オキシタケヒコ『筐底のエルピス7 継続の繋ぎ手』

とりあえず読み終わったのでその記録


今まで頼りになる味方だった人物が、それも3人まとめて敵になってしまった、さあどうする、という回だった

橋本輝幸編『2010年代海外SF傑作選』

橋本輝幸編『2000年代海外SF傑作選』 - logical cypher scape2に引き続き、2010年代傑作選
個人的な好みでは、2000年代のより2010年代の方が好きな作品が多かった。
前半にポジティブな作品、半ばにダークな話が続き、後半は奇妙な話ないし不思議な動物の話があり、最後がテッド・チャンの中編で締められている
どれも面白かったが、印象に残ったのは「火炎病」「プログラム可能物質の時代における飢餓の未来」「果てしない別れ」
好きなのは、 「ロボットとカラスがイースセントルイスを救った話」や「" "」あたりか。
やっぱり「良い狩りを」や「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」は普通に面白い



「火炎病」ピーター・トライアス

突然、燃え盛る炎が見える精神障害を発症した兄を持つ主人公は、兄や同じ症状をもつ患者の見てる世界を体験できるようなARを開発している
火炎病の正体が、「ルミナス」のようなオルタナティブ世界によりもたらされたものだと分かっていくラストの急展開はなかなか詰め込んでる気もするが、希望の見えてくるラストシーンで読み味はいい

「乾坤と亜力」郝 景芳

世界中のあらゆるコンピュータに遍在するAIの乾坤は、プログラマーから、幼い亜力に教わるようにと命じられる。
子供は不合理なことばかりして理解不能だとなる乾坤だが、プログラマーはそこから自発性が生まれることを期待している
SFネタとしては新鮮味はさほどないが、子どもとAIが織りなすほのぼのSFとして、読み心地よい。
メインのAIネタより、亜力から暗黒物質について聞かれて、「自分の能力なら暗黒物質の正体突き止められるな」と気付いて、一晩で探査機作って打ち上げてデータ集めてくるという、サラッととんでもない話の方が、ネタとしてはインパクトある。

「ロボットとカラスがイースセントルイスを救った話」アナリー・ニューイッツ

感染症の防止のため、住民たちの健康観察をするドローンが主人公
運営会社がなくなり、野良ドローンと化すも、カラス語を覚えたり、人間の友人を得たりする
そして、スラムと化しているビル街の中で、カラスが感染病者を見つけ、カラス語を身につけた野良ドローンが、元の管理者や友人と協力して感染者を探し治療へとつなげていく


世界観としては、若干のポストアポカリプス感がある(完全に世界が崩壊したわけではないようだが、経済的に相当状況が悪くなっている世界
しかし、物語としてはかなりポジティブな感じでやはり読みやすい

「内臓感覚」ピーター・ワッツ

SFネタとしては、腸内細菌叢が人間の感情や行動に影響を与えるというものだが、一方で、Googleが邪悪な存在となるところを描いている話でもある。
物語は、Google職員に暴行を振るった男が、Googleのビルの一室に連れられ、話を聞かされていくという形で進む
邪悪になる、というか、作中のGoogle側の立場に立つなら、民衆から散々悪者扱いされてきたのでお望み通りになってやったぞ、という感じか

「プログラム可能物質の時代における飢餓の未来」サム・J・ミラー

この作品は2017年のものだが、解説によると2020年に自分はSFやファンタジーよりホラーを書きがちとツイートしているらしい。
この作品は、モンスター・怪獣ものなのだけど、怪獣による破壊は後景で、主人公の負の感情、三角関係からもたらされる罪悪感、憎悪、破滅願望が描かれる。


タイトルにあるプログラム可能物質というのは、スライム状の物質でスマホアプリを通じて好きなモノに変形できる代物で、ポリマーと呼ばれている。
前半、友人同士で集まったホームパーティで、互いのポリマーを見せ合ったりしているところから始まるが、そこで主人公は、初対面の男性に否応なく惹かれている
元々ドラッグにハマっていた主人公は、今の恋人のおかげで真っ当な世界に引き上げられているのだが、なお欲望に引き込まれそうになる自分に気付かされる
ところがその夜、その男が恋人を押し倒しているところを目撃してしまう。
と、そこから、数年後へと話は一気に飛ぶ。
ポリマーには脆弱性があって、事故として、あるいはテロリストによる攻撃として、世界各地でポリマー怪獣が出現
ニューヨークも突如現れたポリマー怪獣による壊滅的損害を負う
主人公はキャンプの1つで、あの男と再会する


主人公の復讐と破滅願望が、しかし、実は間違っていたものだと分かり、失効させられる様と、空飛ぶ怪獣の姿とが重ね合わされたラストシーンがエモい


「OPEN」チャールズ・ユウ

倦怠期を迎えた夫婦の前に、OPENの文字が現れる
その向こうには別世界が広がっていた

「良い狩りを」ケン・リュウ

以前、Netflixでやっていた『ラブ、デス&ロボット』の中でアニメ化されていた作品。
『ラブ、デス&ロボット』 - logical cypher scape2
ケン・リュウ『紙の動物園』 - logical cypher scape2にも収録されている
ラストシーンの機械化されて狐の変身するところのアニメ化がよくて、それを思い浮かべながら読んだ
東洋伝奇スチームパンクといった感じの作品
失われていく怪異・妖怪を蒸気テクノロジーで甦らせるまでの話

「果てしない別れ」陳 楸帆

陳楸帆というと、サイバーパンクな作風の作家というイメージだが、ちょっとイメージの異なる作品
もっともこれも、BMIが出てくるしサイバーなところがないわけではないが。
主人公は、閉じ込め症候群*1(よりもさらにタチの悪い奴)になってしまうのだが、そこに軍がやってくる。
地下に知的生命体を発見したのだが、彼らとコンタクトをとるための実験に協力させられる。
「蠕虫」と称される彼らは人間と全く異なる知覚の持ち主なので、人間としての知覚を失い始めてる主人公が選ばれたのだ
BMIを使って、ある蠕虫の個体と「融合」することになる主人公
人間としての知覚や記憶が徐々に失われていき、触覚中心の蠕虫の世界へと引き込まれていく。
しかし、彼の中にはずっと妻の記憶が留まり続ける
意外とハッピーエンド寄りの終わり方

「" "」チャイナ・ミエヴィル

原題はThe.
無を構成要素とする獣、それが" "だ
" "についての架空の解説記事で、" "には実は複数の種があるとかいった話が面白い

ジャガンナート――世界の主」カリン・ティドベック

SF作家としては英語圏で活動してるようだが、スウェーデン生まれスウェーデン在住の作家
人間はマザーと呼ばれるものの中で生きている世界
マザーの「頭」や「腹」で、それぞれ働いていて、マザーから分泌される食事を食べて生きている
ある時、マザーに不調が起きて、「腹」で生活していた主人公は「頭」へと向かう
何となく、弐瓶勉っぽいというか、弐瓶勉の同人読み切りっぽいというか

「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」テッド・チャン

テッド・チャン『息吹』 - logical cypher scape2にも収録されている中編
正直、これ持ってくるのズルなのでは?
AIにとり成熟とは何なのか、という問いは、そもそも人間だって自己の自由な選択とその結果を引け受けることについてどれだけ自信をもってやれるのか、という形で登場人物たちにも跳ね返っているようにも思える

「乾坤と亜力」の解説で、「ロボットとカラスがイースセントルイスを救った話」「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」と書き方を比較するのもよいかも、というようなことが書かれているが、どれも、ロボット・AIの自発性・自由がテーマになっている
「乾坤と亜力」は、そんなもの全然持ち合わせていないAIがそれの片鱗らしきものを得る話で、「ロボットとカラスがイースセントルイスを救った話」もロボットに自発性を求める話でロボット自身はそれを持ち合わせているかどうか不明だが、それらしきものがよい方向に働く話。「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」はAIに自発性や自由があったとして、人間や社会はそれをどう位置づけてやることができるの、という話、とでも整理できるかもしれない。

解説

2010年代の動向がいくつか紹介されているが、ヒューゴー賞の短編部門候補作について、2000年代には75%を占めていた《アシモフ》誌、《アナログ》誌、《F&SF》誌の比率が、2013年以降はゼロになったという。
自分は日本語以外でSF読んだことないし、海外の動向も追っていないが、それでもこれらが有名な雑誌なのは知っている。
代わりに勃興しているのが、無料のウェブジンだそうで、そういうのが出てきているのは話としては知っているけれど、ヒューゴー賞の短編候補作のほとんどがそれになっているとは。

*1:潜水服は蝶の夢を見る』への言及があった

Kathleen Stock "Fictive Utterance and Imagining"

フィクションの哲学の論文
フィクションを想像概念によって定義する、というのがこの分野のオーソドックスな見解だが、反論も多い。
反対派としては、マトラバースやフレンドがいる。
一方、最近の賛成派としては、このストックが挙げられることが多い
この論文は、フィクションにとって、想像させるよう意図してるものだ、というのが十分条件になってるよ、というもののようだ。


この論文はしかし、同じくフィクションを想像概念により定義するカリーの議論に対して、反駁ないし補足するようなものになっている。
「フィクティブな発話は、必ず想像を指定している」(この命題を以下NIP*1と略す)
これは、発話者(作者)が読者がPという命題を想像するように意図している、ということ
NIPの反例として、カリーは『ロビンソン・クルーソー』と『虚栄の市』をあげる。
前者は、元々作者がノンフィクションとして発表していて想像するように意図していないケース
後者は、事実について書かれており、想像ではなくそれについて信念を持つように意図されているケース
カリーは、前者について、正式にはフィクションではないのだがそのように扱われているケース、後者はフィクションとノンフィクションのパッチワークケースだと論じる。
これに対してストックは、カリーの応答は不十分であり、実際はNIPはフィクションを定義するのに十分であると論じていく


Pが真であるものとして示され、なおかつ非偶然的に真であることと、Pを想像するように指定していることは、両立する
両立するならば、NIPに障害はなくなる
というのが、ストックの見立て

この両立を示すのに最初に出てくるのが、Laslieの実験で、子どもに中身の入ってるコップ渡して、空のコップだと想像させる奴
ただ、ストックはこの実験によってこの論文で擁護したいことがちゃんと示せるとは考えてないっぽい


想像について、他の命題的思考と結びつく傾向性のあるものとして捉える、という提案をする
例えば、1945年のイギリスを舞台にした小説を読むとき、1945年のイギリスでは戦争があったという信念の内容と、その小説とを結びつける想像がなされる


読者の現象学的には、フィクションを読む時とノンフィクションを読む時とで変わりはないが、結びつく心的状態が異なるとも。
で、ここらへんから、『ロビンソン・クルーソー』はNIPの反例にならないと言ってるらしいが、あんまよくわからなかった


パッチワークケース
カリーはnon-non-accidentality condition、ラマルク&オルセンは、unreliablity conditionとか、条件を付け加えるけど、真であるかどうかということとNIPとの間にはつながりはないのではないか、というようことを論じているっぽい

*1:Neccessarily Imagining Prescribe

imdkm『リズムから考えるJ-POP史』

新年一発目は、リズムから考えていた
元々、realsoundで連載されていたものに大幅に加筆された本*1
連載当時読んでいて面白かったので、本も読んだ
本来なら出てくる音源も聴きながら読むべきなんだが、ほとんど聞かずに読んでしまった。知らない曲の方が多いくらいなのに……
曲を聴いてないのに、曲について書かれた文章が分かるということはないと思うが、しかし、何となくわかったような気分にはなる。
それは、分析のアプローチが多様であることも関わっている気がする。
分析のアプローチが多様であることは、著者本人があとがきでも触れている。


本書は、J-POPがPOPになるまで、という歴史を描こうとする。
そしてそれを、日本語の歌と様々な音楽(ここでは特に広義のダンスミュージック)のリズムの関係から紐解いていく本である

リズムから考えるJ-POP史

リズムから考えるJ-POP史

  • 作者:imdkm
  • 発売日: 2019/10/03
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

はじめに アジアンカルチャーの隆盛と日本
第一章 小室哲哉がリスナーに施した、BPM感覚と16ビートの“教育”
第二章 90年代末の“ディーヴァ”ブームと和製R&Bの挑戦
第三章 m-floから考える、和製R&Bと日本語ヒップホップの合流地点
第四章 中田ヤスタカによる、“生活”に寄り添う現代版「家具の音楽
第五章 Base Ball Bearから検証する、ロックにおける4つ打ちの原点
第六章 KOHHが雛形を生み出した、“トラップ以降”の譜割り
第七章 動画の時代に音楽と“ミーム”をつなぐダンス
第八章 “人間活動”以後の宇多田ヒカル
エピローグ 三浦大知と“J-POP”以後(書き下ろし)
おわりに(書き下ろし)
tofubeatsによる解説

imdkm.com

*1:なお、あとがきによれば、元々本を書く予定があり、それのダイジェストがこの連載だったよう

2020年ふりかえり

今年は、私的にも世間的にも激動の年だったが、その影響を受けて、本のタイトル数自体は少なめ。
ただ、下記の通り、シリーズ一気読みが2つと、英語論文をわりと読んでいることもあって、読書量そのものは意外と減ってないのかもしれない。
ブログを書く時間がとれなくなった、という方が大きいかも。


1月から8月にかけて連続刊行された『世界哲学史』を、ほぼ刊行にそって追っていたのと、『天冥の標』全10巻を一気読みしたのが、今年の二大トピック(?)
それ以外だと、英語の本・論文をいつになく読んでいる年だった。主に美学関連だが、美学以外のものもちらほら。

小説

『天冥の標』を除くと、14冊
そのうちSFが11冊。しかも、非SFカウントした3冊のうち2冊は奥泉光ミルハウザーという、広義ではSF作家にもカウントされることのある作家の作品なので、今年もまた相変わらずほぼほぼSFを読んでいた年だった。
SF自体は好きだし読みたい本も尽きないのでガンガン読んでいきたいのだが、もう少し非SF比率も高めたい。
(雑誌をノーカンにしているので数に含めていなかったが、1月に『群像』の短編特集を読んでいたので、まあそこで非SFを読んだといえば読んだ)
今年はほぼ国内作品を読んでいて、海外作品少なめかも。
面白かった本というと、『息吹』と『なめらなか世界と、その敵』がやはり突出しているかな。
あと、『天冥の標』も噂に違わずすごかった。

  • SF

アーカイブ騎士団『会計SF小説集』
テッド・チャン『息吹』
陳楸帆『荒潮』
飛浩隆『自生の夢』
冲方丁『マルドゥック・アノニマス5』
伴名練編『日本SFの臨界点[怪奇編]ちまみれ家族』
伴名練『なめらかな世界と、その敵』
津久井五月『コルヌトピア』
伴名練編『日本SFの臨界点[恋愛編]死んだ恋人からの手紙』
スタスニスワフ・レム『完全な真空』
天冥の標1~10
『2000年代海外SF傑作選』

  • 非SF

渡辺零『Ordinary346(4)』
奥泉光『雪の階』
スティーブン・ミルハウザー『私たち異者は』

哲学

今年は『世界哲学史』シリーズを読んでいたので哲学を読んでいたような気持ちもあるのだが、それ以外はほとんど読んでいないので、あまり哲学に触れていなかったような気もする。
『世界哲学史』シリーズは、哲学は哲学でも、自分にとっては普段触れないタイプの哲学だったこともあり。
やはり雑誌をノーカンにしていたが、『フィルカル』を読んでいたので、そこでも哲学に触れてはいた。分析的ニーチェ研究とかアメリ哲学史とか
それから、古生物学の哲学を一冊読んだ。


倉田剛『日常世界を哲学する』
『世界哲学史』1~8
Derek D. Turner "Paleoaesthetics and the Practice of Paleontology(美的古生物学と古生物学の実践)"

科学

科学本は、ほぼ生物学系。
進化生物学・分子生物学系で4冊。人類学2冊。古生物学2冊。神経生物学1冊。
『我々は生命を創れるのか』『生命はデジタルでできている』のブルーバックス2冊、および『交雑する人類』が特に面白かった 


藤崎慎吾『我々は生命を創れるのか』
チャールズ・コケル『生命進化の物理法則』
ジョナサン・ロソス『生命の歴史は繰り返すのか?』(的場知之・訳)
河合信和『ヒトの進化七〇〇万年史』
デイヴィッド・ライク『交雑する人類』(日向やよい訳)
田口善弘『生命はデジタルでできている』
”All Yesterdays: Unique and Speculative Views of Dinosaurs and Other Prehistoric Animals”
 トッド・E・ファインバーグ,ジョン・M・マラット『意識の神秘を暴く 脳と心の生命史』(鈴木大地 訳)
土屋健『化石の探偵術』

美学・その他

今年はウォルハイムの訳書がでたのがとにかくでかい


ミゲル・シカール『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』(松永伸司・訳)
リチャード・ウォルハイム『芸術とその対象』(松尾大・訳)
岩下朋世『キャラがリアルになるとき』

美学論文

描写関係の論文を中心に読みつつ、フィクション論関係のものも挟みつつ。


石田尚子「フィクションの鑑賞行為における認知の問題」
エティエンヌ・スーリオ「映画的世界とその特徴」
R.Hopkins ”Depiction"
Rafe McGregor "The Problem of Cinematic Imagination"
Elisa Caldarola "Pictorial Representation and Abstract Pictures"
Rune Klevjer, "Virtuality and Depiction in Video Game Representation"
Shaun Nichols ”Imagining and Believing: The Promise of a Single Code"
D.Lopes "The 'Air' of Pictures"
Dominic M. Lopes "Drawing Lessons"
Glenn Persons "The Aesthetic Value of Animals"
Stacie Friend "Fiction as Genre"

論文その他

文学研究の方の「フィクショナリティ」について2本と、古生物学の哲学1本。古生物学の哲学は今後ももう少し勉強したい。
Henrik Skov Nielsen, James Phelan and Richard Warsh "Ten Theses about Fictitonality"
Paul Dawson "Ten Theses against Fictionality"
Marco Tamborini "Technoscientific approach to deep time"

マンガ

そういえば、『チェンソーマン 』読みました
単行本派なので最終回読むのは年明け
主な感想は、以下の日のtwilogにおおむねまとまってる
シノハラユウキ(@sakstyle)/2020年08月10日 - Twilog



それでは、今年もお世話になりました。
来年も当ブログをよろしくお願いします。
よいお年をー

橋本輝幸編『2000年代海外SF傑作選』

2000年代というとわりと最近のような気もするが、もう10〜20年前のことであり、自分もまだほとんどSFを読んでいなかった頃だったりする
「暗黒整数」は言うに及ばず「ジーマ・ブルー」「地火」が面白かった

「ミセス・ゼノンのパラドックス」エレン・クレイジャズ/井上 知訳

短編というかショートショート
ケーキをひたすら半分こしていく

「懐かしき主人の声(ヒズ・マスターズ・ボイス)」ハンヌ・ライアニエミ/酒井昭伸

ライアニエミというと、名前を覚えにくい作家として自分の中で有名な1人(次点はバチガルピ)だが、まだ読んだことがなかった。
犬と猫が、首だけになって服役しているご主人様を助けるべく、一計を案ずる話
編者解説には「ポストサイバーパンク」とあり、物語よりも世界観を楽しむ作品かもしれない。もっとも設定をゴリゴリ説明するような類いの作品ではなく、色々想像させるような専門用語が詳しい説明なくちりばめられているような作品で、そこから情景を想像するのが楽しい。
上に、面白かった作品として名前を挙げなかったが、振り返ってみるとなかなか楽しい作品だったと思う。

「第二人称現在形」ダリル・グレゴリイ/嶋田洋一訳

意識経験を失わせるドラッグを濫用し、異なる人格になってしまった少女の物語
編者解説にもあるとおり、テーマ的にはイーガンのアイデンティティSFばりな話だが、テーマを掘り下げるよりは、主人公の少女と両親との物語となっている

「地火」劉慈欣/大森 望・齊藤正高訳

タイトルの地火は、炭鉱の坑内火災のこと。
主人公は、炭鉱労働者を父親にもつ技術者で、新しいプロジェクトを掲げて故郷の炭鉱へと戻ってくる。
それは、地下で石炭を燃焼させガス化させてパイプラインに誘導するというもの。
危険な炭鉱労働がなくなり、高効率化することができるもので、アイデアとしては古くからあるらしいが、実現はしていない。
なお、ググったら下記のようなページがあった
石炭地下ガス化 [せきたんちかがすか]|JOGMEC石油・天然ガス資源情報ウェブサイト
主人公は、ドローンを駆使したコンピュータ監視システムにより、これを実現しようと試みる。
隔離された位置にある炭鉱を実験場として、実証実験を始める主人公だったが……。
自然を科学によってコントロールすることの難しさ、といってしまうと陳腐なテーマだが、炭鉱という言ってみれば古い技術の世界に最新技術を投入していくという、ある意味でワクワクするような様子と、しかし、それが急激にカタストロフをもたらしていく様子が、リアルな筆致で描かれていて、とても面白かった。
特に最後の破滅シーンは迫力がある。


がしかし、最後の最後に付されている部分は、急に雰囲気も変わるし、蛇足感がある。
ただ、これが書かれた当時の中国SF出版界がどのような状況だったのか分からないのでなんとも言えないのだが、表面上、誤魔化す必要があって付け足された部分なのかな、という印象を受ける。

「シスアドが世界を支配するとき」コリイ・ドクトロウ/矢口 悟訳

この『傑作選』が出た頃、twitter上でわりと言及の多かったように思える作品
それで想像していたのとはちょっと違ったが、確かに時代を感じさせるといえば感じさせる作品である。
とにかくいきなり世界が滅びるのだが、データセンターにこもっていたシスアドたちは一命をとりとめ、世界に一体何が起きたのかを調べ始める。
といって、シスアドたちが原因を突き止める話でも、世界を助ける話でもない。世界を支配する話かというと、まあ文字面の上ではそうなんだけど、実態として支配したわけでもない。
身もふたもなく言ってしまうと、ネットに引きこもってないで外に出ろよ、みたいな話でもある。

「コールダー・ウォー」チャールズ・ストロス/金子 浩訳

冷戦期スパイ小説+クトゥルー神話もの
クトゥルー部分がよく分からなくて、よく分からなかった

「可能性はゼロじゃない」N・K・ジェミシン/市田 泉訳

起きる確率の低い事象が起こりやすくなってしまったニューヨークが舞台

「暗黒整数」グレッグ・イーガン/山岸 真訳

読むの3度目だけど、やっぱり面白い
3度目とはいえ結構内容は忘れていたので、新鮮な気持ちで読めた
オルタナティブ数学世界の惑星の画像を取得するところとか、面白い


主人公たち3人は、10年間にわたって、向こう側の世界との間に密かな不可侵条約を結んで維持し続けてきたのだが、突如、こちら側の世界から向こう側の世界への攻撃が行われたと言われる。
10年前の主人公たちの研究を知っていたある研究者が、「不備」の存在に迫るような研究を始めていたのだった。


グレッグ・イーガン「暗黒整数」/庄司創「三文未来の家庭訪問」 - logical cypher scape2
グレッグ・イーガン『プランク・ダイブ』 - logical cypher scape2

ジーマ・ブルー」アレステア・レナルズ/中原尚哉訳

以前、Netflixでやっていた『ラブ、デス&ロボット』の中でアニメ化されていた作品。
『ラブ、デス&ロボット』 - logical cypher scape2
自らの身体に極限環境に適応できる改造を施し、惑星規模の芸術作品を発表し続けてきた芸術家ジー
自身への取材をずっとNGにし続けてきたジーマが、引退直前に、1人のジャーナリストにだけインタビューを許可する。
主人公・語り手であるインタビュアーも、何百年も生きており、記憶アシスタント技術を用いているポストヒューマンもので、記憶とアイデンティティをめぐる話となっている。

芸術SFなのかなーと思ったら、ちょっと違う路線で、ロボットにとって目的とは何かみたいな話だった

アニメを見た際には、このような感想を書いているが、原作読んだらやっぱり芸術SFだった。
究極的に自分が追い求めているものは何なのかを突き詰めていった結果としての、ジーマの最後の作品が、ジーマの原初のアイデンティティでもあったという話。

Stacie Friend "Fiction as a Genre"

メイクビリーブを批判する1人として有名なフレンドの、(おそらく)有名な論文
フィクションの定義を巡る話で、タイトルにある通り、フィクションをジャンルの1つと捉え、メイクビリーブや想像のために作られたもの、という標準的な定義を退ける。
ここでフレンドが持ち出してくるのが、ウォルトンの「芸術のカテゴリー」論文
ある意味で、ウォルトンを使ってウォルトンを殴っているような論文とも言えて面白い(ただし、ちゃんと言っておくとこの論文の中で主に批判対象としてあがってくるのは、カリーやデイヴィスなど(のような立場)で、ウォルトン(のような立場)ではない)
メイクビリーブや想像とフィクションとの結びつきを完全に否定しているわけではなくて、想像はフィクションにとって標準的特徴であるとしている。
自分はメイクビリーブ派(?)だが、考えてみるとフィクションの定義自体にはさほどこだわりがないので、フレンドのジャンル説でも問題なさそうだな、と思った


Stacie Friend, Fiction as a Genre - PhilPapers

1.overview

フィクションとノンフィクションの区別についての理論は、以下の2つの問題に答えるべき
(1)分類の基準は何か
(2)個々の作品の鑑賞において、分類の効果は何か
標準的な理論はこれらに十分答えられていない
ジャンルには2つの特徴がある
(1)多くのジャンルは、歴史やコンテクストなどnon-essentialな条件によってそのメンバーが決められている(必要十分条件による定義ではない
(2)分類は、作品の特徴についての期待を生み、評価の基準を定める

2.standard theory of fiction

フィクションの標準理論というのは、フィクションを想像やメイクビリーブという反応で定義するもので、典型的には虚構的発話という言語行為によって特徴付ける
ただ、想像だけだとフィクションよりも広すぎなので、条件を加える必要がある
例えば、カリーがいうところの、作者の意図と偶然的に真であること(あと、デイヴィスによる別の提案も紹介・検討されている)

しかし、フレンドはその条件を加えても、反例が出てくると述べる(カリーの条件を満たすノンフィクション作品と条件を満たさないフィクション作品の実例)


虚構的発話理論は、フィクションであることを作品の部分または一側面に還元してしまう還元主義だからうまくいかないという
フレンドは、これに対して自分は文脈主義だという
作品全体を、読むこと・書くこと・批評などの実践の文脈に置いて判断する

3.criteria of classification

で、ここで出てくるのが、ウォルトンの「芸術のカテゴリー」論文
ウォルトンはこれを芸術作品のみ、また、知覚的な特徴に限った話としているが、フレンドはこれを拡張する
ウォルトンの、標準的特徴・反標準的特徴・可変的特徴
あるカテゴリーの標準的特徴というのは、ある作品がそのカテゴリーに属してる時、それを持っていると期待される特徴
想像は、フィクションにとって標準的特徴
だから、フィクションとされる作品にとってそれがあることが期待されるが、かといって、それがあることがフィクションの定義になるわけではない。
だから、想像という特徴を持っていないフィクションもあって、その場合、それがその作品の評価に関わってくる(期待外れな作品だと評価されるが挑戦的な作品だと評価されるかは分かれるだろうけど、標準的特徴がないことについて注目されて評価に関わってくる)
あるカテゴリーにとって必要だと思われる特徴でも必要条件になってないことはある
ある作品がどのジャンル・カテゴリーに属するか決めるのは、歴史的な文脈など

4.effects of classification

フィクションやノンフィクションをジャンルと捉えることは、鑑賞にとって何か役割を果たすのか
サブジャンルの方が鑑賞には関連するのではないか
これに対して、ウォルトンゲルニカスで論じたゲシュタルト効果や、ロペスがモンドリアンを例に出して論じた比較クラスのスイッチ、つまり、どのジャンルに属しているものとして見るかでどの特徴に注目するかが変わることをあげる。
そして、実際にある作品の一部を引用し、これをフィクションとして読むか、ノンフィクションとして読むかで、特徴への注目の仕方が変わることを示す。
鑑賞に対して、フィクション・ノンフィクションというカテゴリーは、真正の違いをつくる


ウォルトンにおける「カテゴリーにおいて知覚すること」に対応する「カテゴリーにおいて読むこと」の説明が必要
これについてはまだ詳細に論じることはできないとしつつも、心理学における「リーディングストラテジー」が参考になるのではないかとしている。
これは、人間はワーキングメモリーなど認知的リソースに限界がある中でどうやって読解しているのかという研究
実際、フィクションかノンフィクションかという違いが、リーディングストラテジーに効果を与えてるっぽいことを示す研究もある。

5.conclusion

フィクションかノンフィクションか区別しがたい作品について
その区別しがたさは、作者の意図や現代的な実践に由来するのであって、作品の中に両方の特徴が混ざっているから、ではない。
そうした作品は、フィクションかノンフィクションか不確定としてもいいし、フィクションかつノンフィクションという新しいジャンルだとみなしてもよいだろう、と。


感想

「芸術のカテゴリー」論文ちょっと忘れてたので、なるほどこういう風に使ってくのかーと
上で、ロペスの名前一回しか出さなかったけど、実際には2回異なることで出てくる。カテゴリーと鑑賞についてはロペスも大事っぽい
上の要約では、論文中に出てくる具体例を(ほとんど知らない作品ばかりだったこともあり)全然紹介しなかったが、具体例が多い
実際に4節では、作品からの引用もあって、こういう風に読んだら読み方変わるでしょ、と読者に実体験させてるのが面白い(英語の読み物が読めないので自分はいまいち分からなかったが、説明読んだら何をいいたいかは分かった)
最後、心理学研究がひかれていたのも面白い
「状況モデル」もこの語だけ出てきた
マトラバーズも、ここらへんの文章読解についての心理学研究を引用していたはず。


作品を読んで、「こういう特徴があるからこの作品はフィクション/ノンフィクションだ」というのではなくて、読む前から、これはフィクション/ノンフィクションだと分かった上で、それをもとに鑑賞してるよね、という枠組みは、石田尚子「フィクションの鑑賞行為における認知の問題」 - logical cypher scape2と通じるところもあるのかな、と少し。