橋本輝幸編『2000年代海外SF傑作選』

2000年代というとわりと最近のような気もするが、もう10〜20年前のことであり、自分もまだほとんどSFを読んでいなかった頃だったりする
「暗黒整数」は言うに及ばず「ジーマ・ブルー」「地火」が面白かった

「ミセス・ゼノンのパラドックス」エレン・クレイジャズ/井上 知訳

短編というかショートショート
ケーキをひたすら半分こしていく

「懐かしき主人の声(ヒズ・マスターズ・ボイス)」ハンヌ・ライアニエミ/酒井昭伸

ライアニエミというと、名前を覚えにくい作家として自分の中で有名な1人(次点はバチガルピ)だが、まだ読んだことがなかった。
犬と猫が、首だけになって服役しているご主人様を助けるべく、一計を案ずる話
編者解説には「ポストサイバーパンク」とあり、物語よりも世界観を楽しむ作品かもしれない。もっとも設定をゴリゴリ説明するような類いの作品ではなく、色々想像させるような専門用語が詳しい説明なくちりばめられているような作品で、そこから情景を想像するのが楽しい。
上に、面白かった作品として名前を挙げなかったが、振り返ってみるとなかなか楽しい作品だったと思う。

「第二人称現在形」ダリル・グレゴリイ/嶋田洋一訳

意識経験を失わせるドラッグを濫用し、異なる人格になってしまった少女の物語
編者解説にもあるとおり、テーマ的にはイーガンのアイデンティティSFばりな話だが、テーマを掘り下げるよりは、主人公の少女と両親との物語となっている

「地火」劉慈欣/大森 望・齊藤正高訳

タイトルの地火は、炭鉱の坑内火災のこと。
主人公は、炭鉱労働者を父親にもつ技術者で、新しいプロジェクトを掲げて故郷の炭鉱へと戻ってくる。
それは、地下で石炭を燃焼させガス化させてパイプラインに誘導するというもの。
危険な炭鉱労働がなくなり、高効率化することができるもので、アイデアとしては古くからあるらしいが、実現はしていない。
なお、ググったら下記のようなページがあった
石炭地下ガス化 [せきたんちかがすか]|JOGMEC石油・天然ガス資源情報ウェブサイト
主人公は、ドローンを駆使したコンピュータ監視システムにより、これを実現しようと試みる。
隔離された位置にある炭鉱を実験場として、実証実験を始める主人公だったが……。
自然を科学によってコントロールすることの難しさ、といってしまうと陳腐なテーマだが、炭鉱という言ってみれば古い技術の世界に最新技術を投入していくという、ある意味でワクワクするような様子と、しかし、それが急激にカタストロフをもたらしていく様子が、リアルな筆致で描かれていて、とても面白かった。
特に最後の破滅シーンは迫力がある。


がしかし、最後の最後に付されている部分は、急に雰囲気も変わるし、蛇足感がある。
ただ、これが書かれた当時の中国SF出版界がどのような状況だったのか分からないのでなんとも言えないのだが、表面上、誤魔化す必要があって付け足された部分なのかな、という印象を受ける。

「シスアドが世界を支配するとき」コリイ・ドクトロウ/矢口 悟訳

この『傑作選』が出た頃、twitter上でわりと言及の多かったように思える作品
それで想像していたのとはちょっと違ったが、確かに時代を感じさせるといえば感じさせる作品である。
とにかくいきなり世界が滅びるのだが、データセンターにこもっていたシスアドたちは一命をとりとめ、世界に一体何が起きたのかを調べ始める。
といって、シスアドたちが原因を突き止める話でも、世界を助ける話でもない。世界を支配する話かというと、まあ文字面の上ではそうなんだけど、実態として支配したわけでもない。
身もふたもなく言ってしまうと、ネットに引きこもってないで外に出ろよ、みたいな話でもある。

「コールダー・ウォー」チャールズ・ストロス/金子 浩訳

冷戦期スパイ小説+クトゥルー神話もの
クトゥルー部分がよく分からなくて、よく分からなかった

「可能性はゼロじゃない」N・K・ジェミシン/市田 泉訳

起きる確率の低い事象が起こりやすくなってしまったニューヨークが舞台

「暗黒整数」グレッグ・イーガン/山岸 真訳

読むの3度目だけど、やっぱり面白い
3度目とはいえ結構内容は忘れていたので、新鮮な気持ちで読めた
オルタナティブ数学世界の惑星の画像を取得するところとか、面白い


主人公たち3人は、10年間にわたって、向こう側の世界との間に密かな不可侵条約を結んで維持し続けてきたのだが、突如、こちら側の世界から向こう側の世界への攻撃が行われたと言われる。
10年前の主人公たちの研究を知っていたある研究者が、「不備」の存在に迫るような研究を始めていたのだった。


グレッグ・イーガン「暗黒整数」/庄司創「三文未来の家庭訪問」 - logical cypher scape2
グレッグ・イーガン『プランク・ダイブ』 - logical cypher scape2

ジーマ・ブルー」アレステア・レナルズ/中原尚哉訳

以前、Netflixでやっていた『ラブ、デス&ロボット』の中でアニメ化されていた作品。
『ラブ、デス&ロボット』 - logical cypher scape2
自らの身体に極限環境に適応できる改造を施し、惑星規模の芸術作品を発表し続けてきた芸術家ジー
自身への取材をずっとNGにし続けてきたジーマが、引退直前に、1人のジャーナリストにだけインタビューを許可する。
主人公・語り手であるインタビュアーも、何百年も生きており、記憶アシスタント技術を用いているポストヒューマンもので、記憶とアイデンティティをめぐる話となっている。

芸術SFなのかなーと思ったら、ちょっと違う路線で、ロボットにとって目的とは何かみたいな話だった

アニメを見た際には、このような感想を書いているが、原作読んだらやっぱり芸術SFだった。
究極的に自分が追い求めているものは何なのかを突き詰めていった結果としての、ジーマの最後の作品が、ジーマの原初のアイデンティティでもあったという話。

Stacie Friend "Fiction as a Genre"

メイクビリーブを批判する1人として有名なフレンドの、(おそらく)有名な論文
フィクションの定義を巡る話で、タイトルにある通り、フィクションをジャンルの1つと捉え、メイクビリーブや想像のために作られたもの、という標準的な定義を退ける。
ここでフレンドが持ち出してくるのが、ウォルトンの「芸術のカテゴリー」論文
ある意味で、ウォルトンを使ってウォルトンを殴っているような論文とも言えて面白い(ただし、ちゃんと言っておくとこの論文の中で主に批判対象としてあがってくるのは、カリーやデイヴィスなど(のような立場)で、ウォルトン(のような立場)ではない)
メイクビリーブや想像とフィクションとの結びつきを完全に否定しているわけではなくて、想像はフィクションにとって標準的特徴であるとしている。
自分はメイクビリーブ派(?)だが、考えてみるとフィクションの定義自体にはさほどこだわりがないので、フレンドのジャンル説でも問題なさそうだな、と思った


Stacie Friend, Fiction as a Genre - PhilPapers

1.overview

フィクションとノンフィクションの区別についての理論は、以下の2つの問題に答えるべき
(1)分類の基準は何か
(2)個々の作品の鑑賞において、分類の効果は何か
標準的な理論はこれらに十分答えられていない
ジャンルには2つの特徴がある
(1)多くのジャンルは、歴史やコンテクストなどnon-essentialな条件によってそのメンバーが決められている(必要十分条件による定義ではない
(2)分類は、作品の特徴についての期待を生み、評価の基準を定める

2.standard theory of fiction

フィクションの標準理論というのは、フィクションを想像やメイクビリーブという反応で定義するもので、典型的には虚構的発話という言語行為によって特徴付ける
ただ、想像だけだとフィクションよりも広すぎなので、条件を加える必要がある
例えば、カリーがいうところの、作者の意図と偶然的に真であること(あと、デイヴィスによる別の提案も紹介・検討されている)

しかし、フレンドはその条件を加えても、反例が出てくると述べる(カリーの条件を満たすノンフィクション作品と条件を満たさないフィクション作品の実例)


虚構的発話理論は、フィクションであることを作品の部分または一側面に還元してしまう還元主義だからうまくいかないという
フレンドは、これに対して自分は文脈主義だという
作品全体を、読むこと・書くこと・批評などの実践の文脈に置いて判断する

3.criteria of classification

で、ここで出てくるのが、ウォルトンの「芸術のカテゴリー」論文
ウォルトンはこれを芸術作品のみ、また、知覚的な特徴に限った話としているが、フレンドはこれを拡張する
ウォルトンの、標準的特徴・反標準的特徴・可変的特徴
あるカテゴリーの標準的特徴というのは、ある作品がそのカテゴリーに属してる時、それを持っていると期待される特徴
想像は、フィクションにとって標準的特徴
だから、フィクションとされる作品にとってそれがあることが期待されるが、かといって、それがあることがフィクションの定義になるわけではない。
だから、想像という特徴を持っていないフィクションもあって、その場合、それがその作品の評価に関わってくる(期待外れな作品だと評価されるが挑戦的な作品だと評価されるかは分かれるだろうけど、標準的特徴がないことについて注目されて評価に関わってくる)
あるカテゴリーにとって必要だと思われる特徴でも必要条件になってないことはある
ある作品がどのジャンル・カテゴリーに属するか決めるのは、歴史的な文脈など

4.effects of classification

フィクションやノンフィクションをジャンルと捉えることは、鑑賞にとって何か役割を果たすのか
サブジャンルの方が鑑賞には関連するのではないか
これに対して、ウォルトンゲルニカスで論じたゲシュタルト効果や、ロペスがモンドリアンを例に出して論じた比較クラスのスイッチ、つまり、どのジャンルに属しているものとして見るかでどの特徴に注目するかが変わることをあげる。
そして、実際にある作品の一部を引用し、これをフィクションとして読むか、ノンフィクションとして読むかで、特徴への注目の仕方が変わることを示す。
鑑賞に対して、フィクション・ノンフィクションというカテゴリーは、真正の違いをつくる


ウォルトンにおける「カテゴリーにおいて知覚すること」に対応する「カテゴリーにおいて読むこと」の説明が必要
これについてはまだ詳細に論じることはできないとしつつも、心理学における「リーディングストラテジー」が参考になるのではないかとしている。
これは、人間はワーキングメモリーなど認知的リソースに限界がある中でどうやって読解しているのかという研究
実際、フィクションかノンフィクションかという違いが、リーディングストラテジーに効果を与えてるっぽいことを示す研究もある。

5.conclusion

フィクションかノンフィクションか区別しがたい作品について
その区別しがたさは、作者の意図や現代的な実践に由来するのであって、作品の中に両方の特徴が混ざっているから、ではない。
そうした作品は、フィクションかノンフィクションか不確定としてもいいし、フィクションかつノンフィクションという新しいジャンルだとみなしてもよいだろう、と。


感想

「芸術のカテゴリー」論文ちょっと忘れてたので、なるほどこういう風に使ってくのかーと
上で、ロペスの名前一回しか出さなかったけど、実際には2回異なることで出てくる。カテゴリーと鑑賞についてはロペスも大事っぽい
上の要約では、論文中に出てくる具体例を(ほとんど知らない作品ばかりだったこともあり)全然紹介しなかったが、具体例が多い
実際に4節では、作品からの引用もあって、こういう風に読んだら読み方変わるでしょ、と読者に実体験させてるのが面白い(英語の読み物が読めないので自分はいまいち分からなかったが、説明読んだら何をいいたいかは分かった)
最後、心理学研究がひかれていたのも面白い
「状況モデル」もこの語だけ出てきた
マトラバーズも、ここらへんの文章読解についての心理学研究を引用していたはず。


作品を読んで、「こういう特徴があるからこの作品はフィクション/ノンフィクションだ」というのではなくて、読む前から、これはフィクション/ノンフィクションだと分かった上で、それをもとに鑑賞してるよね、という枠組みは、石田尚子「フィクションの鑑賞行為における認知の問題」 - logical cypher scape2と通じるところもあるのかな、と少し。

フランソワ・ダゴニェ『具象空間の認識論』(金森修訳)(中断中)

地質学や岩石学などを題材としてエピステモロジーの本

びおれん@薔薇の講堂 on Twitter: "この辺(イメージ美学による科学認識)はフランソワ・ダゴニェが『具象空間の認識論』や『イメージの哲学』でやってるのでオススメ。"
以前、描写の哲学で科学哲学と美学の両方にまたぐようなテーマに興味があることを呟いていたら、オススメされた
エピステモロジーは以前から気になっていたものの手を出したことがなかったので、また、地学に関する科学哲学というあまり見ない分野でもあるので、読んでみることにした。
したのだが、やはり全然知らない分野なので、なかなか読み方がわからない。
3分の1くらいまで読み進めたのだが、そのあたりで『天冥の標』を読み始めてしまい、いったん読むのを中断してしまってから、再開出来ずじまいになっている。

序論
第一章 岩石の認識論
第二章 風景の哲学
第三章 表層の発見論
第四章 心理の地図製作法
結論
自発的隷従の哲学(解説にかえて)

Glenn Persons "The Aesthetic Value of Animals"

動物の美学について論じた論文
動物を美的に鑑賞するのは不道徳なのかという問題に対して、機能美を鑑賞するのであれば不道徳ではないと論じる。


以前、青田麻未「動物の美的価値 : 擬人化と人間中心主義の関係から」を読んだ時に、主に紹介されていたもの
内容的にはおおよそ上の青田論文を読んでもわかる

要約

動物を美的に鑑賞することは、美学では無視されてきている。
まず、なんで美学で動物があまり扱われてこないかについて、筆者の推測が挙げられる
動物は芸術作品と比べて複雑な存在だからではないか→自然環境の美学は盛んなのに、動物が扱われていない理由にならない
動物を鑑賞することは非美的だからではないか→非美的なところは確かにあるけど、だからといって全く美的ではないということにはならない
動物を美的に鑑賞するのは不道徳だからではないか
道徳的な存在を、主体subjectではなく客体objectとして扱うのは倫理的に問題だろう。そして、あるものを美的に鑑賞するというのは、それを鑑賞の対象objectとすること。
パーソンズは、この不道徳反論に対して、不道徳ではないやり方で、動物を美的に鑑賞することはできると論じることで、動物の美的鑑賞を美学で扱えるようにしたい。


パーソンズは自身の説を展開する前に、他の哲学者や理論家が、動物の美的鑑賞をどのように理解してきたかを整理し、それらが不道徳反論を免れないことを示す。
ラスキンヘーゲルは、動物の生き生きとした様子を賞賛することだとした
あるいは、エキゾチズム
他には、擬人化やシンボリズム
そして、Zangwillらによるフォーマリズム
これらは全て、人間と動物との関係や動物自身には関係のない人間の関心から、動物を見ており、不道徳反論を免れないだろう、と。


パーソンズは、機能美として動物の美的価値を位置づける
実は18世紀にも、動物の美はこのように説明されていた
パーソンズは、機能美の意味を弱い意味と強い意味とに区別する
弱い機能美は、「Xの美しさがXの機能に適していること」
強い機能美は、「Xの機能がXの美しさの一部であること」
例えばキッチンの色や形は、前者。
カントのいう付属美や、デイヴィスによる機能美の分析も前者。
カントやデイヴィスによれば、機能と美は外在的な関係。機能から美は生じない。
これに対して、強い意味での機能美は、機能から美が生じてくる
チーターの身体のラインの美しさは、チーターの速く走るという機能から生じてくるもの


機能美を鑑賞することも、動物を対象objectとするという点は変わらない、とパーソンズは述べる。
その上で、機能というのは動物の主体性と関わるものであり、機能美の鑑賞は動物の主体性を倫理的に問題ある形で否定することはない、と論じている


機能美の鑑賞は、美的経験なのか? 知識獲得の喜びなのではないか、という反論に対して、確かにそこを混同してしまうこともあるが、芸術作品の鑑賞だって、芸術史やジャンルについての知識を得ることを含むわけで、だからといって美的でなくなるわけではない、と。


機能美は美なのか、ということについて、バークが『崇高と美の観念の起源』で論じているので、それに反論する。
バークはまず、美しいけど機能美じゃない例(孔雀)を挙げる
パーソンズは、別に全ての美が機能美だと主張してるわけじゃないから、これは問題ないとする。
次にバークは、機能美が美の十分条件にもなってない例(ブタの鼻)を挙げる。
パーソンズは、ブタの鼻は確かに機能に適しているが美しくない例だと認める。
しかし、確かに美しいbeautifulという評価語は適用されないだろうが、なお美的aestheticな性質は有するだろう、としている。

土屋健『化石の探偵術』

サブタイトルは、「読んで体験する古生物研究室の世界」とあり、古生物学研究の方法論についての入門書
化石を掘るための道具や地図の読み方・書き方から始まり、どのようなところを掘ればいいか、地層からどのようなことが分かるか、掘り出したあとの化石をどのように調べるか等といった内容


自分は、古生物や恐竜について本や記事を読んではいるが、フィールドに立った経験は当然なく、研究手法だったり、古生物学の中でも地学的な面だったりについてはあまり知らなかった。
まあ、古生物や恐竜についての本を読んでいれば、そういったことも断片的には入ってくるのだが、ひとまとまりに読むことはそうないので。


方法論だけではなく、具体的な古生物の話も書かれており、古生代中生代新生代それぞれからトピックが選び出されている。

はじめに
第零部 探偵術を知る前に……【基礎知識編】
第1章 知っておきたい「およその生命史」
第2章 現在は過去を解く鍵
壱部 徒手空拳は似合わない【アイテム編】
第1章 〝宝の地図〟が必要だ
第2章 細かい記録が、情報を生かす
第3章 〝七つ道具〟をそろえよう
第弐部 化石を探せ
第1章 化石になる、という珍しさ
第2章 〝宝箱〟を探せ!
第3章 〝岩〟にも手がかりはある
第参部 手がかりは現場にある
第1章 いきなり、掘るな
第2章 かつてそこは、海か陸か
第3章 上流か下流かーー水はどこから流れて来たか
第4章 上は本当に「上」か
第5章 あそこのアイツは同時代なのか
第6章 地層に数字は書かれていない
第7章 〝乱れ〟はないか?
第8章 地層の〝色〟は、保存に関わるかもしれない
第9章 時代の〝 ギャップ〟に注意せよ
第10章 博物館にも〝宝〟はある
第肆部 化石の声を聞く
第1章 化石を露出し、記録する
第2章 その輝きは〝後づけ〟
第3章 部分から全体を
第4章 〝犯人〟の手がかりを探る
第5章 傷に「異常」はないだろうか
第6章 その小石も手がかりとなる
第7章 歯は口ほどにモノを言う
第8章 眼は口ほどにモノを言う
第9章 化石を輪切りにすることで見えてくる
第10章 糞も化石になる
第11章 数があれば、見えてくるものがある
監修者より本書によせて
もっと詳しく知りたい読者のための参考資料

化石の探偵術 (ワニブックスPLUS新書)

化石の探偵術 (ワニブックスPLUS新書)

  • 作者:土屋 健
  • 発売日: 2020/10/08
  • メディア: 新書

壱部 徒手空拳は似合わない【アイテム編】

地形図、地質図の読み方、書き方など

第弐部 化石を探せ

化石形成
ノジュール
微化石
石の新鮮さ

第参部 手がかりは現場にある

地層は上の方が新しく、下の方が古いが、地殻変動で上下の向きが変わっていることがあるので、上下判定が重要。どうやって上下を判定するかなど、地層の見方
火山灰層の重要性
地層の不整合


博物館で化石を発見する話、例としてカムイサウルスの話が出てくるが、何度読んでも面白い

第肆部 化石の声を聞く

クリーニングしたあとの化石をあえて白く塗ってしまうという方法もある


複眼は化石として残ることがある
複眼のレンズの数を数えることで、どんな狩りをしていたか調べる(ウミサソリ類の研究)
強膜輪から開放F値を調べて、夜行性がどうか調べる
ステゴサウルスの骨髄炎、鎧竜は自身の骨を溶かして鎧をつくる、デスモスチルスは骨密度的に遠洋まで泳げる、いずれも骨を輪切りに調べた研究
などなど

トッド・E・ファインバーグ,ジョン・M・マラット『意識の神秘を暴く 脳と心の生命史』(鈴木大地 訳)

サールの「生物学的自然主義」を引き継ぎ「神経生物学的自然主義」を掲げる筆者らによる神経生物学的な意識研究の本
前著『意識の進化的起源』のダイジェスト的な本らしく、前著の方を未だ読めていなかったので、とりあえずこっちを手に取ってみた。
基本的な話としては面白いのだが、意識のハードプロブレムの解決になっているのかというと、もっと詳しい議論を読まないとよく分からない、という感じで物足りなさが残った。

第1章 どうして意識は「神秘に包まれて」いるのか?
第2章 ギャップに迫る─イメージと情感
第3章 脊椎動物の意識を自然科学で解き明かす ①心的イメージ
第4章 脊椎動物の意識を自然科学で解き明かす ②情感
第5章 無脊椎動物の意識という問題
第6章 意識を生みだす特性とは何か
第7章 原意識の進化とカンブリア仮説
第8章 主観性を自然科学で解き明かす
デカルトの神秘的な幽霊の正体─訳者あとがきに代えて
用語集


第1章 どうして意識は「神秘に包まれて」いるのか?

第2章 ギャップに迫る─イメージと情感

意識は、外受容意識、内受容意識、情感意識の3つのドメインに分けられるとする。
さらに単純化して、心的イメージと情感の2つに分類する(外受容は心的イメージ、情感は情感、内受容が心的イメージと情感にまたがる)
また、説明のギャップについて、これを「参照性」「心的統一性」「心的因果」「クオリア」の4つに分けている。

第3章 脊椎動物の意識を自然科学で解き明かす ①心的イメージ

外受容感覚意識を生み出すには、感覚器官からの信号を受け取るニューロンが同型的地図として配置されていると推定
哺乳類だけでなく鳥類や魚類など脊椎動物の脳内のどこにそのような神経的基盤があるか
種類によって、脳内の場所は異なる
一方、無脊椎動物にはそのような神経的基盤がなく、同型的地図が初期の脊椎動物で進化したのだと論じている

第4章 脊椎動物の意識を自然科学で解き明かす ②情感

情感の基準として「大域的オペラント条件づけ」を行うかどうか
大域的オペラント条件づけまでは行わないが、単純な感情価と行動のシステムをもつ動物についてなど


イメージも情感も、種によってそれを実現する神経回路は異なる

第5章 無脊椎動物の意識という問題

無脊椎動物のほとんどは、脳の構造的に意識はないと考えられるが、節足動物た頭足類にはありそうということで、いくつか実験の紹介なと

第6章 意識を生みだす特性とは何か

全ての生命に備わる特性
脳神経系を持つ生命に備わる特性
原意識を持つ生命に備わる特性
の三段階に分けて、意識を生み出すそれぞれの特性を挙げている。


意識に関わるものとして、予測プロセス、注意、記憶を挙げている
ここでも予測誤差最小化

第7章 原意識の進化とカンブリア仮説

先に挙げた3つの段階がそれぞれいつ頃進化の過程で生じてきたか。
カメラ眼登場に伴う視覚先行説
意識の適応的価値


第8章 主観性を自然科学で解き明かす

デカルトの神秘的な幽霊の正体─訳者あとがきに代えて

用語集

感想

この本のいいところ、面白いところは、意識と一言で言っても色々あるよね、と言ってるところで
まず、同じ種内でもイメージ意識と情感意識の違いがあるという話(意識の議論は、大抵どちらかによりがち)をして、また、種によってこれらを実現する神経基盤が異なることを論じていて、それは面白い
一方で分からないのは、その基準を用いることとそれが意識であることの関係
まあ、ある程度測定可能というか客観的に判断できそうな基準を作って、調べてみる、というのは経験科学としては王道だと思うので、意識の科学としては、十分ありだと思う。
ただ、これでハードプロブレムに太刀打ちできるのかというと謎
こういう神経系になってるからこの動物には意識がある、ない、みたいな話をしているのだが、そもそもある神経系の仕組みと意識とが何で一致してると言ってよいのか、というのが意識の哲学的問題のはず


もっともこの本が、ハードプロブレムに対して全然ダメかというとそういうわけでもなくて、問題の腑分けをしているのは役に立つと思う
クオリアについての説明と主観性についての説明は分けた方がいい、という整理は、よい整理のように思う。
主観性を説明するのに、自-存在論的還元不可能性と他-存在論的還元不可能性というものものもしい言葉が出てくるが、これは、自分の脳は自分の脳神経の活動そのものをモニタするように作られていないし、また、他人と神経は繋がってないから他人の経験は経験できない、という話
個人的には、これは至極もっともな話で、ハードプロブレムの問題が説明のギャップに尽きるのであれば、まあ、これでもいいんじゃないかと思わなくもない。
ただ、ハードプロブレムって、神経系が必然的に意識経験を産むわけではないのでは? という問題なので、神経系が意識を生じさせていることを前提にしすぎると、ハードプロブレム論者を納得させることはできないのでは、という気はする


筆者は、説明のギャップを、参照性、統一性、心的因果、クオリアの4つにわけ、それぞれ神経生物学的な説明が可能であることを論じている
参照性というのは、志向性のようなもののことかなと思うのだけど、哲学者は志向性にギャップがあるとはあまり考えていないように思うので、何故これをギャップをなす特徴の1つとして挙げたのか、というのはちょっと疑問
で、問題はクオリア
筆者はクオリアを持つことの必要条件として生命であることを挙げている
このあたり、あまり明示されていなかったと思うが、サールっぽい
この本は意識の「多重実現可能性」にも言及しているが、あくまでも生物の中の話(意識は、脊椎動物無脊椎動物とで異なる神経によって実現されており、おそらく進化史の中で複数回獲得されたのだろうというような話)
非生命(ロボットやAI)が意識を持つことができるかどうかについて直接的な議論はないが、非生命的な情報理論としての意識理論には明確に否定的である。
サールが強いAI批判をしていたことを考えると、通じるものがある気がする。


また、本書は、生命が階層的なシステムとなっていることを強調している。
低層のシステムをベースに、さらに高次のシステムが生じてくる、と。
こういう階層構造もサールっぽい感じがする
(サールは、存在論的には物的一元論をとるけど、生物学や社会科学は、物理学に還元できないという立場で、それはなんかこういう階層構造的なものが念頭にあったような気がするけど、ここらへんかなり不確かな記憶で書いてます)
訳者あとがきでは、ケストラーのホロン概念が言及されていたけれども。


話をクオリアに戻すと
クオリアは、高次のシステムの持つ特性というかプロセスそのものであり、低次のシステムである神経の働きについてとは、そりゃ一致しないよね、という話をしていて
それの喩えとして、呼吸を挙げている
呼吸というのは、全身で見られる巨視的なプロセスであるが、細胞レベルで見られる微視的なプロセスもある。巨視的なプロセスと微視的なプロセスとは違うけど、どちらも生きていることによって生じているプロセスである、と。
クオリアも、生きていることによって生じてくるプロセスなのだ、と。
先程、生命であることがクオリアの必要条件であることとつながる話なのだが。
しかし、呼吸の喩えは本当に喩えとして成立しているのだろうか、というのは気になるところ。


同型的地図の話は、鈴木貴之『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』 - logical cypher scape2にあった「内容理論」の神経系的な実装の話として捉えることができたら、面白いかなーと思った



神経生物学的自然主義に最初からある程度コミットした上でなら、この本の議論は面白いし、個人的にも、意識の話は当然進化生物学や神経科学の観点から考えるべきものだよね、とは思うので、その点、正しいアプローチなのでは、と思っている。
一方で、意識の哲学として読むと、ライバル理論を打ち負かすには、議論として足りてないのではないか、という感じがする。
特に、生命が必要条件である、というところは、機能主義だったり統合情報理論だったり、非生命でも意識を持ちうる可能性があると考える立場から見ると、この本の記述だけでは全然納得いかんのでは、という感じ。
訳者あとがきで、ケストラーの轍を踏んで神秘世界に落ちてしまわないように注意しないと的なことが書いてあったが、確かにそういう危険性もあると思う。

Marco Tamborini "Technoscientific approach to deep time"

古生物学(歴史科学)の科学哲学論文
古生物学において、いかに被説明項たる現象がテクノロジーによって生産され、処理され、提示されているか。
テクノロジーと不可分であることを示す。
Derek D. Turner "Paleoaesthetics and the Practice of Paleontology(美的古生物学と古生物学の実践)" - logical cypher scape2の参考文献に挙がってたので、手に取った。


Technoscientific approaches to deep time - ScienceDirect

1.Historical sciences and technology

古生物学(歴史科学)の科学哲学の最近の研究動向
Turnerの悲観主義とClelandの楽観主義の間の論争がまず紹介されている
最近、主に注目されているのは、過剰-過少決定の問題
しかし、テクノロジーはあまり注目されていない
それでも、さらに近年になって、傾向は変わりつつある。A.WyleやC.Wyle、A.Currieの研究

2.Technoscience

テクノサイエンスとは何か
科学とテクノロジーが一体してるような分野
化学やナノテクノロジー

3.Paper technology

18、19世紀の古生物学において用いられたペーパー・テクノロジー
スケッチや表、グラフなど
キュビエの骨のスケッチ
ブロンのグラフ(特徴を数量化し時系列上にグラフ化、進化のパターンを視覚化)

4.Twenty-first-century virtual paleontology

20世紀の初めから、X線が使われるようになり、
1960年代から、コンピュータが用いられる
さらに、21世紀から、いわゆるバーチャル古生物学
より完全なデータを抽出するツールとしてのバーチャル古生物学
単にデータを出してくるのではなく、可能なシナリオの生成ができるようになる。
ラウプの腹足類の殻の研究や、Gatesyのティラノサウルスの後脚の研究(実際のものだけでなく、取りうる形をパラメータいじって調べる)


5.Towards a technoscientific history and philosophy of historical sciences

技術的デバイスは、被説明項を提示する
キュビエは、スケッチから現れたものを説明しようとした
過去に起きた出来事そのものは知ることができないが、過去の力は、十分な現実として現れる
コンピュータで生成されたイメージは、古生物学者がアクセス可能な現実の一部であり、化石と存在論的な差異はない。どちらも、同じ現実に対する側面である


科学とテクノサイエンスの違いは、方法論的なものではなく存在論的なもの
探求の対象が単に発見されるのではなく、創り出される
理論的な表象と技術的な発明は絡み合っている


19・20世紀のペーパーテクノロジーと、20・21世紀のバーチャル古生物学は、強い連続性があるけれど、根本的に変化している。
X線MRI、3Dスキャナーやコンピュータは、表やグラフなどのペーパーテクノロジーにおげる二次元空間ではなく、三次元空間に拠っている
ラウプやGatesyによって視覚化された現象は、ペーパーテクノロジーでは視覚化できなかった


テクノサイエンスとして古生物学や歴史科学を捉えるアプローチは、歴史科学がどのように過去に対して認知的なアクセスをするのかについての理解を助けてくれる
キュビエやブロンやラウプらは歴史的な現象が現れるロバストなシステムを生み出しコントロールするための、テクニカルなスキルを開発してきたのであり、技術と理論のつながりを分析することで、自然史的知識の生産についての理解を広げられる。