冲方丁『マルドゥック・アノニマス5』

バロットが過去と和解し、ハンターが過去を隠されていたことに気付くまでの話

冲方丁『マルドゥック・アノニマス1』 - logical cypher scape2
冲方丁『マルドゥック・アノニマス2』 - logical cypher scape2
冲方丁『マルドゥック・アノニマス3』 - logical cypher scape2
冲方丁『マルドゥック・アノニマス4』 - logical cypher scape2

4巻に引き続か2つの時間が交互に進む構成
つまり、バロットとウフコックが再会した直後の話と、バロットがウフコックを探している時期の話


バロットたちはウフコックを助け出すために、ガンズ・オブ・オウスと戦うことで、クィンテットのバジルに貸しを作る。
何故クィンテットにハンターがいないのか、ガンズ・オブ・オウスは一体何故バジルと対立しているのか。
時間を遡り、バロットがウフコックを探している頃、その一方でハンターはシザース狩りを宣言していた。その際、突出した動きをしようとするのがガンズ・オブ・オウスだった。
バロットは、ハンターもシザースなのではないかという推測に至り揺さぶりをかけようとするが……。


味方でとても優秀なのだが、しかし、何考えているのか分からず、悪い奴のようにも見える、というキャラクター、冲方作品に時々出てくるような気がするのだが、ライムが、とても優秀でオフィスにとっても代え難い存在でありながら、バロットは気にくわないでいる、というのが、ちょっとブルーに似ているかもと思った
ただ、ライムは、バロットからは嫌われているが、読者からするとあまり怪しい人物には見えない(ブルーは、ウフコックが嫌がっており、そのために、読者からも怪しく見えるキャラクターだった)


レイ・ヒューズがバロットのメンターになってくれる展開、「おおお、あのレイ・ヒューズをメンターに」ってなる。


あのハンターが、この巻では、なんかよくわからん洗脳みたいなので操られ、組織が自壊しそうになっていく展開が続き、正直、ハンター側の話はあれあれって感じになるのだが、最後の最後で、やっぱハンターはそうでなきゃなと復活してきたとこで終わる
次巻、バロットとハンターが再びあい見える!

『フィルカルvol.5 no.1』

全部は読んでなくて、一部読んだので、読んだとこだけメモ


2019フィルカルリーディングズ

気になる本が増えますね

特集1 いけばなの美学

座談会だけ読んだ
全然知らない世界なので、へーっと

ポピュラー哲学の現在

前回も読んだので今回も

特別連載 ウソツキ論理学 哲学的論理学入門第1回 矢田部俊介

今度出る予定の本の導入部分の抜粋、らしいです

特集2 学問と勉強のジェンダー・ギャップ

谷川さんと酒井さんのを読んだ
酒井さんが報告している件は、以前twitterで少し見ていた

特集3 「ELSI」というビッグウェーブ

長門さんのだけさらっと見た

分析系ニーチェ研究の招待 大戸雄真

そのタイトル通り
馴染みのないところなので、基本的なところから説明があって勉強になった

メアリー・ミッジリー:人間本性と想像力の哲学者 イシュトン・ゾルタン・ザルダイ(木下頌子訳)

全然知らなかったのだけど、エリザベス・アンスコム、フィリッパ・フット、アイリス・マードック、メアリー・ミッジリー、メアリー・ワーノックという、オックスフォードに同時期に5人の女性哲学者がいた、と
この5人は、いずれも同じようなトピックに関心を持ち、親しい関係でもあったので、哲学グループを形成していたのではないか、という風にこの5人を捉えるプロジェクトが発足し、その一環で書かれた文章
ミッジリーは、59歳の時に最初の著作を書いており、『獣と人間』で、人間の悪いところを「獣的」と称するような誤解を解く本だという。
動物行動学の学位も持っていたらしい。
これと相前後して、 動物の美的価値 : 擬人化と人間中心主義の関係から 青田麻未を読んでたら、ミッジリーへの言及があったので、これも読んだ

ワークショップ「描写の哲学研究会」

これが一番の目当てだったところある。
各発表については、3人それぞれのブログで確認していたが、質疑応答などの様子も報告されており、助かる
ほんとは行きたかったけど、確かこの日は風邪か何がで行けなかった……

美学相談室 第1回

ナンバさんが連載始めとる

源河亨『悲しい曲の何が悲しいのか』書評 木下頌子

鬼界彰夫ウィトゲンシュタイン 思考の生成原理』書評 菅崎香乃

書評内容の詳細は省くが、いずれも読みたいと思っている本なので参考になった

Paul Dawson "Ten Theses against Fictionality"

muse.jhu.edu
フィクショナリティの修辞的アプローチについて
以前、下記の記事を読んだ際にこの考えに興味を持ったのでちょっと調べてみよう第二弾

euskeoiwa.com


第一弾として読んだHenrik Skov Nielsen, James Phelan and Richard Warsh "Ten Theses about Fictitonality" - logical cypher scape2と同じ号のNarrative誌に掲載されているが、about論文への言及も多くなされている。
そして、やはり同じ号に、about論文の著者の1人であるSkovによる、Dawsonへの返答も掲載されていたようだ。
なお、この論文の存在は大岩さんに教えてもらった。
twitter.com


この論文は、フィクショナリティの修辞的アプローチを相対化するもので、修辞的アプローチで何かいいことあるの、と問うている


例によって、英語が全然読めてないので、読めたところだけざっくりと要約する

1) Semantics versus pragmatics is borrowed and boring
2) How many degrees of fictionality does it take to change a genre?
3) Fictionality is a signifier without a referent
4) The new approach to fictionality is an old approach to fiction
5) Signposts are signposts
6) Fictionality both inherits and undermines the unnatural
7) Narrativity is always already fictionality, except when it’s not
8) Fictionality wants to have its postmodern cake and eat it too
9) Fictionality has become the bastard child of the narrative turn
10) Who cares why we read fiction(ality)?

まず、Walshは、フィクショナリティの意味論ではなく語用論をやるべきだー、と言ってるけど、その区別の仕方間違ってるんじゃね、という指摘


修辞的アプローチは、ノンフィクションな言説の中にもフィクショナリティがあり、そのことによってノンフィクションな言説がフィクションになるわけじゃないとしている。で、フィクショナリティの程度が問題だ、としている。
でも、フィクショナリティの程度によって、フィクションがどうか区別できるのでは? とか


フィクショナリティの修辞的アプローチは、フィクションそのものの理解には何か新しいとこあるの? 今まで別の人たちも同じこと言ってないか、とか


フィクショナリティの修辞的アプローチは、不自然なナラトロジーというのと関係していて、不自然なナラトロジーを提唱してた人たちが修辞的アプローチもやってる感じらしいのだが、Dawsonによると、不自然なナラトロジーってフィクション言説に見られる不自然さに着目してたのに、ノンフィクション言説に手を広げちゃうと、不自然さというのがボケないか? と言いたいっぽい


あと、外在的な批判っぽい話もあって
ナラティブ・ターンと動きが似てるのではないか、と。
で、ナラティブ・ターンというのは、ディシプリン横断型の研究で、ナラティブというのは色々なところにあって色々なディシプリンで研究されてるから、学際的にやろう、という流れ
で、これって、ナラトロジーインパクトというより、大学で学際的な研究センターを作ろうという需要によるものでは? みたいなこと言ってて、フィクショナリティ研究もそういうとこあるよね、みたいな話だと思う


何故人はフィクションを読むのか
これについて、文学的ダーウィニズムとか認知的ナラトロジーとか呼ばれる分野があるらしいのだが*1、フィクションが色々役に立つことがあるよ、という話があって、修辞的アプローチも、フィクションの役に立つ価値を示しているんじゃないの(新しい哲学的観点とか、新しいテクスト分析とかじゃなくて)


これを読んでいると、修辞的アプローチでなくとも、ナラトロジーの中でフィクショナリティへの注目は他にもあるのかな、という感じがした。
個人的には、むしろ不自然なナラトロジーの方が興味出てきた

*1:正確にいうと、ディヴィッド・ハーマンという人が、何人かの研究者をそのような名前で分類している

Henrik Skov Nielsen, James Phelan and Richard Warsh "Ten Theses about Fictitonality"

muse.jhu.edu
フィクショナリティの修辞的アプローチについて
以前、下記の記事を読んだ際にこの考えに興味を持ったのでちょっと調べてみよう第一弾

euskeoiwa.com


どうも、文学研究ないしナラトロジーの分野で、近年、「フィクショナリティ」「修辞的アプローチ」というのが出てきているらしい。
フィクショナリティを、フィクション作品の性質と考えずに、修辞の一種のように捉える、というものらしい。
この論文では、オバマが選挙戦で相手を批判する際に用いたジョークが主な例として出てくる。
オバマのジョークは無論小説などのフィクション作品ではなく、選挙戦の相手を批判する政治的主張の一環である。が、そういった、ノンフィクショナルな言説の中にもフィクショナリティは現れるのだ、と。


タイトルにある通り、10のテーゼからなる論文だが、ここでは10のテーゼを一つ一つ紹介するのではなく、ざっくりと要約していく


フィクションとフィクショナリティとを区別する
フィクショナリティは、様々な目的のために使用される
フィクショナリティは、実在するものを指示することなくコミュニケーションしたりする、根本的な認知能力を用いている


フィクショナリティは、想像する能力に関わるが、それは現実を理解するための能力でもある
フィクションがどうかは、テクストの特徴よりもコミニュケーションの意図によって定まる。
フィクションかどうかという区別より、フィクショナリティの程度が大事
送り手は、様々な方法で(パラテクストだったり声音だったり)フィクティブであるという意図を伝える。
フィクティブな意図を伝え、それを受け取ることは、ノンフィクションの言説に対する態度とは異なる態度を引き出す
例えば、ある言説をアイロニーとして受け取った場合、文字通りの意味ではないことを意味していると捉える
同様に、ある言説をフィクティブなものとして受け取った場合、指示的な主張をしているわけでなく、一部または全部が作られたもの、現実世界では不可能なものだと捉える
フィクティブなコミニュケーションは、現実にはないものを現実へと投射する(例えばユートピア/ディストピアもの、あるいはキング牧師の「私には夢がある」スピーチ)。真ではないが、現実世界についての信念形成に影響する。
フィクショナリティの使用は、送り手のエートスに影響を与える(ジョークを言えるウィットがある、とか(ネガティブな影響もある))
フィクションとフィクショナリティの理論は分かれるべき。何故なら、フィクション以外のところで使われているフィクショナリティが見逃されているから。
哲学的なフィクション論は抽象的でコンテクストや経験的な現れに注意を払っていないし、文学研究・物語論は、フィクティブな言説のより広く根本的な説明に注意を払わない(修辞的アプローチならその点……)

1) Fictionality is founded upon a basic human ability to imagine


2) Even as fictive discourse is a clear alternative to nonfictive discourse, the two are closely interrelated in continuous exchange, and so are the ways in which we engage with them


3) The rhetoric of fictionality is founded upon a communicative intent


4) From the perspective of the sender, fictionality is a flexible means to accomplish a great variety of ends


5) From the perspective of the receiver, fictionality is an interpretive assumption about a sender’s communicative act


6) No formal technique or other textual feature is in itself a necessary and sufficient ground for identifying fictive discourse


7) Signaling or assuming a fictive communicative intent entails an attitude toward the communicated information that is different from attitudes toward nonfictive discourse


8) Fictionality often provides for a double exposure of imagined and real


9) The affordances of fictionality have—for better or worse—consequences for the ethos of the sender—and often for the logos of the global message


10) The importance of fictionality has been obscured by our traditional focus on fiction as a genre or set of genres


もともと、大岩さんの雪火頌では、フィクションがどのように形作られるか=エフェクトという観点から、フィクションを論じるとされていて、エフェクトの類義語としてフィクショナリティも挙げられている
ただ、この論文を読んでみると、どのように作られるか、というよりも、どのように使われるか、という感じだった
フィクションは、一般的にフィクションとされるもの(小説やマンガや劇など)以外の場所でも使われており、様々な用途がある、と。


個人的な興味関心の問題だが、この論文で出てくるオバマキング牧師の例の分析にあまり面白さを感じられなかった。
フィクショナリティという概念を用いることで、どういうおいしさがあるのが分からなかったというか。それらの例がフィクションの一種なのは分かるが、生じているとされる効果を説明するのにフィクショナリティ概念を経由する必要があるのかどうか。
一方、典型的なフィクション以外のところにもフィクションは現れる、ということ自体は首肯するところで、そういうのを説明する枠組みの必要性も分かる。
手前味噌で恐縮だが、それこそガルラジ合同本『___・ラジオ・デイズ』に「質感から考える メディアなきフィクションとしてのガルラジ」書きました - logical cypher scape2質感旅行論とかはそういう面はある。旅行の中にもフィクショナリティは生じる。
しかし、質感旅行において生じるフィクショナリティは、このフィクショナリティ論とは相容れなくて、それは質感旅行は別にコミュニケーション行為ではないから。


ウォルトンは、それこそノンフィクションの中にも部分的にフィクションになってる部分が出てくる旨の指摘を行なっており、フィクショナリティ論と通じるところはあると思う。
ウォルトンは、メタファーをメイクビリーブで説明しようとしたりもするし。
ただ、この部分的なフィクションみたいな考え方が、美学系フィクション論の中でどれくらい受け入れられているのかは謎


メイクビリーブの拡張という意味では、科学におけるモデルをメイクビリーブで説明しようとする議論もあるけど、まあでもそれは、レトリックとしてのフィクショナリティという考えとは結構違うような気がする


話を戻すと、質感旅行はコミュニケーション行為じゃないわけだが、ウォルトンのメイクビリーブ論は、プロップによってフィクショナリティが生じるので、質感旅行みたいなものに応用しやすいのである。モノさえあれば、意図とかはあまり気にしなくてよいので。
一方、カリーのメイクビリーブ論はむしろ、コミュニケーションにおける意図を組み込んだ議論だったはずなので、このレトリックとしてのフィクショナリティ論は、そのあたりはカリーと似てるのかもなーと思いながら読んだ。

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史5』

5巻は「中世3 バロックの哲学」

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史1』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史2』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史3』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史4』 - logical cypher scape2


シリーズが始まった頃は、勝手に、古代、中世、近代、現代が2冊ずつだと思い込んでいたので、中世3の表記に最初驚いてしまった。
実際は、古代2、中世3、近代2、現代1の8巻構成である。
ただし、本書が扱う時代は14〜17世紀であり、一般的に中世とされる時代ではない。
本シリーズでは、特に16〜18世紀半ばを近世と呼ぶことにしており、本書は中世と近世、特に近世を扱っている。
なお、サブタイトルにあるバロックは17世紀頃頃のことを指す。
歴史区分を、古代・中世・近代の3つにしか区分しないような分け方の場合、近代は15・16世紀頃に始まるとされるが、ある時期から、ここに「近世」という時代区分が日本史だけでなく、ヨーロッパ史や世界史でも使われるようになっているようだ、というのは素人ながら何となく感じている。
この時代をあえて「中世3」としてまとめることで、中世と近代が断絶しているのではなく、近世を介して連続していることを示そうという意図だろう。
そもそもこの中世1から3冊を通じて、中世は決して暗黒時代ではない*1ということを示そうとしているのだとも思う。


twitter.com

と、以前読んでいる最中に書いたが、実際扱われているのが結構マイナーで
前の巻だと、「中世哲学知らないから勉強になるなー」という感じとはいえ、トマスとかオッカムとか、名前自体は知ってるような人たちが並ぶのに対して、この巻は、名前や学派、キーワードなどからしてすでに全然知らないところから始まる感じであった。
その分、面白かったともいえる。

第1章 西洋中世から近世へ 山内志朗
コラム1 ルターとスコラ学 松浦 純
コラム2 ルターとカルヴァン 金子晴男
第2章 西洋近世の神秘主義 渡辺 優
第3章 西洋中世の経済と倫理 山内志朗
第4章 近世スコラ哲学 アダム・タカハシ
第5章 イエズス会キリシタン 新居洋子
第6章 西洋における神学と哲学 大西克智
コラム3 活版印刷術と西洋哲学 安形麻理
コラム4 ルネサンスとオカルト思想 伊藤博
第7章 ポスト・デカルトの科学論と方法論 池田真治
第8章 近代朝鮮思想と日本 小倉紀蔵
第9章 明時代の中国哲学 中島隆博
第10章 朱子学と反朱子学 藍 弘岳

第1章 西洋中世から近世へ 山内志朗

哲学史の中で重視されてこなかった14、15世紀
筆者は、ビッグネームがいなかったためにこのような不当な評価をされており、実際には、大学の数が増え、活版印刷の登場もあり、哲学も盛んになっていた時代だとする
筆者はこの時代の大雑把な分類として、「唯名論の系譜」「ドイツ神秘主義」「オックスフォード・リアリズム」「正統的カトリック神学」「イエズス会とスペイン・バロック哲学」と並べる
その後特に、唯名論の系譜、オックスフォード・リアリズムのウィクリフイエズス会を中心にした第二スコラ哲学などを論じている。
唯名論については、唯名論者とされている者の主張と唯名論という名前があっていないこと、それでいて何故唯名論と呼ばれているのかが説明されている。
筆者は、唯名論とは函数的なものの捉え方、外延主義的な考えだとする。
一方、神学の義認論という分野で、グレゴリウスの唯名論という立場があって、これが色々あって混ざったようだ

コラム1 ルターとスコラ学 松浦 純

コラム2 ルターとカルヴァン 金子晴男

ルターはオッカムの、カルヴァンスコトゥスの影響を受けている
両者とも神秘主義の影響を受けている

第2章 西洋近世の神秘主義 渡辺 優

アビラのテレサと十字架のヨハネを中心とするスペイン神秘主義について


神秘主義は哲学なのかという点について、神秘主義を「知に焦がれる・希う」「愛する知」と位置付ける。あるいは、語りえないことをそれでもなお語らずにはいられない者なのだ、とも。


スペイン神秘主義の先駆として「照明派」
また、イエズス会ロヨラ神秘主義的傾向があった、と。
ロヨラ神秘主義というのは、ギリシア哲学由来の観想と活動の区別、というのをなくして、活動の中の観想を到達点とするというもの


さて、テレサについて
知らない人だなー、と思ったら、バタイユ『エロティシズム』の表紙に使われている彫像のモデルになった人で、この彫像により有名らしい
神秘主義を神秘体験によって特徴づける、という近代的神秘主義理解は、テレサに由来する
のだが、本章ではむしろ、テレサ神秘主義はそういうものではなかった、ということが論じられていく。
若い頃に、この彫像に描かれているような官能的な神秘体験をしたらしいが、テレサ自身は、その体験には重きを置いていない。
先ほど述べたとおり、観想と活動の区別というギリシア由来の区別があり、さらにキリスト教においては、神への愛と隣人愛という2つの愛のあり方がある。そして前者をよりよいものとする、というのが伝統的な捉え方らしいのだが、エックハルトはこの理解を逆転させる。
テレサエックハルトと同じ考え方をしている
スペイン各地に修道院を創立するという事業をテレサは行なっている。
神秘体験の中で鮮烈に現れる神ではなく、人々のなかで生きる中で、はっきりとはしない形で現れる神のことをテレサは語る。
また、テレサは、女性の弱さを語るが、それを逆説的に女性の強さとしていく。
つまり、女性は学問ができない存在であるが、そもそも神の知は学問によって近づけるものではなく、愛や祈りによって近づけるものであり、そこにむしろ女性の方が神に近いのだ、という女性の優位さを示している。
また、この祈りというのは「私たち」によるもので、共に分かち合うものだという考えもある。


この世界哲学史シリーズの中で、主題的に取り上げられた女性は、このテレサが最初だと思う(女性哲学者自体は、確か古代ローマあたりの章でも出てきたが、名前が言及されたのみ)


ヨハネは、詩とそれに対する注解という形で著作を残した人で、本章では、そこに見られる「暗夜」が一体何を意味しているのかという点が解説される。


テレサヨハネともに16世紀の人

第3章 西洋中世の経済と倫理 山内志朗

中世スコラ哲学の中の経済学
その中でも特に、13世紀フランスのペトルス・ヨハネス・オリヴィについて


中世スコラ哲学の経済学というとピンと来ないが、既に戦前の日本でも、トマス・アクィナスの経済思想を研究していた人がいたらしい


そもそも中世の経済思想は独特で、利子をとってはいけない、というのが根本にある
トマスによると、利子をとるというのは、(1)時間を売ることになっているが時間は神から与えられたものなのでこれを売るのは罪(2)元本と返済金は等しいので、さらに利子をとるのは同じものを2度売ることになるから罪(3)元本を返せば返済したことになるのに利子をとるのは無を売るから罪、ということになる
使用するとなくなってしまうものの貸借を「消費貸借」、使用してもなくならないものの貸借を「使用貸借」と分け、ワインなどは前者、土地などは後者なのだが、貨幣もまた前者に分類されていたのだという。
売買という考えはとらず、等しい量の貨幣で返還する、という考え方らしい、消費貸借


とはいえ、商業革命により、遠隔地との商売が行われるようになり、リスクなどの考え方が入ってきて、海上保険など、実質的に利子に相当するものが認められるようになってくる。


さて、オリヴィ
アッシジのフランチェスコ、そして彼を開祖とするフランシスコ会は、清貧思想を旨とし、貨幣や富の所有を拒絶するのだが、その一方で商業の庇護者としても知られている
オリヴィは、フランシスコ会の中でも急進派
哲学的にはオッカム、スコトゥスの先駆者とも見られ、カトリック批判を行った人でもある
「貧しき使用」論を展開。
未来のために必要ならばこれを所有するのは正当であり、消費しても消えずに残存する、という考え(非存在を売ることにならないので、利子が正当化される)


オリヴィの経済思想
(1)資本概念の創出
利子をとってはいけないという考えだと資本は増えていくことがないが、オリヴィは資本の増殖的性質を認めた
(2)利子肯定論の提唱
(3)共通善という論点を経済思想に持ち込む
価格決定は共同体によってなされる
(4)市場の発見
(5)新しい公正価格論の提起
従来、公正価格はどこでも一致と考えられていたが、売り手と買い手の自由契約による価格も公正価格だとした。ものに内在する価値と価格の不一致を許容した


オリヴィの思想が、資本主義の起源なのかという点について、歴史家の間での議論に決着はついていない、としつつ、筆者は、資本主義の原型がこの時代に既に準備されており、その思想的裏付けをオリヴィが担ったのだと論じている。


第4章 近世スコラ哲学 アダム・タカハシ

15・16世紀のスコラ哲学について
アリストテレス主義の伝統と、それを支えた制度としての大学、その伝統の背景にある、12世紀の哲学者アヴェロエスの思想について紹介したのち、16世紀の哲学者として、ポンボナッツィ、スカリゲル、メランヒトンの3人が検討される。
アヴェロエスの思想としては、知性単一説と神的摂理の問題が特徴としてあげられる
前者は、知性というのは非身体的で質料を欠くので個別化されず数的に一つである、という説(人類の知性は、個人個人にあるのではなく、全人類で一つの知性を共有しているという、なんかすごい説)
後者は、神の摂理を説明するのに、天体を持ち出すというもの。アリストテレスが論じていない神の摂理を、アリストテレス哲学で解釈する方法
さて、検討される3人の哲学者について、3人それぞれ違う思想が展開されている(例えばポンボナッツィは活動していたパドヴァの土地柄、キリスト教神学とやや対立した考えだったり)が、筆者は3人とも先人と比べてオリジナリティはないという。
(この点、「魂・知性論については」という限定付きとのこと、筆者のタカハシさんからご指摘ありましたので追記しておきます。ちゃんと読み取れていませんでしたが、確かに知性論の文脈で書かれている箇所です)
16世紀の哲学の特徴は、アリストテレスの『動物誌』やガレノスの著作などから、自然学の経験的な事例を取り込もうとしているところにある、と。

第5章 イエズス会キリシタン 新居洋子

章のタイトルからは分かりにくいのだが、主に中国におけるイエズス会による哲学の翻訳と儒教との関係について論じられている。
「世界」哲学の感が非常に強い章である。


イエズス会の宣教師は、中国でスコラ哲学や西欧の文物の翻訳を行った。その際、音訳と共に意訳を行なっている。
ここでは、理性(ratio)の翻訳について特に論じられている。
彼らは、理性を「霊性」と訳している。
このことはまず、スコラ哲学においてratioは、現在、理性という言葉で理解されている概念とは意味合いが少し異なっていたことを示す。
一方、霊性という訳語が、儒教の理解から得られていることも論じている。
面白いのは、イエズス会はもともと仏教を意識して 袈裟を着た「僧」の格好をして布教していたが、程なくして儒家から、中国では立場が微妙な仏僧の真似をするのは得策ではないと教えられ、むしろ儒教の方へと接近していったということ。


一方、朱子学には「理」という概念がある。
イエズス会の宣教師は、儒教に対しては妥協的だったが、「理」概念に対しては批判的で、『神学大全』の翻訳には、原著にはない「理」批判が書かれているとか。
ただ、この「理」概念をライプニッツは再解釈した上で、神と同一視するほどに受け入れている。
また、ライプニッツによる再解釈は、朝鮮でなされた朱子学批判と方向性を一にしているとか。


東西双方向に影響関係があったのだ、と。

第6章 西洋における神学と哲学 大西克智

神学と哲学の関係を、哲学者内部の信と知の関係で整理する。
まずアンセルムス、そしてイエズス会のモアナとスアレス、最後にデカルトを挙げている。
アンセルムスにおいては、信があるからこそ知があるという関係だったが、時代が下り、モアナとスアレスになると、信と知は乖離しており、哲学は神学の婢女ではなくなる。

コラム3 活版印刷術と西洋哲学 安形麻理

コラム4 ルネサンスとオカルト思想 伊藤博

ミランドラ、アグリッパ、ポルタ、フランシス・ベイコン
魔術というのが自然に従うものだという思想

第7章 ポスト・デカルトの科学論と方法論 池田真治

ポスト・デカルトの哲学として、ホッブズスピノザライプニッツの3人が比較検討される。
章タイトルにある通り「方法」がキーワード。この章にとって、というだけでなく、この時代のキーワードだったよう。
3人とも、数学に基づく新しい「方法」を立ち上げようと論じている。一方で、アリストテレス的伝統を受け継いでいる面もある、と。


全然知らなかったけど、ホッブズというのはガリレオを崇拝していて、自然学にも詳しかったらしい。『リヴァイアサン』にも科学論があるとか。


ライプニッツデカルト批判、よいなー
明証性とかコギトとか主観じゃん、と

第8章 近代朝鮮思想と日本 小倉紀蔵

朝鮮思想、というのも考えてみれば標準的な歴史の教科書では全然触れられないところだろう。
この章では、朝鮮における朱子学受容の話がなされるが、さらにその後、近現代についてもページが多く割かれている。
朝鮮の朱子学者の間でなされた論争が紹介されており、その中の一つに、人間の本性と動物の本性は同じかどうか、というのがあったらしい。


韓国や北朝鮮での「実学」の理解
実学というのはもともと朱子学のことを指す
ところが、明治の日本で、実用的な学問を指す言葉に変わる
朝鮮でもこれに影響される。日本の植民地下にあったとき*2の影響で、朱子学を前近代なものとし、一方で、朝鮮にも非朱子学的な思想があったとして「実学」なるものが発見される。
ただし、実態としてはそのような学派は存在しなかった、とのこと
とはいえ、そのようなものが要請されたのは、朝鮮も内発的な近代化が可能であったのだ、という戦後の考えによる。
本章では、朝鮮の内発的近代化に繋がったかもしれない流れとして、東学と北学をあげる
(東学は、北朝鮮でそのように扱われていたが、韓国ではそうでもなく、むしろ近年において脱近代の潮流として論じられているとかなんとか)
また、韓国では、逆に朱子学ポストモダンなものとして論じられるようになっているとか。日本と韓国で、ポストモダンのイメージが全然違うとも(韓国のポストモダンは、近代の負の側面を道徳的に断じるもの、らしい)


短い紙面で、朝鮮思想史をまとめていかなければならない章なのだが、最後、かなり長めの引用で終わった

第9章 明時代の中国哲学 中島隆博

これは主に陽明学について
弱い独我論としての陽明学(独我論というか、私の心が基準になるのだ、という感じ?)
王陽明だけでなくその後の展開もあわせて紹介されている
また、キリスト教と仏教の間で行われた、殺生戒をめぐる論争について
中国イスラーム哲学についても
ムスリム儒者というのがいたらしい。近年研究が進んでいるらしい。

第10章 朱子学と反朱子学 藍 弘岳

章のタイトルからは分かりにくいが、荻生徂徠について
徂徠やその弟子たちは、儒学だけでなく、文芸、国学、水戸学にも影響を与え、漢字音韻学にも繋がったとか
また、徂徠は、影響を与えたかどうかはともかく、中国や朝鮮でも結構読まれてはいたらしい。

sakstyle.hatenadiary.jp

*1:すでにそのようなイメージを頭から信じてる人は(このような本の読者層であれば)少ないとは思うが

*2:なお、本章では「併合植民地」という言い方がされているが、ちょっと謎。単に植民地でよいのではないか

飛浩隆『自生の夢』

飛浩隆の2006年から2015年に発表された作品を集めた短編集
7本中4本がアリス・ウォンシリーズとでもいうか、世界観や登場人物が同じ作品となっている。
半分くらいは、初出時に読んでいたが、単発で読むよりこうしてまとめられたものとして読む方が分かりやすかった気がする。

海の指

以前も読んでいたが、だいぶ忘れていた
メロドラマだったのか
情報の海に演奏される、様々な文化の建物がごちゃごちゃに具現化しているなど雰囲気はやはり、廃園の天使とか零號琴とかと通底するものはある

星窓 remixed version

収録作の中で最も古い
remixedというのは、過去の短編の要素を混ぜているかららしい。
夏休みに友人たちと星間旅行をする予定だった少年が、突然それをキャンセルし、なにも見えない「星窓」を買う。その星窓には何かが封じ込められており、存在しない少年の姉が訪れる。
他の飛作品とは雰囲気が違う感じもする。
話のオチはよく分からなかった

#銀の匙

ここから4作品は全てアリス・ウォンが出てくる。「自生の夢」のスピンオフでもある。
アリス・ウォンの誕生時のエピソードを、アリスの兄の視点から描く。
Cassyという書記エージェントや検索エンジュGoedelやGEBなど、このシリーズの世界設定の説明がなされている話でもある。

曠野にて

まだ幼いながらも才能を既に発揮していたアリスと、克哉が、曠野にてバトルする話
Cassyを駆使して物語を作り、その文章が構造物となって、陣取りゲームをしている
ここで克哉が書いていた話の設定を流用して「海の指」が書かれたとのこと
読みながら「海の指って作中作だったのか?!」となった(実際には設定は食い違っており、作中作というわけではない)

自生の夢

忌字禍という存在を倒すため、シリアルキラー間宮潤堂が呼び出される話
といっても間宮は既に死んでおり、彼の残した大量の著作などをCassyが検索することで、彼を再現しようとする試み
読むものと読まれるものとの関係が逆転する


様々な作品への参照がなされているが、伊藤計劃円城塔を意識して書かれているのは、何も知らずに読んでいても察せられた。
しかし、巻末の伴名練の解説を読んで、そういうレベルの話ではなく、作者と伊藤計劃との対話そのものともいうべき作品だと知った。


とまあ、それは置いておいても、この作品のSF設定とそこから紡ぎ出されてくる情景は魅力的


最後にアリスが述べた、忌字禍の脳油
その正体はよく分からなかったが、「はるかな響き」の「あの響き」と通底するものだろうか
言葉から逃れていくものを言葉でなんとか囲い込もうとし、それでもなお逃げられる

野生の詩藻

アリス亡き後、野生化したポエティカル・ビーストを、アリスの兄と克哉で捕まえる話
ポエティカル・ビーストって何だよという話だが、詩が構造物となりビーストととなる、というのが、#銀の匙から読んでいってると、ストンと理解できる

はるかな響き

『サイエンス・イマジネーション』にも収録された作品だが、巻末ノートによると、大きく改稿したとのことで、ざっと読み比べてみたら、骨の女の設定まわりが変更されていた。こちらの方が分かりやすくなっているように思う。
2001年宇宙の旅』の冒頭、サルがモノリスに出会うシーンと、ラスト、スターチャイルドのシーンが使われている。

ジョナサン・ロソス『生命の歴史は繰り返すのか?』(的場知之・訳)

サブタイトルにある通り「進化の偶然と必然のナゾに実験で挑む」本


進化は、何百年何千年あるいはそれよりさらに長いスパンかけて起きるものであり、人間には直接観察できない、とダーウィン以来思われてきたわけだが、実際にはもっと短いスパンでも進化は起きる。
そもそもダーウィン自然淘汰は、人間が行なっている品種改良=人為淘汰から発想されたわけで、適切な淘汰圧がかかれば、人間の観察可能な期間に進化はもちろん起きるのである。
しかし、人為淘汰はあくまでも人為であって、それか自然の中でも同じ速度では起きないだろうと思われていたのが、実はそうでもないというのが20世紀後半になり分かってきた、と。


また、科学研究において、ちゃんと条件を統制した上で実験しないと解明されたことにはならないという考えがある一方で、きれいなラボてできたからといってそれが自然の中でも起きてるとは限らないだろう、という考えもある。
じゃあ、自然環境の中で実験してみますか、というタイプの研究が、本書の中には出てくる
生物の進化を実験で確かめてみる、という研究についての本なのである


では、一体進化の何を確かめるのか。
進化の過程は偶然なのか必然なのか、偶有性と決定論のどちらが正しいのか、ということである。
ティーヴン・ジェイ・グールドとサイモン・コンウェイ=モリスとの間の対立について、と言い換えてもよい。
本書で繰り返し出てくるが、グールドは、進化のテープをリプレイしたら、という思考実験を提案した。本書で紹介される研究は、この思考実験を実際にやってみたもの、ともいえる。
グールドとコンウェイ=モリスが対立している、というのは何となく知っていたのだが、コンウェイ=モリスが近年になって、収斂進化についての事例をたくさん集めた本をだして、進化的決定論、進化の必然性を論じている、というのは知らなかった。
グールドは、進化における偶然性(偶有性)を重視し、進化を再度やり直したら、全く別の生き物が現れるだろうという
一方、コンウェイ=モリスは、進化における必然性(決定論)を主張し、進化は同じような環境に置いて繰り返し同じような生き物を生み出すという。
ここらへんの話が、最近どうも盛り上がっているらしい(?)というのが、本書を読んで何となくわかった。
この前読んだチャールズ・コケル『生命進化の物理法則』 - logical cypher scape2でも、グールドの名前は何度か言及されるものの、そこでなされる偶有性批判みたいなものがいまいちピンと来ていなかったが、この論争において、コンウェイ=モリス側・必然性側を、ちょっと違う視点から援護射撃している本、ということでもあったのか、というのが分かってきた。
なお、このコケルの本は、原著・訳書ともにロソスの本よりもあとに書かれており、コケルはこのロソスの本にも言及している。


では、ロソスは何と言っているのかというと、第一部と第二部では、進化における収斂の強さ、予測可能性の高さが次々と示されていく。
第三部も途中まではそうだが、途中から一転する。進化実験の中に偶有性が現れてくる。
まとめると、遺伝的に近縁な場合、収斂が起きやすいが、そうでないと、同じ環境に対しても違う適応が生じる、ということになる。


しかし、この本は何よりも、進化実験研究の面白さを伝えようとしている本で、ユーモラスな文章でもって、各フィールド実験の経緯、苦労、楽しさが書かれている。
また、この分野の新しさが分かるというか、あるいは、1人の人間が観察できる期間に、あるいは1つの研究助成金が続く間に実験ができるとはいえ、やはりそれなりに時間はかかるもので、紹介されているいくつかの研究については、「この本が書かれている時には、ちょうど論文をまとめているところで、まだ結果は分からない」というので終わっているものもある。
筆者のロソス自身が、この分野のパイオニアの1人でもあり、登場する研究者たちのことを生き生きと描いている。


ところで、翻訳者の人、ちょっと名前見たことあるなと思って調べたら、『生命の〈系統樹〉はからみあう』や『世界を変えた100の化石』の翻訳もしている人だった。どちらもいずれ読みたいと思っている本

生命の歴史は繰り返すのか?ー進化の偶然と必然のナゾに実験で挑む

生命の歴史は繰り返すのか?ー進化の偶然と必然のナゾに実験で挑む

  • 作者:Jonathan B. Losos
  • 発売日: 2019/06/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

まえがき
序章 グッド・ダイナソー
第一部 自然界のドッペルゲンガー
 第1章  進化のデジャヴ
 第2章  繰り返される適応放散
 第3章  進化の特異点
第二部 野生下での実験
 第4章  進化は意外と早く起こる
 第5章  色とりどりのトリニダード
 第6章  島に取り残されたトカゲ
 第7章  堆肥から先端科学へ
 第8章  プールと砂場で進化を追う
第三部 顕微鏡下の進化
 第9章  生命テープをリプレイする
 第10章  フラスコの中のブレイクスルー
 第11章 ちょっとした変更と酔っぱらったショウジョウバエ
 第12章 ヒトという環境、ヒトがつくる環境
終章 運命と偶然:ヒトの誕生は不可避だったのか?
謝辞
訳者あとがき
巻末注
索引
イラストレーター紹介

序章 グッド・ダイナソー

『アーロと少年』の話やディノサウロイドの話から始まる。地球外生命体やカモノハシの話なども。これらの話については、終章でまた戻ってくる

第一部 自然界のドッペルゲンガー

 第1章  進化のデジャヴ
 第2章  繰り返される適応放散
 第3章  進化の特異点
第一部は、自然界に見られる実際の事例が数多く紹介される。


第1章では、コンウェイ=モリスの主張と、さまざまな収斂進化の例を紹介している。
第2章では、個々の種ではなく、生物相全体が収斂する、反復適応放散の例が紹介されている。具体的には、筆者の研究対象であるアノールトカゲである。アノールトカゲは、樹上性、地上性と適応放散するが、カリブのそれぞれの島でそれぞれ別個に、しかし非常によく似た形で適応放散している。
アノール以外に、千葉聡によるカタツムリの例も挙げられている。
また、島嶼化やベルクマンの法則など進化の法則性についても紹介されている(島嶼化というと、動物が小型化するのが有名だが、植物の場合逆に大型化するらしい)
このように第2章では、進化には法則性があり、予測可能な形で繰り返すことを示す事例が挙げられた。
第3章では逆に、収斂していない事例が挙げられる。ニュージーランドやオーストラリアなどがいい例だ。
そもそも、収斂といった場合、どこまで似ていれば同じとみなしてよいのかという問題や、非適応的な収斂のケースなども紹介されている。
何故収斂したり収斂しなかったりするのか。
同じ問題に直面しても、それへの解決策が複数ある場合がある。
その中から、偶然にどれかが選ばれるのかもしれないし、その種が辿ってきた歴史が影響するのかもしれない


進化は繰り返すのか、繰り返さないのか
といえば、どちらの事例もいくらでも列挙することができる。
問題は、どういう時収斂が起きるのか
実験で検証するしかない、ということで第二部へ。


第二部 野生下での実験

 第4章  進化は意外と早く起こる
 第5章  色とりどりのトリニダード
 第6章  島に取り残されたトカゲ
 第7章  堆肥から先端科学へ
 第8章  プールと砂場で進化を追う

第二部では、いよいよ進化実験の例が出てくる。
進化はゆっくり進むと考えられていたために実験できるとも思われていなかったが、第4章で、イギリスの蛾、ガラパゴス諸島のグラント夫妻の研究などの例から、観察可能な速度で起こることが説明される。イギリスの蛾の奴は、大気汚染で色が変わったというめちゃくちゃ有名な話だが、環境汚染という人為的な淘汰圧によるものなので、自然ではあんな速度では起きないと思われていたようだ。
第5章は、エンドラーとレズニックによる、トリニダードでのグッピー実験(論文発表は1980年)
滝によって隔てられた渓流ごとに、捕食者がいるかどうかという環境の違いがあり、それによりグッピーの柄が地味か派手かという違いがあった。
グッピーのいない場所にグッピーと捕食者を放流することで、エンドラーは進化の実験を行った。


第6章では、筆者による、バハマでのアノールの実験。トカゲを捕まえてきて、岩礁に捕食者ともに放して、適応が起きるか実験する。
ハリケーンがくると全滅してしまって実験が強制終了してしまうなどの苦労話も。


エンドラーらの実験でも、筆者の実験でも、同じ淘汰圧に対して、予測可能な進化が起きることが分かる。


このように進化を実験で確かめられることが分かったが、実際にやるには時間がかかり、なかなか後に続く者はいなかった、と。
一方で、時間のかかる実験は、生態学では行われていると。
その一つが、第7章て紹介されるロザムステッド農場でのパークグラス実験で、現在まで150年間続けられている。これは肥料について調べている実験で進化についての実験ではないが、スネイドンらがこれを利用して進化について研究していた。1970年代の研究なのだが、最近にぬるまで知られていなかったとのこと。
第8章では、シュルーターのイトヨの実験とバレットのシカネズミの実験が紹介される。前者は大学キャンパス内に人工池を作っての実験、後者は荒野にネズミを閉じ込める柵を作っての実験
ところで、後者の話では、保守的な土地柄、進化という言葉は嫌がられるのだが、進化という言葉を使わずに実験内容を説明すると、よく理解され興味を持たれるという話が面白かった

第三部 顕微鏡下の進化

 第9章  生命テープをリプレイする
 第10章  フラスコの中のブレイクスルー
 第11章 ちょっとした変更と酔っぱらったショウジョウバエ
 第12章 ヒトという環境、ヒトがつくる環境


第三部は、微生物を用いたラボでの実験
第9章は、レンスキーの大腸菌を使った実験、レイニーの細菌の反復適応放散、トラヴィサーノの酵母を使った単細胞から多細胞体への実験
いずれも反復性が確認されている
第10章は、再びレンスキーの実験。2003年の出来事。爆発的に増殖する個体群が出てくる。12の個体群の中で一つだけが、新たな消化能力を獲得していた。
遺伝子変異を追いかけ、この個体群がどのように進化してきたかを調査
いくつかの稀な変異が重なることで、予測不可能な進化が生じていた
同じ表現型でも、遺伝型が異なるということがある。同じ環境下で表現型レベルでは収斂していても、それを実現させている遺伝型に違いがある、と。そして、その違いが蓄積して、これまでにない表現型が現れることがある。
やはり、進化には予測不可能な面があったのだ、と
第11章では、グールドの言っていた進化のリプレイと偶有性概念の再検討がなされる。
科学哲学者のビーティが、グールドの偶有性は
2つの意味が混同されていると指摘
1つは予測不可能性、もう1つは因果的従属性
そして、進化のリプレイも、2つの意味に取れる。
1つ、同じ条件で繰り返しても不確定性により違う結果になる、という意味
もう1つは、繰り返しても、条件が少し変わればその来歴によって結果が変わってくる、という意味
ここまで見てきた実験は全て前者の意味で行われてきた
そして、後者の意味で行われた実験はおそらくない、と筆者は言う
ただし、遺伝的に異なる個体群を使った実験ならばある。コーハンによるショウジョウバエの実験た。ハエの出身地が違うと同じ淘汰圧に対して収斂が見られなかった


第12章は、進化実験が役に立つ、ということについて
医学の世界で、病原菌の進化や薬剤耐性への進化についての実験が行われている。
やはり収斂が見られるのだが、一方で収斂した個体群の割合が一部にとどまる
これもまた元々の遺伝子が異なっていると、必ずしも収斂しない、という例なのだが、一方で医学的には、仮に一部であっても収斂が見られると、予測可能性が出てきて治療に役立てることができるという。
薬剤耐性・駆除剤耐性についても、全部ではないにしろ収斂があり、そこから対策を練ることができる、と

終章 運命と偶然:ヒトの誕生は不可避だったのか?

コンウェイ=モリスは、ヒトのような知的生命体が誕生するのは進化の必然だと主張する
ディノサウロイドのような思考実験もあるし、アストロバイオロジーでは、地球外生命体も地球の生命と近い姿をしているのではないかと考えている者たちもいる
しかし、筆者は、仮に知性が生まれるとして、知性が生まれるための条件(二足歩行で、目が前についていて等など)が正しいとしても、それを満たす形のバリエーションはたくさんあり、必ずしも似た姿にはならないだろう、と。
ヒトのほか、キーウィ、カモノハシ、カメレオンなどを挙げ、地球の生命の中にも、他の生命とは似ても似つかない、進化の中で一回しか出てこなかったような種がいることを挙げる。
しかし一方で、これらの種もパーツごとに見ると、実は収斂の事例であることも指摘している。
個々のパーツはほかの種にも見られるものだが、それの組み合わせによって見たことのない種が生まれうる。
地球外生命も、もしかしたらパーツごとに見たら地球の生命と似たものを持っているかもしれないが、その組み合わせによって全然見たことのない姿になっていることはありうる。
最後に、進化は予測可能なのかという問いについて筆者は、短期的にはイエス、しかし長期的には分からない、と述べている


進化実験の話はどれも興味深いが、ある程度まで読み進むと、大体結果は同じ(収斂が見られ、予測可能性がある)なのでちょっと飽きてきたところに、最後の9・10章で、いや実は違ったんだ、どーんと出てくるあたりがやはり面白い。
遺伝子が違うと違う方向に進化するというのは、そりゃそうだとも思うんだけど、遺伝子が違っても同じ表現型にいったん収斂するんだけど、違う淘汰圧がかかった時に、収斂せずに分かれていく、というあたりは、なかなか面白かった(例えばカンブリア紀の大爆発について、表現型の多様性が生じる遥か前に遺伝型の多様性が準備されてたみたいな話があったと思うのだけどそれを思い出していた)
あと、ヒトやカモノハシのようなユニークな種も、パーツごとに取り出すと必ずしもそうではないという指摘、意識したことがなかったので、なるほど、と思った。