『SFマガジン2020年8月号』

特集・日本SF第七世代
ここでは、北野勇作野尻抱介を第4世代、冲方丁小川一水、上田早夕里、伊藤計劃円城塔を第5世代、宮内悠介、酉島伝法、小川哲を第6世代とした上で、それ以降を第7世代としている。
まあ、世代分けにどれくらいの意味があるかはともかく、これに従えば自分は第5、第6世代ばっか読んでるということになる(瀬名秀明を除くと、第4世代以前はマジで全然読んでない……。あ、あと飛浩隆は4なのか5なのか)
で、第7世代も多少読んだことはあるけど、ほとんど手を出してないというのが正直なところ
そんなわけで読んでみようかなと

SFマガジン 2020年 08 月号

SFマガジン 2020年 08 月号

  • 発売日: 2020/06/25
  • メディア: 雑誌

高木ケイ「親しくすれ違うための三つ目の方法」

飛さんがTwitterで、タイトルの英訳が第三者接近遭遇になることを指摘していたが、エイリアンの噂話のある田舎に取材に行く若者の話
主人公の祖父(故人)は若い頃にエイリアンに遭遇したことがあると話していて、その話を祖母に聞きにいったところ、それを上回る話を聞かされてしまう。
取材と称して親しくなったUFO愛好家グループの1人である女性に好意を抱き始めていた主人公は、祖母から聞いた話を彼女に打ち明ける。


麦原遼「それでもわたしは永遠に働きたい」

この作者のデビュー作は以前読んだことがあったが、難しくてあまりよく分からなかったという印象(体調があまり良くない時に読んだこっちも悪かったとは思うが)
対して、こちらの作品は読みやすかった
労働ディストピア

草野原々「また春が来る」

フィクションが季節ごとに収穫される世界

三方行成「おくみと足軽

伊藤さんが扉イラスト描いてた
ロボット大名行列SF
大名が巨大ロボット、足軽は多脚式運搬ロボット
その世界観が面白かった

津久井五月「牛の王」

コルヌトピア読みたいと思いつつまだ読めてない
第2長編の冒頭先行公開
面白かった。続き楽しみ。こういう雰囲気の作品好き

劉慈欣「クーリエ」

アインシュタインのもとを訪れる時間移動者

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史7』

7巻は「近代2 自由と歴史的発展」

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史1』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史2』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史3』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史4』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史5』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史6』 - logical cypher scape2


19世紀を取り上げており、前の巻に引き続き、ザ・哲学といったビッグネームが並んでいる
ドイツ観念論ショーペンハウアーニーチェマルクス功利主義プラグマティズムベルクソン……
アジアからはインドと日本。インドは久しぶりの登場かなと思う。相変わらず(?)固有名詞が難しいけど、なかなか面白い


欧米の各哲学については、全部とは言わないが、カントとの違いで特徴付けられるものが多い印象
しかしまあ、色んな哲学が出てきたという感じあり、この巻を通じたキーワードはあまり思いつかなかった(タイトルや1章にある通り、編集サイド的には「自由」ということなのだろうけど)

第1章 理性と自由 伊藤邦武
第2章 ドイツの国家意識 中川明才
コラム1 カントからヘーゲルへ 大河内泰樹
第3章 西洋批判の哲学 竹内綱
コラム2 シェリングの積極哲学の新しさ 山脇雅夫
第4章 マルクスの資本主義批判 佐々木隆
第5章 進化論と功利主義の道徳論 神崎宣次
コラム3 スペンサーと社会進化論 横山輝雄
第6章 数学と論理学の革命 原田雅樹
コラム4 一九世紀ロシアと同苦の感性 谷寿美
第7章 「新世界」という自己意識 小川仁志
第8章 スピリチュアリスムの変遷 三宅岳史
第9章 近代インドの普遍思想 冨澤かな
第10章 「文明」と近代日本 苅部 直



第1章 理性と自由 伊藤邦武

自由について、一般的に2種類の自由(自発性の自由と無差別な選択の自由)に分けられることを踏まえつつ、第3の自由があると言う
それは、習慣形成によって得られる自由で、この自由は非西洋世界とも共鳴するだろうという話をしている。この巻では儒学についての章はないが、ここまで世界哲学史を読んできていると儒学っぽい話だと感じられ、「伏線回収(?)だ!」とちょっと興奮してしまった。


その他、ロマン主義というのは原義はローマへの回帰だけど、文芸運動的には、冒険や英雄譚、恋愛物語に没入するという意味だよねとあり、ついついロマン主義のロマンとはローマのことで〜と思いがちなので、思い直した。

第2章 ドイツの国家意識 中川明才

主にフィヒテの政治哲学について
まず、ドイツ・ロマン主義について紹介し、その後、カントの政治哲学と対比する形でフィヒテの政治哲学・道徳哲学が説明される。
フランス革命とナポレオンの影響が強い。


ドイツ・ロマン主義は、シュレーゲルが創刊した雑誌を牙城としたが、この雑誌の終刊後、シュレーゲルはインド思想を研究するようになり、これが後にショーペンハウアーニーチェとつながっていくらしい。


カントは、革命権を否定しており、それが君主制の容認と繋がっている、と。
カントは、支配権が何に帰属するかで、君主制、貴族制、民主制の、支配権がいかに行使されるかで専制、共和制の区別をなす。
共和制は、行政権と立法権の分離なので、民主制は共和制ではないとし、代議制のもとでの君主制において共和制は成り立つと考える、らしい
ここらへん、『永遠平和のために』に書いてあるらしい。カントで唯一通読した本だけど、忘れてる。


フィヒテは、あらゆる君主制が自由と相容れないとして否定し、また革命権を正当化するフランス革命論を書く。
理論哲学と実践哲学を統合すると原理として「自我」とし、自我のあり方の自由という観点から道徳性を捉える(自律こそ自由、というのはカントっぽい気がするが)

コラム1 カントからヘーゲルへ 大河内泰樹

『カントからヘーゲルへ』は1924年に書かれた哲学史の本のタイトル。
一方、2003年には『カントとヘーゲルの間』という哲学史の著作が書かれている。
単線的な発展の歴史ではなく、相互影響があったという史観の更新について

第3章 西洋批判の哲学 竹内綱

ショーペンハウアーニーチェについて


ショーペンハウアーの意志が何か、初めて少し分かったような気もしたのだが……
いわゆる知的作用としての意志ではなく、自分の身体が動いていることを内的に感じることを「意志」と呼んだらしい。
もしかしてそれって、自己主体感とか自己所有感とかのことか? なるほど、それなら分かるぞ、っていうかショーペンハウアーなかなかいいとこ突いてんじゃん、と思ったのも束の間、これを身体だけでなく世界全体に適用する、となって一気に訳わからなくなった
ショーペンハウアーは、同情から自分と他者が同一の意志であるとする倫理、というのも説いているらしい
また、仏教から影響を受けたと解されることが多いが、インド哲学や仏教には、後から出会って自分の思想と近くて驚いた、ということらしい。


ニーチェについては、ショーペンハウアーとの違いという点から解説されている


最後に、本シリーズ第1巻のインドの章で出てきたドイッセンはニーチェの友人で、彼ニーチェの勧めでショーペンハウアーを読み始めたのだけど、その弟子である姉崎は日本のショーペンハウアー研究を始めた人だよ、という繋がりが紹介されている

コラム2 シェリングの積極哲学の新しさ 山脇雅夫

シェリングよく分からない……


ドイツ哲学ってカントまではまあ何となく分かる気がするんだけど、カント以後、19世紀のってずっとよく分からない……。まあちゃんと勉強してないせいもあるけど
今回、フィヒテのところは政治哲学なこともあって、割と分かる感じがしたけど

第4章 マルクスの資本主義批判 佐々木隆

まず、マルクスの思想と「マルクス主義」を区別する。後者は、エンゲルスマルクスの思想を広める上で通俗化したものだ、と。また、マルクスの思想には近代批判があるが、マルクス主義は近代イデオロギーの1つになってしまっている、といい、マルクスの元々持っていた近代批判について紹介する章


マルクスヘーゲルの影響を受けていたのは確かだが、弁証法で何でも説明できると考えていたのはエンゲルスの方で、マルクスは「「弁証法的運動法則」について語ったことは一度もない」というのは、軽い驚きだった。


マルクスは、青年ヘーゲル派のバウアー、フォイエルバッハからそれぞれ影響を受けつつ批判することで、自らの「哲学」を形成していく。ここでカッコでくくったのは、マルクスはその後哲学批判に転じていくから。
マルクスのいう哲学というのは、世界を解釈し、それを啓蒙することで世界を変革しようとするものであり、超歴史的に普遍的に説明しようとする理論。
しかし、マルクスはそういう体系を作ることを目指すのではなく、変革の契機とするために批判を行う。理論そのものによって変革はならない。


次に、マルクスの経済学批判について
商品形態論と、そこから導き出される労働の再生産と搾取について
筆者は「マルクス経済学」ではこうした観点が抜け落ち、単なる私的所有批判と国家による収奪に堕してしまっているとしている
マルクス自身は、政治権力による変革ではなく、社会運動や協同組合による変革を考えていたらしい
協同組合かー!


後期マルクスの思想として、物質代謝論というのが紹介されてる

第5章 進化論と功利主義の道徳論 神崎宣次

章タイトルに進化論と入っているが、話の枕程度で、メインは功利主義
(近年の倫理学の自然化についても紹介したかったのかなと)


功利主義というと、それと対立する立場は義務論、だと反射的に答えてしまうが、この対立図式は20世紀に作られたもので、歴史的には、功利主義vs直観主義というのが伝統的な対立図式らしい
というかベンサムが仮想敵にしてたっぽい
直観主義というと多様な立場が含まれてしまってあまりはっきりと定義できないようだが、ベンサム道徳感情論などを批判していたようだ


本章では、ベンサムとミルがそれぞれ紹介される。2人とも、功利性の原理そのものの正当化はうまくできていないが、しかし功利主義自体には説得力は確かにある、と。

コラム3 スペンサーと社会進化論 横山輝雄

スペンサーの社会進化論は、社会ダーウィニズムなどと呼ばれ、ダーウィン進化論が元になっていると思われがちだが、実際はラマルク進化論だし、あんまりダーウィン関係ない、というのはまあ知られるところだが、スペンサーの生きてる時からある誤解で、スペンサー本人が、俺ダーウィンより前から進化論唱えてたから
、と言ってたのは知らなかった

第6章 数学と論理学の革命 原田雅樹

19世紀の数学の話
数学全然分かってないのでむずい……


一般に、19世紀の数学は、(非ユークリッド幾何など)カント哲学を覆すものと捉えられているが、ここでは、エピステモロジストのヴュイユマンによる、フィヒテによるカント哲学の方法論的転換が数学の進展を可能にしたという主張をベースに論じられる。


五次以上の方程式の一般解について
ラグランジュから始まり、アーベル、ガロアがそれぞれ証明する
で、ここでは、ラグランジュフィヒテが、どちらも、存在と対象だけでなく、形式と操作を主題化したという。


リーマンによるリーマン面の導入
その弟子デデキントによる代数学の抽象化
ここにも、カントからフィヒテへの移行と類似した移行があるという

コラム4 一九世紀ロシアと同苦の感性 谷寿美

第7章 「新世界」という自己意識 小川仁志

プラグマティズムについて


プラグマティズムの特徴は、反デカルト主義と、事実と価値の区別の否定


パースは、デカルトの明晰判明を個人の主観にすぎないと批判(これ、ライプニッツも言ってなかったか*1 )
パースが自然科学ベースに考えていたのに対して、ジェイムズがこれを広く応用。これがのちの対立のもとに
事実と価値の区別をもとにした対立は、気質的な対立だと(この話前にも出てきた*2 )
純粋経験と多元論
純粋経験というのは主客未分離での質の感受(西田っぽいなと思ったら、西田に影響与えているらしい)
ジェイムズの多元論が、もしかしてグッドマンにも影響したんだろうか(この章にグッドマンは名前も出てこないが)
デューイは、さらに道徳や政治にもプラグマティズムを持ち込もうとする。実験して検証するのが民主主義


この3人は古典的プラグマティズム
次に、クワイン、ローティ、パトナムらのネオ・プラグマティズムがあり、最近は、ミサックやブランダムのニュー・プラグマティズムがある
ニューの方は、古典的プラグマティズムの再評価を行なっている、と

第8章 スピリチュアリスムの変遷 三宅岳史

フランス・スピリチュアリスム、具体的には、メーヌ・ド・ビラン、ヴィクトル・クザン、フェリックス・ラヴェッソン、アンリ・ベルクソンについて*3


スピリチュアリスムはかつて唯心論と訳されていたが、それだと心的一元論を含意してしまうが、実際には二元論の立場も含むので、近年はスピリチュアリスムと訳されているとのこと。
そもそも色々な立場を含み、歴史的にも変遷があるとのことだが
まず、19世紀のフランスは、フランス革命とナポレオンを経て、保守派と革新派の2つのフランスに分裂していた時期で、これは哲学思想的には、宗教を重視する立場と科学を重視する立場の対立となっていた。スピリチュアリスムは、この2つの融和を目指す立場で、また、まだ科学として成立途上にあった生物学や心理学と関係していた。
また、カント的な物自体についての不可知論を避け、実在について論じようとする点で、ドイツ観念論からの影響も受けている、と。


ビラン
意志に対して抵抗するものとしての身体=原初的事実(これちょっとショーペンハウアーの意志と近いのでは? と思った)
原初的事実から諸概念の構成
現象学への影響


クザン
七月王政期の哲学者・政治家
実証主義と対立し、精神は脳に還元されないというクザン派の心理学
ヘーゲルの歴史哲学の影響を受けた、エクレティスム(折衷主義)
ただし、ドイツ観念論と違って、心理学から出発する
政治家として、ライシテを推進。フランスの高校に哲学科目があるのはクザンによるもの。また、高等師範学校の改革を行い、人事権を振るって実証主義人脈を排除
第二帝政の成立とともにクザン派は退潮。エクレティスムからスピリチュアリスムへ。


ラヴェッソン
第二帝政期、クザン派の退潮に伴い、非クザン派として台頭。クザンを強く批判したが、実際にどれくらい違うのかは要検討とのこと。
『習慣論』において、ビランの議論をアリストテレスおよびライプニッツ存在論と接続
スピリチュアリスム実証主義


ベルクソン
ビランやクザンと同様、心理学から出発するが、習慣や努力ではなく、持続を見出す
エラン・ヴィタルは、クザンやラヴェッソンの自発性に類似した概念

第9章 近代インドの普遍思想 冨澤かな

19世紀から20世紀前半のベンガルルネサンスについて
インドのキーワードである「スピリチュアリティ(精神性・霊性)」と「セキュラリズム(世俗主義)」について
ヴィヴェーカーナンダや、ローイ、タゴール、セーンというブラーフマ・サマージの系譜、そしてラーマクリシュナが取り上げられる。


ヴィヴェーカーナンダとスピリチュアリティ
スピリチュアルな国インド、というのは如何にもオリエンタリズムなイメージなようだが、実はインド人自身が結構アイデンティティとしている。これは、西洋のオリエンタリズムを逆手に利用した戦術、アファーマティブオリエンタリズムだとする議論もある。
しかし、筆者は本当にそうなのか、と疑問を呈す。
スピリチュアリティという言葉を積極的に使い始めたヴィヴェーカーナンダの用例や、その周辺の用例を調べる。具体的には、何回か使っているかとにかく数えまくるという手法を取る。
結果、ヴィヴェーカーナンダの欧米渡航の最終年から急増したことが分かった。やはり、欧米由来の概念だったのか。今度は欧米での用例を数える。すると、この当時、スピリチュアリティという単語はほとんど使われていないことが判明
スピリチュアリティという語の使用は、ヴィヴェーカーナンダが独自に編み出したものであり、必ずしもオリエンタリズムを逆手にとったものとは言えなさそう、と論じている。
ヴィヴェーカーナンダのスピリチュアリティは、東西に共通する普遍的なものをさす概念として用いられている


偶像崇拝多神教カーストやサティ、幼児婚などを批判し、一神教的普遍宗教を目指したローイは、ブラーフマ・サマージという組織を作る
ローイの後を継いだタゴールは、崇拝と瞑想を用い、ローイとは取り組みが異なっていた。社会的には保守的
タゴールの後を継いだのがセーンで、彼は社会変革的という点でローイと近かったが、偶像崇拝などを取り入れるようになる。


このセーンに影響を与えたとされるのが、ラーマクリシュナ
先述のヴィヴェーカーナンダは、もともと ブラーフマ・サマージにいたが、ラーマクリシュナの弟子になっている。
ラーマクリシュナは、無学で、社会改革にも興味を持っていたわけでない、神秘主義的な宗教家だが、ブラーフマのメンバーを始め、インドの知識人が集っていた。
筆者は、インドの普遍主義、つまり東西対立を超えるものでもあり、インド内部の対立を解消するものとしての普遍主義は、共有できる何かとして、世界に空いた〈穴〉を求めており、それがラーマクリシュナに求められていたのでは、と論じている。

第10章 「文明」と近代日本 苅部 直

「文明」「文明開化」という言葉が明治から昭和にかけてどのように用いられてきたか。


もともと、シヴィライゼーションの訳語として福沢諭吉が用いる。
明治19年には既に、徳富蘇峰により、物質的文明はただの西洋模倣として批判的に用いられている。
大正期には、文明に対して文化を礼賛する、阿部次郎や和辻哲郎などの教養派が登場。岩波書店とともに教養ブームが到来
もともと文明はフランス由来で、文明と文化の対比はドイツ由来らしい
昭和に入り教養派は衰退するが、日本浪漫派や「近代の超克」座談会など、文明批判は続く。


文明について、明治期の庶民は肯定的に捉えていたこと
文明という言葉にはもともと道徳性のニュアンスが持ち込まれていたこと
「近代の超克」座談会の参加者でもある鈴木成高と、それを批判した丸山眞男の対立に、19世紀という時代の位置付けをめぐる対立を見る。19世紀を近代の問題点が集約された時代とみなす鈴木と、19世紀に現代の始まりを見る丸山


次は
sakstyle.hatenadiary.jp

*1:伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史5』 - logical cypher scape2の第7章

*2:伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史6』 - logical cypher scape2の第1章

*3:ベルクソン以外知らなかった……。というか、ベルクソンはこういう流れに位置付けられるんですね。ミネルヴァから出た『現代フランス哲学入門』の目次見たら、当然全員載ってた

デイヴィッド・ライク『交雑する人類』(日向やよい訳)

サブタイトルは「古代DNAが解き明かす新サピエンス史」てまあり、遺伝学による人類史研究の本
筆者は一時期ペーポの研究所にいた人で(今は独立した研究室を持っている)、この本のタイトル的にも、ネアンデルタール人やデニソワ人と現生人類との交雑の話かなと思って手に取ったのだけど、まあ、それらについての話題も結構ページ数割いてちゃんと書かれているが、メインとなる話題は、それよりももう少し後の時代(1,2万年前〜数千年前)で、現生人類内での集団間の交雑が扱われている。
河合信和『ヒトの進化七〇〇万年史』 - logical cypher scape2を読んだのは、この本の予習(「ゲノム革命」以前の定説の確認)の意味もあったのだが、扱われている時代について重複があまりなかった。まあ、700万年のうち、DNA使って遡れる期間のこと考えてみると当たり前っちゃ当たり前の話なのだが……。
旧石器時代あたりをまとめている本があれば、ちょうどよかったのかもしれない。ただ、軽くググってみた程度だと、そのあたりの手頃な入門書が見当たらないのだが……。


本書は三部構成になっている。
第1部は、ゲノムを使った研究がどのようなものかという理論的な説明と、ネアンデルタール人やデニソワ人などと現生人類との交雑の話や、ホミニンの出アフリカは4回ではなく3回だった説などが論じられている。
第2部は最も長くてメインとなる箇所で、ヨーロッパ、インド、アメリカ、東アジア、アフリカといった諸地域についてそれぞれ論じている。
第3部は、ゲノム研究と差別に関わる問題を扱っている


この本はまず、これまで考古学、人類学、言語学などによって担われてきた人類史研究に、新参者たる遺伝学がどのような寄与ができるのか、という観点から書かれている。
新参者としての謙虚さを兼ね備えつつも、遺伝学がこの分野に対して決定的に重要な役割を担うという強い自信が垣間見える。というか、そういう遺伝学プレゼンの本だと思う(筆者はゲノムデータ分析を、放射性炭素年代測定にも喩えている(どのような影響をもたらすか、今後どのような地位を得るかについて))。
では、遺伝学、ひいてはゲノムワイドなデータを用いることでどのようなことが分かったか。
遺伝学は、人類集団の交雑の来歴を明らかにし、どれくらいの時期にどのような移動をしてきたかということを明らかにすることができる。
そこから、人類の各集団はかなりダイナミックな移動と交雑を繰り返しており、5000年から1万年ほど遡ると、今とは全く異なる集団の構成になっていたことがわかってきたという。その中には、現在にはもう存在していないし、考古学・人類学的にも確認されていない「ゴースト集団」の存在も含まれる。
こうしたことは、純粋に学術的な観点で、新説を生み出しいることなどから興味深い(新説を出しているだけでなく、従来からあった説の裏付けとなっているケースも無論ある)。
が、それだけでなく、政治的・社会的観点からも、かなり重要な問題提起をしている。
すなわち「人種」についてである。
例えば、現在ヨーロッパに住んでいる、いわゆる「白人」ないし「コーカソイド」であるが、ゲノム研究により、複数の集団の交雑によって生じた集団だということが分かってきた。「金髪」「碧眼」「白い肌」といった特徴も、それぞれ別の集団から引き継いできた形質らしい。
既に述べた通り、ゲノム研究は、人類の中には今は消えてしまった「ゴースト集団」があったことを示唆している。こうしたゴースト集団は、もし現在まで残っていたら、それ自体1つの「人種」と見なされていたであろうと考えられるほど、他の集団と違いがある。
こうした研究結果は、人種の「純血性」なるものが全くの間違いであったことを示している。
一方、集団間に差異があることについても分かってきている。もっともそうした差異は、レイシストなどが考えているようなものとは違う、と筆者は述べている。
筆者のライクは、当然ながら人種差別には否定的であり、そうした動きについては警戒している。また、おそらくそのような問題を解決したいと思っており、自分の研究がそれに役に立つと考えているのだろう。
そうした立場に間違ったところはないと思うが、あえて批判的なことを言うならば、楽観主義的なところがあるかと思う。楽観主義そのものは決して悪いことではないが、科学的に正しいことが明らかになれば、当然、人種差別という非科学的なものはなくなるというのは、危うい気はする。
科学的に正しい知識自体はもちろん必要だが、それだけではおそらく足りないのではないかと思う。もっともこの本は、あくまでも遺伝学についての本なので、それを踏み出すことまで求められていないし、その意味では十分踏み出している本だと評価することもできる。
この本に書かれている「ゲノム革命」によって分かってきたことは、いずれも面白いことばかりで、今後の進展が楽しみな分野ではあるが、こと「人種」問題に関しては、パンドラの箱感もあるなーとは思った。最後には希望が残っているとして、今の人類、ちゃんとこれ使いこなせます? 的な一抹の不安というか。
もちろんそれは、遺伝学側の問題というよりは、それを受け取るこちら側の問題であるわけだが。


冒頭に書いた通り、元々ネアンデルタール人とサピエンスの交雑の話だと思って読み始めたところがあり、それについても書いてあったから別によいのだが*1、それ以上にホモ・サピエンス内の話だったし、さらには人種差別と遺伝学の関係について考えさせる本であり、想像以上にハードな本だった。


人種関連の話が長くなってしまった。
この本は、ホモ・サピエンスの出アフリカから各地で文明が出現する前までの時代を主に扱っている。
要するに石器時代なのだが、自分はこの時代のこと、石器時代ということ以外は全然知らなかったなあということを思い知らされた。
ヨーロッパだと特に研究が進んでおり、土器の形状などから様々な何とか文化がある。ここらへんはもちろん考古学によって既に明らかにされてきたことで、この本にとっては前提にあたる部分だが、どれも全然知らなかった。

序文
第1部 人類の遠い過去の歴史
 第1章 ゲノムが明かすわたしたちの過去
 第2章 ネアンデルタール人との遭遇
 第3章 古代DNAが水門を開く

第2部 祖先のたどった道
 第4章 ゴースト集団
 第5章 現代ヨーロッパの形成
 第6章 インドをつくった衝突
 第7章 アメリカ先住民の祖先を探して
 第8章 ゲノムから見た東アジア人の起源
 第9章 アフリカを人類の歴史に復帰させる

第3部 破壊的なゲノム
 第10章 ゲノムに現れた不平等
 第11章 ゲノムと人種とアイデンティティ
 第12章 古代DNAの将来

序文

この分野の創始者であるカヴァリ=スフォルツァについてなど

第1部 人類の遠い過去の歴史

第1章 ゲノムが明かすわたしたちの過去

この章の中で面白かった話として
誰しも親は2人、祖父母は4人、曽祖父母は8人いて、世代を遡るにつれて祖先の人数はどんどん増えていく。しかし、組み換えによって生じるDNA鎖の数は、ある段階で祖先の数より少なくなる。
で、例として、エリザベス女王の24代前の祖先はノルマンディ公ウィリアムで、この家系図自体は正しいとしても、エリザベス女王がウィリアムの持っていたDNAを受け継いでいる可能性はほぼないという。というのも、24代前の祖先は1600万人以上いるが、そのうちDNAに寄与しているのは1750人程度のためだ。
ところで、時を遡れば遡るほど、DNAは分散していく。上の例にあるとおり、1000年程度だと1700人からDNAを引き継いでいるが、5万年遡ると10万人以上となる。ところが、これは当時のどんな集団よりも人数が多い。
現代の人々のDNAから、過去の情報を得ることはできるのだが、これには限界がある、という話でもある。
なお、遺伝学と人類史の話だと有名なのはミトコンドリア・イブだろう。ただ、ミトコンドリアDNAで遡れるのはあくまで母系だけ。実際にはゲノムは、非常に多くの祖先から受け継がれており、ゲノムレベルで調べるともっと多くの情報が得られるし、この遡れる限界もミトコンドリアDNAだけより、ゲノム全体を使った方がより古くまでいける。


なお、この章、本題はもう少し別のところにあるのだが、ちょっと省略

第2章 ネアンデルタール人との遭遇

古代DNA研究について
ミトコンドリアDNAの方が抽出しやすいが、ミトコンドリアDNAだけでは、ネアンデルタール人と交配があったかどうか確定できない
ペーポはネアンデルタール人のゲノム抽出に挑んだ。2010年以前はPCRが使われていたが、2010年以降、ターゲットを絞らず全DNAをシーケシングする手法が使われるようになった。
また、厳重な汚染対策も。
交配があったかどうか調べる「4集団テスト」
共有している変異の数が等しいかどうか
非アフリカ人とネアンデルタール人の距離は、サハラ以南のアフリカ人とネアンデルタール人の距離より近い(交配がなければ同じになるはず)
筆者たちは、最初、ネアンデルタール人どの交配に否定的(もともと、強いアフリカ単一起源説を推していた)であり、この結果を疑ったが、否定できなかった
どこで交配が起きたかは遺伝学からは分からない。考古学では、中東でネアンデルタール人と現生人類が交錯していた時期が2度あることが示されており、中東で交配が起きたと考えると、アジア人もヨーロッパ人もネアンデルタール人のDNAを持っていることの説明もつく。
ルーマニアで発見された骨格について、ネアンデルタール人と現生人類の交雑個体と主張されていたもので、実際、DNAのデータからも祖先にネアンデルタール人がいることが分かったが、この系統は現代にDNAを残しておらず、ヨーロッパでも交配は起きていたが、それが現代の人類につながるものではなく、やはり、現代にネアンデルタール人のDNAを残したのは、中東での交配っぽい
また、ネアンデルタール人のDNAは、自然淘汰を受けていて、少なくなっているというのも分かっているらしい。
ネアンデルタール人の集団は規模が小さく、不利な遺伝子が残っており、現生人類どの交配後、淘汰されしまったようだ。

第3章 古代DNAが水門を開く

この章は、デニソワ人発見のエピソードから始まる。
デニソワ人は、タイプ標本になるような骨格が十分に見つかってないので「新種」とはされていないが、この点について、がっかりした同僚がいたことにも触れつつ、自分たち遺伝学者は「種名を使うことに積極的ではない」と述べているのは面白い


デニソワ人は、今の人々の中では、ニューギニア人への寄与が少し多い。ニューギニア人との祖先と交配していたことを示すが、デニソワ人はシベリアで発見されており、一体どこで、という問題がある。
ニューギニア人の祖先と交配したデニソワ人のグループとシベリアで発見されたデニソワ人も遺伝的には少し異なるグループで、さらにその祖先となる集団がいて、シベリアへ向かったグループと南に向かったグループへと分岐したようだ。デニソワ人と一言で言っても多様性のあるグループだったのでは、と。
ネアンデルタール人やデニソワ人の祖先として、ホモ・エレクトスではなく、ホモ・ハイデルベルゲンシスの系統が早くから東ユーラシアに来ていたのではないかとか。
また、サハラ以南のアフリカ人について、ネアンデルタール人からもデニソワ人からも受け継いでないので両者との距離は等しくなるはずだが、デニソワ人の方が少しだけ遠い。このことから、デニソワ人はさらに別の集団と交配していることが示され、筆者はこの集団を「超旧人類」と名付け、ゲノム解析から存在が示唆されるが化石による裏付けのない「ゴースト集団」の1つとみなす。


ホミニンの進化の過程で、4回の分離があったとされる
(1)180万年前 ホモ・エレクトスの分離
(2)140〜90万年前 超旧人類グループの分離
(3)77〜35万年前 ネアンデルタール人とデニソワ人の共通祖先の分離
(4)47〜38万年前 デニソワ人とネアンデルタール人の分離
(1)〜(3)はそれぞれアフリカで生じ、分離した系統はそれぞれ出アフリカをした。(3)で分離してアフリカに残っていた現生人類の祖先が、5万年前に出アフリカをした(ホミニンは4回の出アフリカをして、最後に出たのが我々の直接の祖先)というのが、一般的な説とされる。
これに対して筆者は、(2)と(3)の分離がユーラシアで起きたという新説を唱える。
(3)の分離で生じた現生人類の祖先系統がいったんアフリカへ戻ってきて、5万年前に3度目の出アフリカをしたという考え
出アフリカの回数を減らせるという倹約的な説であること、この時期はアフリカで発見される骨格がユーラシアで発見されるそれと比べて明らかに現生人類に近いとはいえないこと、この説は考古学・人類学では少数派だが、100万年前のスペインで発見されたホモ・アンテセソールがネアンデルタール人と現生人類の共通祖先とする説があって、ユーラシア進化説がないわけではないことなどを、挙げている。

第2部 祖先のたどった道

第4章 ゴースト集団

ここから、さらに話は複雑になってくるが、細かに追うと訳分からなくなるので、ブログ上でのまとめはなるべく簡潔にしたいと思う。


北ヨーロッパ人は、サルディーニャ人だけでなく、アメリカ先住民とも変異を共有していることが分かった。これは、北ヨーロッパ人とアメリカ先住民の両方に寄与した祖先集団がいることを示している。
北ヨーロッパ人は、その祖先集団とヨーロッパ人の祖先集団との交雑によって生まれた。
この、北ヨーロッパ人とアメリカ先住民の両方に寄与したと考えられる集団というのが「ゴースト集団」で、筆者はこれを「古代北ユーラシア人」と名付けている。
古代北ユーラシア人はゴーストだったのだが、2013年に、シベリアのマリタ遺跡から発掘された2万4000年前の骨のゲノムが、北ヨーロッパ人とアメリカ先住民とのつながりが強く、現在のシベリア人とはつながりが弱いことがわかり、この骨がまさに古代北ユーラシア人だと考えられる。
その後、さらにマリタ、ヨーロッパ狩猟採取民、東アジア人が分離する前に分岐した「基底部ユーラシア人」というゴースト集団も示された。基底部ユーラシア人のゲノムはまだ発見されておらず、どこに住んでいたのかは不明だが、北アフリカに住んでいたのではないかとされる。


この章ではさらに、約4万年前から約1万4000年前までの間のヨーロッパの狩猟採集民の歴史や、中東での農耕の広がりについて説明している。
ずっと同じ集団がいたわけではなく、様々な集団が入れ替わり立ち替わり現れていたこと、現在の西ユーラシア人が、様々な集団の交雑によって生じたことが述べられている。
また、考古学的な証拠だけでは、ある文化の広まりが、それを担う集団自体の移動によるものなのか、知識の伝播によるものなのかは判別できなかったが、ゲノム解析は、それを明らかにすることができる、と。

第5章 現代ヨーロッパの形成

5000年前のヨーロッパには、今のヨーロッパ人の祖先はまだいなかった
(例えば、ストーンヘンジなどの巨石文明を作った人々と現在のヨーロッパ人は遺伝的に異なる集団)
現在のヨーロッパ人へとつながるポイントとして、東のステップからの集団の移住がある。
馬と車輪を使用したヤムナヤ文化の登場
縄目土器文化とヤムナヤ文化のつながり
コッシナの居住地考古学=縄目土器文化が移住によってもたらされたという考えで、ドイツ固有の領土の正当性を主張し、のちにナチスドイツにも利用された。このため、考古学では文化の伝播を移住によって説明することを警戒するという。
遺伝学がもたらすステップからの移住という説明は、このタブーを犯している。
しかし、筆者は、居住地考古学とは違い、ヨーロッパ内の移住ではなくヨーロッパ外からの移住であること、度重なる移住は集団間の交雑を伴っていることなどを挙げて 、ナチス的な純血主義とは相容れないと強調している。
ヤムナヤ、縄目土器文化、さらに後続する鐘状ビーカー文化、そしてインド=ヨーロッパ語族の広がりに、ステップからの移住という大きなトレンドが関わっていたのだという

第6章 インドをつくった衝突

筆者は、インドの研究者グループと共同でインド人のゲノム解析を行い、インド人が2つのグループの交雑によることを突き止めた。
ところで、この報告をインド側の共同研究者に伝えたのが、研究者人生で最も緊迫したと書かれている。当初、筆者はこの2つのグループのうち片方を「西ユーラシア人」と呼称していたのだが、インド側はこれに反対したのである。
結果として、筆者らは「祖型北インド人(ANI)」と「祖型南インド人(ASI)」という名前をつけることになる。
この手の研究が、政治的・社会的に非常にセンシティブなところに抵触する可能性が高い1つの例となっており、また集団の名前をなんと名付けるかは、かなり配慮の必要なところとなる。


さて、このANIとASIの交雑だが、インド人のあらゆるグループが両方のDNAを持つが、混合率が異なる。
インド=ヨーロッパ語族を話すグループはANIの比率が高く、ドラヴィダ語族を話すグループはASIの比率が高い。また、カーストが高位な集団ほどANIの比率が高い。さらに、Y染色体はヨーロッパ人とつながりを有する率が高いが、ミトコンドリアDNAはどのグループでもASI由来。
これらのことが示すのは、元々ASI集団だったところをANI集団が征服し、高い社会的地位を占め、ANI由来の男性とASI由来の女性の組み合わせがより多く子孫を残したということである。
第3部において改めて論じられるが、このような男女差は世界の様々なところで見られ、支配者集団と被支配者集団の間の差別的関係があったことを示している。


ANIとASIの交雑が始まったのは4000年前以降で、インド北部で繰り返し交雑が起こり、移動が生じたことで、現在のインド北部と南部の差が説明できるという。


カースト制度について
インドに古くからあるのか、近代のイギリス支配によって固定化されたのか議論があるが、筆者はゲノム解析が前者を支持するとしている。
ジャーティグループ間の遺伝的差異が大きく、族内婚を繰り返していたという。
変異頻度の差から、人口ボトルネックが推察される。先祖集団の大きさが小さくその隔離が続くと、たまたま先祖の持っていた珍しい変異が子孫にもずっと残り続けるという現象で、インドのジャーティは古くから人口ボトルネックが生じていることが分かった。
ここで筆者は自らがアシュケナージユダヤ人であることを明かし、族内婚の伝統が長期に渡って続くことがあることを直観的に理解できたと述べている。
また、潜性遺伝による遺伝病について、ユダヤ人について研究が進み医学的成果が上がっていることを述べ、インドでも同じことが可能だろうと述べている。


ANIとASIもそれぞれ交雑集団であり、インドとヨーロッパの歴史が似ているという。
ANIもASIもいずれもイラン由来のDNAを持つ。
ASIは、インドに元々いた狩猟採集民ではなく、9000年前にイランから移住してきた農耕民との交雑集団
ヨーロッパでは、9000年前にアナトリアから農耕民が移住している。
その後、5000年前にヤムナヤ牧畜民が移動。東に移動し、元々いた農耕民と交雑したのがANIに
西に移動したヤムナヤがヨーロッパで縄目土器文化を担う集団になった、と。

第7章 アメリカ先住民の祖先を探して

南北アメリカについて
この章はちょっと整理しきれなかったので詳しいことは割愛
アメリカ大陸にいつ渡ってきたのか(クローヴィス文化が最初というクローヴィスファースト史観に異を唱えるなど)とかや、先住民の言語を大きく3つの語族に分ける言語学上の説について、遺伝学から検証するなど。


この章で印象に残るのは、北アメリカのネイティブ・アメリカンの中に、白人による研究調査に非協力的なトライブがあって、DNAサンプルの採取が進んでいないという話だろう。
これは、かつて協力した際に約束していた見返りが得られなかった、裏切られたという過去があるため。
一方、遺骨や遺物を先住民に返還する法律というのがあり、返還が進んでいるのだが、直接文化的・生物学的なつながりがあることが返還の条件になる。
解剖学的なつながりがなく返還が認められなかった例について、DNA解析によりつながりを示し、返還につなげた例が出てくる。
このように、ネイティブ・アメリカン側に、民族アイデンティティ上のメリットがあることを示して、DNAサンプルを採取する研究者がおり、筆者もそういう新しいモデルを作って研究を進められないだろうかと論じている。

第8章 ゲノムから見た東アジア人の起源

この章についても、詳細は割愛
東アジアの現生人類の後期石器時代の文化が、西ユーラシアとは異なること
オセアニア方面について、デニソワ人との交雑の影響
揚子江ゴースト集団と黄河ゴースト集団
太平洋の島々への広がりなど

第9章 アフリカを人類の歴史に復帰させる

この章についても詳細は割愛
アフリカは人類史において、発祥の地として重要視されているが、その反面、出アフリカ以後のアフリカの歴史は省みられてこなかった。
農耕の広がりに伴い集団の移動や交雑が進み、過去が分かりにくくなっているらしい。
その一方で、個々の集団も分離していて、例えば鎌状赤血球変異は3つの地域で生じているのだが、それぞれ独立に生じた変異らしい(それだけ有利な変異なのだが、集団間の行き来がなくて広まらなかった)
アフリカにもやはり、ゴースト集団はあったらしい
古代DNAについて、暑い地域では発見が難しかったが、近年、抽出技術の改良で見つかるようになったとか(これはアジアの章で太平洋の島々についてのところでも書かれていた)

第3部 破壊的なゲノム

第10章 ゲノムに現れた不平等

インドの章でも触れられた性的バイアスの話
インドだけではなく、同様の事例が世界各地にある。
例えば、アフリカ系アメリカ人では、ヨーロッパ系の遺伝子は男性からの寄与が大きく、アフリカ系の遺伝子は女性からの寄与が大きい。ジェファーソンとヘミングスのような例が珍しくなかったことが、遺伝学的に判明したのだ。
他にも、モンゴル帝国時代のモンゴル人男性が、現在のユーラシア人のDNAに広く寄与していることが分かっている。
さらに古く遡って、現生人類と他の人類との交雑に性的バイアスがあった可能性もある。
また、太平洋の島々には台湾から東アジアのDNAが広まっているが、こちらは女性からの寄与が大きい。これは、まず東アジア系が広まった後に、パプア人系が後から入ってきたのではないかとか。

第11章 ゲノムと人種とアイデンティティ

1942年、人類学者のモンタギューが人種概念には実体がないと主張し、1972年、レウォンティンがタンパク質のデータをもとにそれを根拠付け、集団間に差異はない、あっても個人差よりも小さい、というのが正統派の見解となった。
ほとんどの形質についてその見解は間違っていないが、しかし、ゲノム革命は実際に集団間の差異があることを見つけ出して始めている。
そのような集団間の差異を見つけるような研究が、人種差別に利用されてしまうのではないかという危惧は、筆者も抱いている。
ここで出てくるのは「ゲノム・ブロガー」と呼ばれる者たちで、彼らはデータを読むことのできるリテラシーと右寄りの政治思想を持ち合わせており、まさしく、ゲノム研究のデータを人種差別的な主張に利用している。
だからこそ、筆者は、集団間の差異を頑なに認めない正統派のあり方を批判する。実際にある差異を見て見ない振りをするから利用されてしまうのだ、と。
筆者は、ステレオタイプな「人種」が正当化されることはないという。既に見てきたように、今ある「人種」と呼ばれる集団は、かつてあった集団の交雑により生まれてきており、「純血」な集団は存在しないというのが1つの理由だ。
また、差異を生み出す遺伝的な仕組みも、決して単純なものではないのであり、ステレオタイプ的な思い込みは覆されるとも。
上述のゲノム・ブロガーだけでなく、幾人か、遺伝学をステレオタイプな人種概念の正当化に用いようとしている著述家と彼らの間違いを指摘している。
挙げられている名前の中には、ワトソンもいる。ある会議で、初めてワトソンに会った筆者が「ユダヤ人の優秀さをいつになったら証明するんだい」と囁かれたというエピソードが紹介されている。


最後に、自分のルーツ探しに遺伝学を利用する動きについて触れられている。
アメリカには、アフリカ系アメリカ人に自分のルーツが何族か調べてくれる調査会社があるという。
しかし、データベースが十分でないこと、アフリカ系アメリカ人アメリカに奴隷として連れてこられた際にアフリカ各地の集団と混ざってしまったことから、もはやルーツをある地域に絞って特定することは難しくなってしまっているという。
こうした調査は、ルーツを感じる「気分」を与えてくれるが、データの正しい解釈は難しい。
筆者は、自分の研究室では、自分の出身グループとは異なるグループについての研究を薦めているという。
筆者は、自分のアイデンティティは1つのルーツだけに由来するのではなく、遺伝的にも遺伝以外の要素においても、さまざまな集団の混ざり合いによって作り出されているのだと述べている。

第12章 古代DNAの将来

ゲノム革命を、筆者は放射性炭素年代測定法が考古学にもたらした革命になぞらえている。
知らなかったのだが、放射性炭素年代測定はそれをサービスとして提供する研究室があって、古代DNAのデータ分析もそういう研究室が出てくるようになるかもと。
この章では、今後研究が進むかもしれないテーマをいくつか挙げている(病原体の進化とか)
また、筆者はこの分野でパイオニアであることもあって、相当広い範囲をカバーしているが、今後専門化していくだろうと述べている。
地域ごとに分かれていくだろうし、また、例えば言語学(あるいは考古学、人類学)について相当専門的な知識が必要になってくるので、言語学との共同研究に特化するなど。


最後に、古代DNAの研究は、古代の人々の墓から骨を掘り出してくる、いわば墓を暴くことで成り立っていることについての葛藤のようなものについてエピソードが述べられている。
筆者はユダヤ人だが、子どもの頃エルサレムを訪れ、遺跡発掘の抗議デモを見ていた。ユダヤ人にとって遺跡発掘も先祖の墓荒らしなのだ。筆者は、親戚のラビに相談する。すると、人々の間の障壁を取り除くのに役に立つのなら、墓をあばくことも許されると答えてもらったという。

感想

たまたま本屋で科学の人種主義とたたかう: 人種概念の起源から最新のゲノム科学までという本を見かけ、もしやと思って探してみたら、本書の筆者であるライクへインタビューしている章があり、そこだけ少し眺めてみた。
この本はそこだけを少し読んだだけなので、サイニーがどのような主張をしているのかは、Amazonの内容紹介以上のことは分からないのだが、ライクの態度が人種差別と戦う上で不十分と感じているようだということは察せられた。
ライクの師にあたるカヴァリ=スフォルツァは、明確な反人種主義だったが、ライクは後退しているのではという印象を受けているようだ。
そこには、本書にもでてくるワトソンがライクに話しかけたエピソードにも触れられている。ライクは、ゲノム科学が進展することでステレオタイプな人種主義は間違っていることは自ずと明らかになるという考えだが、ワトソンのような優秀とされる科学者がいまだに差別主義者のままなのはどうしてか、とサイニーはライクに尋ねている。
ライクの答えは1つは「分からない」である。もう1つの反応は、いわゆる切断処理で、ワトソンはもうあっちにいっちゃった人だから手がつけられん、というものだ。
ワトソンがもう手に負えないのは事実なのだろうが、サイニーが言いたかったのは、科学の進展に任せるだけではそういう手に負えない人物の出現を防げない、ということだろう。
もっともそれを防ぐのは必ずしも科学の役割ではないとも言えるので、ライクの「分からない」という答えはある意味誠実でもある。
また、ライクほど楽観的にはなれなかったとしても、科学の進展が間接的には人種差別への堤防になることは十分考えられる。少なくとも「純血」主義に関しては確かに科学的に誤りだと指摘できるわけだから。


本書を読む限りにおいて、ライクは善良な科学者だし、政治的な問題を抱える研究についての配慮をきちんと行っている研究者なのだとは思う。
しかし、穿った見方をするならば、気になるところはないわけではない。
ネイティブ・アメリカンの件に関していえば、やはり研究が進められないことをよく思っていないのは明らかで、ゲノム研究は、ネイティブ・アメリカンにとってもよいことがあることを主張し、研究への協力を取り付けたいというようなことが述べられている。
もちろんこうした態度が悪いといえるわけではないが、研究者サイドの言い分でしかないという側面はあるかと思う。
インドの章では、遺伝学的研究が医学的にも貢献する旨が書かれている。そこでは、アシュケナージユダヤ人は、基本的にお見合いをしており、現在では遺伝子検査を行い、潜性遺伝の遺伝病の変異を持つ者同士は引き合わせないようになっていることを挙げ、インドでも同様のことができるのではと述べられている。
このあたり、一概に良い悪いといえる話ではないが、かなりギリギリの線ではないかと思える。
医学的に役に立つのではという話は後半でも全然別の流れで出てきて、ライクの研究へのモチベーションの1つっぽいし、またライク自身には善良な意図しかないと思うのだが、しかし、こうした発想と優生思想との距離というのは結構測り難いものがあると思う。
もちろんこんなことは、自分なんかより実際の研究者の方がよっぽど考えているだろう、と考えたいが、その一線がどこにあるのかというのはかなり見定めが難しい問題のような気がする。
ゲノム・ブロガーやステレオタイプを煽る著述家などの問題は、別にライクのような研究者に悪いところは全くないし、似非科学との戦いなので、科学研究進めるのが大事というのは正しいと思うが、しかし、この手の人種主義的似非科学を止めるのは大変そうだな、という意味でパンドラの箱が開いてしまった感はある。
ライクは、ルーツ探し調査会社の件に対して、そもそも自分のことばかり探求するのってどうなのよ(だから研究室では自分とは他のグループを研究することを勧めている)という論陣を張るわけだが、科学者についてはともかくとしても、そういうルーツ探しを求めてしまう心情自体は普通の人々の中にはあるわけで、だから似非科学スレスレの調査会社にも需要があり、その延長線上に人種主義が待ち構えているとも言える。
ライクの言うことは正しいが、十分な処方箋足り得ていない感じはする。
さらに穿ったことを言うが、ライク自身がかなりユダヤ人というルーツにアイデンティティを委ねるのではないか、と感じないわけでもない。もちろんユダヤ人だからこそ人種問題に思うところもあるだろうと思うが。
正直、一番最後のラビに相談したエピソードはちょっと謎である。親戚のラビからの許しは倫理的正当化になるのか。
もっともこのエピソードは、倫理的正当化を図るためのものというよりは、自分の心構えを示すものとして挿入されている感じもするので、何とも言えないところではあるが。


人種問題について、かなり文字数を割いてしまった。
デニソワ人を巡る様々な議論はかなり面白いし、今後の考古学的・人類学的発見が期待されるところ
ユーラシア進化仮説も面白いが、ただ、4回の出アフリカが、3回の出アフリカと1回のアフリカ帰還になることが、倹約的なのかどうかはいまいちピンとこなかった


第2部は相当面白かったのだが、そもそも前提となるべき考古学・人類学・言語学のベースがなさすぎて、ついていくのが大変だったし、そもそもゲノム革命が面白いのか、ゲノム革命以外の考古学・人類学・言語学で明らかにされてきたことが面白いのか、自分の中であまり区別がつけられなかった
ヤムナヤも縄目土器文化もどっちも知らなかったからなあ……(ググった感じ、ヤムナヤは最近の話っぽいが、縄目土器文化はナチスドイツに利用されていたくらいなので、単に自分が無知だっただけで)

*1:というか、それを主題的に読みたいのであれば、そもそもペーポ自身の書いた本があるみたいだった……

スティーブン・ミルハウザー『私たち異者は』

日常の中に紛れ込んだ奇妙なものを描くミルハウザーの短編集
原著は2011年
標題作をはじめ「私たち」という一人称複数形を使う語りによる作品が多く(7作中5作)印象的だった
帯にも引用されている訳者あとがきに「ミルハウザーといえば「驚異」がトレードマークとなってきたが、この短編集では驚異性はむしろ抑制され」とあるように、大掛かりな仕掛けのようなものはないが、「ミルハウザーってこんな作品も書くのか」というよりは「ミルハウザーっぽい作品だなあ」と思わせるものばかりだった。
ミルハウザーっぽいとは何か、というと難しいが……


スティーヴン・ミルハウザー『バーナム博物館』 - logical cypher scape2
スティーブン・ミルハウザー『魔法の夜』 - logical cypher scape2
スティーブン・ミルハウザー『三つの小さな王国』 - logical cypher scape2
スティーヴン・ミルハウザー『マーティン・ドレスラーの夢』 - logical cypher scape2
スティーブン・ミルハウザー『十三の物語』 - logical cypher scape2
最近どうも年1くらいのペースでミルハウザーを読んでいるのだが、新刊も年1のペースで出ている模様。18年に出た本を19年に、19年に出た本(これ)を20年に読んでおり、ちょうどこのタイミングでまた新刊が出ているっぽい。
なお、邦訳された既刊でまだ読んでないものは他にもある。「ミルハウザー全部読むぞー」と思っていたわけではなく「ちょっと読んでみるか」「あ、面白いからもうちょっと」みたいな感じで読んでいたので。


ミルハウザーは、20世紀初頭くらいを舞台にした作品も多いが、この短編集の作品はいずれも現代を舞台にしているっぽい(というかあまり年代を明らかにはしていない)が、何となくアメリカの白人中流階級の社会が前提になっている風なところはある。それについてのよしあし自体は自分には判断できないが、読んでいて不意にそれが気になってしまうこともある。

平手打ち
闇と未知の物語集、第十四巻「白い手袋」
刻一刻
大気圏外空間からの侵入
書物の民
The Next Thing
私たち異者は

私たち異者は

私たち異者は

平手打ち

とある郊外のベッドタウンに、突如、無差別平手打ち犯が現れる。不意に現れ、平手打ちをして去っていく謎の男
次々と、様々な住民が被害に遭っていく過程が断章形式で書かれるとともに、一連の犯行に対する住民たちの反応や憶測が「私たち」という一人称で語られる。
「私たち」の「私」が誰かは特定されないで進むのが、単数形の一人称とも三人称とも違う雰囲気を語りに与える。
この街の住人たちという集合が、主人公であり語り手になっている。

闇と未知の物語集、第十四巻「白い手袋」

タイトルにある「闇と未知の物語集」が何なのかはよく分からず。
男子高校生の「僕」は、エミリーという女の子と仲良くなり、彼女の家によく遊びに行き、彼女の両親とも親しくなるような関係を築くのだが、ある時から、彼女は突然左手に白い手袋をするようになる。
何故白い手袋をするのが、彼女も彼女の両親も教えてくれない。その秘密が、僕と彼女の間の隔たりになっていく。

刻一刻

奇妙な要素が全くない作品なのだが、読んでいてとてもミルハウザーみを感じた。
これも人称が独特
9歳か10歳の「こいつ」が、家族とともにキャンプに来て、川に泳ぎに入る瞬間までをそれこそ「刻一刻」と描いた作品
待ちわびた瞬間がやってくることに期待を膨らませつつ、むしろ、それが訪れてしまうとあとは終わっていく一方であるので、来ないでくれ、出来るだけ遅らせてやれ、という心情が描かれている。
大したイベントも起きない、それほど長くもない時間(半日程度)を、やや大仰な感じもする心情描写とともに克明に描いていくところに、ミルハウザーみを感じているのかもしれないし、いわゆる文学と呼ばれる小説の面白さの一端もある気がする(例えば磯崎憲一郎とか)。

大気圏外空間からの侵入

「刻一刻」とこの作品が、この短編集の中でももっとも短い気がする。ショートショートっぽい
ある時、地球にUFOが訪れ、すわ未知との遭遇か、となるのだけど、黄色い粉が降ってくるだけという、肩透かし感のあるものだったという話
これもまた「私たち」という、街の住人たち全体が語り手になっている。

書物の民

13歳になった学徒たちに、我等書物の民の秘密を教えるスピーチ

The Next Thing

この短編集の中でもっともミルハウザー的「驚異性」の高い作品かもしれないが、訳者あとがきにある通り、ある種のリアリズムがあり、寓話っぽくもなっている。
この作品もまた「私たち」という複数形の一人称が使われているが、主人公かつ語り手として1人の人物が明確に特定されている。作中でも「私」という単数形の一人称の方がよく出てくる。
The Next Thingという施設が建てられる。当初、目新しいショッピングモールみたいな感じで現れる。
一階にはたくさんのブースがあり、エスカレーターで地下に降りると、巨大な商品棚がずらりと並んでいる。違うところも多いけど、何となく着想源はIKEAなのかなと感じるとこがあった。
The Next Thingは単なるショッピングモールではなくて、次第に地下に街を作り始める。どことなくマーティン・ドレスラーっぽいというか、ミルハウザーの他作品を彷彿とさせる。
で、今の仕事よりもっといい仕事ありますよと斡旋され、転職し、地下に移住してくる(というかさせられてくる)
The Next Thingの上級職はむしろ地上に引っ越してきて、元々地上に住んでいた中級・下級職の人(「私」もその中の1人)は家を売って、地下の賃貸に暮らすようになり、もっといい仕事ありますよと言われていたはずなのに、以前よりノルマのきつい仕事させられている、という辛い話(まあでも地上にいた時も大変だったし、時代が変わっただけ、と主人公が受け入れているあたりもつら)
ただ、The Next Thing自体は、地下に巨大なショッピングセンター作って、さらに街を作ってといつところにワクワク感があり、読んでいて楽しい

私たち異者は

主人公のポールはもともと50代のバツイチ男性開業医だったのだが、突然死して「異者」となってしまう
作中では一貫して「異者」と称され、決して「幽霊」という言葉は使われないのだが、有り体に言ってしまえば、異者というのは幽霊のことである。
で、40代の陰キャ独身女性モーリーンの家の屋根裏に入り込み、そしてどうも彼女に気に入られてしまい、不思議な共同生活が始まるのだが、やはり陰キャの彼女の姪が遊びに来て、崩壊していく。
「私たち異者」は、「あなた方」つまり生者に対して強い好奇心や欲望を抱いているのだけど、それは生者同士の間にあるそれとは全く異質のもので、自分たちがもう持ちえない性質へと昏い憧れのようなものなのである。
これ、モーリーン視点だと、孤独な生活送ってたら家に謎の気配がするようになり、怖っと思ったら、よさげな男性だったのでむしろ嬉しくなってきたのだが、姪にちょっかいを出し始めて「は、何それ? 死んでやる」という話にもなり、三角関係メロドラマ的な話でもあるのだが、ポールの方は「自殺できるなんていいね」(なお女性の自殺自体は失敗する)とか「私たちは有害なんだ」とか、そういうようなこと言って逃げだすというウジウジした感じの話だが、でも最後の私たちに近づくなという旨のことを叩きつけてくる文章は小気味よい感じの終わり方ではある。

河合信和『ヒトの進化七〇〇万年史』

ちくま新書kindleセールで購入
そのタイトル通り、700万年のヒト(ホミニン)の進化史についての本だが、記述の主軸はむしろ発見・研究の方にある
誰がどこでどのように発見したのかという観点から進んでいく感じ
そのため、若干構成の難しさがある。
章わけ自体は、人類史の年代順に進む。ただ、章の中では、発見場所や研究グループごとの記述になっていることが多く、そして同じ場所から別の年代の種が発見されている場合、それもまとめて記載されている(なので、例えば「ホモ属については後の章で詳しく述べるが、ここではホモ属の化石も発見されており〜」みたいなところが時々ある)。
あと、これは化石標本扱っている学問だと致しかたない話だが、標本番号がもうとにかくやたらと出てくる。
と、慣れないと若干の読みにくさはあるが、面白く読めた。


古人類学(に限らず古生物学ではよくある話かもしれないが)、属名がなかなか安定していないのがあって大変だなという感じ。
というか、研究者の間の対立がそこに反映されててなかなか大変。
ある標本について、発見者は慎重を期して種名を特定していなかったところ、別の研究者が新種認定してくるとか
同じ種なのだけど、研究者によって呼び方が違う奴がいる。例えば、ホモ・エルガスターという種があるのだが、アフリカ型ホモ・エレクトスとする説もある。あるいは、ホモ・ハビリスについて、アウストラロピテクス属だとする説もあるらしい。


あと、リーキー家という学者一家がすごい
東アフリカのオルドヴァイで、1959年に頑丈型猿人のパラントロプスを発見したリーキー夫妻から始まり、親子三代に渡って東アフリカで古人類学研究をしている。


第1章 ラミダスと最古の三種―七〇〇万〜四四〇万年前
第2章 アファール猿人―三九〇万〜二九〇万年前
第3章 東アフリカの展開―四二〇万〜一五〇万年前
第4章 南アフリカでの進化―三六〇万?〜一〇〇万年前
第5章 ホモ属の登場と出アフリカ―二六〇万〜二〇万年前
第6章 現生人類の出現とネアンデルタールの絶滅―四〇万〜二・八万年前
第7章 最近まで生き残っていた二種の人類―一〇〇万?〜一・七万年前

第1章 ラミダスと最古の三種―七〇〇万〜四四〇万年前

サヘラントロプス・チャデンシス、オロリン・ツゲネンシス、アルディピテクス・カダッバ
そして、アルディピテクス・ラミダス


サヘラントロプスはその種小名から分かる通りチャドから発見されており、東アフリカ発祥説を覆した


オロリンは、発見者のエピソードが印象に残る。
「お行儀のよくない」研究者で、他人のフィールドで発掘を行い、雑誌掲載前に大々的に記者会見で発表。当時、最古と考えられていたラミダスをさらに遡り、人類最古を更新した。
ところで、実はそれより少し前に、やはりラミダスより古い人類であるカダッバを発見していたグループがいるのだが、ネイチャー投稿中で掲載を待っている間に、先に発表されで話題を取られた形になったらしい
オロリンが本当に新属なのか、また本当にホミニンなのか批判もあるらしいが、標本が少ないせいで、決定打がないらしい

第2章 アファール猿人―三九〇万〜二九〇万年前

かの有名な「ルーシー」の話
アファール猿人は、セラムという幼児の標本も見つかっているらしい。
ところで、ルーシーは、ジョハンソンという研究者が、ハダールで発見したのだが、ハダールで発見されたのがアファール猿人1種なのか、それとも2種が混ざっていたのかで、リーキー家との対立があるらしい
アファール猿人としてまとめられている標本は、かなり多様性があるとか

第3章 東アフリカの展開―四二〇万〜一五〇万年前

リーキー家次男リチャード・リーキーが開いたフィールド、ケニアトゥルカナ湖での発見について
トゥルカナ湖東岸

(1)パラントロプスのオスとメス発見
(2)パラントロプスとホモ・エレクトスの共存実証
(3)ホモ・ルドルフェンシスの発見
(4)脳の小さなホモ・ハビリス発見

トゥルカナ湖西岸

(1)最古の頑丈型猿人エチオピクス発見
(2)完全なるホモ・エレクトス骨格「トゥルカナ・ボーイ」
(3)アウストラロピテクス・アナメンシス
(4)ケニアントロプス・プラチオプス

それから、ホモ・ルドルフェンシスをケニアントロプスに変更している。実はこのルドルフェンシス、元の標本はリーキー家が発見していたのだが、ホモ・ハビリスっぽいが年代があわないので種名を特定していなかったところ、全然別の研究者に新種設定されてしまったというものである。
リーキー家が名前を一部取り戻した、という顛末なのだが、ケニアントロプス属はアファレンシスなのでは、という疑義が出ていて安泰ではないらしい。

第4章 南アフリカでの進化―三六〇万?〜一〇〇万年前

ダートやブルームによる南アフリカでの発掘・研究
セディバや「リトル・フット」なと

第5章 ホモ属の登場と出アフリカ―二六〇万〜二〇万年前

第6章 現生人類の出現とネアンデルタールの絶滅―四〇万〜二・八万年前

ネアンデルタールとサピエンスと交雑について、ペーボによるDNA解析の話まで載っているが、どちらかといえば、それぞれの石器文明から影響関係があったようだという研究の話にページが割かれている印象

第7章 最近まで生き残っていた二種の人類―一〇〇万?〜一・七万年前

主にフロレシエンシスの話だが、デニソワ人の話も。

Derek D. Turner "Paleoaesthetics and the Practice of Paleontology(美的古生物学と古生物学の実践)"

古生物学の科学哲学の本で、その美的側面を強調している。
タイトルのPaleoaestheticsは、直訳するなら「古美学」になるだろうが、ここでPaleo-としているのは古生物学Paleontologyとかけているからであり、また、古生物学の美学、というよりは、古生物学の美的な側面を指す際に用いられているので、ここでは「美的古生物学」と訳してみた。
本書では、Paleoepistemologyという語も出てくるのだが、これも、古生物学の認識論という意味ではなく、古生物学の認識論的側面という意味で使われている。
科学というのは認識論的epistemicなもの(新しい知識を得るためのもの)と考えられがちだが、それ以外の面、つまり美的な面も持ち合わせているのだという。
さらに、単に美的な面もあるよねというだけでなく、認識論的な面と美的な面は相互依存の関係にあり、区別できないほど混ざり合っているという主張が展開されている。
また、従来の科学哲学が、理論中心的な議論をしがちだったのに対して、実践中心的な議論をするのだともしている。


このブログを読む人は、美的aestheticという語の意味は知っていると思うが、古生物学のキーワードで来た人向けに、簡単に注釈しておくと
この美的aestheticという言葉は、beautyの美とは違うものだということ。
感性的という訳語が当てられることもある。ただ、感性的より美的という訳語が慣例的によく使われているので、ここでも美的という訳語を使う。
美と美的が違うなら美的とは一体なんなのかというと、具体的には「雄大な」「均整のとれた」「かわいらしい」「けばけばしい」「醜い」などなどが挙げられ、「美しいbeauty」はこれらの内の1つ
シブリーによれば知覚されるものだが、例えば赤い色とか甘い味とか、標準的な五感を備えていれば誰でも知覚できる性質と違って、何らかのセンスを持ち合わせることで知覚できるとされる。
また、主観的なものだとされる一方で、必ずしも、人それぞれという相対主義的なものではないとされる*1


twitter.com
ある日、「恐竜の美学」ってないのかなと思い始めて、試しに色々ググっていて見つけたのがこの本(上のツイートの論文とは関係ないです)
既に述べた通り、これは美学というよりは科学哲学の本で、著者も科学哲学の人ではある。
ただ、カールソンなど環境美学に基づいた議論もされており、科学哲学と美学をつなぐような本とも言えるかもしれない。
なお、本書は生物学の哲学に関するシリーズの中の一冊
100ページに満たない本で、英語も平易なのでサクサク読めた。

1 Introduction
2 Paleoaesthetics
3 Historical Cognitivism in Aesthetics
4 Aesthetic-Epistemic Feed back Effects
5 Functional Morphology as Aesthetic Engegement
6 Explaining Historical Scientific Success
7 Fossils as Epistemic Tools and Aesthetic Things
8 The Dinosaur Phylogeny Debate
9 Why are Dinosaurs Always Fighting?
10 Conclusion

1 Introduction

Paleoaestheticsについて「歴史科学の美的次元についての研究を指す言葉として使う」とされる
ここでいう歴史科学は自然史のことを指しているのかなと思うが(ただ人間の歴史という意味での歴史を無視してはいないように思うが)、それはそれとして、この意味であれば「古美学」という直訳もあながち間違いではないと思う。ただ、やはり分かりにくいので、訳に悩むところ


この本の概観

  • 古生物学は認識論的目的だけでなく美的目的を持つ
  • あるものの歴史を学ぶことは、それの美的性質をよりよく鑑賞させる
  • 化石と風景は可変的な美的価値を持つ
  • 機能的形態学は美的探求である
  • 古生物学の実践のある側面(化石のクリーニング、3Dプリント、復元画、フィールドスケッチ)は芸術的実践であり、古生物学の認識論的成功は、これらの実践に支えられている
  • 化石についての揺るぎないメタファーは、古生物学の美的側面を見難くするが、こうしたメタファーは変えられる
  • 恐竜研究における論争が、1つの化石標本に対する研究者間での美的関与の違いによることがある
  • 美的なバイアスが科学探求へとよくない影響をしていることもある


理論中心の科学哲学に対し、実践中心の科学哲学
前者は科学のプロダクトに注目するのに対し、後者は科学のプロセスに注目する。


古生物学の認識論的次元と美的次元がどのように関係しているか、2つの見方がある。
2つは区別可能という見方と2つに明確な区別はないという見方
本書の第一の目的は、古生物学に美的次元があることを示すことだが、この2つの見方のうち後者を示すのが第二の目的


本書は、科学の美的次元を論じる本だが、科学の非認識論的価値(社会的、倫理的、美的)について論じるの最近他にもあるよね、という言及もなされている。

2 Paleoaesthetics

2つの方向性から論じられる。
1つは、どのように科学的探求が美的エンゲージメント(以後、engagementを関与と訳するが、これもなんて訳すか難しい)に貢献するか
もう1つは、どのように芸術的実践が科学的探求に貢献するか


まず、前者について
環境美学における、カールソンの科学的認知主義(Scientific Cognitvism)を下敷きに、筆者は歴史的認知主義(Historical Cognitivism)を提案する。
歴史的知識を持つことで、風景や化石の美的鑑賞がより深くなるよね、という考え
荒涼としたバッドランドの土地も、白亜紀には海沿いの豊かな土地だったと知れば、その風景の見え方が変わるよね、と。
化石も同様
ところで、美術品だと本物とレプリカだと鑑賞経験変わるけど、化石の場合、博物館にあるのは大抵レプリカだけど、それで問題なくて、美的鑑賞の対象になっていても違いがあるんだよ、という指摘とか面白い。


科学的知識が美的鑑賞に役に立つのって、科学にとってはたまたま生じた利益にすぎないのでは、という考えに対して、科学において、認識論的次元と美的次元が明確には区別できない派の筆者は反論する。
例えば博物館の化石コレクション、何を収蔵するのかというチョイスはどうなされるのか。
化石コレクションは、認識論的な考慮(新しい知識をもたらしてくれる標本かどうか)だけでなく、美的な考慮(博物館の展示に映えるかどうか)もなされて決められる。
全身骨格がどれだけ揃っているかという完全さという尺度も、認識論的なものであると同時に美的なものでもあるだろう、と。
美的って主観的ってことじゃないの、主観的なのは科学にそぐわないのでは、という反論に対して、いや、美的って意外と客観的なとこがあるんですよ、と言って、再びカールソンを持ち出している。


後者(どのように芸術的実践が科学的探求に貢献するか)について
この論点は他の章でも出てくるが、この章では化石のプレパレーションが例として出される
プレパレーションかどのようなものか、ワイリーの研究に従って紹介される。
プレパレーターが、芸術、特に彫刻のスキルを持っている場合が多いこと、化石を掘り出すに当たって、美的な判断による決断を行うことがあることなどが挙げられている。
化石のプレパレーションは、認識論的次元と美的次元が相互に働いている例

3 Historical Cognitivism in Aesthetics

美的な関与に、知識は必要か
知識なしの「ナイーブな」関与にも一定の意義を認めるが、知識があるとより深められるとする。
オークションで高値で取引されるコプライト(糞化石)の例が出されている。オークションの説明書きで、さまざまな美的な形容がなされているが、これはそれがコプライトであるからこそ意味をなす形容だとして、知識が美的な関与に影響していることを論じている。
さらにこのコプライトだが、どうも産地からして実際にはコプライトではないらしい。誤った知識により美的な関与も誤ってしまっている。
ナイーブな関与と知識により深められた関与の関係について、音楽鑑賞で喩えている。
音楽について知識がなくとも、曲の最後の和音の素晴らしさは鑑賞できるが、曲全体の中でその和音がどのようにフィットしているか分かっていると、さらに鑑賞は深まる、と。


歴史的認知主義に対する3つの異議への反論
(1)エリート主義
知識を要求するのはエリート主義では?
博物館など、むしろ知識をどんどん広める。歴史的認知主義がエリート主義になるわけではない
(2)ポジティブ美学
自然のものはなんでもポジティブな美的価値を持ってしまうのでは?
コプライトの例
(3)脱神秘化
科学は自然を脱神秘化してしまう
科学が進むとまた新たな謎が出てくる。科学的知識があるからこその芸術作品(詩)もある

4 Aesthetic-Epistemic Feed back Effects

NortonとSarkerによる可変的価値(transformative value)の議論の応用
美的な関与から認識論的活動への影響を与えることについて
美的な経験が科学探求のモチベーションになる

5 Functional Morphology as Aesthetic Engegement

機能形態学は、美的な探求でもある
機能と美の関係について、主にカールソンとパーソンズの議論に依拠しつつ、具体例としてアンモナイト研究を挙げている


ZFEL(zero force evolutionaly law)って出てくるんだけど、なんか見覚えあるような、ないような


アンモナイトの殻の巻き方の話で、ラウプの形態空間も出てきている。
近藤滋『波紋と螺旋とフィボナッチ』 - logical cypher scape2思い出したけど、この本は、ラウプモデルより岡本モデルの方がよく説明できる。という話だった(ので、あまり関係ない)

6 Explaining Historical Scientific Success

科学の成功を説明する
従来の科学哲学だと、科学的実在論の範疇で、理論が真であることによって、成功を説明してきた
これはプロダクト(理論)注目型の科学哲学で、プロセス注目型の科学哲学による議論として、カリーのものが紹介される。
筆者は、カリーの議論の美的面への拡張を目指す。
(ところで、奇跡論法が英語だとno miracles argumentだと今さら知った)


カリーは、認識論的善の多元主義(真であること以外(正確な表象など)も認識論的善とする)にたつ
歴史科学の成功に貢献する実践の特徴3つ
(1)方法論的雑食性
(2)認識論的足場
(3)経験に基づく思弁
Clelandへの言及があった。アストロバイオロジーの哲学の人だけど*2、歴史科学の哲学とかそのあたりもやってるらしい。この本の筆者は仲間とともに古生物学の哲学に関するブログをやってるが、ゲスト執筆者としてもClelandの名前があった
認識論的足場の例としてラウプの形態空間を挙げている。あれは表象ツールだけど、新しい問題設定へと開くものでもある


カリーの考えは、認識論的なものなので、これを美的な方向へ拡張するのが筆者の議論
特にpaleoart(日本語に訳すとするなら、おそらく復元画だと思う)やフィールドスケッチを例に論じている。
特にこの章はフィールドスケッチについて重きを置いている。
認識論的なものでもあるし、美的なものでもある。はっきり区別をつけられるものではない。
フィールドスケッチは風景画と違って、地質学の基礎データとなるもの
でも、それを描くのにアーティスティックなスキルはいる。また、フィールドスケッチを描くことで、風景を見る美的な知覚も養われる

7 Fossils as Epistemic Tools and Aesthetic Things

まず、科学の中で使われるメタファーについて
生きた化石とかカンブリア爆発とか系統樹とか生態学的ニッチとか
こうしたメタファーの担う意味は、理論とも関わってくる(ニッチが他の言葉(バスケットとか)だったら? という話をしてる)


本章で取り上げるのは、化石記録というメタファーについて
これはすごく根付いてるメタファーで色んな本のタイトルとかこれに基づいてると例がたくさん出されてる中に、読んだことある本もあった(マーティン・J・S・ラドウィック『化石の意味』 - logical cypher scape2)。
このメタファーは、化石から情報を読み取るとか、または、それが失われ読み出せなくなるという考えになる。例えば科学哲学でも、どれだけ化石に情報が保存されてるのか、もしくは破壊されてるのかという議論があったりする(筆者やCleland)
このメタファーは遡ると、自然は神の書いた書物という自然神学的な考えに由来するだろう。脱神学化しても、このメタファーは残った、と。


他のを考えるなんて一見できなさそうだが、メタファーなので、オプショナルである。
化石記録というメタファーを他のメタファーに変えることもできるはず
ということで筆者が提案するのが、探求のツールとしての化石、という考え方
生物学者は、このツールの開発や精錬をしているのだ、と
記録のメタファーは、そこにどれだけ記録が保存されているか、どれだけちゃんと読み取れるかという問題につながるか、ツールというメタファーは、異なる問題を提起する。このツールで何ができる? 他のツールとどのようなコンビネーションができる? やりたいことをするためにはどんなツールを作ればいい?


さらに、Rheinbergerのテクニカル・オブジェクトと認識論的事物という区別を持ってくる。
認識論的事物は、探求のターゲットとなっているもの
テクニカル・オブジェクトは、探求に使われるツールやデバイス
Rheinbergerは、認識論的事物は、新しい探求のテクニカル・オブジェクトになると論じる。
筆者は、化石というのは古生物学にとって、美的事物でありテクニカル・オブジェクトなのだと述べる。

8 The Dinosaur Phylogeny Debate

恐竜の系統研究について
恐竜は長いこと鳥盤類と竜盤類の二大分類がされてきたが、近年、竜盤類とオルニソスケリダという新しい分類が提案され、話題になっている。
もちろん反論も出されている。恐竜の二大分類を変える大きな議論だが、実は、ピサノサウルスの標本の特徴をどう記述するのかの違いだったりする。
古生物学における特徴の記述について引用して、ワインの記述や美術評論の記述(ディスクリプション)に喩えている。で、これは、化石に対する知覚的関与(美的関与)だよね、と。


系統樹の分析、詳しく知らないけど、各種について特徴*3を数え上げて、この種には「これとこれとこれがあって、あれとあれとあれがない」みたいにして数値化して計算しているという雑な理解をしているけど、そもそもその特徴の有無を判断するのって、どうなってんだろうなーとは気になってたところで
この標本は新種ですって判定するのも、この突起が曲がってるから、とかそういうのだったりする(カムイサウルス)
それって「ここの長さは30cmです」みたいな誰でも調べられるものじゃなくて、プロのスキルが必要なものだろう。無数の標本を見てきたことによって、そうじゃない人には見分けられない区別を見分けられるようになっている。
これは、まさにシブリーが言うような「美的」な能力のように思える。
フィールドスケッチも同様な話だと思うし、古生物学は化石と風景に美的関与する実践だ、という本書の主張は、鑑賞眼を涵養することもまた古生物学にとっての(認識論的ゴールとは別の)もう1つのゴールなんだ、という話なのかなあと思う。

9 Why are Dinosaurs Always Fighting?

筆者の議論へのカウンターになりそうな例
ティラノサウルストリケラトプスが一騎打ちしているイラスト
少なくとも1906年のチャールズ・ナイトのものまで遡る。
面白い指摘として、恐竜のイメージをがらりと変えたバッカーの『恐竜異説』も、表紙は獣脚類とケラトプス類の闘うシーン
実際のところ、この二者が決闘したような証拠はなく、人間の決闘や一騎打ちが反映されてしまっているだけなのではないか、と。
戦う武器を持ってる動物が好まれる傾向があるのではないかと(恐竜の歯や角など、武器のメタファーをされることが多い)
(武器のない恐竜でも人気のあるものとして、マイアサウラが挙げられるが、よかな母親という意味の名前で、これはこれで、20世紀のジェンダー規範を読み取ってるケースではないかという指摘)
(ジュラシック・パークのディロフォサウルスも、観客の期待にそうものとして、毒という特殊武器をもつように描かれている、と)


で、こういう美的なバイアスが問題だとすると、やっぱり古生物学から美的な価値を外在化した方がいいのではないか、と
これに対して、非認識的価値から自由でいられる科学はないというアンダーソンの主張や
復元画や映画などは、間接的に科学のプロセスに影響してくるというカリーの主張などをもとに、
美的な価値が入ってくることが問題なのではなくて、特定の価値が時代遅れになっていくことが問題だとしている。
で、解決策として、他の復元画を描けばいいという話になっていく。
ティラノサウルストリケラトプスが、同じ画面上にいるが、別に戦ってはいないような絵がたくさん描かれれば、バイアスは弱まるだろう、と。
実際、筆者自身が描いたそういうイラストも添えられている。

10 Conclusion

2〜9章のまとめ

感想

冒頭に「ある日、「恐竜の美学」ってないのかなと思い始めて」と書いた。
きっかけになる具体的なトピックはあるのだが、しかし、それが一体どういう問いになりうるのかというのは判然としてない状態で。
この本を読むと、色々なアプローチやトピックがありうるなーと感じた。
個人的には、復元画に興味があるが、本書ではあまりページ数を割かれていなかった。ただ、参考文献に復元画関係の記事があったので、あとで読みたい。
また、冒頭にあげたツイートて触れている、青田さんの動物を鑑賞することについての美学に関する論文で、パーソンズが機能に触れていたことが書いてあったが、本書でも、パーソンズを引きながら、機能と美の関係を指摘している。このあたりも、勉強したいところ。
また、本書9章は、バイアスがあるならそれを打ち消すような絵をもっと描いていけばいいんだ、みたいな議論をしているが、それはそれとして、恐竜が戦ってるとこ見るのみんな好きだねってとこも、何かしら掘り下げられたら面白いかなーと思う。
恐竜やその復元画は、科学的な面と文化的な面の両方を持ち合わせているわけで、「科学的に間違ってるのは正しましょうね」っていうのはもちろん正しいが、仮に間違ってるとしてもその文化的な側面は一体どういうものなのか、ということも考えどこのような気はする。


科学哲学と美学の交錯するところ、何か面白いのではないかとは思っていたのだが、
そういうのだと、科学理論や数式の美やエレガンスみたいな話が多い。それはそれで興味がないわけではないが、自分には手に負えない話だなあと。
まあこっちの話題も手に負えるか、といえば難しいところだけど、美やエレガンス以外にも、科学と美的な何かが関わってるとこはあるよなと思ったら、古生物学というところでこんなに色々出てきて面白かった。
科学哲学と美学の交錯点というと、表象や描写の哲学関連もある。この本ではそこまで論じられたわけではないが、フィールドスケッチのあたりで、地図とかとの比較もあって、少しそういう方向への道もありそうだった。

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*1:「この山々の姿は雄大だなあ」という判断は主観的なものだが、もし同じ風景を見て「なんてみみっちい景色だ」と思う人がいたとしたら、その判断はおそらく間違っている。つまり、美的な判断にはある程度正誤がある。対して、例えば好き嫌いの判断は、人それぞれで違っていても問題ない。「私はこの景色が好きだ」という人と「僕はこんな景色嫌いだ」という人がいたとしてもどちらも間違ったことは言っていない。

*2:参照アストロバイオロジーの哲学 - logical cypher scape2

*3:正確には派生的な特徴

リチャード・ウォルハイム『芸術とその対象』(松尾大・訳)

芸術作品とは一体どのようなものなのかというテーマを取り上げながら、美学の様々な論点を論じていく。
原著は1968年刊行だが、1980年の第二版より6つの補足論文が追加されている。
本論文は、65の節からなるが章わけなどはされていない。ただ、目次代わりにつけられている梗概と、訳者解説に載っているアウトラインにより、大雑把な構成は掴める。
大きく分けて2つの部分からなり、前半は芸術作品は物的対象であるという仮説をめぐるもの
後半は、芸術概念について、ウィトゲンシュタインがいうところの生活形式であるということや、その歴史性などについて論じている。
その前半において、再現(representation)や表現(expression)についてや、タイプとトークンについてなどが論じられている。
なお、ウォルハイムというと〈の内に見ること(seeing-in)〉が有名だが、これは補足論文で出てくる。


ウォルハイムは以前、リチャード・ウォルハイム「画像的表象について」 - logical cypher scape2を読んで、その際、自分の英語力では難しいと書いたが、日本語で読んでも難しかった……
難しかった理由は諸々あって、何がどう難しかったのか説明しにくいのだが
何を論じているのかは分かるのだが、どういう結論にいたったのかを掴めなかったところが結構あった。
「あれ、この話ここで終わるのか」というのがところどころあったりとか、
自分の美術史教養がないせいなのだが、具体例がいまいちよく分からなかったりとか
正直、1人で読むのはわりときつくて、読書会とかで人の助けを借りて読みたい感じがすごくする本だった……
一応最初から最後まで目は通したわけだが。


すでに内容をまとめた書評記事が出ている
obakeweb.hatenablog.com

芸術とその対象

(以下、訳者解説によるアウトラインを元にこのブログ記事用に作成した目次)

  • 物的対象仮説の検証
    • 時間芸術について
    • 空間芸術について
      • 物的対象仮説批判への防御(1)再現について
      • 物的対象仮説批判への防御(2)表現について
      • 対抗理論への攻撃(1)観念説批判
      • 対抗理論への攻撃(2)直観説批判
    • 時間芸術について再び(タイプとトークンについて)
  • 芸術の公共性

補足論文1 芸術の制度理論
補足論文2 芸術作品の同一性の基準は美的に関与的か
補足論文3 物的対象仮説についての覚書
補足論文4 回復としての批評
補足論文5 〈として見ること〉、〈の内に見ること〉、および絵画的再現
補足論文6 芸術と評価

芸術とその対象

芸術とその対象

物的対象仮説について

芸術作品は物的対象だ、というのが本論で検討される仮説である。
この仮説への反論は2つある。
ます、小説や音楽などの時間芸術は、そもそも芸術作品と同定される物的対象がない、という反論
一方、絵画や彫刻などの空間芸術は、作品として同定される物的対象はあるように思えるが、それは作品ではない、という反論
ウォルハイムは、前者の反論は特に否定しない。
むしろ、後者の反論に答えるのが、美学的には重要、という感じ

時間芸術について

個々の本や上演、演奏は作品そのものではないし、あるいはそれらの集合もやはり作品そのものではないよね、というよくある話

空間芸術について(1)

絵とか彫刻とかは、物的対象であるように思える
これに対して、
芸術作品がもつある属性(再現的な属性)と物的対象がもつ属性は両立しないという批判と
芸術作品がもつある属性(表現的属性)は、物的対象は持ちえないという批判が考えられ、それぞれ検討される。

物的対象仮説批判への防御(1)再現について

「再現的な〈見ること〉」(ここでは〈として見ること〉と言い換えられているが、補足論文5により、むしろ〈の内に見ること)の方がより適切であったと変更される)は、キャンパスが物的対象であることと両立することが論じられる。また、類似による説明がうまくいかないことと、
「再現的な〈見ること〉」は、描き手の意図と結びついていることが述べられている

物的対象仮説批判への防御(2)表現について

芸術作品の表現的性質は、芸術家の制作時の感情であるという考えと、観者に喚起させる感情であるという考えそれぞれが批判されるが、仮説的なもの(もし私がその状態ならば、持ったであろう感情)に修正される。
上述の2つの考えに対応する新しい考えとして「自然的表現」と「照応」というのがそれぞれ提案され、物的対象が表現的であることができることが示される


再現についての説明や表現についての説明としては、ふむふむと読めたのだが、それらと物的対象との両立についてがどう繋がったのかが、今ひとつ分からなかった。

空間芸術について(2)

物的対象仮説については、「物的」かどうかと「対象」かどうかの両面について問う必要がある
前者は、物的なのか心的なのかといった問い
後者は、個物なのか普遍なのかといった問い
ここでは、前者に対する対抗仮説(つまり芸術作品は物的ではないとする説)が検討される。
1つは、芸術作品は観念とする説
もう1つは、芸術作品は直観とする説
ここで、観念と直観という訳語について、下記の森さんの記事が役に立つ。特に直観がpresentationの訳であるというのは重要
morinorihide.hatenablog.com

対抗理論への攻撃(1)観念説批判

観念説というのは、芸術作品は、芸術家の心の中にあるものを指すというもの
これが外化されて、我々が普通芸術作品と呼ぶものが産まれるけど、あれらは本当は芸術作品ではない。本当の芸術作品は芸術家の内にしかない、という説
クローチェやコリングウッドというひとたちが唱えていたらしい
真の芸術作品にはアクセス不可能になる点
それから、媒材を無視している点が問題
ウォルハイムは、芸術家が心の中に作品のイメージを持つためには、それに先立って芸術の媒材がある必要があると、媒材の重要性を強調している

対抗理論への攻撃(2)直観説批判

直観説は、芸術作品は直接知覚される性質のみを持つという説
これに対して、ウォルハイムは2つの反論をする
1つ目は、直接知覚されているのか、そこから推論されているのか区別できない性質があるという反論
2つ目は、芸術作品は直接知覚される性質以外の性質も持っているという反論
直観説への反論は結構ページ数が割かれているところなのだが、正直今ひとつよく分からなかった


1つ目の反論は、再現的性質と表現的性質についてそれぞれなされる。
再現的性質については、描かれた運動は知覚できるのかという議論がされている。
また、「脱線」として、絵において三次元性はどうして意識されるのかという問題が取り上げられ、バークリーに由来する「触覚値」による説明が紹介されている。個人的にここは興味のある話題なのだが、やはり分からなかった。
表現的性質については、ゴンブリッチの議論を経由して論じられるのだが、ゴンブリッチの論自体が直観説に反するものになっているような気がするのだが、ウォルハイムはそれをさらに批判しているので、ここも正直話が追いにくい。
表現的性質は、芸術家がどのようなレパートリー・選択肢の中から選んだかによるというゴンブリッチの議論に対して、ウォルハイムは、芸術作品はイコン的であるという話と、レパートリーというのは決定不可能であり、レパートリーではなく様式で説明する話をしている。

2つ目の反論について
引き続き、様式の話
知覚の認知的侵入みたいな話をしている気がする
芸術作品を理解するためには、直接知覚される以上のものを「持ち込む」必要がある、と
パノフスキーの見解などが引かれている。

時間芸術について再び(タイプとトークンについて)

タイプと似たものとして普遍やクラスがあるが、それらとタイプは何がどう違うのか
属性をメンバーと共有するか、転移されるかなど
ここで時間芸術が対象ではないものの物的ではありうるということが言われている(タイプにはトークンの属性が移ることができるので)


上演芸術と解釈について

芸術の公共性

  • 芸術概念について

芸術概念の機能主義的定義を退け、美的態度により定義する
美的態度について、ウィトゲンシュタインの『茶色本』で出てくる「独特の」「特別な」の他動詞的用法と自動詞的用法(前者の場合、置き換え表現が可能、後者は、それに注意を向けるための用法)の区別を参照して、美的態度というのはどちらなのか曖昧だが自動詞的だ、と。
また、芸術が生活に依存していることについて
(芸術がもたらすのは新しい知覚や感情ではなかく、既に存在する諸要素の新しい結合)

  • 生活形式であることを芸術家の観点から

芸術は、ウィトゲンシュタインが言う意味での生活形式(習慣・経験・技能の複合体)
芸術の制度から独立に同定できる芸術的衝動はない

  • 生活形式であることを観者の観点から

イコン的記号について
(精神分析論的に言うと)芸術は夢よりも洒落に近い(夢は私的て、洒落は公的)

  • 芸術とコードの類比

情報理論を芸術に適用することへの反論

  • 芸術と言語の類比

芸術と言語を類比させる際の限界
(1)芸術には言語で作られたものもある(ので言語と類比するのに無理が生じる)
(2)言語には文法があるが、芸術にはそのような法則のようなものはない

  • 芸術の歴史性

芸術作品の一貫性とか統一性とかいった秩序概念を、数学や心理学に出てくる概念(ゲシュタルトなど)と同一視するような考えは、限定的な有効性しか持たない
何故なら芸術作品における秩序は、歴史的先例に依存し、また歴史的に変化していくから

補足論文1 芸術の制度理論

制度理論批判
アートワールドの代表者が芸術作品の身分を授与するという考えに対して、授与するには正当な理由がいるはずだが、だったら、その理由を芸術の定義にすればよいのでは、と

補足論文2 芸術作品の同一性の基準は美的に関与的か

ウォルハイムは、芸術作品が個物であるような芸術と、タイプであるような芸術という区分をした。
グッドマンは、これとよく似ているが違う区別である、オートグラフィックな芸術とアログラフィックな芸術という区分をしているが、これに対する批判
オートグラフィックは制作の歴史が関与するが、アログラフィックはそうではない。
絵画や彫刻には贋作があり、それは誰が作ったかという制作の歴史によって決まる。
音楽には贋作はない。そっくり同じ演奏を別の誰かがした場合、それはその作品の別のトークンであって、贋作になるわけではない。
前者はオートグラフィックな芸術、後者はアログラフィックな芸術ということになる。
個物であるような芸術は全てオートグラフィックであり、これはウォルハイムも同意する。また、版画はタイプであると同時にオートグラフィックでもある。が、上で述べたように、音楽はタイプでありアログラフィックである。
これに対してウォルハイムは、音楽や詩などタイプの芸術にも、制作の歴史が本質的に関わるとする(贋作の例は分かりにくいとして、もし別の時代に全く同じ文字列の詩が作られたとしたら、これらを同じ作品とみなすだろうか、というボルヘスみたいな例が出されている)
また、複製技術について(ベンヤミンに少し触れている)
建築について(建築は個物なのか、タイプなのか)、も論じられている

補足論文3 物的対象仮説についての覚書

物的対象仮説の対抗理論になりうる「美的対象説」をとりあげ、これを批判している。

補足論文4 回復としての批評

批評とは、創作過程の再構成・回復である、という主張
なお、創作過程は、芸術家の意図よりも広いものとされる

補足論文5 〈として見ること〉、〈の内に見ること〉、および絵画的再現

「芸術とその対象」では、「再現的な〈見ること〉」を〈として見ること〉と特徴付けていたが、これの〈の内に見ること〉への変更
また、「再現的な〈見ること〉」の中にはさらに「再現に適した〈見ること〉」があって、それには「正しさの規準」が適用される。この規準は作者の意図に由来する。
〈の内に見ること〉への変更における利点
(1)個物だけでなく事態も見る対象になる
(2)局地化の要件を満たす必要がない
(3)二重性の主張
((2)がどういう話なのかいまいちよくわからない。第11節で再現は局所的帰属で云々と言っていた話とはどう関係するのか、とか)


〈として見ること〉は視覚的関心や好奇心の一形式
〈の内に見ること〉は視覚的経験の陶冶


この論文では扱えなかった課題
(1)〈として見ること〉を喚起することもあれば〈の内に見ること〉を喚起することもあるような対象について(例えば雲を見ること)
(2)ジャスパー・ジョーンズの旗の絵について
(3)彫刻について

補足論文6 芸術と評価

「芸術とその対象」では、評価については触れておらず、論文の最後に、意図的に触れなかったと述べているほどなのだが、この点で批判もあったらしく、補足論文を書いている
美的価値の出現範囲について
美的価値の身分について
後者は、実在論、客観主義、相対主義、主観主義を比較している。