ゴールデンカムイ

最終章開始記念ということで、最新話(285話)まで全話無料公開されていたのでまとめて読んだ。
アニメで見ていた部分は飛ばすことにしたけれど、アニメでやってたのが原作で何話か分からなかったので、70話くらい(江渡貝くんと夕張炭鉱あたり)から読んだ。なお、自分がアニメで見ていたのは、138話あたり(網走監獄襲撃)まで。なので、結果的にアニメで見た部分も読んだことになるけれど、アニメ化されていない箇所も結構あった(北海道版ボニーとクライドとか獣姦シートンとか)。
ここでは、樺太編以降の感想を書く


なお、アニメ見た時の感想はこちら

アイヌ文化を描いている作品として有名になり、実際そのようなところが見どころとなっている作品なのは間違いないが
ストーリー上の大きな枠組みとしては 、近代国家明治政府に対するオルタナティブを北海道に作ろうとする勢力同士の争い、というものになっていた。
アイヌもよく出てくるが、作品を通して多く出てくるのはむしろ軍人で、日露戦争のおりに何らかの形で傷ついた者たちという印象がある。
(中略)
アニメの1クール目は、アクの強いキャラクターの脱獄囚たちが次々出てくるという筋立てだった。この三つ巴の構図自体は当初からなくはなかったけれど、より強まったのは2クール目からかなあという気がする。
(中略)
(中央なんてどうとでもなると言って「暴走する軍部」として見るなら、鶴見は明治よりも後の時代から明治を攻撃しているともいえるし、そして当然ながら、土方は明治より前の時代から明治を攻撃している。で、監獄が近代=明治を象徴している、と)
ただ、大きな枠組みでいえば、この3つ巴の話だが、少なくともこの2クール分のアニメの中では、この構図が動くことで物語が動いているわけではなくて、物語の背景にとどまっている。
(中略)
この作品は、戦争によって(殺人者になってしまったことで)元の世界に戻れなくなってしまった元兵士が、どうやってその心の傷をいやすのか、という物語なのだろうと。
sakstyle.hatenablog.com

色んな囚人たちが出てきた前半から変わって、鶴見の部下たちや、あるいはキロランケやアシリパの父ウイルクの過去が明らかになっていく展開が続く



鶴見中尉について


鶴見中尉の目的は、前半の方では下記のように語られている。
つまり、彼は日露戦争に従軍していたが、無理な攻撃作戦を命じられ、戦後も冷遇されたために、こうした事態を打開するために北海道に軍事政権を樹立しようとしている、と。
ところで、のちに彼がアシリパとソフィアに語る構想として、他国から日本への侵略に対する防衛拠点としての北海道国家が語られており、また、満州や極東ロシアを領土として考えているふしも見られる。ただし、独立した北海道国家の領土というより、日本の領土としてということのようだが、いずれにせよ、彼は満州や極東ロシアの確保を重要視しているようである。
満州については、そこに戦死した部下が眠っているからであり、極東ロシアというかウラジオストクについては彼の亡くなった家族が眠っているからという理由が語られているが、一方で、自分は個人的な目的のためだけに動いているわけではない旨も同時に語っている。
また、彼は若い頃に、ロシアにスパイとして潜入しており、陸軍の対ロシア戦略の一端を担う活動をしていたと考えられる。
以上より、満州、極東沿海州、北海道・樺太を対ロシア防衛線と位置付け、そのための軍事拠点を北海道に展開する構想を持っているのではないか、というようなことを何となく妄想させてくれるのである。
そこまで考えると石原莞爾みが出てくるのだけど、twitterで試しに「鶴見中尉 石原」で検索してみたら、何人か鶴見中尉と石原莞爾を絡めてツイートしている人がいたので安心(?)した。
なので、石原莞爾めいた謎の世界史イデオロギーを持っていたら面白いのにな、というのが上のツイートへとつながる。
ただ、物語上、彼がそのようなイデオロギーを語る機会はあまりなさそう。
鶴見中尉自身には、そうした思想的バックボーンを持ち合わせるだけの知的リソースがあるのではないかと思うのだが、一方、彼の「人たらし」はイデオロギストとしてのカリスマからくるものではない。というのも、彼はあくまでも中尉で、彼が部下として集めている人員は下士官や兵卒なので、そういうので集まってくるタイプではなさそうだから。
いわゆる「鶴見劇場」と称される手の凝った手段を用いて、リクルーティングしてきたというのが、樺太編以降明らかになる。躊躇なく銃を撃たせるためには「愛」が必要なのだ、という鶴見の考えがその背景にはある。でも、それは鶴見中尉にとって手段であって目的ではないのではないか、とも。


何故こんなに鶴見中尉のイデオロギーにこだわっているのかというと、そういう悪役が見たいというだけの話なんだけど
個人的には、るろ剣の志々雄真実とか、彼なりのイデオロギーに殉じた悪だったのではないかと思っている。彼の強さ・カリスマは彼の思想に由来しているので。
鶴見中尉は、当初からわりとある種の狂人として描かれているけれども、狂気的なまでに突き進む行動力の源泉に、理路整然とした思想がある方が、かっこいい(?)のではないかと。単に、戦争で気がちがってしまった軍人です、というよりも。
ただ、鶴見中尉の動機が思想に還元できるのかどうかは謎。
彼は情報将校で、元スパイで、鶴見劇場という人を動かすためのとんでもない芝居を打てる人間で、下手すると、彼の過去(家族の死)すらも鶴見劇場という芝居の一環であり、「思想」に対してもアイロニカルな態度を取りそうという気はする。
一方で、彼は元スパイで、ここでいう彼の死んだ家族というのは、あくまでも潜入先でできた妻子で、そこに本当に愛はあったのかとかそういう話もあり、仮に愛があったとしても、スパイであらんとする限りはアイデンティティの拠り所にできないわけで、スパイがスパイとして潜み続けるためには、身近な人間ではなく所属する国家なりなんなりを拠り所として持ち続けないといけないわけで、そのためにイデオロギーなるものがあったりするわけで。
(ところで、ウイルクもまたある種のイデオロギーを実現するために北海道に渡ってきてそこで家族をもった人間なわけだが、そこで彼は元々持っていたイデオロギーを曲げて家族を重視した(とキロランケは思っている)わけで、そこで対照的なキャラクター配置となっているのではないか、とも思ったり)
というか月島が、鶴見中尉が個人的な感情で動いていないことに喜ぶシーンがあるけど、個人的な感情以外のところで動く際の背景にあるのは、やはりイデオロギー的な何かではなかろうか。


ところで、鶴見中尉っていい年齢のはずなのにまだ中尉という低い階級にいる謎とかいろいろあるのだけど、完全に体制に反旗を翻すために一連の行動をやっているのではなくて、中央とのつながりというか、中央のことをどうこうできる何かがあるのではないか、というようなことも妄想できたりする。
陸軍の中の少数派に位置していて、派閥争いの一環としての北海道での金塊探しなのか、ということもちょっと考えてみたりもする。
正直、そこらへんのことは全然よく分からないけれど、薩摩閥だったりするのかな、とか。
鶴見中尉自身は新潟出身らしいけど。

パルチザンについて

アニメを見ていたときは、キロランケやアシリパの父の出自がまだあまり明確に語られていなかったので「パルチザン?」という感じだったのだが、樺太編でこのあたりはかなりはっきりと示されてきた。
キロランケは沿海州タタール人で、アシリパの父であるウイルクは樺太アイヌポーランド人のハーフで、いずれも北海道の出身ではない。2人はともに北東アジア先住民族の独立を志し、その資金源とするべく北海道アイヌの金塊に目をつけた。
彼らは、貴族階級の出身でありナロードニキの運動家であったロシア人のソフィアと手を組む。ソフィアは、大衆が反帝政運動になびかないのはロシア正教のためと考え、ロシア正教の及んでいない先住民族と手を組むべきという立場だったので、互いに利害が一致した形になる。アレクサンドル2世暗殺に、ソフィア、キロランケ、ウイルクが関わっていたという話になっている。
さて、キロランケは、沿海州樺太(サハリン)・北海道等を領土とした多民族連邦国家を志向していたのに対し、ウイルクはまずは北海道のみを独立させ希望者を移住させるという考えに心変わりした、とされる。


さて、先のツイートでこの作品のよいところと悪いところと述べたが、
まず悪いところについてだが、和人によるアイヌ差別・搾取や同化政策がほとんど描かれていないという点がある。
政治について言及しないことが政治性の発露となっているという意味で、「ノンポリ的「政治性」」とでも言うべきだろう。むろん、ノンポリ的な立場をとることが、即座に悪いことだというわけではないが、アイヌ、しかも近代におけるアイヌを扱う上で、気にかかってしまう点ではある。
また、この作品は、主人公たちがアイヌの金塊を探し回るというのがメインプロットであり、その金塊がアイヌ独立運動と関わるものであり、また主人公の1人であるアシリパが、そのままの形ではないにせよ、父親の意志を引き継ぐことを決意していく以上、和人との対立に触れないのは、本来不自然なことであろう。
しかし、既に述べた通り、ウイルクとキロランケはそもそも北海道アイヌではなく、また、彼らの独立運動は反帝政ロシア運動として組織されている。そのため、本作でのアイヌ独立運動の直接の対峙者として和人や明治政府をことさら挙げなくても物語としては成立するようになっている。
また、アシリパが近代的な民族アイデンティティに目覚めていくのは、あくまでも樺太樺太アイヌニヴフやウイルタと交流したためであり、アイヌ民族としての危機として具体例として描かれるのは、差別ではなく環境破壊であった(開拓・開発による森林伐採なので和人の北海道進出の影響ではあるが)(この点、現代の読者が感情移入しやすいものが選ばれている感じがあり、エンタメ的には正しいとも言えるが)。
アイヌと和人との対立、和人による差別を描かなくてもいいようにするための設定ともとれ、つまり、単に差別を描いていないというだけでなく、描かなくても不自然にならない設定をわざわざ作っているとも言える。
その点で、この作品の「政治性」は批判されてしかるべきところがあると思う。これが悪い点である。
一方で、よい点は、この設定がめっぽう面白いという点である。
この設定は、キロランケやウイルクの構想が、単なる北海道アイヌの独立ではなく、ニヴフやウイルタ、そしてそれ以外の民族も含む北東アジア諸民族の独立構想となっている。
北東アジアの諸民族というのは古くから交易圏を形成していて、北海道アイヌもそうした交易圏の中での地位を占めていたと考えられている。その意味で、単に北海道アイヌだけでなく北東アジア圏の問題として描いているというのは、ある程度「政治的に正しい」と思われるし、そもそもエンタメ的に面白い
そして、既に述べた通り鶴見中尉についても、どうも北海道だけの独立ではなく、満州や極東ロシアでの日本の権益を守ることを考えているっぽい節があるぞ、というところがあり、北海道を巡る争いではなく、北東アジアを巡る争いという絵図が背景に浮かび上がってきている。
アニメを見た際の感想として、明治政府へのオルタナティブを掲げる勢力が争っていると書いたが、北東アジアにおいてロシアに対立する勢力同士の争いであったともいえるかもしれない。
(多民族連邦国家を作ってロシアから独立する構想と、日本によるロシア防衛のための日本人による軍事政権を作る構想の対立)
エンタメ的にはでっかい風呂敷広げた方が面白いよね、という話で、それはこの作品のよいところとして挙げてもいいように思う。
ただし、これから最終章で、最終決戦の地は五稜郭なので、こういう話が本当に展開されるか謎といえば謎。

最終章について

ついに金塊の隠し場所を探り当てた杉元・アシリパらと土方陣営は、五稜郭へとやってくるが、金塊の半分が土地の権利書に変わっていたことを知る。
ところで、北海道におけるアイヌ同化政策の一つとして土地政策があり、もともと土地の所有権という概念を持たないアイヌが土地を奪われてしまったことがアイヌの窮状を招いたところがある。
本作が和人のアイヌ差別や同化政策に触れていない点は、批判されるべき点であるということを先に述べたが、土地の権利書云々の話は、もしかしたらそのあたりについて切り込んでいく可能性もあるのかな、と思わせるところがある。
また、ここで出てきた権利書について、明治政府が引き継ぐべき内容だという話をしはじめており、そもそも舞台が五稜郭であり、また、鶴見中尉って本当に政府から離反してるのかという疑いもあるので、最終章でそろそろ明治政府が何らかの存在感を出してくる可能性はあるかもしれない。

個人的な態度についての注記

ここまで、この物語の背景にあるかもしれない大きな絵図についての話を主にしてきた。
しかし、そもそもこの話は、狂った軍人鶴見中尉一派と幕末の生き残り土方歳三一派と主人公である杉元らが、隠された金塊を巡って、これまた奇人変人変態揃いの脱獄囚たちを追いかけ回すというクライムサスペンスであり、アクの強い悪党たちがいかに協力しいかに裏切りいかに戦い抜くかという物語である。歴史ものクライムサスペンスだけど、ポリティカルフィクションものってわけではないので、その背景に渦巻いているかもしれない政治思想はあくまで背景であって主題ではない。
ただ、個人的にそういう話をしたり妄想したりするの好きなのと、キャラクター個々についての話をするのも得意ではないので、上のような感想がまず出てくる。
一応注記しておくと、アイヌ差別や同化政策を描いていないのは問題なのではないか、という意味での政治性は、現実世界における政治性
一方、鶴見中尉のイデオロギーとかキロランケの連邦国家構想とかは、フィクション世界内での政治性
自分は、前者について注意しつつも、後者について萌えてるみたいな態度をとっていて、自分はまあ左翼なので、前者に関しては「差別とかについてもちゃんと配慮して描けるのがよい作品だよね」という価値観をもつけど、後者に関しては右翼的な政治思想でもある程度までは楽しめる。というか、明らかに作者自身が右翼っぽいなと思ったらひくけど、鶴見中尉が仮に右翼思想を持っていたとしてもかっこよく描かれてれば「かっこいいー」ってなります。
もう少しいうと、現実におきた満州政策とか石原完爾とか別にかっこいいとは思わないが、それをモデルにした、極東ロシアを含めた日本の防衛線を引くために北海道に軍事的橋頭堡を作ろうとする狂気の軍人とかは、フィクションの登場人物としてかっこいいと思えたりする
パルチザンの話についていうと、アイヌ独立とかいうなら抗日運動として描くべきだったのではという気持ちと、極東沿海州も含んだ多民族連邦構想かっけーみたいな気持ちの両面がある。読んでいる最中は、正直後者の気持ちの方が大きい。
でも、後者について楽しむのであれば、前者についても指摘しておかないといけないだろうとも思うのでそれについても書いている。
どちらも「政治」の話ではあるけれど、属しているレイヤーはだいぶ違うのだ、ということも念のため注記しておきたい。

杉元と尾形とか

で、ここまで作中の政治の話をしてきたけれど、繰り返すようにそこは主題じゃないので、もう少し物語に関わる話をすると、それぞれの登場人物の動機の話になる
で、ナロードニキのソフィアや民族独立運動家のキロランケは、やはりイデオロギーの人であったと思うし*1、鶴見中尉はまだ全然分からないけれど、個人を超えたところに動機を置いている気配はある。土方歳三はその点、最後まで戦って散りたいという個人的な感情を動機としていそうだなとは思うのだけど、戦う理由は欲してそう。蝦夷共和国にそこまで強い関心はないけど、蝦夷共和国のために戦う自分でありたい、みたいな。これは少しうがった見方かもしれないが。
で、ここらへんは登場人物の中では年長者世代にあたる。
一方、主要登場人物の多くは、個人的な人間関係の中に動機があることが多い。
谷垣はそれがかなり前半の方で明かされた人物だった。
なかなか複雑なのが尾形で、彼は過去編が何度もあって、その度に新情報が明らかにされていき、どういう立場の人間なのかがどんどん複雑になっていくが、勇作のような人間がいていいわけがない、というようなことが根本にあるということはほぼ確実だろう。
尾形は、アシリパに対しても同様のことを考えているのだが、ここでアシリパに対する態度としてネガポジの関係にあるのが杉元だ。
つまり、2人ともアシリパが無垢な存在だと捉えており、そのアシリパに人殺しをさせまいとする杉元と人殺しさせようとする尾形
尾形と杉元の関係はそれだけでなく、杉元がかつて勇作の代役をしていたという(本人たちはまだ預かり知らない)過去からのつながりもある。
彼らはイデオロギーや思想を背景には持っていないだろうが、その一方で、何か人間に対する信念のようなものが背景にあって、今後の物語の中でそれらが展開していくことになるのではないだろうか。

*1:キロランケがウイルクを殺した動機は、ウイルクの思想的転向というよりは、ウイルクの素質が変わってしまったことにあり、個人的感情ではある

フィルカルVol.6No.1

特集シリーズ2:科学的説明論の現在

「因果的説明論の現在」(清水雄也・小林佑太)

科学的説明論、とりわけ因果的な説明論の21世紀以降の展開について整理した論文

  • 20世紀の科学的説明論

20世紀において科学的説明論は、被覆法則説から因果メカニズム説へ、という流れがあった。これは、科学哲学の入門書とかでも紹介されていたりする。
本論は、因果メカニズム説を、因果の差異形成的側面と産出的側面の両方に触れている二面性があるという意味で、DP二面説の一種であると位置づける(「DP二面説」というのは本論における名称、多分)。

  • 現代の因果的説明説

21世紀以降、有力になっている説として3つ挙げている。

    • 可操性説

介入主義とも
なお、この可操性というのはmanipulabilityの訳で、操作可能性と訳しても問題ないようだが文字数的な理由で、本論では可操性と訳出したとのこと

20世紀に出ていたSalmonの因果メカニズム説に対して、新メカニズム説と呼ばれることもあるという(その場合、Salmonのメカニズム説は旧メカニズム説と呼ぶ。なお、新メカニズムの中にも新旧あって、新旧メカニズム説と新新メカニズム説があるらしい。ややこしい)
旧メカニズム説と同様、DP二面説の一種

カニズム説と同様、DP二面説の一種
産出に関するエキュメニズムと差異形成に関するカイロス基準によって特徴付けられる。

翻訳「 『深さ』の概略」(マイケル・ストレヴンス、清水雄也訳)

カイロス説の提唱者であるストレヴンスが、カイロス説について論じた自著『深さ』について自ら解説した論文の翻訳

モナドとしての哲学史研究」(稲岡大志)

哲学史研究の意義とは何なのか、これまで歴史的アプローチ、哲学的アプローチなどがあったの対して、筆者はプロジェクト型アプローチを提案する。
また、プロジェクト型アプローチの中のモデルとしてモナドモデルを提案する

悪い言語哲学入門 第3回 (和泉 悠)

言語行為論について
アスカの「あんた、バカぁ?」を例として
適合方向を持たない表出という言語行為もある

ウソツキの論理学(連載版)哲学的論理学入門 第4回「形式化、未完のプロジェクト」(矢田部俊介)

シミュレーションとしての形式論理学

哲学する人はどう呼ばれる(べき)か―梅原猛ポジショントークから考える」(谷川嘉浩)

哲学をやってる人は「哲学者」を名乗る方がいいのか「哲学研究者」を名乗る方がいいのか、という話を、異分野の人と協力する際の観点から述べたコラム
哲学者自身は、ある種の謙遜とかから「哲学研究者」と名乗りがちだけど、分野外の人からは変な含意もたれちゃうから「哲学者」と名乗った方がいいという話

神経美学と自由エネルギー原理?


ナナイの注意の話は
Bence Nanay『知覚の哲学としての美学 Aesthetics as Philosophy of Perception』1・2章 - logical cypher scape2


なんとなく思ったのは、素人は、もともともっていた信念に沿うものを見てしまう(〇〇という建物の絵だと思ってみるので、〇〇を探して見る)。一方、専門家は、精度制御していて、感覚信号の精度をあげて信念が更新されるように見てるのではないか、と
もっとも、精度制御とか意図的にできるのか、という問題はあるけど、専門家も意図的にやっているというよりは、そういう見方のモードが身についていて半ば自動的にそうしているところはあるだろう
予測誤差によるフィードバックをより重視するような知覚経験が、美的経験かもしれない、という話はちょっとできそうな気がする
とはいえ、そもそも感覚信号側の予測誤差を重くしているのは、知覚全般の特徴なので、それだけで美的経験を特徴づけることはできない
ナナイ風にいえば「分散された注意」というのがポイントだけど、これが自由エネルギー原理的に説明できるのかどうかは不明。
というか、ナナイのいう注意は、わりと意識的なものであったような気がしているのだけど、自由エネルギー原理による注意は明らかに無意識的なものだし、そこらへんにも相違があり、簡単に統合はできない。


これは美学の話以前に、知覚の哲学や心の哲学と自由エネルギー原理はどのように調停されるのか、という話でもある。
自由エネルギー原理は、脳内のあらゆる処理を自由エネルギー最小化で説明しようとする論で、知覚と運動は実は同じ原理の裏表なんだ、というのが多分売りなので、知覚と判断の区別? そんなの原理的にはないよ、という話をしそう。
脳は階層構造をしていて、下位のサブシステムが上位のサブシステムに予測誤差信号を送り、上位から下位に予測信号を送る、というので説明つけるので、知覚システムから判断システムに予測誤差信号が送られてるんだよ、みたいな説明になりそう。分からんけど。
それはそれでいいとして、もう一つ、心の哲学や知覚の哲学は、表象説がやはりスタンダードだけど、自由エネルギー原理にとって表象の位置付けは一体
まあ、知覚システムの中に、信念が置いてあるので、あれが表象だろう。表象がたえず予測誤差によって修正され続けていくという話なんだと思う。そういう意味では、誤表象が何で生じるのかというメカニズム的な話とかもできてよいかも。
で、それらを踏まえた上で、美的性質を含む高次性質というのは知覚されているのか判断されているのかという話がある
源河亨『知覚と判断の境界線』 - logical cypher scape2では、美的性質は高次モード知覚説というので説明されている。
美的性質は、表象のモードなのだという話
自由エネルギー原理で、表象のモードとかそういう話はできるのかどうか
また、高次モード知覚説が正しいかどうかは別として、美的なものが何らかの形で我々に分かるとして、それを自由エネルギー原理で説明しようとする場合、何が予測誤差としてフィードバックされてるのか
元々、我々の中には、非美的性質(感覚信号)と美的性質との随伴性についての生成モデルがあって、それにそって美的なものを見いだしている、と考えることもできるけど、一方で、美的経験の特徴を考えると、逆にそういう生成モデルをさらに作り変えていくのが美的なものだったりするのではないか、と思ったりもするのだけど、しかし、生成モデルを返るタイムスケールって美的経験のタイムスケールとはズレるような気もするし……。



という、特に何のオチもない、まとまりのないメモです



(追記)
自由エネルギー原理と心の哲学・知覚の哲学の関係について

佐藤亮司「視覚意識の神経基盤論争:かい離説の是非と知覚経験の見かけの豊かさを中心に」

(2)高次性質の知覚
カテゴリー的な性質を知覚することを肯定的に含意する
視覚の逆転階層理論によれば、最初に知覚されるジストはカテゴリー的性質によって構成されている
『シリーズ新・心の哲学3意識篇』(佐藤論文・太田論文) - logical cypher scape2

Ⅲ-12 予測誤差最小化理論    ベイズ推論としての心(佐藤亮司)
哲学的な論点
(2)知覚と思考の区別に対して再考を促す→知覚と思考の差は階層の差にすぎない。知覚情報が階層をあがるにつれて概念になっていく
『ワードマップ心の哲学』(一部) - logical cypher scape2

乾敏郎・阪口豊『脳の大統一理論』

サブタイトルは「自由エネルギー原理とはなにか」
フリストンの自由エネルギー原理についての入門書
同じ作者による乾敏郎『感情とはそもそも何なのか』 - logical cypher scape2でも、自由エネルギー原理について解説しており、内容としては一部重複するが、本書は感情以外のトピックも多く扱っており、また「自由エネルギー原理」が中心におかれて説明されている。


ところで、自由エネルギー原理について触れる度に書いている気がするが、ネーミングなんとかならかったのか
この本のタイトルを、自由エネルギー原理というものが最近の神経科学で話題になっていることを知らない、または筆者を知らない、または出版レーベルを知らない人がみたら、トンデモ本だと思ってしまうのではないか、といらん心配をしてしまうw
あと、今はまだそこまで有名ではないけれど、有名になったら、トンデモに利用されてしまいそう
まあ、杞憂に過ぎないかもしれないし、仮にそうなったところで、フリストンや神経科学者には何の非もない話ではあるんだけど


実際、自由エネルギー原理という名前ではあるけれど、エネルギーの話をしているわけではない。
脳はベイズ推論をしている、という話
これ自体はよく言われている話なのだけど、ベイズ推論は実装しようとすると計算が複雑になってしまい、脳が直接ベイズ推論しているとは考えにくい。で、近似値を使って計算しているだろうという話で、その計算式が、ヘルムホルツの自由エネルギーの式と一致するために、自由エネルギー原理という名前がある。
一致するって何だよって話だが、情報量とかエントロピーとかが出てくるので云々ということになるが、このあたりは本書の付録で説明がある。


精度制御というのがわりとキーワード
ベイズ推論というのは、事前確率と条件付き確率で計算するが、事前確率を与えるのがもともと脳が持っているモデルで、条件を与えるのが感覚信号であると考えると、モデルを更新するか、感覚信号を修正するかという二通りの方法がありうる。
信号に従ってモデルを更新していくのが、知覚
モデルに従って信号を変化させるのが、運動
ということになるが、それのどっちをやるのかという点に関わってくるのが、信号の精度となる。
精度制御がうまくいっていない病気として統合失調症を捉え直す、という話も出てくる。


下の目次にあるとおり、とにかく様々な脳機能等への統一的な説明を与える理論と目されている。
最後に「認知発達と進化、意識」とあり、自由エネルギー原理と人間以外の他の動物の関係、意識との関係についても触れられており、ここらへんはまだうまくいっているのかどうかよく分からないが、統一理論への道を進もうとしているが分かる。

まえがき
脳の構造

1 知 覚――脳は推論する
2 注 意――信号の精度を操る
3 運 動――制御理論の大転換
4 意思決定――二つの価値のバランス
5 感 情――内臓感覚の現れ
6 好奇心と洞察――仮説を巡らす脳
7 統合失調症自閉症――精度制御との関わり
8 認知発達と進化、意識――自由エネルギー原理の可能性

あとがき
参考文献
付録 自由エネルギー原理の数理を垣間見る

脳の構造

脳に関する本によくある、脳の断面図と側面図がどこそこが〇〇野ですって示してあるページなのだが、
島が側頭葉の奥に隠れている、というのが印象に残ったのでメモ

1 知 覚――脳は推論する

視知覚=視覚像がもつ性質に関する意識的な体験
視覚認識ないし視覚認知=見ているものが「何」であるかを知識に基づいて理解する機能
この区別が最初の方に説明されている。その後、特にこの説明が何かに効いてくるところはなかったように思うが、
乾敏郎『感情とはそもそも何なのか』 - logical cypher scape2の方では、知覚と認知の話をしていた。


脳は、最大事後確率推定によって、隠れ状態である外界を無意識的に推論している
ちょっと説明を色々とばすが、ベイズの定理の対数をとった式が
logp(u|s)=logp(s,u)-logp(s)
事後確率の対数=生成モデルの対数+シャノンサプライズ
となる。
uは隠れ状態、sは感覚信号で、p(u|s)は事後確率、p(s,u)は隠れ状態uと感覚信号sが同時に生じる確率で脳が持っている世界の生成モデルを示す。
で、-logp(s)は、感覚信号sが生じる確率p(s)が小さいほど大きな値をとる。つまり、予想外の信号がくると大きい値になるのでサプライズと呼ばれる。
ところで、実際には、事後確率を直接求めるのは計算が難しくなることが知られていて、脳は事後確率ではなく認識確立を計算しているとされる。
確率と確率との違いの量は「ダイバージェンス」と呼ばれる。

ヘルムホルツの自由エネルギー=認識確率と真の事後確率のダイバージェンス+シャノンサプライズ

自由エネルギー原理においては、
ダイバージェンスを小さくするのが知覚=無意識的推論
シャノンサプライズを小さくするのが運動=能動的推論
と言われる。

2 注 意――信号の精度を操る

信号にはノイズがあり分散が生じる
分散が大きいとき、その信号の信頼度は減り、精度が低い信号とされる
分散が小さいとき、その信号の信頼度は増え、精度が高い信号とされる
フリストンの理論では、分散の二乗の逆数を「精度」とする
感覚信号の精度が高いとき、予測誤差信号の精度も高く、予測信号や自分の推論内容を変更する
感覚信号の精度が低いとき、予測誤差信号の精度も低く、その場合は、自分の推論内容を維持する
フリストンは、「注意を向ける」ということを「信号の精度をあげる」=「予測誤差を大きく捉える」ことだとする。
そして、信号の精度を制御するにあたっては、ドーパミンがその役割を果たしているとしている。

3 運 動――制御理論の大転換

従来、運動野が出力するのは、運動指令だと考えられていたが、自由エネルギー原理によれば、筋感覚の予測信号
「逆モデル」を想定する必要なくなる


運動によって信念が書き換えられることはないのか?
以下の3つにより、運動によって信念が書き換えられることはない
(1)感覚減衰
自分の運動で引き起こされる感覚は抑制される(自分で自分をくすぐってもくすぐったくない理由)
(2)精度制御
再求心性感覚信号の精度を低下させ、予測誤差の精度が低下している
(3)運動野には4層がない
大脳皮質は6層構造をしており、フリストン によれば、5・6層が予測信号を出力、2・3層が予測誤差信号を出力しているとされる。
一方、大脳皮質外からの信号は第4層に入力されることが知られている
が、運動野はこの層がほとんどない
以上、3点により、運動によって引き起こされる感覚はフィードバックされないので、信念が書き換えられることもない


他感覚ニューロン:外受容感覚と自己受容感覚をセットとして受け取り予測する
知覚と運動が循環するアフォーダンス機能
赤ちゃんは予期しない動きを見ると驚くだけでなく、手を伸ばす→外受容感覚の予測誤差が大きいと予測にあうように運動して予測誤差を低下させていると考えられる


ミラーニューロンも他感覚ニューロン
自己が運動するときと他者の運動を見てるときで同じ反応をするのに、他者の運動を見ている時は自分の体が動かないのか
→自己が運動するときと他者の運動を見ているときでは、運動制御信号の精度が違うから


自由エネルギー原理は、「予測誤差の最小化」と「精度制御」の2つの原理で説明する

4 意思決定――二つの価値のバランス

期待自由エネルギー=-認識的価値-実利的価値

認識的価値とは、随伴性の不確実性を低下させること
随伴性とは、環境の状態と感覚信号との関係の関係
実利的価値とは、目標状態に到達すること
目標志向行動は、この2つの価値を最大化すること
認識的価値を高める探索行動と、実利的価値を高める利用行動からなる。
認識的価値は、隠れ状態に関する事前確率分布と事後確率分布のダイバージェンス
実利的価値は、シャノンサプライズの期待値


脳の階層構造


モチベーションの仕組み
目標を実現できそうな行為系列に対する信念の精度をあげる
精度をあげるのはドーパミン

5 感 情――内臓感覚の現れ

ホメオスタシス
アロスタシス:体内の状態に関する設定値を予測的に変更する機能
アロスタシスもまた、随意運動と同じく能動的推論
アロスタシスは脳内にある生成モデル(エネルギーを使うと血糖値が下がるとか、何か食べると血糖値が上がるとか、過去の経験から学習されたある種の知識)により機能する
条件反射もアロスタシスと同じように説明できる。随伴性を学習すると、それをもとにした予測と実際の体内状態に誤差が生じるのでわそれを小さくするために唾液が出る


感情
内臓状態に変化をもたらした原因に関する推論(高次の認知情報)と内受容感覚が統合されて感情が生じる

6 好奇心と洞察――仮説を巡らす脳

脳はどうやってアブダクションするか
自由エネルギー原理は、これを二段階にわけて説明
(1)現象を説明できる生成モデルの学習(好奇心)
(2)得られた生成モデルの単純化(洞察)


(1)好奇心

期待自由エネルギー=-認識的価値-実利的価値-新奇性

自由エネルギー原理によれば、人間は不確実性を最小化するように行動する
一つ目は隠れ状態に関する不確実性で、探索行動によって最小化する
二つ目は成果(感覚信号)に関する不確実性で、利用行動によって最小化する
最後が、隠れ状態と成果の随伴性すなわち生成モデルの不確実性で、好奇心による行動によって最小化する
新奇なものを見たらそれを観察することで、その状態と感覚信号との随伴性を学習し、生成モデルを更新する
この学習はシナプス結合の変化によって実現される。自由エネルギーの経路積分の最小化によって得られるが、この式はヘブ学習と一致


(2)洞察

自由エネルギー=生成モデルの複雑さ(ダイバージェンスに対応)-生成モデルの正確さ(シャノンサプライズに対応)

自由エネルギー最小化とは、生成モデルの複雑さを小さくし、正確さを大きくすることで達成される
このようなモデルの最適化は、ベイズモデル縮約として知られる 
フリストン は、縮約モデルが脳内で作られるプロセスとして、睡眠中のシナプスの刈り込みがあるのではないかとしている
また、起きている間も、脳は仮説を単純化するシミュレーションを行っている。これをここでは洞察と呼んでいる 
睡眠中のシナプス結合の刈り込みについては、トノーニが提唱しているらしい
フリストン は、仮説を学習することを調べるとある心理学実験をコンピュータ上でシミュレーションし、自由エネルギー原理に従うと正しく反応できるようになることを示した

7 統合失調症自閉症――精度制御との関わり

ある行為を自分で行ったと感じることを自己主体感と呼ぶ
3章に出てきた感覚減衰が自己主体感と関わっているとされ、感覚減衰が起こらないと、させられ体験が生じる


統合失調症では、感覚減衰が低下していることが知られている
このため、自己主体感が生じず、させられ体験が生じる。
能動的推論にも失敗し、統合失調症の症状の一つである無動が生じると考えられる
さらに、この失敗を補って運動するために、ドーパミンにより予測信号の精度を上げる。すると、予測誤差の重み付けが下がり信念の更新がされなくなる。これにより、事前の信念のみに従い、現実からは離れた知覚、つまり妄想が生じてしまう、というのが、自由エネルギー原理による統合失調症の説明


逆に、自閉症は、予測信号の精度が低いことに起因しているのかもしれない、と。
常にサプライズが生じていた、感覚信号を必要以上に過大に受け止めているのではないか、と。

8 認知発達と進化、意識――自由エネルギー原理の可能性

複数の時間スケールでの現象を、自由エネルギー原理から説明する。
自由エネルギー原理は、サプライズないし不確実性を小さくするという原理
知覚・行為→学習と注意→神経発達→進化
知覚や行為のスケールでは、生成モデルに基づき認識確率分布の最適化を行う
学習のスケールでは、シナプス結合の最適化を行う
一方、神経発達や進化のスケールにおいては、生成モデル自体の最適化を行っているのだ、と


意識について
時間的に幅のある生成モデルがあると未来のことを考えて行動することができる
フリストン は、これによって意識が生じるのでは、と考えているらしい
知覚でも生成モデルが必要だが、こちらは時間的な幅が狭いので「無意識」的推論なのだ、とも。
ところで、自由エネルギー原理では、精度制御が重要なポイントだが、これも意識と結びつけて考えられている
フリストン は、内受容感覚の精度が感情や意識と関わっていると考えている。精度が向上することで意識に上ってくる、と。
外環境についての意識は、単純に外受容性の知覚から生じるのではなく、同時に内受容感覚からの信号の精度が上がるときに生じるのではないか、と。

意識のところの感想

意識について、これが他の意識理論とどのような関係にあるかという点で、自分の理解がまだ進んでいない
未来についての生成モデル云々のあたりは、行動のシミュレーションとして意識が生じたのではないか的な話とつながりそうだが
心の哲学的には、意識の問題として重要なのは現象的意識で、知覚と精度の話は直接関わってきそう
精度が上がる=注意が向くで、注意と意識というのも関係のある概念だから
ただ、自由エネルギー原理でいうところの注意って必ずしも意識的な注意ではないだろうけど。
外界の知覚が直接意識になるのではなく、内受容感覚の精度が高い時、知覚が意識に上がる、というのも面白い。面白いけどまだあまりよく意味は分からない

付録 自由エネルギー原理の数理を垣間見る

何で、ベイズ推論の話なのに、自由エネルギーという熱力学の語彙が使われているのか、ということが数学的に説明されている章
本文と比べると数式も多いし確かに数学的な話をしてはいるが、タイトルに「垣間見る」とあるように、実際の数式の展開などはかなり省略されており、日本語で説明されているので、まあ数学分からなくても何となくはわかる、と思う


ヘルムホルツの自由エネルギー
=内部エネルギー-温度×エントロピー

シャノンの情報理論では、確率pの事象が起きたことを知らせる情報の情報量を-logpとしている。
起きる確率が少ないと情報量は大きくなる
自由エネルギー原理でいうシャノンサプライズというのはこれ。
次に、全ての事象について情報量を平均したものをエントロピーと呼ぶ
エントロピーが大きい=不確実性が大きい
で、物理学のエントロピー情報理論エントロピーが同じ量であることが示される。


2つの確率分布がどれくらいを似ているか評価するために用いられる物差しとして、カルバック-ライブラーのダイバージェンス(KL情報量とも)がある。


世界についての真の確率分布をそのまま使うのが難しい場合、近似した確率分布を用いる
この2つの分布は近い方がいい=ダイバージェンスを最小にしたい
ダイバージェンスを最小にする、(近似として用いる)確率分布は、変分自由エネルギーという量を最小化することが知られている。
この変分自由エネルギーが、フリストン の自由エネルギー原理
熱力学では、ある系がある状態をとる確率は内部エネルギーと関連づけられており、ヘルムホルツの自由エネルギーの式と結びつく
変分自由エネルギーの最小値とヘルムホルツの自由エネルギーは一致する
変分自由エネルギー=エネルギー-エントロピー(ここでは温度は無視)


近似した確率分布を用いてベイズ推論することを変分ベイズ推論と呼び、ダイバージェンスの式を使っていくと
ダイバージェンス=変分自由エネルギー-シャノンサプライズ
となり、つまり、
変分自由エネルギー=ダイバージェンス+シャノンサプライズ
となる。
同じ量をどのように解釈するかで色々応用できるのが自由エネルギー原理の面白いところであり、難解なところである、と述べられている。


インフォマックス原理


神経実装として勾配降下法
この方法なら神経回路で計算可能

石津智大『神経美学―美と芸術の脳科学』

タイトル通り、神経美学についての入門書
筆者は、ゼキのところで共同研究していたこともある研究者
もちろん、人文系の美学とは異なるところも色々あるが、しかし、人文系の美学とも接続可能な議論も色々なされていると思う。
後半で出てくる2つの美という提案は、人文系美学からはなかなか出てこないものだと思うけど、普通に美学理論の一つとしてありな気がする。

1 神経美学とは
2 視る美と聴く美
3 視えない美
4 うつろう美の価値
5 知識の監獄
6 変わらない価値はあるか?
7 快感と美観
8 ネガティブと美
9 醜さの力
10 創造性の源泉を脳にさがす
11 認知の枠組みと美
12 美の認知神経科学
引用文献
おわりに
神経美学の若きエース(コーディネーター 渡辺 茂)

1 神経美学とは

1.1 脳科学と美
1.2 主観と客観
1.3 主観性を脳からしらべる
1.4 神経美学の扱う範疇

2 視る美と聴く美

20世紀初頭の美術史家クライブ・ベルは、多様な種類の美しい作品の中で共通するものは何か問うた
神経美学的に言い直すと、共通して反応している脳の部位はどこか、ということになる。
肖像画、風景画、抽象画、写真、はたまた交響曲や現代音楽など、さまざまな芸術作品の経験時の脳の反応を調べていくと、内側眼窩前頭皮質が共通して活動していることが分かっている
また、美しさの体験の強さと、この部位の反応の強さも相関している
共通して活動している部位であって、この部位だけが美の経験を担っているわけではない、と注意書きもされている。

3 視えない美

数理的な美や道徳的な美など、知覚できないものに対する美的経験についても、やはり同じ部位が反応している


コラムには、背外側前頭前皮質を刺激すると、審美評価が強まったという脳刺激実験の話が

4 うつろう美の価値

4章・5章は、知識が美的判断にどれだけ影響するのか、という話
絵にどのようなキャプションがついているかによって、判断が変わることを示した実験とか
有名ヴァイオリニストに地下鉄駅で演奏させて、どれくらいの人がその演奏の価値に気付いたのかという実験とか
似たようなもので、クチコミが判断にどのような影響を与えるかという実験もある。人が肯定的に評価したものは自分もプラスに、否定的に評価したものは自分もマイナスに評価するようになるのだけど、言ってきた人が、自分の好きな人か嫌いな人かによっても変わる。嫌いな人が肯定的に評価した場合、マイナスに評価するようになるという現象も起きる。
まあ、さもありなんという話ではあるけれど、実験で示されると身もふたもないw

5 知識の監獄

同じく知識からの影響についての話だが、プロはどうなのかという話
プロは意識的に注意をコントロールしている

6 変わらない価値はあるか?

6.1 氷河期美術(アイスエイジアート)
6.2 単純なものから考える
6.3 運動の美と第5次視覚野
6.4 赤ちゃんは美を感じるか?
6.5 プリミティブアートと「頭足人

7 快感と美観

快には、生理的な報酬によるものと社会的・内的報酬によるものがある
前者は腹側線条体、後者は眼窩前頭皮質
美もこれらに対応するのではないか、と
前者は、顔や身体についての美や住居にかんする美で、文化の違いによらず判断が普遍的とされる
後者は、目に見えない美など

8 ネガティブと美

崇高や悲哀など、快ではない美(的カテゴリ)について
崇高さは、哲学者・美学者らにより快と不快の混合感情と言われてきたが、神経美学的にも、火山などの写真を見せた時。、快に反応する尾状核前部と負の感情に反応する被殻や海馬後部などが反応していることがわかっている
また、崇高さないし畏怖を感じる時、人は自分の社会的アイデンティティを意識するという心理学実験も紹介されている。この実験、畏怖を感じさせるための設定が、ティラノサウルス骨格標本の前に立つことだったのが、ちょっと面白い
悲哀に美を感じる時「距離」がキーになっている。
自分ではなく他人の痛みを認識するときの脳部位が反応している

9 醜さの力

ネガティブな美的カテゴリである醜
恐怖や嫌悪に反応する扁桃体が反応
また、島皮質も反応しているが、島皮質は(美に共通して反応する)眼窩前頭皮質と「シーソー」の関係になっている
恐怖に反応するとき、実際に身体は動かなかったとしても脳の運動野は反応する。
ところで、カントやメンデルスゾーンは、醜が吐き気など生理的な反応に繋がっていると論じる
崇高や悲哀には「距離」があったのに対して、醜は身体的な反応を引き起こし、距離を消し去ってしまうのではないか。それが醜の芸術がもつ力の源ではないかと論じている

10 創造性の源泉を脳にさがす

再現性がなかなかないので、創造性についての研究は難しくてあまりすすんでいない、としつつも、実際に行われた研究が紹介されている。
一口に創造性といっても、絵を描くこと、小説を書くこと、詩を書くこと、交響曲を作曲すること、即興演奏をすること、ダンスをすることなどそれぞれ異なっていると思われ、特に研究するにあたっては、小説を書くとか交響曲を作曲するとかの創造性は、対象にしにくい。
研究できそうなものとして、ジャズの即興演奏が挙げられている。
まあ、要するにfMRI使っても調べられそう、ということ(ある程度身体の動きが拘束されてもできる、比較的短時間できる)
この研究はTEDで紹介されていて、実際にミュージシャンがfMRIの中で即興演奏している映像を見ることができる。


11 認知の枠組みと美

フランシス・ベーコンの絵は人体は歪んでいるが、椅子などは歪んでいない
ところで、顔・身体の認知と物体の認知には違いがあって、前者は生得的ないし発達の非常に初期からあり上書きされない。後者は後天的で上書き可能
上書きというのは、変形された顔の画像と変形された椅子の画像を見せ続けた時に、脳が慣れたかどうか
ベーコンは、この2つの認知的コンセプトの違いをうまく利用しているともいえる


筆者は、この2つの認知的コンセプトを、第7章で論じた2つの快感情・2つの美と結びつけ、美を分類するための考え方を示している。

12 美の認知神経科学

12.1 真,善,そして美
12.2 生物的欲求と人間的品性

『認知科学第28巻第2号(2021)』解説特集「深層学習と認知科学」

TLで論文pdfのリンクが流れてきたので、特集の論文を3つとも読んでみた。

賀沢 秀人「深層学習は認知科学の対象となるか」

深層学習は認知科学の対象となるか
認知科学が対象にするのが、何らかの意味で知的に(ヒト的に)振る舞っているシステムだとした上で、深層学習で作られたシステムが、そのようなシステムかを考えた上で、なお、深層学習と認知科学の関係について提案する
まず、ヒト的というのを、観察可能な振る舞いがヒト的という意味で「外的にヒト」と、情報処理のレベルでヒト的という意味での「内的にヒト」とに区別した上で、深層学習で作られたシステムは、外的にヒトだとは言えるが、(部分的に類似しているとはいえ)現時点で内的にヒトとは言えない、とする。
(ところで、深層学習は、初期において人間の脳神経系の仕組みを参考にしていたが、現在はもはや人間の神経系を参考にしていない。この点について、鳥と飛行機の関係で喩えていて、なるほど、わかりやすいなと思った(定番の比喩なのかもしれないが)。つまり、飛行機は鳥のように飛ぶために作られたけど、実際の仕組みはもはや鳥とは関係ないし、今更、鳥の仕組みを取り込んだりしていないという意味)
で、その上で、認知科学構成主義的アプローチとして深層学習が使えるのではないかという点と、逆に、深層学習を理解可能な形にする(モジュール化するなど)のに認知科学が使えるのではないかという点を、認知科学と深層学習の今後の関係として提案している

丸山宏「人の心に似た機械を設計できるか」

人の心に似た機械を設計できるか
ちなみに、TLにリンクが流れてきたのはこれ
深層学習は、計算は計算でもアナログ計算
計算を、仕様の観点から分類する(古典計算、モデル化可能計算、部分再現可能計算)
人間の知能ってそもそも仕様が書けるの?
→現在のプログラム開発の現場においても、事前に仕様が書けないことが前提になってきて、アジャイル開発とかに移行している。人間の知能も、仕様が動的に変容するものとして枠組みを作らないといけないかもしれない
知能と言っても、色々な種類がある。また、人間の個体だけが知能をもっているわけではない(地球外文明から地球を見たら、個体ではなく人類全体として、こういう知能を持っていると考えるだろう的な話が)。人間の知能と機械の知能をあわせた超知能について考えてもいいのではないか、とか

松尾豊「深層学習と人工知能

深層学習と人工知能
深層学習は、それによって知能とは何かという科学的探求の側面と、それを技術として応用していくという工学的な側面とがあり、後者が重要だとされているが、筆者は、近年、前者が重要になってきたというシフトが起きてきていると考えている。
具体例として、トランスフォーマと自己教師あり学習を用いた大規模言語モデルの成功を挙げている。
一方で、大規模言語モデルの課題として(1)複数の行為の系列からなる処理が苦手(2)実世界の経験や行動に基づく知識の処理が苦手。課題2は、いわゆる記号接地問題
自己教師あり学習を用いて「世界モデル」を作ろうとする研究が最近盛んになっているという。
それにつながるものとして、画像と言語を結びつける研究がある。

自己教師あり学習の最終層のひとつ手前では,うまく学習するとdisentangleされた表現が得られている.(中略)例えば,顔画像であれば「目の大きさ」「ひげがあるか」「若いか年寄りか」「男性的か女性的か」などはdisentangleされたものであり,それぞれの要素を独立に変化させることができる.(中略)disentangleされた表現を得ることさえできれば,あとは言語で条件づけた深層生成モデルを用いて,さまざまなデータを生成できるということになる.これは,簡単にいえば「想像する」ということ

深層学習を用いた「想像」という、とても面白そうな話をしているが、一体、具体的にはどういうことかというと、こんなことが書かれている

OpenAIが2021年1月に公開したDALL-Eというモデルは,(中略)例えば,an armchair in the shape of anavocadoという文を入力すると,アボカドの形をした椅子が画像として生成される.

GANの話を知ったときもすげーなーと思ったけど、こっち(ちなみにこっちの画像生成はGANではない)も面白い。確かに「想像」と言えるかもしれない。
なお、ググったらすぐ出てきた上に、すでに100以上ブクマがついていた
openai.com

また、先に挙げた課題(1)については、筆者の仮説として、時間についての取り扱いを考え直す必要があるのではないかと論じている。

日経サイエンス2021年8月号

海外ウォッチ

  • 恐竜の骨のジグソーパズル

恐竜の骨がバラバラにいくつも発見された時、それが同一個体の骨なのかどうか、これまで確かめる術はなかった。が、骨の微細構造を調べることによって、これが分かったという研究の紹介

ロケット大量打ち上げ時代の大気汚染 M. N. ロス、L. デイビッド

ロケット大量打ち上げ時代の大気汚染 | 日経サイエンス
ロケットによる大気汚染について、これまで軽視されてきたが、ちゃんと考えないといけないという記事
ロケットの打ち上げによる燃料の総量と飛行機に使っている総量とでは、後者の方が圧倒的に多いので、これまでロケット打ち上げによる環境問題はあまり考えなくてもよいとされていたらしいが、筆者は、プロセスが違うので量的比較は意味がないという。
ロケットは、飛行機と異なり、大気の様々な層に排出を行う。成層圏を飛行する飛行機は稀だが、ロケットは確実に成層圏でも排出する。例えば、成層圏オゾンを破壊している
また、ロケット打ち上げの場合、いわゆる温室効果ガスよりも、他の排出物の環境への影響も考えなければならない。特に、宇宙デブリの大気圏再突入によっても「排出」は起きている、と。
コンステレーションとか、運用年数過ぎたあとに落下させるとして、それの環境への影響はどうなの、とか。
成層圏での排出」と「再突入時の排出」というのは、全然思いもよらない観点で勉強になった。ロケットならではの特徴でもあり、またあまり注目されてこなかったところでもあると思う。

空飛ぶドラゴンの解剖学 M. B. ハビブ T. ウィットラッチ

空飛ぶドラゴンの解剖学 | 日経サイエンス
生物学者イラストレーターでコンビを組んで、伝説上の空飛ぶ生き物について、実際に空を飛べるように無理のない形をしているとしたらどんな形になるか考えたという記事。
具体的には、ヒッポグリフ、天使、東洋の龍が挙げられている。
ヒッポグリフは、翼竜を参考にしている。鳥のように大胸筋で飛ぶようにすると馬のような大きさは飛ばせないけれど、背筋を使うと、それなりの重さでも飛べるのでは、と。
面白かったのは、東洋の龍。翼がないのに空を飛ぶわけだが、トビヘビという、やはり翼なしに空を飛ぶ実在のヘビを参考にしたという。
トビヘビは、東南アジアあたりに生息しているらしく、その点でも、東洋の龍と関連づけられる。
また、このヘビはトカゲなどを捕食しているらしく、西洋のドラゴンの天敵が東洋の龍だったのではないかという、架空生物生態系まで提案している。

SNSがしょうもない情報であふれるメカニズム F. メンツァー、T. ヒル

SNSがしょうもない情報であふれるメカニズム | 日経サイエンス
この記事、内容は読んでいないのだけど、図だけ少し見た。
「ボットによる情報汚染」という図があった。ボットがいると、フェイクニュースが広まりやすいらしい。