時」、乗代雄介による解説、年譜を収録した文庫
(なお、磯崎のサキの字は、本当は立サキ)
磯崎作品は何故かよく分からないが好きでよく読んでいるが、長編を読むのは7年ぶりだった。まあそんなことは気にせずに読んだけれども。
どちらも私小説的な作品で、どこまで実話かはともかく、作家の磯崎憲一郎が一応語り手となっている。
磯崎作品について、あまり私小説というイメージはなかったのだけれど(「肝心の子供」とか「赤の他人の瓜二つ」とか「電車道」とか歴史ベースのイメージがある)、しかし、「眼と太陽」とか「世紀の発見」とかは、磯崎自身のエピソードも実は織り込まれたりしていて、そういう作品がないわけでもない。
しかし、私小説的とはいえ、「鳥獣戯画」は半分くらい明恵上人の話なので、やはり歴史ベースのところもある。

鳥獣戯画

もとは、2016年2月から2017年8月にかけての『群像』連載

凡庸さは金になる
美人
犬の血液型
逃避行
伴侶
明恵上人
型のようなもの
護符
文覚
妨害
承久の乱
入滅
携帯電話
警官
卒業式
達成なのか? 停滞なのか?
暗黒大陸じゃがたら
佐渡

サラリーマン人生を終えた日に「私」は、高校の同級生だった女性と喫茶店で待ち合わせていたのだが、そこに現れたのは、若い女優だった、というところから始まる。
「私」は、サラリーマン時代の仕事がきっかけで、とある建築家との交友関係があり、テレビで対談番組をもったりもしていた(ところで、あとで年譜を見ると、磯崎憲一郎本人の場合、これに当てはまるのは横尾忠則? 羽生善治?)
で、私と女優は一緒に旅行に行ったりもするのだが、話は、作家と女優のスキャンダルという方向には行かず、女優の半生を辿る方向へといく。ここで、語り手の視点が作家から女優へと切り替わっていくあたりは、磯崎作品によくある奴。
と思っていたら、次は、明恵上人の話へと切り替わる。
作家と女優は、鳥獣戯画を所蔵することで有名な高山寺を訪れるのだが、この高山寺の開祖が明恵上人なのである。
この明恵上人パートが結構長くて、上の目次でいうと「明恵上人」から「入滅」までがそれにあたる。途中で、師である文覚についてあてている章もあるが、とにかく明恵の伝記みたくなっている。
明恵というのは、寺に入るのだけど、そこにいる僧侶がみな俗物ばかりであることに絶望して、なんとかして学究の道を進もうとするのだけど、なかなかうまくいかない。という展開が繰り返される。
1人で山ごもりしようとするけど、生きていくにはどうしても人里との交流が必要だったり、弟子とともに天竺行きを画策するのだけどこれも挫かれてしまったり、晩年に開くことになった寺はある時期から貴族たちに人気がでたりとか。
で、明恵の話が終わると、話はまた作家へと戻ってくるのだが、自分の娘が産まれた20年ほど前の話となり、次いで、娘の名前が実は高校時代の彼女と同じ名前なのだけど、と
高校時代へと話が遡る。
高校時代パートは青春小説として普通に面白い。
80年代の都立上野高校でバンドをしていた「私」は、同じバンドのドラムスが片思いしていた相手と、3年生の時につきあい始める。当然その友人とは関係が悪くなったりする。
また、2人とも受験には失敗して浪人になるのだが、浪人生の時期に恋愛としては安定期になる。友人たちとの合宿。東京藝大の学祭でじゃがたらのライブを見る話。大学入学後、しばらくして別れることになる。
飼い犬が死んだときのエピソードがあるのだが、この飼い犬の話は 「世紀の発見」にも使われている(母親が飼っていた犬で、一度いなくなったのだがまた戻ってきたという話)
乗代の解説によると、「私」や明恵というのは、凡庸さを逃れようとしているが、しかし凡庸になってしまうような人物として書かれている、と


我が人生最悪の時

これは以前も読んだことがあるが、大学時代の話で、まあ「鳥獣戯画」の続きのように読めなくもない。
バレリーナの女性と付き合っていたのだが、別れたあとに、競艇部の先輩とつきあい始めて結婚することになったという話。
そのことに納得いかず、彼女を最寄り駅で待ち伏せて話そうとするくだりがあり、この時の経験が後に小説を書くのに役に立ったとあるのだが、「眼と子供」に確かに同様のシーンがある(彼女の職業が違うが、主人公の心情などはほぼ同じように書かれている)。

年譜

磯崎憲一郎自作の年譜がついているのが面白い

「パレオアート小史」(Mark Witton”The Palaeoartist's Handbook”1章) 

最近、パレオアート(古生物復元画)について少しずつ本を読んだりしており、今回は、パレオアートの歴史について読んだ。
”All Yesterdays: Unique and Speculative Views of Dinosaurs and Other Prehistoric Animals” - logical cypher scape2
Mark P Witton "Patterns in Palaeontology: Palaeoart – fossil fantasies or recreating lost reality?" - logical cypher scape2

本書(The Palaeoartist's Handbook)は、タイトルの通り、パレオアートを描く人のためのハンドブックであるが、第1章がA brief history of palaeoartとなっている。
なお、Paleoart - Wikipediaにもパレオアートの歴史が書かれているが、この本をかなり参考にしているのではないかと思われる。


なお、パレオパートという語だが、1987年にマーク・ハレットの論文でつくられた造語らしい。
あと、スペルについて、アメリカ英語だとpaleontologyで、イギリス英語だとpalaeontologyらしい

パレオアートに関する参考文献

Rudwick(1992) “Scenes from Deep Time”*1
Lescaze(2017) “Paleoart: Visions of the prehistoric Past”
Lanzendorf(2000) “Dinosaur Imagery”
White(2012,2017) “Dinosaur Art” “Dinosaur Art2”

Paleoart before palaeontology

プロトケラトプスがグリフォンに、マンモスがサイクロプスになったという話があるが、これはまあちょっと怪しげな話の部類らしい。
コリント人の壺にも、古生物らしき絵が描かれているとかなんとか
16世紀ヨーロッパで、化石から神話の動物を復元する試み
1590年、オーストリアLindwurmというドラゴンの彫像があり、これも化石を参照している
アタナシウス・キルヒャー『地下世界』(1678)
18世紀ケサイとマンモスからユニコーン

1800-1890: The foundation of modern palaeoartistry

空飛ぶ哺乳類として描かれている
最も古いパレオアート。出版はされておらず、キュビエに送られた

  • 1805年 Boltunovによるマンモスの復元
  • 1800年代 キュビエによる哺乳類の復元図

出版したのは骨格図で、筋肉や軟組織も含めた復元図は私的なもの
1820年代になって出版されるが、扱いは小さい。初期の学者のパレオアートに対する羞恥?

初めての総合的な復元画(見た目、行動、古環境)
多くの複製が作られる
”Jura Formation”が、パレオアートのポテンシャルを広める

ベンジャミン・ウォーターハウス・ホーキンズとリチャード・オーウェン(どれくらい協働していたかははっきりしていないが)
ホーキンズのモデルは、化石生物を生きていたサイズで再現する初の試み
水晶宮は、今日につながるパレオアートの商業化

  • 19世紀後半 Edourar Riou

1863年に出された、Louis Figuierの”La Terre Avant le Deluge”は、パレオアートのシークエンスで通時的に古生物を描いた初の本で、この本のイラストを手がけたのが、Riou
Riouは、ベルヌ作品への挿絵でも知られる
当時すでに時代遅れの復元もあったが、多くの象徴的な主題(水しぶきをあげるイクチオサウルスや闘う恐竜など)を持っていた。

The Classic Era: 1890-1970

  • チャールズ・ナイト

19世紀末、パレオアートを発展させた成果として、本書はアメリカ西部での恐竜化石の大量の発見などと並んで、チャールズ・ナイトの存在を挙げる
ナイトは、アメリカ中の動物園や博物館に作品を作り、1935年からは本も出している。
復元プロセスについて広範に書いた初めてのパレオアーティスト
影響力は非常に大きい。
例えば、1925年の「ロスト・ワールド」や1933年の「キングコング」だけでなく、1960年代のハリーハウゼン作品にも影響を与えている。
ナイトは、動物解剖学への理解があり、復元プロセスについての彼の記述は今日のもとも遜色がない(ただし、爬虫類のものについては奇妙なものもある。これは、専門家によってそうさせられた? 恐竜の絵についてのコメントは残されていない)

  • ナイト以外
    • ジョセフ・スミット

1890年代のイギリス。地学や先史時代の動物についてのポピュラーサイエンス本

    • ハリー・シーリー

1901年に翼竜についての初のポピュラーサイエンス本

    • Gerhard Heilman

1926年『鳥の起源』で、恐竜を、水平な背中、持ち上げたしっぽ、アクティブなふるまいで描いた

    • Heinrich Harder

1913年にベルリン水族館に巨大なパレオアート壁画

    • Rudolph Zallinger

1947年『爬虫類の時代』

  • Zdenek Burian

チェコの画家で、ヨーロッパにおけるナイトのカウンターパート
もともと、フィクション作品への挿絵からキャリアを始める。
1940~60年代の出版されていた本で知られている
解剖学への把握に秀でていて、ある面ではナイトを超えているところもある
ナイトが、博物館のコレクションを通じて制作していたのに対して、ブリアンは、化石へのアクセスに乏しく出版物の記述やイラストに基づていたにも関わらず。
ブリアンも後世への影響が大きいが、その割に知られておらず、コレクションや再出版といった試みが少ない

The Reformation: 1970-2010

恐竜ルネサンス
絵も描ける古生物学者ロバート・バッカー

  • グレゴリー・ポール

バッカーのもとで学んだアーティスト
rigorousアプローチを広める
ポールは、恐竜のような絶滅爬虫類の解剖学を本当に把握した初めての人々の一人
パレオアートのニューウェーブの始まり
1970年代から、多くのアーティストがrigorousアプローチにより制作していた

  • 1990年代

ジュラシック・パークの成功により、パレオアートの人気も高まる
国際的な賞も2000年にできる
しかし、一方で、恐竜ルネサンス以前と変わらないような古い絵も多く残っていた
デジタル技術も影響を持った
フォトリアルな復元なども可能になったが、細部への注目が甘くて、最悪なものになることもあった

the modern day, and post-modern palaeoart: 2010-present

インターネットの広がり
文献などへのアクセスが容易になる

  • All Yesterdays

rigorousアプローチが実は思われていたほど客観的ではなかったのではないか
現生の動物に適用すると信頼できない
科学的な「合理的な思弁」へ

*1:この本は、他でもよく参考文献にあがっている

小川哲『地図と拳』

満洲の架空の町のおよそ半世紀の期間を群像劇として描いた長編小説
中国東北部の田舎町に過ぎなかった李家鎮が、仙桃城という都市へと成長し、満洲国の終焉とあわせて消え去っていく。
一つの街が生まれ消え去っていくまでの物語で、建築や都市計画を巡る物語でもあり、それはひいては満洲という人工国家の寓話でもあるのだろう。そして、拳とは暴力のことで、戦争に翻弄される人々を描いた物語でもある。
義和団事件の直前くらいから話は始まるのだが、日露戦争が終わったあたりからぐんぐんと面白くなっていく。いや、基本的には、死んだり夢破れたりしていく展開なので、面白いというのも語弊があるのだが、ぐんぐんと話が進んでいく感じがでてくる。
後半になってくると、各章の終わりの一つ一つがエモい(?)んだなー


群像劇なので、多くの人物が現れては消えていくのだが、何人かの人物が特に物語の中核を担っている。
まず、細川という男。
最初から最後までほぼ一貫して登場しており、本作の主人公といっていい。
1899年に間諜として初めて満洲に訪れる。この時はまだ学生なのだが、最初から非凡なところを見せ、李家鎮に炭鉱があることを見いだす。日露戦争に従軍し、仙桃城という命名に関わり、満鉄で働いた後、戦争構造学研究所なるシンクタンクを立ち上げる。細川はそこで未来を予測する。
満鉄時代の細川のもとで働いた須野、そしてその息子である須野明男はもう1人の主人公だ。
元々気象学者だった須野は地図に魅せられ、満鉄で新しい路線を計画する仕事へと就くことになるが、一方、気温と湿度を何も見ずに当てられるという能力を持つ、息子の明男は、大学で建築を学び、仙桃城都邑計画という都市計画に携わることになる。須野親子はある意味で2人とも別の意味で細川に翻弄されるわけだが、一方で、細川の思惑を越えていくことにもなる。
中国側の登場人物として、まずは孫悟空がいる。
もちろんこの名前は偽名であるのだが、この男は未来視能力を手に入れ、李大綱から李字鎮を奪い、仙桃城と改名したこの街の有力者として力を持っていく。序盤は、この男がどのように孫悟空となっていくかという話が進むが、途中から登場が少なくなる。
代わりに出てくるのは、孫悟空の血が繋がらない娘である孫丞琳である。彼女は、孫悟空をいつか殺すと決めているほどに憎んでいる。孫悟空が日本人と協力体制にあることもあり、彼女は抗日運動に身を投じている。丞琳らの抗日運動は、しかし、日中戦争の進行とともに共産党八路軍と結びつき、その運動の性質を次第に変えていくことになる。
最後に、もう1人の主要登場人物として、ロシア人神父のクラスニコフがいる。彼も孫悟空と同様、序盤から前半にかけての登場人物で途中からは出番が減るが、物語全体の結末にも強く関わっている。
クラスニコフはもともと、ロシア皇帝の命を受けて中国の測量をすることになった測量班の1人として満洲を訪れる。そして地図を理解できない人々を教化するために、李字鎮で暮らし始めることになる。彼は最初は宣教師という感じだが、義和団事件以後、あらゆる困っている人を助けるというキリスト者となっていく。抗日ゲリラのような政治活動には関わらないが、彼らと近いところでずっと暮らし続けている。


以下、各章の出来事簡単に列挙していく

序章 一八九九年、夏

高木大尉と細川の渡河
軍刀を捨てられない高木大尉

第一章 一九〇一年、冬

クラスニコフ神父と通訳の林と義和団

第二章 一九〇一年、冬

楊日綱が、李字鎮で、李大綱の開いた神拳会の鶏冠山道場で修行を始め、未来を見る能力を手に入れるまで

第三章 一九〇一年、冬

李字鎮へ向かう高木大尉と細川
周天祐が李大綱になり替わった話と、楊日綱が孫悟空になった日

第四章 一九〇五年、冬

日露戦争、高木の戦死
福田と細川が、孫悟空と交渉して輸送隊誘拐事件を解決する。細川が孫悟空に仙桃城という名前を提案する

第五章 一九〇九年、冬

須野と青龍島調査、細川との出会いと満鉄入社
須野と高木慶子との出会い、須野明男誕生(須野明男、逆から読んだらオケアノス)

第六章 一九二三年、秋

明男の子ども時代

第七章 一九二八年、夏

大連での会合、細川が仙桃城を「虹色の都市」にすると宣言
張作霖爆殺

第八章 一九三二年、春

孫丞琳や林、陳らの炭鉱放火計画
仙桃城へついた明男と建国慶祝大会
ダンスホールでの丞琳との出会い
計画決行
鶏冠山集落の虐殺

第九章 一九三二年、秋

憲兵安井による捜査と林と陳の逮捕
丞琳や卲康にダイナマイトを渡す孫悟空
満鉄をやめる細川と満鉄に残る須野

第十章 一九三四年、夏

代官山で、明男、石本、中川らによる勉強会
戦争構造学研究所の開所と細川による「地図と拳」講演
明男の入営と演習、石本が共産党の活動を始め特高に拷問をうける
細川が「仮想内閣」をつくり、石本が入閣する

第十一章 一九三七年、秋

中川の日中戦争
丞琳らが八路軍と合流。明男との再会

第十二章 一九三八年、冬

建材盗難事件による官舎計画の中止と、明男による公園計画
八路軍の黄司令が仙桃城入り

第十三章 一九三九年、夏

安井の盗難事件捜査
八路軍の偽機関銃作戦
仮想閣議の終焉

第十四章 一九三九年、冬

泥棒城島源造
細川と明男の勝負
安井による赤石(仮想内閣海軍大臣)の逮捕
石本と正男(明男の兄、仮想内閣総理大臣)の再会

第十五章 一九四一年、冬

明男に建材の節約をさせる細川
八路軍自己批判と卲康の失脚

第十六章 一九四四年、冬

青龍島はなぜ地図に描かれたのか
仙桃城襲撃と町野軍曹、明男

第十七章 一九四五年、夏

玉音放送を聞く安井
クラスニコフ神父のもとで病床に伏せる孫悟空のもとで、孫悟空の手帳を燃やす丞琳
満州で商売を始める石本
明男と細川の会話
軍刀を捨てる明男

終章 一九五五年、春

仙桃城を再訪した明男、丞琳とともにクラスニコフ神父の地図を広げる

感想

なぜ実在しない島が地図に書かれることになったのかを調査する羽目になる須野が登場する第五章が、まずは一つのターニングポイント
それから、明男と丞琳の出会いや炭鉱襲撃が描かれる第八章、中川の登場と戦争構造学研究所が動き始める第十章、明男が公園を作ることを決意する第十二章、八路軍の仙桃城襲撃がなされる第十六章あたりが、それぞれ盛り上がりどころ


細川というのは、もともと李字鎮=仙桃城に炭鉱を見つけて日本がそこを開発するという計画を建て、その計画も、満州五族協和の理想を具体化させようとするようなものなのだけど、途中で満鉄をやめて戦争構造学研究所を立ち上げる。これは今後の国際政治の動向を予想しようという独自のシンクタンクなのだけど、これが日中戦争・太平洋戦争の予想におおむね成功する。人造石油が作れないことに気づいた細川は、1939年の時点で日本の敗戦を確信し、そこから先は満州からいかに撤退して戦後の日本に資源を残すか、という方向で暗躍していく。
という、満州で暗躍する細川という男のストーリーが一本走っている一方で、須野明男という、ほとんど建築のことにしか興味のない人間が、仙桃城に理想の公園を作ろうとする。それは合理的な都市計画という点で満州的でもあるけれど、細川のような大局的な視点からではなくて、あくまでも明男個人の感覚・才能から作られていく点で、細川の思惑とは重ならない。
これに、明男が建築は時間だと考えたことと、クラスニコフ神父が実在しない島を地図に書き込んだこととが絡み合って、国家とは地図だと考える細川とは異なる地図のあり方が終章に描かれる、というのが、まあ本作のテーマ的なところだろう。


戦争の話という意味では、高木大尉の日露戦争と中川の日中戦争の対比が面白いかもしれない
前者は、勇敢さと臆病さの話なのだけれど、後者は、人間性自己欺瞞の話になっている。どっちも戦死するけれど、後者のほうがより悲惨な話になっているというか。
中川の日中戦争話は、三つの銃声の話も面白い(この銃声の違いがさりげなく丞琳の話でも使われていたりする)


主要登場人物の話は、この記事の最初の方でしたが、それ以外にも魅力的な登場人物がいる。
一人は、石本
明男の大学での先輩にあたるが、明男の才能を知って建築からは離れてしまう。明男とともに仙桃城に行き、帰国後は、明男と中川を引き合わせる。
もともと、日銀幹部の息子なのだけど、左翼運動へと入れ込むようになる。党幹部に裏切られて特高に捕まるが、石本はここで党を売らずに黙秘を貫く。そして、そこを細川に救出されて、戦争構造学研究所へ行くことになる。
石本の物語はここがピークなのだけど、その後、戦争構造学研究所と仮想閣議の話について、読者と近い視点人物として眺めていくのが石本になる。細川や仮想閣議に参加していた赤石などは、早々に日本の敗北を悟るし、またほかの仮想閣議メンバーは戦争に行ったりするのだけど、石本だけは漫然と満州で日々を過ごすことになる。
あんまり活躍はしないけれど、その分、共感しやすい人物である(特高のくだりはともかく)
それから、憲兵の安井
こちらは逆に、完全に皇国の価値観を体現した人物で、現代に生きる読者からは共感しづらいが、行動原理が分かりやすいといえば分かりやすい。
鶏冠山住民の虐殺とか、陳や林の収容所送りとかに、全然倫理的葛藤がない。道徳的不感症になっているわけでもなく、それがよいことだと信じてやっている。
で、太平洋戦争が始まって、満州の重要度が相対的に下がっていく中で、満州での憲兵を続ける安井は、建材盗難事件に対して執念を燃やすようになっていく。それで、暗躍する細川の存在に気づいていくのだけど、彼も彼で独特の哀れを誘う人物である。
中川なんか、完全に戦争に翻弄された人物だけど、中国側でいうと、卲康がそのポジションにあたるだろう。
卲康は、鶏冠山虐殺の生き残りで、抗日運動に関わっていき、丞琳の相棒的立ち位置になり、八路軍が来てからは、副司令の座にいったんはつくものの、結局失脚してしまう。自己反省がなっていないから、という理由で失脚するが、もともと共産党員ではなく、仙桃城出身者である古株だったので、排除されてしまったというもの。
自分たちが住んでいた場所を日本人から取り返し、家族を殺した日本人に復讐するという目的で行動していたはずが、自分たちが住んでいた街を破壊する作戦に参加することになってしまう。
細川は、早々に日本の敗戦を察知して裏で暗躍するけれど、中国共産党真珠湾攻撃の時点で日本が敗けることに気づいて、国民党との戦いにシフトする。卲康は、そんなに深く描かれていないので、そこまで感情移入できる登場人物ではないけれど、そういう中国国内の戦争の変化に翻弄されてしまった人物として描かれている。

Regula Valérie Burri and Joseph Dumit "Social studies of scientific imaging and visualization"

STSにおける、科学の視覚的表象研究についての総説論文みたいな奴
http://www.kana-science.sakura.ne.jp/scientific-illustration/studies.html で紹介されていたので読んでみた。
科学哲学には一応慣れ親しんでいるつもりだが、STS読むのはこれが初めてだったので、ディシプリン違う感じがするなあと思いつつ、まあこれは単に、こういう研究があるよという紹介している論文なので、ふーんという感じで読めた。

科学における視覚的表象の色々なディシプリンでの研究

科学哲学、科学史、ラボラトリー・スタディーズ、STSカルチュラル・スタディーズと様々なディシプリンでそれぞれの関心に基づいて研究されている
本章は、Social Studies of scientific imaging and visualization(SIV)について

IMAGING PRACTICES AND PERFORMANCE OF IMAGES

SIVは、社会的側面に注目しながら、科学的知識の形式としてのヴィジュアルの特徴とは何かを問う。
画像がどのように作られ、使われているかという実践に即して考える
production、engagement、deploymentの3つのトピック
production=誰が、どのように画像を作るのかを、実践、手法、技術、アクター、ネットワークを分析することで説明する。制作物artifactとしての画像
engagement=画像の、科学的知識が作られる際の装置としての役割に注目する。装置instrumentとしての画像
deployment=画像が、非アカデミックな環境にどのように拡散するかを研究し、異なる知識の形式との交流を分析する。研究室の外でどのように使われるか。


ラトゥールやハラウェイやフーコーの名前があった

PRODUCTION

どのように、そして、誰が画像を作るのか
Lynch、Schaffer、Galisonなどの論文を参照しながら、MRIX線CTスキャンなどの例が挙げられている。
MRI画像は、決してニュートラルな産物ではない。


画像を読むことができる人と読むことを許されている人の多様性

ENGAGEMENT

視覚化作業は、暫定的でインタラクティブ。データを意味深くしていく作業の一環。
どのようにして画像は、観察における不確実性を減らし、客観的な知識の生成に貢献するのか。

DEPLOYMENT

医療や地球温暖化、裁判の場などで使われる科学の視覚イメージ
画像は多義的に使われてしまう


画像が自己の身体イメージを形成する
通常と異常の区別
超音波画像が、胎児が患者で妊婦は子宮と保育器であるというイメージを形成

SOCIAL STUDIES OF SCIENTIFIC IMAGING AND VISUALIZATION: OUTLINING A RESEARCH AGENDA

モデルは不完全、視覚化は不完全という考え
ゴンブリッチの「見者のシェアbeholder’s share」