巽孝之『恐竜のアメリカ』

恐竜アメリカ文学史。
以前、恐竜文学研究として南谷奉良「洞窟のなかの幻想の怪物―初期恐竜・古生物文学の形式と諸特徴」東雅夫・下楠昌哉編『幻想と怪奇の英文学4』 - logical cypher scape2を紹介したが、他にも恐竜文学研究をしているっぽい本を見つけたので読んでみた。
ところで、巽孝之って読んでいそうで、意外にも(?)今まで読み損ねていた人だった。単発の文章なら多少読んだことはあるけれど、著作はなんか読むタイミングを逸していたというか何というか。
実際読んでみるとなかなか独特の文章というか、次々と話が進んでいくので、論旨をつかみかねているところもある。
また、恐竜文学研究といっても、恐竜をキーワードにしたアメリカ文学史で、恐竜以外にも鯨の話や進化論の話なども多い。
というわけで、純粋に(?)恐竜が登場する作品についての解説みたいなものを期待するとやや面食らうのだが、アメリカ文学史ないし文化史の再解釈として読むと面白いのだと思う(アメリカ文学史自体に詳しくないので分からないが)。
メルヴィルやトゥエンによるダーウィンや当時の科学に対する風刺的な作品についてや、
コープとマーシュの恐竜発掘競争とバーナムの博物館興業から当時のアメリカの見世物文化と恐竜ブームを結びつけているところなど、個々のトピックについて面白いところは多い。

はじめに
第一章 ニューイングランドの岸辺で
1 一〇〇万年の孤独
2 ネッシーから、始まる
3 限りなく恐竜に近い巨鯨
4 浜辺という名の廃墟
5 レッカー文学史序説

第二章 巨大妄想
1 ダーウィンの黒熊鯨とメルヴィルの白子鯨
2 ロマン主義者のガラパゴス
3 恐竜ゴールドラッシュ

第三章 恐竜小説史の革命
1 ダビデゴリアテ症候群―トウェイン、ヴォネガット、ジェイコブスン
2 神が見世物になるとき―『ゴジロ』を読む
3 白鯨、ハック、ゴジラ―カオス時代の恐竜小説史

第四章 人工恐竜はイディオ・サヴァンの夢を見るか?
1 『ジュラシック・パーク』以前・以後
2 バージェス博物館―『ディファレンス・エンジン』を読み直す
3 怪獣チェッシーはいまどこを泳ぐ?
あとがき
参考文献

各章のキーワードや言及作品などメモ

第一章 ニューイングランドの岸辺で

ブラッドベリ『霧笛』とネッシー
ドラゴンとクジラの区別がついていなかった14~16世紀
自然文学・デイヴィッド・ソロー『ケープ・ゴッド』におけるクジラ
浜辺という廃墟、クジラという死骸、漂着物拾い(レッカー)
レッカー文学からサイバーパンクSFへ

第二章 巨大妄想

19世紀におけるクジラの怪物性(ダーウィンメルヴィル
メルヴィルガラパゴス島体験とダーウィンへの批判・皮肉
バートルビーこそが未開の地の生物?
マニフェスト・ディスティニーと恐竜ゴールドラッシュ
アメリカの巨大妄想
地層や絶滅という概念の浸透。地球というテクストを読む古生物学者と地球空洞説SF
コープとマーシュの争いからバーナムへといたる、博物館文化と見世物文化の合流

バーナム・ブラウンの名前はP.T.バーナムにちなんでいる、というホントかウソかよくわからない話が……

第三章 恐竜小説史の革命

マーク・トウェインカート・ヴォネガットに極大-極小コントラストへの注視を見る
トゥウェインの科学者(古生物学者)諷刺、主人公がコレラ菌になる『細菌ハックの冒険』
マーク・ジェイコブスン『ゴジロ』
アメリカ見世物文化史におけるネイティブ・アメリカンから映画黄金時代へ

第四章 人工恐竜はイディオ・サヴァンの夢を見るか?

恐竜再生とテーマパークを結び付けて、植民地主義的興奮を再生させた『ジュラシック・パーク
『ディレフェンス・エンジン』と古生物、イディオ・サヴァン複雑系
ジョン・バースサバティカル』に出てくる怪物チェッシー


ディズニーランドが出来てテーマパークブームがあったから、クライトンジュラシック・パークが書けたのか

源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか』

サブタイトルは「音楽美学と心の哲学」で、心の哲学、とりわけ知覚の哲学や情動の哲学を用いて、美学の理論構築を行っている本である。
さらにいえば、認知科学の知見も取り入れながらの、美学の自然化プロジェクトの一環として書かれている。
1~5章は、美学一般に関わる議論。全体として、美的判断の客観主義を擁護する議論が展開されており、具体例は音楽の事例が用いられているが、音楽以外にも適用可能な議論となっている。
6~10章は、より音楽にフォーカスした議論を展開しており、音の存在論から始まって最終的には本書のタイトルにあるような音楽と情動(表出)の議論が展開されている。


具体例も豊富で、丁寧な説明とともに議論が展開されていくので、美学や哲学に詳しくない人でも議論を追いやすい本なのではないかと思う。


個人的には、第2章での経験・判断、美的と非美的といった基礎的な概念の整理、また、第3章で美的判断の客観性を擁護する論の展開の中で、評価的側面から美的と非美的の違いを説明しているあたりなど、基本的な部分で改めて勉強になった。
また、第6章の音の存在論もすごく面白かった。音とは、音波(媒質の振動)のことじゃなくて物体(発信元)の振動のことだという説の擁護。


自分は、筆者の源河による下記の著作・訳書・学会発表を読んだり、見たりしているが、本書の内容と深く関連している。
科学基礎論学会WS「現実とフィクションの相互作用」「意識のハードプロブレムは解決されたか」科学哲学会WS「心の哲学と美学の接続点」 - logical cypher scape2(源河亨「美的判断の客観性と評価的知覚」)
源河亨『知覚と判断の境界線』 - logical cypher scape2
ジェシー・プリンツ『はらわたが煮えくりかえる』(源河亨訳) - logical cypher scape2
『ワードマップ心の哲学』(一部) - logical cypher scape2(Ⅱ-16 美的経験と情動 情動は美的評価をもたらすのか、Ⅱ-20 認知的侵入(不)可能性 認知は知覚に影響しうるか(源河亨))
科学基礎論学会ワークショップ「芸術における感情表現」 - logical cypher scape2(源河 亨 - 「作者の感情表出と鑑賞者への感情喚起」)
セオドア・グレイシック(源河亨・木下頌子訳)『音楽の哲学入門』 - logical cypher scape2

はじめに
第1章 音楽美学と心の哲学
第2章 「美しい音楽」は人それぞれ?
第3章 「美しい音楽」の客観性
第4章 心が動く鑑賞
第5章 心が動けば聴こえが変わる
第6章 音を見る、音に触れる
第7章 環境音から音楽知覚へ
第8章 聴こえる情動、感じる情動
第9章 なぜ悲しい曲を聴くのか
第10章 悲しい曲の何が悲しいのか
結論 美学の自然化
あとがき
文献一覧
索引

第1章 音楽美学と心の哲学

本書の方針について
まず、どういう対象を分析対象としているかという点について
歌詞との関係については取り上げてないということと、個別の曲の分析は行わないということが挙げられている
また、「音楽」や「聴取」は、西洋の概念に過ぎないのではという疑念に対してもあらかじめ応答している
それから、美学の自然化について

第2章 「美しい音楽」は人それぞれ?

まず、基本概念の整理として、「美的判断」「美的経験」「美的性質」についてそれぞれ説明されている。
「判断」と「経験」を知覚の例で説明した後、美的判断と美的経験について説明し、さらに美的性質と非美的性質の関係についても説明している。
判断も経験も、対象への性質帰属であり正誤を問うことができる。
が、判断は言語で表せるものなのに対して、経験は非言語的なもので、意識に現れる状態を指す。
美的性質は、非美的性質に依存する。非美的性質を部分に持つ全体(ゲシュタルト


本書は、美的判断の客観主義を擁護する方向で進むが、その前に、客観主義と主観主義をそれぞれ説明した上で、客観主義と実在論が区別できることを、色を例に挙げながら説明している。
つまり、反実在論をとりつつ、客観主義を擁護することも理論上は可能だということである

第3章 「美しい音楽」の客観性

美的判断の客観主義を擁護するためには、美的判断が時に食い違うことを説明しなければらない。
本章では、客観主義の立場にたつ論者の議論が検討されている。
まず、ゼマッハは、客観主義かつ実在論に立つが、標準的観察条件という考えを導入する。適切な知識や感受性を持っているといった条件。
次に、ウォルトンのカテゴリー論があげられ、適切な条件として知識があることが論じられる。
ところで、ゼマッハもウォルトンも美的経験の知覚的側面について論じているが、評価的側面について論じていないという問題がある。
ゴールドマンは、特にゼマッハに対して、評価的側面の議論が不足している点を批判。
美的性質の経験と非美的性質の経験の違いは評価に関連する。
反実在論と客観主義の組み合わせを擁護し、評価的側面について、感受性グループ相対的な客観主義を提案する(例えば、ジャズ愛好家グループとクラシック愛好家グループとでは、ある曲に対する評価は一致しないことはある。しかし、ジャズ愛好家グループの内部では、客観主義が維持される、と)。
レヴィンソンも、知覚的側面(記述的側面)と評価的側面の両方があることを指摘し、前者については正誤が問えることを論じている。
美的判断の客観主義を擁護するためには、知覚に訴えるのは有効そう。
しかし、美的経験の評価的側面も見逃せない。
そのためには、この2つが密接に繋がっている美的経験のモデルを構築する必要がある、と筆者は述べる。

第4章 心が動く鑑賞

前の章からの続きで、知覚的側面と評価的側面を結びつける美的経験のモデルとして、情動に注目したモデルが提案される。
そこでまずは、情動とは何かということから説明される。
情動は、「身体反応の感じ」「感情価」「評価」の3つの要素から鳴ることが説明される。
この情動論は、前述したプリンツ本に依拠している。
情動は、置かれた状況に対する評価である。
例えば、クマが接近していて「恐怖」という情動を覚えるとき、それは危険が迫っているという評価なのである(それはネガティブな感情価に結びつき、逃避行動へと繋がるし、逃避行動をするため、心拍数をあげるなどの身体反応を生じさせる)。
この点で、情動は実は客観性がある。

 
美的経験には、感受性を洗練させる学習が必要
感受性の学習については、それが知覚的学習とは異なることと感受性の可変性を説明する必要があり、情動に訴えることで説明できる
知覚的学習と感受性の学習の違いは、情動反応が伴うかどうかで区別できる
情動反応は、学習によって変化することがある(その一例として、単純接触効果がある)
例えば、ジャズの曲をたくさん聴いて、それらの曲にポジティブな情動を抱くように学習することが、ジャズを聞くための感受性の学習ということになる。

第5章 心が動けば聴こえが変わる

まず、認知的侵入可能性について
1960年代に「観察の理論負荷性」「ニュールック心理学」と呼ばれていたもの。のち、1980年代には「心のモジュール説」の隆盛により下火になったが、近年、再び注目を集めるようになっている。
情動が知覚に影響するという実験結果もある。
なお、認知的侵入可能性について、知覚に影響を与えているのか、知覚から判断に至る過程のどこかで影響を与えているのか、という点で論争があるらしい、本書はこの論争については中立的な立場をとる(どちらが正しいかは問わない)。


筆者は、美的判断の知覚的側面と評価的側面について、認知的侵入可能性で結ばれているというモデルを提案する。
情動が知覚(非美的性質の知覚と、その全体であるゲシュタルト知覚)を変化させ、美的性質の経験がされる。
情動によって評価もなされる。
(なお、知覚に影響を与える評価であれば、情動でなくてもいいのではないか(思考でもいいのではないか)という反論に対して、シブリーによる美的判断の個別主義をあげて、情動である必要性を述べている。個別主義とは、美的判断は、一般法則によってえられるものではないというもの。情動も、一般的な評価を与えるものではなく、個別な状況への評価を与えるものである)
情動や知覚は正誤を問うことができる。
また、情動は適切な学習により得られた感受性によって生じる。
逆に言えば、そのような感受性がないと、適切な美的経験は得られない。

第6章 音を見る、音に触れる

第1章~第5章は、美学一般の話であった(音楽以外にも当てはまる話)。
第6章からは、より音楽にフォーカスした話となるが、第6章はしかし、音楽ではなく「音」の話
本章では、近年の知覚の哲学で支持を集めているという、音の遠位説を擁護する議論が展開される。
この、音の遠位説、一瞬びっくりするのだけど、説明されると「なるほど、確かにその通りだ」としか思えなくなって、すごく面白い。


音の存在論については、3つの説がある*1
1.近位説
音とは、聴覚システムが反応するという出来事である。知覚主体が存在しなければ存在しないので、反実在論
2.中位説
音とは、媒質のなかを伝わる振動(という物理的な出来事)である。知覚主体が存在しなくても存在するので、実在論
3.遠位説
音とは、音波を生み出した物体の振動(という物理的な出来事)である。同じく実在論


音が聞こえる時は、音がどこから聞こえてくるかという音の聞こえ方
例えば、向こうにある机の上で携帯電話が鳴っている時、机の上で音が鳴っているように聞こえる。空気の中を伝わって鳴っていたり、耳や頭の中で鳴っているようには聞こえない。
これが、遠位説の支持理由


恒常性知覚の話や、マルチモダリティ知覚の話からも、遠位説を擁護している。
特に、マルチモダリティ知覚の話が面白い。
聴覚と視覚、あるいは聴覚と触覚は互いに影響しあっていることを示す錯覚の事例がいくつか紹介されている。
こうした錯覚は、聴覚と視覚ないし聴覚と触覚が、ともに同じ対象を知覚するために情報を調整し合っていることを示す
音波は視覚で捉えることはできないが、物体の振動は視覚や触覚で捉えることができる。
つまり、聴覚と視覚・触覚が互いに調整し合いながら知覚している同一の対象とは、物体の振動であり、音=物体の振動とする遠位説は、音のマルチモーダル知覚を説明することができる、というわけである。

第7章 環境音から音楽知覚へ

本章では、音楽とは何かということと、音楽のマルチモーダルな鑑賞について論じられている。
1つ目については、典型的な音楽と環境音を区別しておこうという話で、音楽は人工物であるということが論じられる。
2つ目の、音楽のマルチモーダルな鑑賞が面白い
音楽、特にライブパフォーマンスについては、聴覚だけでなく視覚的にも鑑賞されているのであり、音楽の美的判断するにあたって、視覚情報も大事だ、という話がされている。

第8章 聴こえる情動、感じる情動

芸術作品・パフォーマンスで「悲しい」「怖い」「喜ばしい」などの情動用語を使って記述されるような特徴を「表出的性質expressive property」などと呼ぶ
ここで扱うのは、連合や言語の理解といった場合を除く、という注意がなされたあと、表出的性質が一体なんであるのか、4つの説がまず紹介される。
本章ではそのうち、表出説と喚起説について検討される。
残りの類似説とペルソナ説は、第10章で検討される。
1.表出説
作曲者の情動を伝えるものだという説
2.喚起説
鑑賞者に情動を喚起する力ないし傾向性だという説
3.類似説
人の表出行動と似たものとして認知されるものだという説
4.ペルソナ説
情動を抱く架空の人格(ペルソナ)を想像させ、その人格の情動の表出であるという説


表出説と喚起説の問題は、そもそも作り手や聞き手の情動と、その作品の表出的性質はしばしばしば一致しないということである。
悲しい曲を作る人が必ず悲しみを抱いているわけではないし、
聞いている人も、その曲を聞いて悲しくならなくても、悲しい曲だなという判断はつく

第9章 なぜ悲しい曲を聴くのか

喚起説のもう一つの問題点として、負の情動のパラドックスがある。
悲しみは、ネガティブな感情価を持ち、ネガティブな感情価のある情動を抱くとき、人はその対象を避ける行為をとる。
しかし、悲しい曲を聴いても、人はその曲の鑑賞をやめたりはしない。
悲劇のパラドックスとかフィクションのパラドックスとか、類似の問題は美学には色々ある。


ここでは、音楽を聴いたときに悲しい状態になったとして、それは一体どのように説明されるのかという観点から、「エラー説」つまり、悲しい状態になったのは錯覚で、実際には悲しい音楽を聴いても悲しくなってはいないという説が擁護される。
実際に行われた実験結果などを交えて、エラー説が擁護され、喚起説が退けられている。


また、悲しい曲は悲しみを喚起しないが、音楽情動という特殊な情動を喚起するというキヴィーの見解がここではあわせて論じられている。

第10章 悲しい曲の何が悲しいのか

最後に、音楽の表出的性質についての、類似説とペルソナ説が検討される。
結論からいうと、この二つは音楽美学では区別されているが、実際には大して変わらないのでは、という話がされている。
類似説は、(^_^)という顔文字が人の笑っている顔と形が似ているから「楽しい」を表しているとされるように、悲しい音楽も、そのテンポや抑揚などが悲しんでいる人のしゃべり方のテンポや抑揚と似ているから「悲しい」のだと考える。なお、類似説は輪郭説とも呼ばれる*2
ここでは、人のもつ擬人化傾向に訴えられている。
(^_^)は記号列なので、実際には楽しいという情動を持っていないし、楽しさを表出しているわけでもないが、人はこの記号を擬人化して、表出らしきものがあらわれていると捉える。
一方、ペルソナ説は、音楽とは架空の人物を想像させるものであり、その架空の人物が情動を表出していると考える。音楽の物語的解釈や高次情動の帰属が可能になるという利点がある。例えば、悲しいメロディで始まった曲が喜ばしいメロディに変わるという展開をする曲があったとして、後者の喜ばしさは単なる喜びではなく、希望の表出だといえる、など。


これに対して、類似説とペルソナ説をそれぞれ特徴付ける「擬人化」と「想像」って、そもそも区別できるのか、という点が指摘されている。
類似説は知覚心理学的な説で、ペルソナ説は音楽批評の影響を受けた説で、着想元の違いが説明に用いる概念の違いを生んでいるが、しかし、その概念を担っている心的能力は同じものなのではないか(「水」と「H2O」が概念としては異なるが、指示対象は同一であることを喩えとして出しながら)と論じている。
また、仮に区別しようとするならば、心理学や神経科学の知見が必要となることにも触れている。


個人的には、表出的性質については隠喩説に親近感を持っているので、後半の議論は「ふーん」という感じもしないでもないのだが。
表出的性質も美的性質の一種であって、特別な説明はいらないのではという意味で。
まあ、隠喩は隠喩であまり説明できている感じがしないのでアレなところはあるが。
その点、ゲシュタルト知覚になっているというと少し説明できている感じがする。
さらに、何故情動用語を適用するのかという時に、類似に訴えるのは、まあ悪くはない方針なのかー。
(^_^)が「楽しい」なのは、ゲシュタルトっぽいけど美的性質ではなさそうだし、隠喩でもなさそうで、輪郭が類似しているからとしか言いようがない。
それはそれとして、個人的には、情動用語を適用することについての問題よりも、美的性質を表す用語をどう適用するのかという問題の方が興味があるので、情動にのみ着目している議論にあまりのれないのかもしれない。
「悲しいメロディだな」と判断するのと同じように「重たいメロディだな」とか判断することがあり、音楽はそれ自身が悲しむような主体ではないのと同様、重さという性質を持つような存在者ではないわけなので、何故そういう述語を適用できるのか問題が生じるが、類似では説明できないはず。まあ、ここでいう重いは隠喩だろうな、と。
あるメロディを評して悲しいという時は類似に訴えていて、重いという時は隠喩に訴えている、という風に説明を区別するのもなんか妙な気もしている。

*1:なお、ストローソンやスクルートンが主張する非空間説という4つめの説もあるにはある、らしい

*2:絵画の表出において輪郭説を論じているものとしてD.Lopes "The 'Air' of Pictures" - logical cypher scape2がある

日経サイエンス2022年9月号

第2の天然痘になるか 広がるサル痘  出村政彬

最後だけ読んだ。
今後、ヒトヒト感染を繰り返すと変異が起きて危険→感染者の早期治療が必要
→現在、確かに同性愛者間で広がっているが、感染自体は性別や同性愛者かどうかと関係なく生じるので、感染者への偏見が生じることで治療をためらうようなことがないようにすることが重要

量子コンピューターが化学研究を変える  J. M. ガルシア

まとめ部分だけ読んだ
量子コンピュータなら近似ではない計算を行えるとかなんとか

あなたの内面を探る 感情認識AIの危うさ  J. マックエイド

表情から感情を判定するAIの利用が広がっている、らしい(主にマーケティング分野、広告の効果測定など。しかし、人事採用など様々な用途にも使われ始めている)。
問題点が4つほど挙げられている。

  • (1)偏見の「学習」

これは感情認識AIに限らず、深層学習AI一般において指摘されている問題だが、学習元となるデータにバイアスが含まれている場合、それを「学習」してしまうという問題
感情認識AIについては、男性よりも女性の方が「笑顔」判定されやすい。白人より黒人の方が「不機嫌」認定されやすい、というバイアスがあるらしい。
また、そもそもどこからどこまでが「笑顔」なのか等の問題もある。

  • (2)エクマン説への依拠

感情認識AIは、エクマンによる基本感情説に依拠しているところがある。
機械学習させるにあたって都合のいい説ではあるが、近年はこれを否定する研究も多く出てきている説である。

  • (3)プライバシーの問題

どこで何を見てどのような感情を抱いたのか、というのはプライバシーに関わる情報ではないか。
現在は、個人が特定されない状態なら利用しても問題ないことになっているが、本当に問題はないのか。
本人に同意なく収集することができてしまう問題。
なお、上述のエクマンは、初期の感情認識AI研究に関わっていたらしいが、現在は,プライバシーの問題から批判に回っているとのこと。

  • (4)感情認識の文脈依存性

同じ表情であっても、それがどんな状況で生じたものなのかによって感情は異なる
本記事では、二つの具体例が挙げられている。
一つは、生のビートルズを見て絶叫している女性の写真で、アップと引きの2つが掲載されている。アップで(その女性単体で)見ると動揺しているように見えるが、引きで(周囲の人も込みで)見ると歓喜していることが分かる。
もう一つは、サッカー選手の事例で、サッカーのルールを理解していないと選手がどのような感情を抱いたかは分からないだろう、と。

サラ・ピンスカー『いずれすべては海の中に』(市田泉・訳)

滅法面白く装丁もかっこいい短編集
各SF雑誌で掲載された短編を収録しており、筆者初の単行本である(ただし、邦訳された本としては2冊目。長編『新しい時代への歌』が先に邦訳された)。


まず、内容ではなく装丁の話からする。ジャケ買いに近い感じだったので。
本書も『新しい時代への歌』も竹書房文庫から出ている。竹書房文庫は2015年頃からSFに力を入れ始めているのだが、さらにここ最近だと、坂野公一による装丁で、書店の本棚の中で存在感を放つようになっているように思う*1*2
で、本書の装丁もご覧の通り。
自分はいくつかの書評記事で本書の存在を知ったので、厳密にはジャケ買いとは言えないが、しかし、図書館で借りたり電子書籍で買ったりするのではなく、これは紙の本で買おうと思ったのは、間違いなくこの装丁によるところなので、ジャケ買いしたといえないこともない。


初出はいずれもSF誌であり、どの作品も確かにSFではあるのだが、科学的な設定をゴリゴリ読ませるタイプの作品ではなく、SFではない小説を読んでいる気分にもなる。
いわゆる奇想系なのかなという作品も多いが、いずれの作品も、物語の主眼はそうした奇想にはなくて、人間関係の機微だったりなんだったりにあるように思う。
じっくり染み渡ってくるような叙情がある。
「深淵をあとに歓喜して」が白眉。これはSF成分がほぼなくて、とある老夫婦の物語

追記(20220726)

一筋に伸びる二車線のハイウェイ

コンバインに腕をめった切りにされて高性能義手をつけることになった青年アンディの物語
ところで、この義手のアイデンティティ(?)がコロラドの高速道路だったという奇想が展開されていくのだが、しかしここで描かれるのは、彼を取り巻く人間関係で、特に入れ墨師をしている幼なじみローリとの関係に主眼が置かれている。

そしてわれらは暗闇の中

ある日、世界中で自分の赤ちゃんの夢を見る人たちが現れる。そして、カリフォルニア沿岸のとある岩の上にその赤ちゃんがいると分かり、やってくる。
主人公はそんな中の1人。
パートナーであるタヤを置いて、帰りのキップを買うお金もないのにカリフォルニアへ行ってしまう。タヤは後から追いかけてくれるが。

記憶が戻る日

1年に1度、母親とともに式典へ行く日がある。
読んでいくうちに次第にどういうことなのか分かってくるのだが、かつて、何らかの戦争があり、それがあまりにも悲惨であったために、従軍した軍人たちの記憶が封印されている(<ベール>)。
年に1度、記念式典の日だけその封印が解除される。その日、彼らはかつての仲間と集うとともに、次の年も記憶を封印するかどうかを投票して決めている。
主人公の母親は、やはり記憶を封印されている退役軍人で、父親は既に戦死している。戦争に関わる記憶はまとめて封印されているので、主人公はその日に父親とのことを質問する。
しかし、自分の知らない母親のことを訊けずじまいになったことを悔やむ

いずれすべては海の中に

気候変動により海水面が上がった未来。大富豪は豪華客船で生活をしており、それ以外の多くの人々は滅び行く世界の中で暮している。
海岸でゴミあさりをして生活しているベイは、漂着してきた女性を見つける。人間が漂着するのは珍しくないが、まだ生きているのは珍しく、家へと連れて帰る。
漂着してきたのはミュージシャンのギャビーで、船に乗船していた(大富豪側ではなく、いわばスタッフ側)のだが、その生活に違和感を覚えて下船したのだ。
ベイは、パートナーと生き別れてしまいいつか戻ってくるかもと海岸で暮らし続けている。たまたまベイはギャビーを連れて帰るが必ずしも助けたわけではない。
ギャビーは、1人街へと向かうが、サバイバルに慣れていないので、またもベイに助けられる。
この2人が、友情とも言いがたい妙な関係を結ぶまでの物語

彼女の低いハム音

父親が、亡くなった祖母を機械で作り直す話
父とともにどこかへ亡命する
祖母ではなく新しい彼女と生活をやり直していく

死者との対話

模型作りが趣味の主人公グウェンに、ルームメイトのイライザが依頼をもちかける。
ある殺人事件が起こった家を再現してもらえないか、と。
イライザは、グウェン以外にも友人たちを動員して、その模型の家に質問すると、被害者がそれに答えるという代物を作り上げ、それを販売し始める。
(ちなみにこの受け答えというのは、事件マニアのルームメイトが事件のデータを入力したAIに出力させていて、声は他の友人が吹き込んでいる)
ただ、イライザがグウェンAIを勝手に作ったために決裂する。幼い頃、グウェンの弟が失踪しており、イライザはそのことを知っていた。
ただ、グウェンは自分しか知らないことをAIは答えられないことを確認する。
イライザの方はそのままこの商売で一財産を築くのだが、この話は、イライザの自伝に書かれていないことをグウェンが回想形式で語るという体裁になっている

時間流民のためのシュウェル・ホーム

異なる時間の風景が見えてしまう(時間飛躍する)者たちが共同生活しているホーム
その中でも特に同室での生活を続けるマーガリートとジュディについての掌編

深淵をあとに歓喜して

建築家の夫のジョージが倒れ入院することになった妻ミリーが、彼との過去を思い出しながら、変わってしまった契機に気付く話。
年齢的にはいつ倒れてもおかしくない状況であったが、近くに住んでいた孫のレイモンドが時々手伝いにきてくれたりしながら、2人での余生を送っていた老夫婦。
夫の緊急入院により1人でベッドに入った夜、ミリーは1951年にも1人で眠りについたことがあったことを思い出す。
元々、建築という仕事に深い情熱を傾けていたことに惹かれて結婚したのだが、軍からの要請で出張したのを転機に、彼は仕事への情熱を失ってしまう。帰ってきた日の夜、子どもたちのために庭に建てたツリーハウスの中でうずくまる姿を見るが、その時はその方がよいと思って何があったのかは詳しいことは聞かずじまいだった。しかし、その時に一体何があったのか本当は聞いて共有すべきだったのではないかと後悔する。
翌朝、病院に戻る際に、レイモンドにツリーハウスで捜し物をしてほしいと頼む。果たして、あの夜に夫がしまい込んでいた図面が発見される。
意識を失いながらも手だけが何かを描こうとするジョージに、ミリーは再び寄り添う。
本書収録作品の中で、もっともSF要素の少ない作品で、夫が軍事施設の中で見た「何か」というのが一応SF要素といえばSF要素になっている。夫は「何か」を閉じ込めるための牢獄の設計をさせられ、それにより建築へ夢や理想を託すことができなくなってしまった。
一方で、自宅の庭に、子や孫の希望に従って増築を続けたツリーハウスを作っており、ツリーハウスを作る時だけ、若い頃の情熱を取り戻しているようでもあった、と。
老いた母の意向は無視して、しかし本人としてはよかれと思って、話を進める息子たちや、彼女のことを手伝っている孫のレイモンドだけ、他の子と性格が違うと評されていたり、家族関係の機微がそこかしこにありつつ、長く一緒に暮し続けきた幸せの夫婦の関係に隠されていた暗い事実と、もう一度やり直すことができるはずという仄かな希望のあいまったエンディングが、じわっと浸みる。

孤独な船乗りはだれ一人

船乗りたちが集う酒場・宿屋で働くアレックスが主人公。
入り江の入口にあたる岬にセイレーンが住み着き、入り江から出られなくなってしまった船乗りたち。たびたび挑戦者が出てくるが、いずれも戻ってこない。
子どもにセイレーンの歌声は効かないと信じる船長の一人が、主人公に声をかける。
この主人公、実は男ではなく、女でもない。

風はさまよう

世代間宇宙船を舞台にした、失われた文化・歴史を守ることについての物語。
他の惑星への移住を目的に出発した世代間宇宙船。3世にあたる歴史教師・フィドル奏者の女性が主人公。
この宇宙船は、地球のあらゆる文化を記録したデータベースをもっていたが、出発から数十年後にある男により全て消されてしまう。失われてしまった地球の文化を、宇宙船の住人たちは自らの記憶により復興させていく。
この船に乗っているあらゆる芸術家は、地球で生まれた文化を記憶し引き継ぐことが仕事となった。主人公の祖母は、その運動の中心人物だった。主人公もフィドル楽曲を記憶することを使命としており、彼女が担当している曲のタイトルが「風はさまよう」
曲の楽譜などを覚えるだけではなくて、その曲の由来なども暗記している。
ある日、彼女の生徒の一人が、もう二度と戻ることのない地球の歴史を知ることに何の意味があるのか、より実用的な知識の教育をすべきではないか、と彼女の授業で主張する。その反抗はクラス内へと広がっていく。
彼女の母親と娘も、芸術家が単に過去の地球の文化を記憶するだけで、新しい作品を生み出せないことに反抗していた。彼女は、自身の母親についてはカルト化したと否定的である。一方、娘については、彼女の新曲の中に地球の曲のフレーズが混ぜられていたことに気付き、密かに新しい可能性を覚えている。
宇宙船内で生まれた3世の彼女は、地球の風景を何一つ知らない。1世たちの記憶だけで再現された地球の歴史がどれだけ信用できるものなのかも確かめようもない。そういう状況下で、歴史を語り継いでいくとはどういうことなのか、何故それに意味があるのかを彼女自身が改めて認識し直していく物語

オープン・ロードの聖母様

長編『新しい時代の歌』の主人公ルースが主人公。『新しい時代の歌』からさらに時代がすすんでおり、主人公も中年になっている。
自分は『新しい時代の歌』は未読だが、この短編は、これだけ独立して読んでも分かるように書かれている(というか、そもそも長編発表前に書かれている?)。
パンデミックによって、ライブなどが規制されてしまった未来が舞台で、多くの音楽活動はホロというバーチャル・ライブへと移行してしまっている中、主人公たちはリアルでのライブに拘って貧乏全米ツアーを続けている。

イッカク

これもまた表だったSF要素は少ない話だが、その要素が効いている。
主人公は、亡くなった母親の車を故郷まで運ぶので運転を手伝って欲しいという仕事の依頼を引き受けるのだが、当日現れた車は、クジラの形をしていた(普通の自動車の上にクジラのガワをつけている)。
依頼人も、母親がこんな車を持っていたとは全く知らなかったという。
主人公は、ほぼアメリカ横断となる行程なので、観光ができるのではないかとこの仕事を受けたのだが、依頼人は日程を守ることに厳しく、全く寄り道をさせてくれない。
とある田舎町に泊まった際、こっそりと抜け出して訪れた博物館で、町に起きた爆発事件を再現したジオラマの中にクジラの車を見つけるのだった。
はっきりとは語られないのだが、依頼人の母親がどうもヒーローだったっぽい。その町の博物館は、記録されていないその活躍を、ひっそりと記録しようとしたものだった。

そして(Nマイナス1)人しかいなくなった

並行世界ミステリものにしてアイデンティティSF
並行世界との往来が可能になった世界で、それぞれの世界のサラ・ピンスカーを集める会が開かれる。
保険調査員をしているサラは、その招待状の招きに従って、その島へと訪れる。そこで何百人もの自分と出くわすことになる。
みな自分でありながら、少しずつ異なる自分たち(職業、住所、髪型や服装が違っていたり、姓が違っていたり、場合よっては性別が違う者も若干名いる)
この会の主催者であり、そもそも並行世界を行き来する方法を発見した量子形而上学者であるサラ・ピンスカーの死体が発見される。
会場となったホテルの支配人であるサラ・ピンスカーは、探偵(正確には保険調査員)であるサラ・ピンスカーに調査を依頼する。
容疑者も被害者も目撃者もみんなみんなサラ・ピンスカーという奇妙な状況で、主人公は調査を開始する。そもそも動機は一体何なのか。そしてある種の入れ替わりトリックが。
登場人物みんなサラ・ピンスカーという状況が(そして主人公のどこかちょっとのんきなところと相まって)少なからずユーモラスな雰囲気を漂わせている作品なのだが、人生の中の無数の選択や分岐点で枝分かれした多数の自分たちの中で、一体どの人生が幸福なのか、失ったものをまた取り戻すことはできるのか、という、どこかイーガンのアイデンティティSFを想起させるようなテーマが展開されている。

*1:自分はあまりコンスタントにチェックできていなかったのだが、本書を探しに書店に訪れた際に、竹書房文庫の一角が独特のセンスで統一されていることに気付いた

*2:読んだ当時、デザイナーの名前まで意識してなかったが大森望編『ベストSF2021』 - logical cypher scape2も坂野公一によるもののようだ

春暮康一『法治の獣』

地球外生命SFの中編3篇を収録した作品集。
3篇中2篇がなんとバッドエンドなのだが、それも含めていずれも面白い作品
地球人類が太陽系外に有人探査できるようになった未来で、3作品とも同一の世界を舞台としている(作者により「系外進出」シリーズと称されている)。また、筆者のデビュー作である「オーラリメイカー」も同様とのことで、こちら未読だったが気になってきた。
同一の世界を舞台としているものの、物語や登場人物のつながりは特にないが、「主観者」で起きた出来事は人類史上最悪の事件の一つとされているらしく、「主観者」からおよそ1世紀後を舞台としている「方舟は荒野を渡る」でも言及されているほか、「オーラリメイカー」でも言及されているらしい。

  • 主観者

地球外生命体を探索する「アルゴ」プロジェクト
そのプロジェクトの探査船の一つが、とある惑星へと接近することになり、乗員が冷凍睡眠から覚めるところから始まる。
なお、彼らは「客観者」と呼ばれていて、自分たちのバイタルをセルフモニタリングしていて感情的にならずに観測できるような身体改造がされているほか、互いに感情などをシンクロすることができる。
彼らは、その惑星で生命を発見し「ルミナス」と名付ける。
光を放っている群体なのだが、この光が実は言語なのではないかという仮説をたてる。
「大使」ドローンを作り、ある個体との接触を試みるのだが、この接触が「自閉」という大惨事を引き起こしてしまう。

  • 法治の獣

惑星「裁剣」では、地球のシカのような見た目の動物シエジーは、群れの中で自然とルールを形成して暮している。
「不快衰弱」という独特の性質を持っていて、不快度が高まると衰弱して、死んでしまう。そこでシエジーは、群れの中での不快度がもっとも低くなるように振る舞う。いわば、天然の功利主義者。例えば、ある個体が別の個体を攻撃したとすると、攻撃した側の不快度は下がるかもしれないが、攻撃された側の不快度が上がる。群れ全体で不快度があがるようであれば、攻撃した側にペナルティを加える。しかし、ペナルティを加えすぎると、また群れ全体の不快度が上がってしまうので、量刑が決められている。
これを自然法と見なし、人間に適用する実験を行っているのが、スペース・コロニー「ソードⅡ」
主人公は、進化生物学者としてシエジーを研究するため、月から移住してくる
というわけで、この話は一方では、シエジーの生態と進化を明らかにするという話なのだが、その一方で、というかよりメインの話としては、このコロニー自体の謎を巡って進んでいく。
というのも、このコロニーの住人の構成割合が、神秘主義者に偏っているのである。つまり、シエジーを神聖視している人々が暮しており、主人公のようにシエジーを科学的に研究している人たちとは価値観があわない。もっとも表面的には対立はなく、お互いに相手の価値観に触れないように普段は生活している。
シエジーの生態の話も面白いが、スペースコロニーの生活の描写も面白い。主人公は月から移住してきたので風景や重力の違いに慣れない描写がある。
地理的に隔離されていた地域で分化していたシエジー集団が、凶暴性を獲得しており、これが成功裏に終わると思われていた「ソード2」計画を破綻させてしまう。

  • 方舟は荒野を渡る

テラフォーミング計画のために各地に送られた探査船の一つで、冷凍睡眠していた監査官が目を覚ます。
この探査船には、研究者が2人、監査官が1人乗っていて、研究者2人が計画に対して反抗していることを察知して監査官が目覚めたという流れ。
その惑星は、3つの惑星がある惑星系の第2惑星なのだが、第3惑星により軌道が不安定化している。太陽のあたる領域はハビタブルなのだが、その位置が一定しない。
ところが、この惑星の生命たちはバブルドームのようなものをつくり、その中で生態系を維持し、ドーム全体が太陽の位置にあわせて移動していくことで生存している。
2人の研究者はこれを「方舟」と名付け、さらに知的生命体が存在する可能性を監査官に示す。もし知的生命体がいればおいそれとテラフォーミングすることはできなくなってしまう。
この研究者と監査官とが、立場の違いにより対立しつつも、しかし方舟の実態を調査するにあたっては半ば協力しながら話が進んでいく。
方舟は、地球人と比べると小さいサイズでその中に多種の生命がひしめき合っている。ドローンから撮影した映像を元に作ったVR空間の中に入って研究しているシーンが面白い
「方舟」は系全体で一つの知性だったのだ、というのは、わりとよくある話だが、その知性とコミュニケートするための方法がなかなかすごい(土木的言語)。
さらに、それとは別の知性体もいたというひねりが加えられていて、地球人も含めて3種のスケールが全く異なる知的生命体が互いにコミュニケートしようとする話となっている。
不要なコンタクトが仇となってしまったルミナスとの話と対になるような話で、地球人類は仇となるばかりではないよ、という前向きなエンドになっている。

筒井清忠編『大正史講義』【文化篇】

タイトル通り、大正文化史についての本。全27章で様々なジャンルについてオムニバス的に書かれている。
目次をぱらぱらと眺めたときに、小林一三に2章さかれていることに目が行き、そのほかにもメディア論的な話題が多くて面白そうだなと思い手に取った。
大衆文化の話が多く、微妙に知ってるけどよくは知らなかったみたいなものが多くて、面白かった。
章ごとに書き手が異なることによるバラバラ感がないわけではないが、いずれの章も同時代のことを論じているので、同じ固有名詞に度々出くわす。章の並び自体も、近い話題が連続するように配置されており、「あ、この人の名前、さっきの章にも出てきたな」となり、立体的に見えてくる感じがする。
また、筒井清忠編『大正史講義』 - logical cypher scape2と関わってくるところもあった
諸々、現代に繋がる文化の原点がここにあったのかーと思わせるものがある。
大正時代のことあまりよく知らなかったが、西暦でいうと1914年~1926年であり、自分は欧米の大戦間期の文化史とか好きなので、大正文化史もそりゃ面白いよな、と

はじめに……筒井清忠
第1講 吉野作造民本主義……今野 元
第2講 経済メディアと経済論壇の発達……牧野邦昭
第3講 上杉愼吉と国家主義……今野 元
第4講 大正教養主義――その成立と展開……筒井清忠
第5講 西田幾多郎と京都学派……藤田正勝
第6講 「漱石神話」の形成……大山英樹
第7講 「男性性」のゆらぎ――近松秋江久米正雄……小谷野 敦
第8講 宮沢賢治――生成し、変容しつづける人……山折哲雄
第9講 北原白秋と詩人たち……川本三郎
第10講 鈴木三重吉・『赤い鳥』と童心主義……河原和枝
第11講 童謡運動――西條八十・野口雨情・北原白秋……筒井清忠
第12講 新民謡運動――ローカリズムの再生……筒井清忠
第13講 竹久夢二と宵待草……石川桂子
第14講 高等女学校の発展と「職業婦人」の進出……田中智子
第15講 女子学生服の転換――機能性への志向と洋装の定着……難波知子
第16講 「少女」文化の成立……竹田志保
第17講 大衆文学の成立――通俗小説の動向を中心として……藤井淑禎
第18講 時代小説・時代劇映画の勃興……牧野 悠
第19講 岡本一平と大正期の漫画……宮本大人
第20講 ラジオ時代の国民化メディア――『キング』と円本……佐藤卓己
第21講 大衆社会とモダン文化――商都・大阪のケース……橋爪節也
第22講 大衆歌謡の展開……倉田喜弘
第23講 発展する活動写真・映画の世界……岩本憲児
第24講 百貨店と消費文化の展開……神野由紀
第25講 阪急電鉄小林一三――都市型第三次産業の成立……老川慶喜
第26講 宝塚と小林一三……伊井春樹
第27講 カフェーの展開と女給の成立……斎藤 光

はじめに……筒井清忠

大正というのは、大衆が登場してきた時代
一方、エリート文化というのが日本ではうまく育たなかったことを指摘する。エリート文化と大衆文化の区別が未分化

第1講 吉野作造民本主義……今野 元

吉野作造は、親英米派で、西欧近代化とナショナリズムの両立を信じる言論人、というような感じらしい。
ヨーロッパ留学中は、キリスト教会史について研究したが、帰国後はそれについてはあまり話題にならず。
第一次大戦の際『中央公論』で日本の対独戦を肯定し、ドイツ批判したことで有名に。
1918年、愛国団体の浪人会と対立する事件が発生。この時、吉野を応援していた学生たちが「新人会」を、吉野を支援する言論人が「黎明会」をそれぞれ結成
ただ、吉野は保守派勢力とも友好的で、先の対立でも最後には天皇万歳で会を終えているし、笹川良一と昵懇になったり、大川周明の博士号取得に協力していたりしたらしい。
楽観主義的で玉虫色なところがあったようで、死後における吉野に対する評価というのも賛否両論だ、ということが書かれている

第2講 経済メディアと経済論壇の発達……牧野邦昭

東洋経済新報』『ダイヤモンド』『中外商業新報』(のちの日経新聞)『エコノミスト』といった、現在にもある経済紙誌がこの時代に創刊されたのは、全然知らなかった。
経済雑誌自体は明治期に誕生、大正に入り、大戦ブームが経済メディアを発展させる
東洋経済新報』は「小英国主義」の影響をうけて「小日本主義」を提唱。その後、入社してきた石橋湛山もこの路線で大日本主義を批判。
一方、大正2年に創刊された『ダイヤモンド』は、業績評価など会社評論を主とし、投資のための情報を提供した。これにより、経済メディアは(論説よりも)会社評論が主流となっていく。
また、明治期に創刊した『中外商業新報』は、大正期の代表的な経済新聞となり、一方で、大阪毎日新聞社が発行した『エコノミスト』も新聞社発の経済雑誌として部数を伸ばし、大阪が拠点だったので、関東大震災以後いち早く刊行できたことも功を奏した。
学術経済誌は明治期にもすでに『国民経済雑誌』や『三田学会雑誌』があったが、さらに京都帝大の『経済論叢』、東京帝大『経済学論集』、東京商科大(のちの一橋大)『商学研究』が創刊される。当時、時事論説なども掲載していたため、『経済論叢』などは一般の読者にも読まれていたらしい。
また、河上肇は『貧乏物語』ののち『社会問題研究』という個人雑誌を刊行し、マルクス主義研究などを掲載、最大で5万部までいったとか。
明治期の経済雑誌に書かれていたような論説記事は、総合雑誌へと場を移す。『中央公論』では吉野作造の他、黎明会設立者である経済学者の福田徳三や河上肇が寄稿し、1919年に創刊された『改造』では誌上論争が盛んにおこなわれた、と。

第3講 上杉愼吉と国家主義……今野 元

上杉は、東京帝国大学法科の教員で、ドイツ留学をしている
憲法の解釈をめぐり美濃部達吉と対立、また、第一次大戦後は吉野作造とも対立せざるをえなくなり、言論活動を行うようになる。
議会政治を懐疑しつつ普通選挙運動家でもあった。

第4講 大正教養主義――その成立と展開……筒井清忠

もともと、明治期において「修養主義」というのがあり、Buildingの訳語として修養があてられた。一方、教養はeducationの訳語だった。
東京帝国大講師ケーベルの影響を受けて、和辻哲郎がBuildingの訳語として教養を使うようになり、ここから、教養という言葉が定着していく。
旧制高校が増えていき、学生たちの間で教養主義が広まりを見せるが、大正後期には、教養主義はかげりをみせ、学生たちはマルクス主義へと傾倒していく。
しかし、筆者は、マルクス主義教養主義は対立していたというよりは相補的であったと指摘している。

第5講 西田幾多郎と京都学派……藤田正勝

教養と文化
西田幾多郎のT・H・グリーン研究
教養主義
人格主義
文化主義
ドイツの文化哲学の影響
カントおよび新カント学派の研究

第6講 「漱石神話」の形成……大山英樹

夏目漱石の死後、主に漱石門下生を中心に一種の「漱石神話」が作られていき、「文学青年」というよりは「哲学青年」の中で漱石が受容されていくという話
「則天去私」について、漱石の死後、弟子たちが宗教的教義のようにとらえていく(現在の文学研究者からは、小説の方法論を述べたものだろうと考えられている)。
特に、小宮豊隆によって漱石は聖人化され、作品が小説というよりは思想書のように読まれるようになる。
また、岩波書店岩波茂雄は『こころ』の出版に協力しており、漱石作品の出版をてがけているが、岩波書店は大正教養主義をになった出版社でもある。
高学歴層の教養の書となっていくのだが、一方で、そうした「岩波文化」「教養主義」は一部の層のものとして批判もされ、戦前の漱石も読者を選ぶ作家であったという
戦後になり、江藤淳が新しい漱石像を提示。
ただし、筆者は、江藤の漱石像は一方では小宮による漱石像に代わるものでありつつ、他方で、小宮による漱石像を引き継いだものでもあることを指摘している

第7講 「男性性」のゆらぎ――近松秋江久米正雄……小谷野 敦

「恋に狂う男」の誕生
近松秋江の描いた「情けない男」
面白いが読まれなかった秋江
振られた男への同情で売れた久米正雄
中産階級の女性人気を得た「童貞」的青年像
新たな青年像を生んだ大正という時代

第8講 宮沢賢治――生成し、変容しつづける人……山折哲雄

雨ニモマケズ斎藤宗次郎
「デクノボー」願望
「ヒデリ」と「ヒドリ」
方言と高村光太郎
宗教と文学
賢治像の行方

第9講 北原白秋と詩人たち……川本三郎

国や家のために生きるといった価値観の強い明治世代の父親と、芸術や小説などに価値を見出す大正世代の息子という世代間対立から、北原白秋らの詩人(むろん大正世代にあたる)を見る
彼らの少し上の世代に永井荷風がいて、憧れの存在

第10講 鈴木三重吉・『赤い鳥』と童心主義……河原和枝

鈴木三重吉による『赤い鳥』の創刊と、そこにみられる、あるいは大正時代における童心主義について
ここに見られる童心礼賛は、のちに批判されていくことになるが、当時の時代的思潮でもあった。
日本で最初の創作児童文学は、巌谷小波によるもので、以降、巌谷は「お伽噺」を多く発表していく
一方、鈴木は漱石門下のロマン主義的作家で、お伽噺ではなく童話、唱歌ではなく童謡と新しい呼び方をつけて、子供の純粋さのための芸術運動を作ろうとしていく
『赤い鳥』に出てくる子どもとして「弱い子」というモチーフがある。
筆者はこれを、当時人気だった『少年倶楽部』と比較する。『少年倶楽部』に出てくる子どもは、立身・英雄主義的で行動するよい子であるのに対して、『赤い鳥』の子どもたちは平等主義・コスモポリタニズム的で内面の問題を重視する
こうした「弱い子」の物語はセンチメンタリズムともつながるが、それは、大正という時代の気分でもあったという
また、弱さを通して理想を描く作家として、小川未明の名前があげられている。
純真無垢な子どもというイメージは、ある種の観念的なものでもあって、だからこそ後に批判されることにもなるが、だからこそ芸術運動ともなりえた。
また、それはヨーロッパのロマン主義に由来する考えだが、一方で、それが土着的・伝統的なものとも結びついて、日本独特のものともなったという。北原白秋は、童謡を各地に伝わる「わらべうた」の復興ととらえ、また、相馬御風によって、良寛が童心の人として取り上げられるようになったなど

第11講 童謡運動――西條八十・野口雨情・北原白秋……筒井清忠

この章の筆者(であり本書の編者)は、『西條八十』という単著もあり、筒井康忠編『昭和史講義【戦前文化人篇】』 - logical cypher scape2でも、西條八十の章を書いている。
西條は、野口雨情の詩集を読んだことで詩人を志すようになる。
『赤い鳥』の鈴木三重吉が、同人誌で発表された西條の詩を読んで寄稿を依頼する
野口は、不遇をかこっていた時期があり、その野口を詩人として復活させたのも西條。野口は、「七つの子」「赤い靴」「しゃぼん玉」などの童謡をかき、また「船頭小唄」が映画化される大ヒットとなったが、これは退嬰的と批判されるほどだった。
北原白秋は野口のことを嫌っており、また、白秋と西條との間にもかなり対立があったらしい。この章の記述を見るかぎり、白秋がかなり感情的で大人げない感じではあるが、西條も西條も嫌な奴なところはあるな、と思う。
西條は、童謡だけでなく詩論も書けるし大人向けの詩も書けるし色々できて、童謡からは身を引いたらしい。一方、白秋は、姦通事件以後の復帰を童謡に賭けていたところがあったらしい。
また、西條は白秋に対してなかなかすごいことを言っていて、自分(西條)が白秋よりもポピュラリティーを獲得した結果、白秋は大衆化せずにすんだのだ、と。
(白秋の方は、西條の方が人気があるので西條のことを嫌っていたと思われるのだが、それに対して西條は、自分の方が人気があったからそれに対抗する意味で白秋は高尚な芸術路線を維持できたのだ(もし白秋よりも人気のある自分がいなかったら、白秋は大衆化した質の低い作品を書くようになってしまっただろう)というようなことを言っているというわけ)
この章では、西條が見出した金子みすゞについても述べられている。
現在では、西條よりも金子の方が有名であるが、金子は西條の雑誌へ投稿してデビューして、西條の強い影響下にあったとのこと。

第12講 新民謡運動――ローカリズムの再生……筒井清忠

引き続き、西條八十と野口雨情関連


「民謡」概念の成立
地方民謡の東京進
西條八十による民謡の発見
全国化した地方民謡の代表曲
野口雨情と新民謡運動
地方・民衆の逆襲
ローカリズム確立競争

第13講 竹久夢二と宵待草……石川桂子

竹久夢二について、名前と美人画についてはおぼろげながら知っているが、伝記的なことは全く知らなかったので面白かった。なお、本章の筆者は竹久夢二美術館の学芸員
幼い頃から絵を描いていたが、貧しい家庭だったので美術の学校には進学せず、雑誌への読者投稿を経てデビューする。
挿絵画家あるいはグラフィックデザイナー的な仕事で、雑誌の挿絵やタイポグラフィなどやっていたようだ。個展を開いて原画を売ったり、画集を売ったりしている。
最初の妻とは出会って2ヶ月というスピード婚だが、数年後には離婚している。しかし、離婚後もくっついたり離れたりを繰り返していたらしい。最初の妻以外の女性とも恋多き感じだったらしい。
で、旅先での失恋を詠んだ詩「宵町草」を発表、これを他の人が作曲し、夢二の装丁により楽譜を出版。それがさらにレコードとなり、という、大正時代のメディアミックスをやっていたらしい。
また、「港屋絵草紙店」という自身のグッズを販売するファンシーショップのような店もやっていたようで、大衆文化・ポピュラーカルチャーな人という感じで、そういうのを全然知らなかったので勉強になった。
ところで、大正時代の文化を「大正ロマン」と呼ぶことが多いが、これは一体いつからどのような経緯で呼ばれるようになったのか、ということも最後に論じられている。

第14講 高等女学校の発展と「職業婦人」の進出……田中智子

はいからさんが通る』で描かれる女学生と職業婦人について
女子への中等教育として中学校とは区別された高等女学校の規格化の結実として、1899年に高等女学校令が成立
ただ、高等女学校令における「高等女学校」を名乗るには宗教教育をしないことが条件で、すでに存在していたキリスト教系の学校は対応が分かれた
また、『はいからさんが通る』のモデルとなった跡見女学園も「高等女学校」にはならなかった(ならないことで、家政系科目の時間を多くとった)
1910年、家政系の科目を中心とした「実科」もでき、学校数がさらに増えていく。高等女学校とはあえてならなかった各種学校の生徒も含めると、男子の中学生を上回る数だったらしい。
いわゆる良妻賢母教育も見られたが、高等女学校が「高等普通教育」を目指すのか「家政教育」を目指すのかというのは争点となっており、ニーズの高まりもあり、高等普通教育へと向かっていく。
職業婦人については、一体だれをその範疇に含めるかについて論者によって結構ばらつきがあったという話

第15講 女子学生服の転換――機能性への志向と洋装の定着……難波知子

日清戦争後は、女子の学生服としては袴だったが、第一次大戦後、欧米の活動的な女性の姿が知られるようになるにつれて、洋装化がすすむ
学生服としては、制服とした学校と自由とした学校に分かれた。
この当時、まだ洋装は作り方もあまり知られていないし、着こなし方も分からないので、制服とした学校が多い一方、自分にあう服を自分で決めるのも教育の一環として自由とした学校もあった、と。
大正においては、制服にせよそうでないにせよ、学生服と職業婦人の洋装とはあまり区別がなく、「バスガール」と間違われたなどの証言が残っていたりするらしい。
セーラー服は、1920年代にはキリスト教系の学校で制服として採用されていたが、1930年代になって公立学校でも制服として採用されるようになる。さらに、先に述べた服装自由としていた学校でも、半数以上がセーラー服を着用するようになっていく。これにより、学生服と職業婦人の服が分化する。また筆者は、制度だけでなく流行の影響力の大きさを指摘している。

第16講 「少女」文化の成立……竹田志保

教育の拡充とともに雑誌メディアの需要も増え、子供向け雑誌として『少年世界』などが明治期に創刊される。当初は、少年と少女の区別はなかったが、1895年に『少年世界』内に「少女欄」が開設。また、そこで初の少女小説も書かれたという。ただし、そこで書かれた少女小説は教訓性が強すぎ、悲劇的なものも多かったので人気がでず、いったん閉じられる。
高等女学校令以降、増大するニーズに伴い、1900年代には少女雑誌の創刊が相次ぐ
「良妻賢母」規範から逸脱するような少女像を描く小説も出てくる一方で、新たな少女らしさ規範が出てくる。巌谷小波らによって書かれる「愛」の論理で、「愛をもつこと」という自発性と「愛されること」という受動性が巧みにすり替えられるような規範だったと、筆者は論じている
また、少女雑誌において重要だったのが、読者投稿論だったという(本田和子による指摘)
「紅ばら」「白露」などのペンネームを使い、「私もよ」「ですって」「おふるいあそばせ」などの「てよだわ言葉」などが用いられたという
今流行りの(?)お嬢様言葉だ……! 
投稿欄からは、尾島菊子、今井邦子、尾崎翠吉屋信子らが登場した
吉屋信子の書いた少女友愛小説とエスについても、本章では論じられている。
エスというのは、当時「仮の同性愛」として性科学でも論じられていたらしいが、これは異性愛規範を侵犯しないものとして、安全化するための言説であって、実際の当事者たちにはもう少し多様な実践があっただろう、と。

第17講 大衆文学の成立――通俗小説の動向を中心として……藤井淑禎

もともと「大衆文学」という言葉は、時代小説をさす言葉として使われており、現代小説の方は「通俗小説」と呼ばれていた。
本章は、主に通俗小説について
明治末頃に「家庭小説」という呼び名で登場したが、その呼称は10年ほどですたれ、通俗小説と呼ばれるようになる。
新聞拡販競争や大衆雑誌ブームの中で、通俗小説は書かれた
純文学と通俗小説はしばし対置されるが、例えば、通俗小説とされる長田幹彦の「霧」の連載は、漱石の「行人」と「心」の連載の間であり、三角関係を描く「行人」や「心」を通俗小説と言うこともできるのではないか、とは筆者の指摘。
『講談倶楽部』と『新青年』が、通俗小説の発展に貢献。
『講談倶楽部』は、岡本綺堂中村武羅夫長田幹彦の三人が初期の功労者。
新青年』には冒険小説、学生小説、科学小説、歴史小説、未来小説、そして探偵小説がおかれ、1923年に「二銭銅貨」が登場。
1926年、白井喬二を中心に『大衆文藝』が創刊されるが、これは時代小説家の集まり
通俗小説は『現代長篇小説全集』『長篇三人全集』などに集成されるが、後者の3人とは中村武羅夫加藤武雄、三上於菟吉

第18講 時代小説・時代劇映画の勃興……牧野 悠

時代小説の源流は講談
大正期に流行した講談本が「立川(たつかわ)文庫」、関西圏の少年労働者が歓迎、のちに川端康成坂口安吾高見順なども幼少期に親しんだ。口演の筆録ではなく、玉田一家*1による書き下ろし。猿飛佐助などがヒット。
講談師問題と『講談倶楽部』の〈新講談〉(大正2(1913)年)→正宗白鳥巌谷小波平山蘆江長谷川伸
同時期、中里介山の『大菩薩峠』連載開始。ただし、人気が出たのは大正10年ころ。
岡本綺堂が、ホームズ物に刺激を受け、1917年に「半七捕物帳」スタート
『講談雑誌』からは、白井喬二国枝史郎が登場
関東大震災で、職を失った野尻清彦が、大佛次郎の筆名で鞍馬天狗シリーズをスタートさせる
また、やはり関東大震災による負債で東京を離れた直木三十三(のちの三十五)が、大阪のプラトン社から『苦楽』創刊。仇討ちものを書き始める。
「大衆」は元来、僧侶の集団を意味していたが、白井は1924年ころから「民衆」の意味で「大衆」を使う。時代小説家を集めた会の機関誌として『大衆文藝』。まだ、時代小説という呼称も出てくる。
『大衆文藝』グループとは異なる流れから出てきた新人が吉川英治
映画界で、時代劇という呼称が定着するのも大正末期

第19講 岡本一平と大正期の漫画……宮本大人

明治から大正への漫画の変化として
・雑誌から新聞へ
・政治諷刺から社会・風俗諷刺へ
・漫画漫文形式の流行
・漫画家の社会的地位向上
があげられる。岡本一平は、このすべての点で代表的
北沢楽天の政治諷刺漫画は、楽天自身の立場・意見から描かれたが、一平の諷刺漫画は、政治家を「ただの人間」として描く。その意味で「民主主義」的だったが、一平自身の政治的立場から描かれているわけではなく、一歩引いたところから見ている、脱政治的なものであった。
明治の後半において、漫画は言葉なしで絵だけで成立するものを目指したが、一平は「漫画漫文方式」というスタイルを確立させていく。絵の横に文章を書き、漫画家が絵も文も書く。ルポやエッセイ、そして「漫画小説」を描いていく
また、漫画家たちを集めた東京漫画会を結成。漫画展覧会などを行い、地位向上に努めたが、漫画を一方で美術の一分野としつつ、一方でジャーナリズム・メディアを舞台に活動していたというジレンマがあった。

第20講 ラジオ時代の国民化メディア――『キング』と円本……佐藤卓己

タイトルにラジオとあるのでラジオの話かなと思ったら、ラジオではなく出版メディアの話で、講談社の雑誌『キング』と改造社の円本について
『キング』は、ここまでの他の章でもなんどか言及があったが、今は残ってない雑誌なので、「この度々でくてる『キング』とは一体」と思いながら読んでいたら、ここにきての伏線回収w


大日本雄弁会講談社により1924年に創刊した『キング』
新聞などで大々的に宣伝を行い、野口雨情作詞のコマーシャルソングも作り、翌年には日本初の100万部を達成。大量販売システムを確立させていく
また、『キング』の内容をレコードで伝えるための「キングレコード」が発売される。『キング』は1957年に終刊するが、キングレコードが現在でもキングの名を残している(知らなかった!!)
一方で、書籍の雑誌的販売として、改造社から「円本」がでてくる。これは様々な「~全集」の予約販売手法だが、「全集」ものはこれ以前からもあった。しかし、それは富裕層向けで、これを安価に手に入るようにしたのが円本だった。
予約販売は、出版事業を計画的にできるようにし、出版過程の近代化をもたらした。
また、円本に乗り遅れた岩波書店は、円本を痛烈に批判し岩波文庫を創刊するが、岩波書店も実質円本みたいなシリーズを当時やっていた

第21講 大衆社会とモダン文化――商都・大阪のケース……橋爪節也

一時的にではあるが、大阪の人口が東京を超えていた時期があり、その時期の「大大阪モダニズム」について
大大阪というのは、合併により拡大した大阪を呼ぶ当時の呼び名で、大阪以外にも「大京都」「大大津」「大岸和田」といった呼び方があったらしい
大大阪モダニズムとして、当時の市長による美術振興政策がある。
また、劇場や百貨店、中之島の開発などもあげられる。
岡本一平の手による「大大阪君似顔の図」という絵がある。例えば通天閣を鼻にしているなど大阪を擬人化した絵である。新聞連載で大阪ルポをしながら描かれたものだが、筆者は、一平が大大阪君を庶民として描いていることに注目し、大大阪モダニズムが庶民性を持ち合わせていたことを指摘する。
また、単なる近代化ではなくて、浪花情緒という伝統文化も交えたモダニズムだったとも論じている。

第22講 大衆歌謡の展開……倉田喜弘

大衆歌謡として、当時流行した「カチューシャの唄」「船頭小唄」「籠の鳥」がそれぞれ紹介されている。いずれも、メディアミックス的展開がみられる。
ところで、「カチューシャの唄」はこれまでの章でも度々言及のあった曲名で、やはり伏線回収感があったw

  • カチューシャの唄

醜聞により文芸協会を辞めることになった島村抱月松井須磨子は「芸術座」を立ち上げ、トルストイ「復活」の公演を行う。この「復活」のヒロインが須磨子演じるカチューシャである。当初はあまりヒットしなかったのだが、京都公演から火がつき、全国的な人気に。「カチューシャの唄」はレコードとなり広く歌われるようになった(学校によっては禁止されるほどに)

  • 船頭小唄

野口雨情作詞、「カチューシャの唄」を作曲した中山晋平作曲の歌で、ヒットしたことで映画化する

  • 籠の鳥

同名の映画の劇中歌


最後に、当時の歌は、現在聞くとかなり下手らしくて、授業で流すと学生がみんな驚くというエピソードでしめられている

第23講 発展する活動写真・映画の世界……岩本憲児

大正元年(1912年)日活設立。1914年に『カチューシャ』が大ヒットしたのだが、ヒロイン役を演じたのは女形の立花貞二郎
明治時代、歌舞伎は「旧劇」、それに対抗して生まれた新たな舞台劇を「新派」と呼び、映画界では、時代劇を旧劇と呼んでいたが、旧劇か新派かにかかわらず、女形が受け継がれていた。女優がいなかったわけではないが、主要な役柄にはなっていなかった。
これを嫌った帰山教正は、欧米映画並みの水準の映画を作るという「純映画劇運動」を始め、主要な役を女優が演じる作品を撮った。また、松竹も女優を増やしていった。
1920年から、松竹キネマ、大活、国活、帝国キネマといった映画会社が次々と設立。帝国キネマは無声映画『籠の鳥』をヒットさせた。
通俗小説の映画化で現代劇の映画ができる一方、時代劇が人気で、小説が時代劇映画から影響を受けたりもしている。大正末期には旧劇から時代劇という呼称になる
大正時代には、当然海外からの映画も入ってきている。イタリア映画、アメリカ映画、ドイツ映画など
映画雑誌も創刊が相次ぐ。ほとんどの雑誌が今はもうないが、唯一『キネマ旬報』だけが今も残っている。
というか、キネ旬が大正時代からあるというのに驚いた。

第24講 百貨店と消費文化の展開……神野由紀

旧来の呉服店が発展したタイプの百貨店と、私鉄終着駅にターミナル・デパートとして作られたタイプの百貨店がある
主な客層は会社員とその家族で、手に届く高級店、あるいは食品や日用品を売る庶民的な路線(小林一三の「どこよりも良い品をどこよりも安く」)。
銀座が、レンガ敷きの西欧風の町並になったのは明治だが、それでもまだ東京の中心地は日本橋周辺だった。関東大震災以後、カフェーや老舗百貨店が銀座で開店して東京の中心となってくる。
家族で訪れる場所としての百貨店。「子ども」概念ができてくる時代で、子ども向けの商品(文房具など)が展開されていく。教育制度が整備され、9割が初等教育を受けるようになったことと、百貨店の客層である中間層が教育に熱心であったことによる。また、七五三など維新以来廃れていた伝統文化も復活してくる。
百貨店の屋上に動物園や遊園地などの娯楽施設ができる。
双六に百貨店が出てくるなど、子どもが休みの日に家族と訪れる場所として子どもにも認識されるようになっていく。
呉服店時代からある程度そうだが)百貨店は流行の操作なども担う

第25講 阪急電鉄小林一三――都市型第三次産業の成立……老川慶喜

第26講 宝塚と小林一三……伊井春樹

内容としては重複する部分もあるので、この2章分をまとめて要約する
小林は、山梨生まれで慶應大出身、三井銀行勤務を経て、銀行時代の上司から証券会社への誘いを受け、家族を連れて大阪へ行くのだが、恐慌のあおりでその証券会社が結局設立されず、失業してしまう。
阪鶴鉄道の監査人となり、箕面有馬電気鉄道の発起人の一人となる。で、この鉄道会社、敷設権を獲得したはいいが、田舎路線すぎて、株による資金調達もなかなか進まない。みんなが手を引きたがっている中、小林は「ここは住宅地に向いているのではないか」と一手に引き受けていく。
大阪への通勤客を見込んで文化住宅の販売を始める。月賦による販売、つまり住宅ローンのようなものだが、これを最初に始めたのが小林らしい。で、この売り方も好評となる。
むろん、住宅地の開発にはある程度時間がかかるので、それまでのつなぎとして、当座の終着駅である箕面に、動物園や遊園地を開設し、鉄道の乗降客とする。
大阪や神戸への直接乗り入れ路線も開発し「阪神急行電気鉄道」へと名称変更
電力供給事業やさらに百貨店事業にも乗り出す。
梅田駅に本社ビルを建て、その1階に食堂、2・3階に白木屋を入れる。小林は白木屋でまずは市場調査をした上で、テナント契約が切れた後、(本社は別のところに移転し)本社ビル全体を阪急百貨店とする。
阪急の事業別の売り上げ割合のグラフが載っているのだが、百貨店事業が始まってからは、百貨店の売り上げの割合がぐんぐん伸びて、もっとも高くなっていく。
鉄道、不動産、電気、百貨店と異なる業態を多角的に展開する小林の手法は「芋蔓式経営」と呼ばれる。一見、バラバラだが大衆に向けての事業だということで一貫している。実は当時、大衆向けの業種は「水商売」と思われ、業績が安定しないと思われていた。
さて、宝塚である。
終着駅につくった娯楽施設で見せるショーとして始まったわけだが、夏場の間、プールとして使う施設を、オフシーズンに舞台として使っていたところから始まったらしい。もっとも、プールは人気がなく、2年くらいしかプールとしては使われなかったようだが。
振り付けや作曲などに有能な指導者をつけ、全員に和歌由来の芸名をつけた
明治末から大正は、新たな演劇を目指していろいろな劇団ができていた時代。宝塚少女歌劇団は、歌舞伎のオペラ化を目指す劇団
初舞台は大正3年
元々、この温泉に来た客であれば無料で見られるという位置づけであったが、人気がどんどん増していった
宝塚以外での興業にも成功
大正5年、道頓堀の浪花座を貸した松竹は田舎の劇団とたかをくくっていたら、松竹よりもよっぽど売り上げがよく(すぐに売り切れた)、その後、宝塚から引き抜きをしたりして、以後、東宝(東京宝塚)と松竹はライバル関係となる
宝塚を真似た少女歌劇団が雨後の筍のごとく増えるが、長期的に続くものはなかった。
大正7年には、東京の帝国劇場でも公演(内部で反対もあり実現に2年かかる)。非常に人気で、坪内逍遥がチケットが手に入らなくて帰る、というエピソードがあるらしい。
昭和になってから、小林は東京電燈の社長に就任。東京電燈の所有していた日比谷の土地を購入し、ここに東京宝塚劇場を開場する

第27講 カフェーの展開と女給の成立……斎藤 光

明治末頃に誕生した「カフェー」について。
ここでいうカフェーは、洋食を提供する、調理場が別にあり給仕が料理を持ってくる、椅子とテーブル形式のお店くらいのかなり広い意味
1911年、銀座にプランタン、ライオン、パウリスタという3軒の店がカフェーとして開店する。
「女給」というのは新しい言葉で、「女給」という概念が徐々に成立し広まっていく。
例えば、1918年の『中央公論』に近頃の流行のものとして「カフェー」があげられていて、14人が文章を寄せているが、この中で女給に言及しているのは7人で、7人は言及していない。この中で長田幹彦は、花柳界と対比してカフェーについて語っているという。
女給は、次第に認知されていき、1922年には、新聞で人気投票が行われるほどになる。会えるアイドル感……。
関東大震災以降、カフェーのタイプが多様化。この頃になると、1918年の『中央公論』では言及されていなかった音楽やダンスもカフェーの要素となってくる。また、季節ごとのイベント企画が行われるようになっている、と。
カフェーについては、気軽な洋食店という認識であったが、ここに次第に、女給からサービスを受ける店という認識が加わってきて、店の形態が分化していくことになる。喫茶店やらバーやらキャバレーやら。
なお、本章の中で度々、カフェーについての学術的な研究はまだほとんどなされていない旨が書かれている。大正文化史の本である本書の中にカフェーについての章があることについて、「なるほどカフェ史とかありそうだな」と思ったのだが、研究レベルでは当時のカフェ文化というのは分かっていないことが多い、ということらしくて、それはそれで意外だなと思ったり、100年前のカフェーのことなんかそりゃ分からないことも多いなとも思ったり。

*1:講談本や玉田一家についてはゴールデンカムイの不死身の杉元と明治の不死身キャラの類似性とその進化について - 山下泰平の趣味の方法に書かれていたのを思い出した。この記事に出てくる「講談師問題」は本章にも書かれていて、それが〈新講談〉へとつながっていく

『日経サイエンス2022年8月号』

特集:渡り鳥の量子コンパス

高精度ナビの仕組み 鳥には地磁気が見えている  P. J. ホア/ H. モウリットセン

渡り鳥がどうやって正しいルートを見つけているのか
1970年代に量子コンパスを使っているという仮説をシュルテンが提唱し、近年、その仮説が実証されようとしている。
渡り鳥は、太陽、月、そしてこの量子コンパスの3種類を使って方角を割り出している。
普通の原子は、スピンが打ち消し合っているが、電子が少ないあるいは多い「ラジカル」は、そうならない。ラジカルが2つある状態が「ラジカル対」で、ラジカル対が網膜の中にあって、これで地磁気の方向を感知しているという説
鳥の地磁気感覚にはいくつかの特徴があって(例えば光に依存しているなど)、この仮説はそうした特徴に沿う。
近年、実験によって確かめられつつあることが紹介されている。
ところで、渡り鳥の方向感覚って、例えば、東南に渡る個体と西南に渡る個体のつがいから産まれた雛は、南に渡るようになるらしい。そんな遺伝の仕方するのか……
初めて渡りをする奴は、遺伝にプログラムした通りの方向に向かい、強い風に吹き飛ばされたりすると戻れなくなるが、一度成功すると、脳内に地図ができてかなり高い精度で修正が可能になるらしい。
渡りの時期が近くなると、わたる方向へ行こうとする。小屋の中とかに入れておくと、みんな同じ向きを向くという行動をとるらしいが、磁場を遮蔽するとしなくなるとかなんとかそういう実験の話とかが書いてあった気がする。

動物たちの磁気感覚  出村政彬

以前、鳥が視覚的に磁場を見ている仕組み、量研機構などがその一端を解明 (1) | TECH+というニュースがあったが、これの紹介
これはハトの話だが、近年、他の動物でも磁気感覚を持っているらしいという研究が次々出てきているらしい。
鳥が量子コンパスに使っていると考えられるタンパク質は、他の生き物ももっている(一つは真核生物なら持っているような奴で、もう一つは多くの動物が持っている奴らしい)ので、実は、磁気感覚は(人間が持っていないだけで)比較的ポピュラーな感覚なのかもしれない、と。
ただ、それがゆえに、人間が気付いていないだけで、人間が知らずに動物たちに与えている影響があるかもしれない、とも。
非常に弱い磁場にも(地磁気は非常に弱い)反応するので、人間が発生されている磁場の影響を受けているはず。
逆に、渡り鳥の営巣地などの環境が破壊された際に、別の営巣地へ移動させるために、磁気感覚を利用できるようになるかもしれない。
あと、鳥は磁気を視覚で感じ取っているようだけど、具体的にどのような見え方をするのかも今後の研究課題。もし桿体細胞で検知してるなら明るさとして見えているのだろうし、錐体細胞で検知しているなら色として見ているのではないか、とか
また、量子コンパス以外の仕組みで磁気感覚を有している生物もいて、磁鉄鉱を使った細菌や昆虫がいるらしい。渡り鳥の磁気感覚もかつては磁鉄鉱によるものではないかという説があったらしい。