ジョナサン・ロソス『生命の歴史は繰り返すのか?』(的場知之・訳)

サブタイトルにある通り「進化の偶然と必然のナゾに実験で挑む」本


進化は、何百年何千年あるいはそれよりさらに長いスパンかけて起きるものであり、人間には直接観察できない、とダーウィン以来思われてきたわけだが、実際にはもっと短いスパンでも進化は起きる。
そもそもダーウィン自然淘汰は、人間が行なっている品種改良=人為淘汰から発想されたわけで、適切な淘汰圧がかかれば、人間の観察可能な期間に進化はもちろん起きるのである。
しかし、人為淘汰はあくまでも人為であって、それか自然の中でも同じ速度では起きないだろうと思われていたのが、実はそうでもないというのが20世紀後半になり分かってきた、と。


また、科学研究において、ちゃんと条件を統制した上で実験しないと解明されたことにはならないという考えがある一方で、きれいなラボてできたからといってそれが自然の中でも起きてるとは限らないだろう、という考えもある。
じゃあ、自然環境の中で実験してみますか、というタイプの研究が、本書の中には出てくる
生物の進化を実験で確かめてみる、という研究についての本なのである


では、一体進化の何を確かめるのか。
進化の過程は偶然なのか必然なのか、偶有性と決定論のどちらが正しいのか、ということである。
ティーヴン・ジェイ・グールドとサイモン・コンウェイ=モリスとの間の対立について、と言い換えてもよい。
本書で繰り返し出てくるが、グールドは、進化のテープをリプレイしたら、という思考実験を提案した。本書で紹介される研究は、この思考実験を実際にやってみたもの、ともいえる。
グールドとコンウェイ=モリスが対立している、というのは何となく知っていたのだが、コンウェイ=モリスが近年になって、収斂進化についての事例をたくさん集めた本をだして、進化的決定論、進化の必然性を論じている、というのは知らなかった。
グールドは、進化における偶然性(偶有性)を重視し、進化を再度やり直したら、全く別の生き物が現れるだろうという
一方、コンウェイ=モリスは、進化における必然性(決定論)を主張し、進化は同じような環境に置いて繰り返し同じような生き物を生み出すという。
ここらへんの話が、最近どうも盛り上がっているらしい(?)というのが、本書を読んで何となくわかった。
この前読んだチャールズ・コケル『生命進化の物理法則』 - logical cypher scape2でも、グールドの名前は何度か言及されるものの、そこでなされる偶有性批判みたいなものがいまいちピンと来ていなかったが、この論争において、コンウェイ=モリス側・必然性側を、ちょっと違う視点から援護射撃している本、ということでもあったのか、というのが分かってきた。
なお、このコケルの本は、原著・訳書ともにロソスの本よりもあとに書かれており、コケルはこのロソスの本にも言及している。


では、ロソスは何と言っているのかというと、第一部と第二部では、進化における収斂の強さ、予測可能性の高さが次々と示されていく。
第三部も途中まではそうだが、途中から一転する。進化実験の中に偶有性が現れてくる。
まとめると、遺伝的に近縁な場合、収斂が起きやすいが、そうでないと、同じ環境に対しても違う適応が生じる、ということになる。


しかし、この本は何よりも、進化実験研究の面白さを伝えようとしている本で、ユーモラスな文章でもって、各フィールド実験の経緯、苦労、楽しさが書かれている。
また、この分野の新しさが分かるというか、あるいは、1人の人間が観察できる期間に、あるいは1つの研究助成金が続く間に実験ができるとはいえ、やはりそれなりに時間はかかるもので、紹介されているいくつかの研究については、「この本が書かれている時には、ちょうど論文をまとめているところで、まだ結果は分からない」というので終わっているものもある。
筆者のロソス自身が、この分野のパイオニアの1人でもあり、登場する研究者たちのことを生き生きと描いている。


ところで、翻訳者の人、ちょっと名前見たことあるなと思って調べたら、『生命の〈系統樹〉はからみあう』や『世界を変えた100の化石』の翻訳もしている人だった。どちらもいずれ読みたいと思っている本

生命の歴史は繰り返すのか?ー進化の偶然と必然のナゾに実験で挑む

生命の歴史は繰り返すのか?ー進化の偶然と必然のナゾに実験で挑む

  • 作者:Jonathan B. Losos
  • 発売日: 2019/06/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

まえがき
序章 グッド・ダイナソー
第一部 自然界のドッペルゲンガー
 第1章  進化のデジャヴ
 第2章  繰り返される適応放散
 第3章  進化の特異点
第二部 野生下での実験
 第4章  進化は意外と早く起こる
 第5章  色とりどりのトリニダード
 第6章  島に取り残されたトカゲ
 第7章  堆肥から先端科学へ
 第8章  プールと砂場で進化を追う
第三部 顕微鏡下の進化
 第9章  生命テープをリプレイする
 第10章  フラスコの中のブレイクスルー
 第11章 ちょっとした変更と酔っぱらったショウジョウバエ
 第12章 ヒトという環境、ヒトがつくる環境
終章 運命と偶然:ヒトの誕生は不可避だったのか?
謝辞
訳者あとがき
巻末注
索引
イラストレーター紹介

序章 グッド・ダイナソー

『アーロと少年』の話やディノサウロイドの話から始まる。地球外生命体やカモノハシの話なども。これらの話については、終章でまた戻ってくる

第一部 自然界のドッペルゲンガー

 第1章  進化のデジャヴ
 第2章  繰り返される適応放散
 第3章  進化の特異点
第一部は、自然界に見られる実際の事例が数多く紹介される。


第1章では、コンウェイ=モリスの主張と、さまざまな収斂進化の例を紹介している。
第2章では、個々の種ではなく、生物相全体が収斂する、反復適応放散の例が紹介されている。具体的には、筆者の研究対象であるアノールトカゲである。アノールトカゲは、樹上性、地上性と適応放散するが、カリブのそれぞれの島でそれぞれ別個に、しかし非常によく似た形で適応放散している。
アノール以外に、千葉聡によるカタツムリの例も挙げられている。
また、島嶼化やベルクマンの法則など進化の法則性についても紹介されている(島嶼化というと、動物が小型化するのが有名だが、植物の場合逆に大型化するらしい)
このように第2章では、進化には法則性があり、予測可能な形で繰り返すことを示す事例が挙げられた。
第3章では逆に、収斂していない事例が挙げられる。ニュージーランドやオーストラリアなどがいい例だ。
そもそも、収斂といった場合、どこまで似ていれば同じとみなしてよいのかという問題や、非適応的な収斂のケースなども紹介されている。
何故収斂したり収斂しなかったりするのか。
同じ問題に直面しても、それへの解決策が複数ある場合がある。
その中から、偶然にどれかが選ばれるのかもしれないし、その種が辿ってきた歴史が影響するのかもしれない


進化は繰り返すのか、繰り返さないのか
といえば、どちらの事例もいくらでも列挙することができる。
問題は、どういう時収斂が起きるのか
実験で検証するしかない、ということで第二部へ。


第二部 野生下での実験

 第4章  進化は意外と早く起こる
 第5章  色とりどりのトリニダード
 第6章  島に取り残されたトカゲ
 第7章  堆肥から先端科学へ
 第8章  プールと砂場で進化を追う

第二部では、いよいよ進化実験の例が出てくる。
進化はゆっくり進むと考えられていたために実験できるとも思われていなかったが、第4章で、イギリスの蛾、ガラパゴス諸島のグラント夫妻の研究などの例から、観察可能な速度で起こることが説明される。イギリスの蛾の奴は、大気汚染で色が変わったというめちゃくちゃ有名な話だが、環境汚染という人為的な淘汰圧によるものなので、自然ではあんな速度では起きないと思われていたようだ。
第5章は、エンドラーとレズニックによる、トリニダードでのグッピー実験(論文発表は1980年)
滝によって隔てられた渓流ごとに、捕食者がいるかどうかという環境の違いがあり、それによりグッピーの柄が地味か派手かという違いがあった。
グッピーのいない場所にグッピーと捕食者を放流することで、エンドラーは進化の実験を行った。


第6章では、筆者による、バハマでのアノールの実験。トカゲを捕まえてきて、岩礁に捕食者ともに放して、適応が起きるか実験する。
ハリケーンがくると全滅してしまって実験が強制終了してしまうなどの苦労話も。


エンドラーらの実験でも、筆者の実験でも、同じ淘汰圧に対して、予測可能な進化が起きることが分かる。


このように進化を実験で確かめられることが分かったが、実際にやるには時間がかかり、なかなか後に続く者はいなかった、と。
一方で、時間のかかる実験は、生態学では行われていると。
その一つが、第7章て紹介されるロザムステッド農場でのパークグラス実験で、現在まで150年間続けられている。これは肥料について調べている実験で進化についての実験ではないが、スネイドンらがこれを利用して進化について研究していた。1970年代の研究なのだが、最近にぬるまで知られていなかったとのこと。
第8章では、シュルーターのイトヨの実験とバレットのシカネズミの実験が紹介される。前者は大学キャンパス内に人工池を作っての実験、後者は荒野にネズミを閉じ込める柵を作っての実験
ところで、後者の話では、保守的な土地柄、進化という言葉は嫌がられるのだが、進化という言葉を使わずに実験内容を説明すると、よく理解され興味を持たれるという話が面白かった

第三部 顕微鏡下の進化

 第9章  生命テープをリプレイする
 第10章  フラスコの中のブレイクスルー
 第11章 ちょっとした変更と酔っぱらったショウジョウバエ
 第12章 ヒトという環境、ヒトがつくる環境


第三部は、微生物を用いたラボでの実験
第9章は、レンスキーの大腸菌を使った実験、レイニーの細菌の反復適応放散、トラヴィサーノの酵母を使った単細胞から多細胞体への実験
いずれも反復性が確認されている
第10章は、再びレンスキーの実験。2003年の出来事。爆発的に増殖する個体群が出てくる。12の個体群の中で一つだけが、新たな消化能力を獲得していた。
遺伝子変異を追いかけ、この個体群がどのように進化してきたかを調査
いくつかの稀な変異が重なることで、予測不可能な進化が生じていた
同じ表現型でも、遺伝型が異なるということがある。同じ環境下で表現型レベルでは収斂していても、それを実現させている遺伝型に違いがある、と。そして、その違いが蓄積して、これまでにない表現型が現れることがある。
やはり、進化には予測不可能な面があったのだ、と
第11章では、グールドの言っていた進化のリプレイと偶有性概念の再検討がなされる。
科学哲学者のビーティが、グールドの偶有性は
2つの意味が混同されていると指摘
1つは予測不可能性、もう1つは因果的従属性
そして、進化のリプレイも、2つの意味に取れる。
1つ、同じ条件で繰り返しても不確定性により違う結果になる、という意味
もう1つは、繰り返しても、条件が少し変わればその来歴によって結果が変わってくる、という意味
ここまで見てきた実験は全て前者の意味で行われてきた
そして、後者の意味で行われた実験はおそらくない、と筆者は言う
ただし、遺伝的に異なる個体群を使った実験ならばある。コーハンによるショウジョウバエの実験た。ハエの出身地が違うと同じ淘汰圧に対して収斂が見られなかった


第12章は、進化実験が役に立つ、ということについて
医学の世界で、病原菌の進化や薬剤耐性への進化についての実験が行われている。
やはり収斂が見られるのだが、一方で収斂した個体群の割合が一部にとどまる
これもまた元々の遺伝子が異なっていると、必ずしも収斂しない、という例なのだが、一方で医学的には、仮に一部であっても収斂が見られると、予測可能性が出てきて治療に役立てることができるという。
薬剤耐性・駆除剤耐性についても、全部ではないにしろ収斂があり、そこから対策を練ることができる、と

終章 運命と偶然:ヒトの誕生は不可避だったのか?

コンウェイ=モリスは、ヒトのような知的生命体が誕生するのは進化の必然だと主張する
ディノサウロイドのような思考実験もあるし、アストロバイオロジーでは、地球外生命体も地球の生命と近い姿をしているのではないかと考えている者たちもいる
しかし、筆者は、仮に知性が生まれるとして、知性が生まれるための条件(二足歩行で、目が前についていて等など)が正しいとしても、それを満たす形のバリエーションはたくさんあり、必ずしも似た姿にはならないだろう、と。
ヒトのほか、キーウィ、カモノハシ、カメレオンなどを挙げ、地球の生命の中にも、他の生命とは似ても似つかない、進化の中で一回しか出てこなかったような種がいることを挙げる。
しかし一方で、これらの種もパーツごとに見ると、実は収斂の事例であることも指摘している。
個々のパーツはほかの種にも見られるものだが、それの組み合わせによって見たことのない種が生まれうる。
地球外生命も、もしかしたらパーツごとに見たら地球の生命と似たものを持っているかもしれないが、その組み合わせによって全然見たことのない姿になっていることはありうる。
最後に、進化は予測可能なのかという問いについて筆者は、短期的にはイエス、しかし長期的には分からない、と述べている


進化実験の話はどれも興味深いが、ある程度まで読み進むと、大体結果は同じ(収斂が見られ、予測可能性がある)なのでちょっと飽きてきたところに、最後の9・10章で、いや実は違ったんだ、どーんと出てくるあたりがやはり面白い。
遺伝子が違うと違う方向に進化するというのは、そりゃそうだとも思うんだけど、遺伝子が違っても同じ表現型にいったん収斂するんだけど、違う淘汰圧がかかった時に、収斂せずに分かれていく、というあたりは、なかなか面白かった(例えばカンブリア紀の大爆発について、表現型の多様性が生じる遥か前に遺伝型の多様性が準備されてたみたいな話があったと思うのだけどそれを思い出していた)
あと、ヒトやカモノハシのようなユニークな種も、パーツごとに取り出すと必ずしもそうではないという指摘、意識したことがなかったので、なるほど、と思った。

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史4』

4巻は、「中世2 個人の覚醒」

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史1』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史2』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史3』 - logical cypher scape2

主に13世紀について
もっというと、トマス・アクィナスが主人公の巻と言ってよいと思う
2、3、5、6、7章がトマスを中心とした中世ヨーロッパ哲学について*1
4章はイスラームだが、古代ギリシア哲学のアラビア世界やイスラームでの受容についてであり、さらにイスラーム経由で、中世ヨーロッパはアリストテレスを再発見するので、他の章どの繋がりは密接
10章は、ユダヤにおける古代ギリシア哲学の受容について
アジア圏は、8章の朱子学と、9章の鎌倉仏教のみとなる。他の章同士の関連性が強いせいもあって、正直この2つの章が浮いているのは否めない。とはいえ、それは世界哲学史なる企画そのものがどうしても持ってしまう問題で、仕方ないといえば仕方ないし、今後の課題といえば今後の課題、なのだろう。


中世哲学については、昔、山内志朗『普遍論争』 - logical cypher scape2を読んで面白かったという記憶はあるが、結局その後特に勉強していなかったので、今回色々読めてとても面白かった。
そういう点で、世界なのにヨーロッパ偏重だという批判はありうるかもしれないが、個人的には非常に満足。ヨーロッパ中世だけで一冊でもいいくらいだったw (まあそういうわけにもいくまいが)


3、4、5、6、10が面白かった
特に、3章と6章

第1章 都市の発達と個人の覚醒 山内志朗
コラム1 ウィクリフ宗教改革 佐藤優
第2章 トマス・アクィナス托鉢修道会 山口雅広
コラム2 トマス・アクィナスの正義論 佐々木亘
第3章 西洋中世における存在と本質 本間裕之
第4章 アラビア哲学とイスラーム 小村優太
第5章 トマス情念論による伝統の理論化 松根伸治
コラム3 キリストの肢体 小池寿子
第6章 西洋中世の認識論 藤本 温
第7章 西洋中世哲学の総括としての唯名論 辻内宣博
コラム4 東方のキリスト教 秋山学
第8章 朱子学 垣内景子
第9章 鎌倉時代の仏教 蓑輪顕量
第10章 中世ユダヤ哲学 志田雅宏

はじめに 山内志朗

「世界哲学」なる括りをどう定めればいいのかの苦悩が現れているというか
個人的に、ここの一節、正直な感じが好き

日本の鎌倉仏教と西洋における托鉢修道会の活躍などは、影響関係などあるわけないが、単なる偶然の対応として片付けられない構造的な対応関係がある。いや、もちろん偶然かもしれない。

本書を読み終わっても、鎌倉仏教と托鉢修道会にどういう対応関係があるのかは、いまいちよく分からなかった

第1章 都市の発達と個人の覚醒 山内志朗

12世紀ルネサンスがあり、13世紀ヨーロッパ中世の盛期
大学、都市の発達
個人の救済が注目される
個体についての議論も

コラム1 ウィクリフ宗教改革 佐藤優

世界哲学史のシリーズが発表された際、執筆者一覧の中に佐藤優があり、首を傾げていた人を見かけたが、これだった
この本、基本的に13世紀ないしそれ以前の話が中心なんだけど、このコラムだけ内容がら15世紀なんだよな
ウィクリフとフス戦争の話

第2章 トマス・アクィナス托鉢修道会 山口雅広

トマス・アクィナスも所属していた托鉢修道会について(トマスはその中の1つ、ドミニコ会に属していた)


托鉢修道会は、徹底的な清貧と托鉢を旨とする
清貧自体は、これ以前の修道会でも謳われているのだが、徹底して実践する托鉢修道会は新奇なものであった
従来の修道会が農村で活動していたのに対し、都市を拠点とし、さらに説教のための学問研究を重視
このため、大学にも人を送りこみ、教育を受けるだけでなく教える立場にもなり、ドミニコ会パリ大学神学部の講座を2つ教員確保するに至る。しかし、これはそれまで大学の教授ポストを持っていた在俗聖職者たちとの軋轢を生む
で、論争が巻き起こるのだが、トマス・アクィナスもこの論争に参戦している、という話

コラム2 トマス・アクィナスの正義論 佐々木亘

トマスにとっての法は自然法
自然法を秩序づけるのが共同善
人間を共同善に秩序づける徳が正義

第3章 西洋中世における存在と本質 本間裕之

存在と本質について、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥスウィリアム・オッカムの3人の考えを比較する。
3人それぞれ違うのだが、トマスとスコトゥスは存在と本質の区別が世界の側にあると考えるのに対して、オッカムは世界の側にその区別はなく人間の観念の中だけにあるものにすぎないとする(同じものなのだが、動詞的に示すか名詞的に示すかの違いだとオッカムはしている)
この違いは何に由来するのかといえば、トマスとスコトゥスが、アヴィセンナの本性の理論を継承しているから。
トマスとスコトゥスは、形而上学が扱う実在の世界と論理学や認識論が扱う知性の領域が対応すると考えており、それの架け橋となるのが本質であり、本質が両方の領域に跨るものであるという考えをアヴィセンナから受け継いでいる。
一方のオッカムは、そのような考えを受け入れておらず、論理学を形而上学から独立させる。


筆者によれば、本質というのは、本質がいかに個別者となるかという個体化の原理の問題や、人がどのように抽象概念を認識するのかという問題、そして普遍論争など、中世の哲学で論じられた様々な問題と関わりのある重要概念


ところで、この存在と本質の区別だが、この両者を区別するというのは、「存在がなくとも本質を理解することができる」ということを前提としている
オッカムの場合、存在しないものの本質は無
本書の中では全く言及がないが、本質と存在を区別するのは、マイノング主義っぽいなーと何となく思った


もひとつところで、この章の執筆者は、おそらく本シリーズで最年少かと思われる。92年生まれで博士課程在籍中

第4章 アラビア哲学とイスラーム 小村優太

アラビアもしくはイスラームへのギリシア哲学の伝播について
また、この章ではちょうどアヴィセンナの本質についても解説されている。


アラビアもしくはイスラーム、と述べたが、まずアッバース朝下でアリストテレスアラビア語へ翻訳される。ただ、この翻訳活動はアラブ人以外が多く、キリスト教徒やユダヤ教徒が従事していたらしい
一方、11世紀以降、イスラーム圏内でペルシア語やトルコ語で哲学が行われる。
アラビア哲学と呼ぶと後者が、イスラーム哲学と呼ぶと前者が取りこぼされる、というなかなか複雑な事情がある


当初、ギリシア哲学はイスラームにとって外来のものであり、特に神学と対立関係にあった。
9世紀、キンディーが哲学はイスラームと一致するものだと擁護。新プラトン主義をさらに一神教的にアレンジし、翻訳活動をすすめた
11世紀のアヴィセンナ(イブン・スィーナー)は、現在のウズベキスタンの生まれ*2で、やはり新プラトン主義の傾向のあるアリストテレス哲学の大成者。哲学のあらゆる分野を網羅した著作を手がける。
彼の本質論について、「馬性は馬性でしかない」というのがあり、これは「栗毛」とか「雄」とかだけでなく「ひとつの」「多数の」「外界に存在する」「頭の中に存在する」なども馬性にとっては属性である、とするものである
11〜12世紀のガザーリー。セルジュク朝の神学者で、哲学の批判者。
彼は、形而上学の20の命題について批判する本を出すのだが、面白いのは彼のこの本は、彼の思惑からすると逆説的なことに、イスラーム圏に哲学を広めてしまうことになる。
というのも、彼の著作はむしろ、ここまでならイスラームと矛盾しないというガイドラインとなり、逆にいえば、どこまでなら哲学を用いてもよい、ということも示すことになったのである。
そもそもガザーリー自身、哲学全てを敵視しているわけでなく、自然学や論理学についてはむしろ有用として受け入れていたという。

第5章 トマス情念論による伝統の理論化 松根伸治

情念論、というのは、今でいうところの感情/情動の哲学かな、という感じ


トマスは、神学大全の中で、情念を欲望的能力と気概的能力の大きく2つの分類の中で、さらに善悪への接近・後退で分類していく
例えば、愛は善に接近しようとする欲望的能力、大胆は悪に接近しようとする気概的能力などのように。
11種の情念を分類しており、これらを2つ1組にしたり(怒りだけは対となる情念がない)、これらが連鎖していく関係などを論じている。


トマスの情念論は、しかし単に情念を分類しようというものではなくて、これらが徳概念と結びついて、倫理学の基礎となるという構成になっている


ところで、魂には理性、意志(理性的欲求)、そして感覚的欲求=情念があるとされる。
トマス以後、主知主義主意主義との論争が起き、主意主義が主流となっていき、徳の座は全て意志と考えられるようになる。
一方、情念においても徳が働くと考えるトマスは少数派であったと述べられている

コラム3 キリストの肢体 小池寿子

トランシ像など、腐敗した遺体の像について

第6章 西洋中世の認識論 藤本 温

志向性について
志向性という言葉は、現代哲学でも主に心の特性を論じる際に使われるが、もとはブレンターノが中世哲学から持ってきた言葉だ、というのは知っていたが、じゃあ、中世でどのような論じられ方をされていたか、は知らなかった。
本章では、感覚認識と知性認識のそれぞれについて、トマス・アクィナスとロジャー・ベイコンの議論を取り上げ比較している。
なお、本章では、中世哲学における志向性は、インテンティオとカタカナで表記されている。


認識する、というのは、スペスキエスが伝達されることで起きる、と考えられる。
スペスキエスというのは形相のことで、認識論の文脈では、何故か形相とは呼ばずにスペスキエスと呼ぶらしい。
アリストテレスは感覚のことを「質料なしに形相を受け入れる」こととし、これを受け入れるのは人などだけでなく、空気や水といった媒体も含まれる。
トマスは、「この質料なしに」というのを「スペスキエスがインテンティオという様態において」と解釈する。
ベイコンは、スペスキエスとインテンティオを同義語としており、スペスキエスは「感覚され得ない形で」受け入れられると解釈する。
認識というのは、スペスキエスが媒体を伝わっていく、という理解で、その際にインテンティオという言葉が使われている。なので、必ずしも心の特性として使われている言葉ではないらしい。
光学の影響を受けており、光源が光を生む、のと同様に、対象が類似ないしインテンティオと生む、という考え方


なお、トマスやベイコンと違って、オッカムはそもそもスペスキエスを否定する、とか。


インテンティオは、アヴィセンナやファーラービーなどに影響され、アラビア語からの翻訳語
先に述べた光学も、イスラム圏からの影響が大きい
トマスもイスラーム思想や新プラトン主義からの影響を受けている、と。


この章、現代哲学における志向性概念と中世哲学史との関係も触れられており、セラーズやパトナムなどの名前もちらほら出てくる。


ところで、些細な話だが、現代においても中世においても、志向性は多義語のようだが、中世の用法の中には「意図」もあったらしい。
心の哲学で志向性の説明がなされる時、「意図」とは違う、と注意書きがされることがあるが、まあ意図という意味で使うこともあったんだな、と
(日本語だと分かりにくいが、志向性はintentionality、意図はintentionなので)

第7章 西洋中世哲学の総括としての唯名論 辻内宣博

13世紀の実在論から14世紀の唯名論
これの影響として「存在論と認識論の分離」「全体論的哲学から個体論的哲学への変化」があったとし、前者としてオッカムの認識論、後者としてビュリダンの社会共同体論がそれぞれ説明されている。

コラム4 東方のキリスト教 秋山学

秋山先生だ
自分の出身大学にいた先生なので、名前と顔は知っているのだが、ただ授業は受けたことはない。友人と先輩からはしばしば話を聞いていたが
ギリシア語やギリシア文学を担当していたような記憶があるので、哲学史の本で名前を見かけるとは思ってもいなかったが。

第8章 朱子学 垣内景子

タイトルにある通り、朱子学について

第9章 鎌倉時代の仏教 蓑輪顕量

タイトルにある通り、鎌倉仏教について
浄土宗などや禅宗の解説だが、従来からある顕密についても解説されている
仏教について用語がよく分からなくて、ちょっと難しかった

第10章 中世ユダヤ哲学 志田雅宏

ユダヤにおける、ギリシア哲学の受容について
イスラームにおけるそれとよく似ているところがあるように思えた。
なお、ユダヤ人も、イスラームで翻訳・受容されたギリシア哲学を受け取っている


まず、当初はユダヤにとってギリシア哲学はあくまでも外部のものであった
しかし、9世紀頃がら受容が始まり、12世紀、パレスチナのマイモニデスが中世ユダヤ哲学を確立させる。
アヴィセンナアリストテレス解釈に影響を受けており、理性をユダヤ教の信仰と結びつける。


もともとユダヤ哲学は、イスラーム圏内でアラビア語で行われていたが、のちにヘブライ語に翻訳され、西方、特にスペインへと中心地が移る
スペインでは、新プラトン主義が受け入れられ、これをさらに一神教的にアレンジされる。イブン・ガビロールは、「流出」を「創造」ととらえ、神の「意志」


哲学への批判も起きる
アラビア語圏では、ハレヴィがさらに「意志」を強調し、また啓示による秘儀を重視
ヨーロッパでは哲学を学ぶこと自体への反発も広がる
14世紀、ヘブライ語による哲学を行った、スペインのクレスカスは、アリストテレス主義を批判。無限の時間・空間を導入し、そこで神の創造が行われるとした。
クレスカスは、キリスト教へと改宗させる運動と対立しながら、一方でスコラ学からの影響を受けていたらしい。

sakstyle.hatenadiary.jp

*1:ところで、何でトマス・アクィナスって、フルネームじゃなくて略して呼ぶ時、アクィナスじゃなくてトマスなの?

*2:ウズベキスタンの人だとは全然知らなかったのでちょっと驚いた

奥泉光『雪の階』

二・二六事件の迫る昭和の東京を舞台に、伯爵の娘笹宮惟佐子が親友の死の謎に迫るミステリ
今回はSF要素はないものの、やはりジャンル横断的な作品となっている。
読後にググって出てきた鴻巣友季子のレビューが簡にして要を得ている
allreviews.jp
ストーリーもさるものながら、視点人物を縦横無尽に行き来するこの文体がスリリング。場合によっては、1つの文の中でふわっと視点が変わる。それは、惟佐子の幻視能力(?)との相乗効果を発揮している。
タイトルに「雪の階」とあり、それは二・二六事件の頃に降っていた雪のことなのだが、物語はその前年の春から始まっており、春夏秋冬四つの季節全てが色彩豊かに描かれている。
また、後半からは、ほとんど妄想としか思われない(というかおそらく妄想の)国際スパイ陰謀とかオカルト選民思想が展開されていき、阿部和重かと思わせるのだが、カタストロフィへは向かわず、いささかコミカルなシーンをきっかけに日常へと回帰して終わりを迎える。

雪の階 (単行本)

雪の階 (単行本)

  • 作者:奥泉 光
  • 発売日: 2018/02/07
  • メディア: 単行本

主人公の笹宮惟佐子は、公家系の華族(堂上華族)である笹宮伯爵の娘で、女子学習院に通い、誰もがその美しさを認める美貌の持ち主であり、服のセンスも非凡なものを持つわけだが、全く非社交的な性格で、囲碁と数学の問題を解くのを何より好み、海外のミステリ小説を愛読している。
そんな彼女の無二の親友ともいうべき宇田川寿子に誘われた演奏会で、カルトシュタインというドイツ人ピアニストから何故か、今度お会いしたいという手紙を受け取る惟佐子だが、それよりも、当の寿子が全く姿を現さない。
寿子の行方は分からずじまいのまま、数日後、彼女が革新派の若手軍人とともに、富士の樹海で心中したと報じられる。
しかし、惟佐子のもとに届いていた寿子のハガキは、約束を破ったことを詫びるとともに、しかし再び東京に戻るつもりがあることを示すもので、何より消印が仙台のものであった。
そもそも惟佐子は、寿子と心中したとされる久慈中尉と会っているのだが、その際、寿子が心を寄せているのは、その場に同席していた槙岡中尉だろうと直観していたこともあり、この死に不審を抱くことになる。


さて、この事件の謎を解くべく実際に奔走し、時に推理を行うのは、惟佐子の幼い頃の「おあいてさん」であった千代子である。
おあいてさん、というのは、身分のある家の子どもの遊び相手となる子どものことで、惟佐子は千代ねえさんと呼んで慕っているのだが、一方でゆるやかな主従関係もあるというものだ。
身分的なものだけてなく、惟佐子の何を考えているのか窺い知れないところのある性格と頭の良さもあって、千代子は千代子で惟佐子のカリスマに感化されているところがなくもない。
千代子は、女性カメラマンとして報道の仕事を始めたところで、同じく新聞記者の蔵原とともに寿子事件の謎を追い始める。
この千代子パートは、時刻表ミステリ的な様相を呈しつつ、一方で、千代子と蔵原のいささかベタな恋愛ドラマとしても進行する。


一方の惟佐子の方だが、まずは父親の笹宮伯爵について
彼は貴族院議員なのだが、天皇機関説問題を追及する急先鋒にたち、時の内閣への批判を強めている。自他ともに認める「陰性」の気質で、陰謀家たらんとしているのだが、その実、彼の「陰謀」というのが、ごっこ遊び的なものの域を出ないのは娘にも密かに見破られているものの、本人はそれに気づいていない。
政友会の成り上がり議員や陸軍との「パイプ」を作りながら、天皇機関説一本槍で政権打倒に「暗躍」し、最終的には梯子を外されてしまう様は悲喜劇的ではある。


さて、来日したドイツ人音楽家のカルトシュタインなのだが、彼は惟佐子の伯父、白雉博允から話を聞いて惟佐子に会おうとしたという。
惟佐子の母は彼女を産んだ際に亡くなっており、その兄が、白雉博允である。
彼はもともと外交官だったのだが、ドイツ赴任中に失踪し、その後帰国するも精神病院へと入院し、その後再び渡欧し行方知らずとなったため、笹宮家は白雉家との付き合いを絶っていた。
カルトシュタインと博允は、心霊音楽協会で知り合っているのだが、この心霊音楽協会や、本作には名前のみの登場となるがギュンター・シュルツなどは、『鳥類学者のファンタジア』にも登場していたはず*1で、どうも同じ世界であるらしい。カルトシュタインが演奏したのは「ピタゴラスの天体」
ただこのあたりの音楽カルト(?)は、本作には直接登場してこない。
カルトシュタインと惟佐子(とその他大勢の付き添いや取材陣)はともに日光観光をすることになるのだが、その日の夜、カルトシュタインは突然に病死する。
そしてこのあたりから、惟佐子の兄、惟秀の姿が見え隠れするようになってくる
寿子の事件とカルトシュタインの死の背後に、惟秀がいるのではないか、と。


そして、この作品にはさらにもう一つのラインがあって
惟佐子は、寿子の事件を調べるにあたり、自らも男女の仲を勉強する必要があると考え、とある男性といきずりの肉体関係を持つのだが、それにとどまらず、次々と男を取っ替え引っ替えしはじめるのである。
幼い頃からのお付きの女中菊枝だけがこの「御乱行」を知っているのだが、1人目は少し年上で身分もそれほど違わない男性で、まあ分からなくもないと言った相手だったのが、お偉い爺さんに元軍人の怪しい醜男と続き、何が何やら分からなくなってくる。
数学好きの惟佐子からすると、あらゆるタイプの男性を試してみている、というところなのかもしれない。
作中、この「御乱行」の相手となった男などが、集まってきてしまうというシーンが2度ほどあって、ここがハラハラするようなバカバカしいようなコミカルなシーンと言えるかもしれない


さらに、寿子の事件とカルトシュタインの事件を結びつけるものとして、栃木にある紅玉院なる尼寺が出てくるのだが、惟佐子の雇った
探偵(というのは先に挙げた元軍人の醜男で、父伯爵にとっての情報源でもある)が、ドイツの間諜組織を背後にあるという報告書をあげてくるのである


さて、笹宮家について。父親は先に述べた通り
兄の惟秀は軍人で、長いこと実家には帰っておらず、父も惟佐子も疎遠である。
笹宮伯爵家は、先祖の財産を食い潰している最中と言っていいのだが、惟佐子の母親が死んだの、後妻として迎えたのが神戸の富豪の娘で、家格は劣るのだが、この家の援助により、財を保っている
この話は、戦前昭和の華族・富裕層の文化を描いている作品として読むこともできて、華美な文体と相まって、そのあたりもわりと楽しい。
惟佐子の腹違いの弟が、母の影響もあってジャズにかぶれた不良少年だったりもする。


この笹宮家の話としてみると、実は内面空っぽの貴族たちが妙な物語に染まってしまっていた話なのかもしれない。
父伯爵は、小物議員でしかないにもかかわらず、自分が大それた陰謀家のように振る舞うというもの。まあ、これは正直かわいい方で
兄の惟秀が、白雉博允のオカルト選民思想に取り憑かれてしまっていた、と言える
弟の方はちょっと可哀想で、この中ではまともに自意識を持っていたのに、途中で愛国受験塾に入らされて、愛国思想に洗脳されてしまう。
まあこれにやって、散々愛国的な思想を喧伝していながら梯子を外されてしまった父伯爵の梯子の外されっぷりが浮き立つのだが


惟佐子は、といえば、何しろ華族令嬢にして、社交嫌いで数学と囲碁が好き、というのだからキャラは立っている。ある種霊感じみた直感能力の高さも示唆されており、終始キャラは立っている。
しかし一方で、その内面はいささか薄い。千代子の恋模様と比較すればそれは一目瞭然である。
彼女は、父親が全然大した人物ではないことを見抜いている。が、父親の指示にはよく従うのであり、実のところ父親のことをどう思っているのかはあまり判然としない(一方父親は惟佐子に対して畏れのようなものを抱いている)
しかし、彼女は最後、例のホテルの部屋でのちょっとコミカルなシーンの後、寿子が死んでしまったことへの寂しさを明らかにする。
彼女は寿子の死を悼み、他方で千代子の恋を祝福し、陰謀や選民思想ではなく、日常にこそ自らの着地点を見出す
だからこそ、彼女は笹宮家を離れ、義母のいる神戸へと行くのだろう
ゆえに、ミステリの謎解きはわりあいあっさりとしたものとなっている。物語のクライマックスは、謎が解ける前に終わっている
とはいえ、この謎解きの解き方はちょっと面白い
惟佐子は、事件の謎だけでなく、彼女と惟秀、惟秀の双子の3人が共有している、幻視された風景の謎も解くことで、かの選民思想が白雉博允の妄想でしかないことも突き止める
これで、白雉の血に宿るとされる超能力めいたものを否定するのだけど、しかし、この推理自体が惟佐子の「霊感」めいた直観によって行われているのである。
そもそも、読者からすると、彼女はアインシュタインの話をしている時に広島の原爆が落ちた風景らしきものを幻視しており、明らかにホンモノなのである。


複数の登場人物の視点を自由に行き来する文体は、一体どこまでが誰の知りうるところなのな、というのを探りづらくさせる。
惟佐子の推理は、読者に対しては明らかにされるものの、いわゆる謎解きのシーンというか、作中の他の人物たちに披露されることはない
だから、千代子たちは最後まで、国際スパイ謀略劇が事件の背後にあったのかもしれない、と何となく思っているはずで、複数の見え方が乱反射する物語になっていたのではないかと思う。

*1:読み返していないので未確認

チャールズ・コケル『生命進化の物理法則』

生き物の(広義の)デザインに物理的にどのような制約条件があるのか、ということを、生態から個体、細胞、 遺伝、代謝、元素と、上の階層から下の階層へと進む形で見ていく本。
筆者はアストロバイオロジーの研究者であり、この本も3分の2程度はアストロバイオロジーの本として読むことができる。


もし水中を泳ぐ動物がいるとしたら、それは流線形をしている可能性が高いだろう。流体の中を移動するには、流線形が効率よいからだ。それは物理的に決まっていることで、地球以外でもそうだ。
この本は、おおむねこのような物理的な制約条件の話をしている。
ある意味では、非常に当たり前の話をしているとも言える。
この本は、生き物の様々な側面でこのような制約条件が働いていることを指摘し、地球の生き物のデザイン(形だけでなく、どの素材を使っているかも含めて)が、かなり蓋然性の高いものだと論じている。
この本は生命の起源についての話ではないので、どのような条件があれば生命が生まれるかという点は論じていないが、もしこの宇宙に生命が生まれるとしたならば、地球の生命のようになる蓋然性は高い、ということを論じている。
これはそれなりに強い主張であり、必ずしも、当たり前と言える主張ではない。
また、究極的には、地球外生命体を発見できなければ検証が難しい話でもあるので、その点、コケルは確かに譲歩しているが、それでもこの強い主張にかなりコミットしてるように読める。


生物の進化は偶有性が高く予測ができない、と考えられているところがある(例えばグールドは、進化をもう一度やり直したら全然違う姿になるだろう、みたいなことを言う)が、この本は、物理的な制約条件が結構あるので思ってたほど偶有性高くないし、予測もわりとできるんだ、という立場をとる。
(本書の中で「予測」は結構キーワード。生物学も「予測」ができるのだ、と)
ただし、これは決定論というわけでは必ずしもない。
細部について、進化が偶有性が有することは否定しない。というか、細部はすごく多様だ。しかし、その多様性も一歩引くと少数のパターンに収まるだろう、と。


本書は、以上のような全体を貫くテーマはあるが、群れから元素まで、と様々なスケールの話をすることもあり、色々なトピックを足早で紹介していく感は否めず、個人的には、前半はなかなかどういう本か掴めなかった。
途中から、個人的にはわりと馴染みのある(?)トピックになってきたこともあり、「アストロバイオロジーの本として読めるな」と思うとグイグイ読めた。
あと、これは本書に限った話ではないと思うけど、節がないのが微妙に読みにくかった。日本の新書なら、ここで節分けるよなーと思うのだが、章までしか分かれてない。
そういえば、ミゲル・シカール『プレイ・マターズ 遊び心の哲学』(松永伸司・訳) - logical cypher scape2もそうだったな、と。

第1章 生命を支配する沈黙の司令官
第2章 群れを組織化する
第3章 テントウムシの物理学
第4章 大小さまざまな生き物の体
第5章 生命の袋
第6章 生命の限界
第7章 生命の暗号
第8章 サンドイッチと硫黄
第9章 水——生命の液体
第10章 生命の原子
第11章 普遍生物学はあるか
第12章 生命の法則——進化と物理法則の統合

生命進化の物理法則

生命進化の物理法則

第1章 生命を支配する沈黙の司令官

注釈に読んだことある論文出てきた。Clelandの"Defining life"
アストロバイオロジーの哲学 - logical cypher scape2

第2章 群れを組織化する

アリやムクドリなど、群れの話
べき乗則とか自己組織化とか

第3章 テントウムシの物理学

前の章が群れで、この章は個体
これは筆者が学生にプロジェクト型の授業でやらせてる、テントウムシに働く物理法則を調べるというもの
脚の粘着力とか、外骨格の強度とか、呼吸のための空気の拡散とか、目(個眼)の数と大きさの限界とか

第4章 大小さまざまな生き物の体

なぜ動物は車輪やプロペラを生み出さなかったの、という話から始めつつ
動物の形態と環境の関係について、エボデボの観点から説明している*1
エボデボの話に入る前に、ダーシー・トムソンの『生物のかたち』(1917)という本が紹介されている。トムソンは数学者で、貝殻の等角らせんや植物の芽に見られるフィボナッチ数列などを研究した人らしい。何となく近藤滋『波紋と螺旋とフィボナッチ』 - logical cypher scape2を思い出した*2

第5章 生命の袋

細胞の話
細胞は希釈への対応
細胞のサイズや形は、拡散などによって決まってくるなど。表面積を増やそうとするので、細長い円筒形になるなど
細胞膜の構成については、偶有性の余地があるとも。

第6章 生命の限界

極限環境微生物の話
生物が生きられる温度やpHの限界について
まずは高温
実際に見つかってる生物の中では、ブラックスモーカーに住む超好熱菌が、122℃で繁殖可能
理論的な話として、大半の有機分子が破壊されてしまう450℃をあげている。もっとも、450℃まで耐えられる生物が存在しうる、というわけではなく、実際にはもっと低い(122℃に近い)ところに限界があるだろうとは述べている。
この450℃というのは、仮にこの温度までいけたとして、(地下の方が温度が高いわけだがそれでどの深さまでいけるかというと)、地球の半径の0.3%までいけない、という話につなげていて、温度の壁があるので、生物圏にはどうしても限界がある、と。
低温の方で、これも低温に耐えるための方法がいくつか紹介される(凝固点降下など)が、低温になるとどうしても化学反応が遅くなり、細胞の損傷への対処が追いつかなるのがネックになる、としている。
次に検討されるのが塩分の問題
塩分が上がるとまず浸透圧の問題が出てくる。次に、水分活性が問題になる。そもそも水が利用できない。液体の水があっても、塩分濃度が高すぎると、生命は存在できないらしい。
pHについては、意外なことに、生命にとって根本的に限界になりうる要素はないようだ。
他に圧力や放射線についても触れていると、これはさらっとした言及にとどまる。

第7章 生命の暗号

DNA、RNAアミノ酸、タンパク質について
なんで遺伝暗号を担うDNAは4つの塩基からなるのか
担える情報量が適度に複雑で、かつエラーにも強いから
合成生物学では、遺伝暗号の文字を変えたり増やしたりしても成り立つ、ということをやれるけど、最適な組み合わせ、というのはやはり今の状態なのでは、と
遺伝の暗号表についても同様。エラーが少なくなるように最適な組み合わせになっている、と
また、アミノ酸についても、実際にはたくさん種類があるものの、生物がよく使うのは20種類程度にとどまる。この20種類は、たまたま偶然選ばれたのか。
アミノ酸のいくつかの性質を選んで調べた研究によると、この20種類の組み合わせは、性質が多様。少ない種類で多様な性質のアミノ酸を揃えた結果なのではないか、と。
タンパク質は、その折り畳み方が熱力学によって制約されており、アミノ酸の組み合わせは多様だが、その形は限られている。


この章は、遺伝暗号について、たまたま初期の生命が偶然これらの分子を使ったから、地球の生命のこの数や組み合わせでやっている、のではなくて、進化の中で最適な組み合わせになるように選択が行われてきたに違いない、といあ趣旨になっている
なので、物理的な限界の話というわけではない。

第8章 サンドイッチと硫黄

代謝について
1961年にピーター・ミッチェルが発表した、プロトン勾配と電子伝達系*3
プロトン勾配とATP合成酵素は、水力発電所のタービンにたとえられていて、エネルギーを集める仕組みとして普遍性があることが示唆されている(生化学を知らないエンジニアが、細胞膜によって勾配のできてるところからエネルギー集めろ、と言われたら同じアイデアを出すだろう、と)
本文中に名前は出てこないが、注釈の中で、ニック・レーン『生命、エネルギー、進化』 - logical cypher scape2やヴェヒターショイザーへの言及がある。
電子受容体と供給体の組み合わせにはバリエーションがある旨の説明の中で、自由電子を利用できる微生物についても触れられている*4


途中、ちょっと面白い挿話が入っている
筆者が行なっている授業で、異星人のコスプレをして行なっている回について。この異星人は嫌気性で、石膏(硫酸カルシウム)を食べ、酸素ではなく硫酸塩を利用しているという設定で、地球がいかに生命が存在しづらい環境かを論じるという講義である。
この講義は、地球を相対化する視点を学生に見せるという教育的効果があるわけだが、本書の中では、その一方で、このような異星人であっても、電子伝達系を利用してエネルギーを集めているということを示している。
また、この講義の設定が実際には結構無理があることを筆者自身が認めており、このような異星人が絶対いないとは言い切れないものの、酸素を用いない場合得られるエネルギーが少ないので、可能性はかなり低いだろうと指摘する。
地球の生命を相対化する講義ではあるものの、やはり、地球生命が用いている方法は、少なとも電子伝達系は高い普遍性がありそうだし、その中でも酸素を用いるものの方が蓋然性高そうという話になっている


本章の最後では、それ以外のエネルギーを集める方法を色々検討されている
発酵、核分裂、電離放射線の利用、核融合プロトン勾配ではなく熱勾配、圧力勾配、重力を用いる方法
いずれも生命が利用するのは難しそう(発酵は実際に使われてるが得られるエネルギーが少ない。熱勾配は利用可能だが場所が限られる)
やはり、電子伝達系は生命にとって普遍性の高いシステムっぽい、と

第9章 水——生命の液体

タイトル通り、水(H2O)の話だが、水以外の溶媒による生命の可能性が検討される


水は、生命にとって好ましくない性質も持つ(加水分解)
しかし、それ以外に有用な性質が多い。ここでは、タンパク質と水との協力関係などが挙げられている


水以外の溶媒として、アンモニア、硫酸、ホルムアミド、フッ化水素、そしてタイタンの海にあるメタン
ここで求められるのは、適度な化学反応を起こせること。激しすぎてもダメだし穏やかすぎてもダメ
特に問題となるのが、低温で液体になる溶媒。低温だと、どうしても化学反応の速度は遅くなる。ところで、生命は放射線など環境からの様々な要因で損傷するのでこれを修復するために、損傷するよりも速く化学反応を進める必要がある。
そんなわけで、タイタンは可能性低いのでは、と述べている。
また、水とそれ以外との溶媒の違いとして、宇宙にある量も指摘されている。水の存在量は、断然多い。


というわけで、水は、液体である温度で化学反応の速度がちょうどよい、量が多い、という点からして、宇宙に生命が誕生した時に利用される可能性がとても高そう

第10章 生命の原子

前の章がH2Oってちょうどよいという話だとすると、この章は炭素ってちょうどよい、というのが主な話


原子の性質として、パウリの排他原理により電子の数や軌道の説明をした上で、炭素は結合が強く、しかし程よく解けやすいという利点をあげている
これに対して、周期表で炭素の下にあり、性質の近いケイ素について検討される。
ケイ素生物ってSFだと定番で、アストロバイオロジーの本だと一応言及されるが可能性は低いとされる奴
本書でも、炭素と比べて結合が弱いこと、酸素と結びつくて(炭素が二酸化炭素という使いやすいガスになるのに対して)安定してしまって使いにくいケイ酸塩になってしまうことを挙げて、あんまり生命に向いてないことが示される。
もちろん、ケイ素を使っている生物はいるが、それは構造を支える支持体としてで、炭素の代わりになることはない。
トリトンのような星で液体窒素の中であれば、という話も出てくる。これは、可能性はないわけではないが、どういう挙動とるかよくわかってないのでよくわからん、と。


水と同じで、炭素もまた、宇宙に存在している量が多い。分子雲とかに有機化合物がある。隕石や彗星にもアミノ酸も見つかっている。一方、隕石にケイ素化合物は見つかっていない。


炭素以外の元素についても論じられている。
まず、水素、窒素、酸素、リン、硫黄
特に窒素、酸素、リン、硫黄は、周期表上で炭素からの距離が近く、炭素との結合で役割を果たす。
また、周期表で酸素の隣のフッ素、フッ素の下の塩素、リンの下のヒ素、硫黄の下のセレンについても触れられている。
フッ素と塩素は反応性が高く使えない
ヒ素とセレンは、実は生物によって利用されてはいるのだが、結合が弱いので多用されてはいない
これらの各元素の性質と、生物にとっての使いやすさについても、一貫して電子の数や軌道、原子の大きさで説明されているので分かりやすい。
あと、周期表で炭素の隣にいるホウ素だが、これは生物でよく使われているらしいのだが、あまり詳しいことはまだよく分かっていないらしい。
確かに、ホウ素って周期表の上の方にある元素の中では一番馴染みがないが、原子番号の小さい奴でもあまりよく分かってないのがあるのだな、という感想


最後に筆者は、地球生命は「炭素ベース」なのではなく「周期表ベース」なのだという。
つまり、利用できる元素を片っ端から試して、使いやすい元素を使ってるだけなのだ、と。
ここで、炭素と水に基づく生命には普遍性があるという主張について、穏健な解釈と強硬な解釈の2つの見方があるとしている。
穏健な解釈は、炭素と水は多いからそれに基づく生命は多くなる(が、それ以外に基づく生命の可能性は否定しない)という見方
強硬な解釈は、化学的性質からいって、炭素と水以外をベースにした生命はありえないという見方
筆者は、地球以外の生命が見つかっていない以上、科学的な態度としては強硬な解釈はとれないけれど、そちらの解釈に魅力を感じている、と述べている。
訳者はあとがきでこの部分に触れて、コケルは「異論を受け入れる態度」「慎重な態度」をとっていると述べているが、これ断言できるような話では全然ないからエクスキューズをつけているだけで、筆者は結構強い主張をしたがっているように見える。

第11章 普遍生物学はあるか

系外惑星ないし地球以外の惑星の環境について
系外惑星の話を一通りして、例えば重力というパラメータが変わると生物がどう変わりうるか、と(スーパーアースは地球より重力が大きい)
重力が大きいと、大型の地上生物の形状にその影響が出てくる。しかし、昆虫のような小型の生物や水中生物にはあまり影響がないかも。
また、タイタンのように重力が小さく大気密度が高いと、空を飛びやすくなる、とか

第12章 生命の法則——進化と物理法則の統合

生物学と物理学の違いについて
より大きいスケールから考えるか、小さいスケールから考えるかという違いがあるのではないか、と。
物理現象は、小さいスケールに不確定性があり、スケールが大きくなると不確定性がなくなっていく。
生命は、逆で、大きいスケールになるほど不確定性が大きい
ただ、量子生物学というジャンルだと、量子的な不確定性が生物にも関わってくるよ、という話も少ししていて、生物学と物理学は統合できるんだ、みたいな話になり、この本のテーマである、進化における偶発性って結局どれくらいあるのか、という話に戻ってきて、経路は狭いだろうと。


最後の最後にさらっと、(本書は、群れから元素まで階層を遡り、それぞれの階層に物理法則を見てきたわけだが)、ある階層の制約が他の階層に基礎付けられているわけではない、というようなことが述べられている。
ここ当たり前の話ではあるのだけど、ちょっと面白い話だと思ったが、あまりにも分量が少ないのでうまく面白さが説明できない。

感想

最後の章で、長いあいだ、生物は無生物とは異なるという考え方が強かったけれど、しかし、生物だって物質なのだから、物理法則に制約されるでしょ、ということが述べられている。
ところで本書は、偶有性・偶発性が、従来の生物学で思われているのよりも狭く制限されているのだ、と主張する本でもある。
さて、この生物における偶有性みたいなのをどう位置付けるのか、というのはちょっとややこしい気がした。
本書では、生物の進化が偶発的で予測できず多様であることが、生物の単なる物質とは異なる特別さとして扱われてきたのではないか、というのが暗に示され批判されているように読める。
しかし、生物の進化が偶然であることを強調するのは、目的論的世界観への抵抗という意味合いも強いように思える。つまり、偶有性を強調することこそ、生物が特別ではないことを示すことになる、という考えもあるはず。
つまり「生物は偶然によって進化してきたのであり、ゆえに特定の目的によってデザインされたわけではない」というために、偶然性は強調されたりする。
本書は「生物は物理法則に従って進化するのであり、ゆえに偶然の働く余地は実は思ってたより少ない」と主張している。そして、もちろんこの主張は目的論的世界観を含意していないので、この2つの主張は当然両立する。
ただ、前者の主張も、生物は特別な存在ではなく物質的な存在だという趣旨があるような気がするので、偶然性がないことこそ物質的な存在であることになるのだ、ということ言われると、気持ち的には「ん?」となりそうな気もする。


生物の限界を定めるような制約の話と
そこに落ち着く蓋然性が高いという話と
その法則に従っておくと適応度が高くなるという話とが
それぞれ混ざっているように思えた。


6、8、9、10章が特に面白かった

*1:なお、筆者は、理由は書いてないが、エボデボという略し方はひどいと思っているらしい

*2:ただ、近藤滋はチューリング・パターン推しで、チューリング・パターンの話は本書ではテントウムシの方で出てくる。あと、本書では、トムソンはそういう数学的パターンがどのように生じたか説明しなかったが、今なら進化発生生物学で、生物の形がどのように生じたか分かってきたぞ、という風につなげるのだが、近藤はややそのあたりとは距離をとっていたかと思う

*3:水素伝達系、という方が一般的かと思う、と書こうとしたのだがWikipedia見てみたら、今の教科書では水素伝達系という言葉は使われていないらしい!

*4:電気を用いる生態系について高井研編著『生命の起源はどこまでわかったか――深海と宇宙から迫る』 - logical cypher scape2が論じている

ガルラジ合同本『___・ラジオ・デイズ』に「質感から考える メディアなきフィクションとしてのガルラジ」書きました


ガルラジについては、別のブログの方では配信中に色々と書いていたのだけど、こちらのブログではまだ触れていなかったかと思う。
高速道路会社のNEXCO中日本ドワンゴが共同制作しているコンテンツで、2018年12月から1stシーズンが、2019年7月から2ndシーズンが配信されていた。
5か所のSA・PAをそれぞれ拠点にした女の子のチームがローカルラジオをやる、という物語である。
garuradi.jp


マイナーな作品ではあるが、一部にかなり熱量のあるファンがつき、このたび、二次創作・評論・エッセイなどを集めた合同誌が発行されることとなったのである。
32名分34作品、A5で278ページ、自立する分厚さとなったと聞くので、それだけでもこの熱量が感じられるだろう。
合同誌の内容については、twitterハッシュタグ「#ガ合」を見てもらえればと思う。
twitter.com


元々コミケでの頒布を予定したが、今年はご存知のとおり、コミケ自体がなくなってしまったので、BOOTHでの頒布のみとなってしまったが、#エアコミケ、ということで、今この流れでポチっとしてもらえたらと思う。
なお、下記のページに書いているが、現在は予約中で、発送は5/12からとのこと。
karioki.booth.pm

質感から考える

自分の原稿の内容は、目次としてはこんな感じ

1.質感について
2.「生放送っぽい」喋り
3.物語とリアルタイム性
4.質感旅行
5.メディアの外に拡張された虚構
6.質感の二次創作

サブタイトルにある「メディアなきフィクション」ってなんだ、という話なんだけれど
ガルラジの話というよりも一般論なんだけど、個人的には「虚構と現実の境界があいまいになる云々」というような言い方に懐疑的なところがあって、それの一つの言い換えとして、メディアがないかのように錯覚する、あるいは実際にメディアのないフィクションの経験がある、ということなのではいか、というような話を組み立ててみた、というのがこのサブタイトルに込められている。
「質感旅行」というのは、いわゆる聖地巡礼のことで、何故かガルラジの場合はそれが「質感旅行」と呼ばれているのだけど
メイクビリーブを使って、聖地巡礼(質感旅行)を説明してみる、という試みであり、これは最近読んでた美学関係のことについて - logical cypher scape2で書いた通り、自分的テーマ2に属するもので、『フィルカルVol.3.No.2』で谷川さんが書いていた「コンテンツ・ツーリズムから《聖地巡礼的なもの》へ—コンテンツの二次的消費のための新しいカテゴリ—」に対する、自分なりの応答という面も持つ(紙面の都合上、あまり直接的に谷川論文へのコメントにはなっていないが)。
フィクション鑑賞って、基本的には、文章でも映像でも音声でもメディアを介した経験なのだけど、そういうメディアを介さないところにもフィクションの経験ってあって、ガルラジは「リアルタイム性」という特徴と「質感旅行」というファンの行動によって、それがかなり特徴的に見られた作品だったのではないかなあ、という話だったかな、と思う


というわけで(?)ガルラジを知らない人でも、美学とポップ・カルチャーというテーマに興味関心のある人にも手に取ってもらいたい、と思ったりしている。
もちろん、ガルラジ合同誌なので、ガルラジリスナーにとっても、納得感のあるものを目指したつもりであるが、そのあたりは、実際読んでみてもらうしかない。

おまけ(?)

f:id:sakstyle:20200502163749j:plain
この図は、今回とは全然別の原稿を書いている時に作っていた図なのだけど、その原稿自体をボツにしたので、お蔵入りになっていた図である。
ガルラジの話というより、最近読んでた美学関係のことについて - logical cypher scape2の自分的テーマ2のために考えていたもので、今回書いた「質感から考える」に、この図は使っていないし、この図に出てくる用語も出てこないので、あしからず。
ファイルを整理していたら見つけたので、ちょっと出しておこうかと思った次第。
聖地巡礼(質感旅行)というのは、この図でいうところの「自己についての行為者的想像」の中の「自己関与的想像」に位置する、ということを考えている。
なお、自己関与的想像とミミクリ的想像という言葉は、松永伸司『ビデオゲームの美学』 - logical cypher scape2に出てきた分類を拝借させてもらっている。
普通のフィクション作品は、「自己についての観察者的想像」が行われているわけで、ガルラジもラジオを聞く経験自体はこれに属すると思うのだけど、リアルタイム性とか質感旅行とかは、自己関与的想像をさせるようになっていたのではないかと思う。


オタク、よく、「キャラクターのイラストがはってあるグッズが欲しいんじゃなくて(欲しいけど)、キャラクターが実際に使っているようなグッズが欲しいんだ」みたいなことを言うけれど、それってつまり、そういうグッズは「自己関与的想像」をしやすい、それこそメディアなきフィクション経験をすることのできるプロップになっているから、だと思うのだけど、それに関わる話も、原稿の最後に書いているつもり。

追記

ところで、頒布ページを見てもらえればわかるが、「おまけ」を選ぶことができる

また本誌には、希望者に対し合同本参加者数名をパーソナリティとしたラジオ風音声コンテンツ「オタク・ラジオ・デイズ」を頒布いたします。

ガルラジは、リスナーの方が何故か(ツイキャスなどを使って)ラジオ配信を始める、という謎の流行りがあって、それを受けたおまけである。
サークル名の「チームTwitter」も、もとはその流れの中で出てきた言葉だった
こういう謎の動きが起きるのが、ガルラジ界隈の魅力の一つでもあり、それはもはや「質感」という言葉からは大きく離れるところなので、もちろん本稿の範囲を外れるのは当然なのだけど、ガルラジの魅力は多岐にわたっていて、自分の原稿はそのほんの上澄みをすくっているだけなので、一方、この合同誌はかなりそうしたガルラジの広がりを感じられる本になっているらしいので、どうぞよろしくお願いします

sakstyle.hatenablog.com

マンガにおける「分離された虚構世界」と「視覚的修辞」

まえがき

分離された虚構的世界と視覚的修辞 - logical cypher scape2 の続き、というか、最後に触れたイノサンの例についてもう少し膨らませて書く。

 

マンガは、絵を使って、とあるフィクション世界を描く形式である。

なので、絵の内容は、その世界の出来事をあらわしている、と考えられるわけだが、実際には、絵の内容がそのままその世界の出来事として成り立っているわけではなさそうなケースもよく見られる。

そういうケースを説明するのに、いくつか概念を作ってみよう、みたいな話をするつもり。

 

  

以下、『イノサンRouge』を例に出していくが、あくまで例として使っているだけであり、『イノサンRouge』論にはなっていないのであしからず。

(こういう概念を作るのであれば、何某か作品の解釈に有用なものにしたい、という思いがあるのだが、今回その点についてはうまくできてないというか、作品の解釈には使えていない、と思う)

なお、『イノサンRouge』は、フランス革命期の死刑執行人シャルル=アンリ・サンソンを主人公とした作品。

下記に出す例は、大体マリー・アントワネット絡み

 

 画像の引用について

ページをスマホのカメラで撮っただけの写真を使っているので、紙面が曲がっていてやや見づらいのだが、ご容赦を。

 

分離された虚構世界と視覚的修辞

分離された虚構世界

「分離された虚構世界」というのは、自分が、『フィクションは重なり合う』で提唱した概念なので、詳しくは下の本の2・3章を参照のこと

あるフィクション作品の内容であるのに、その作品の物語世界の出来事ではないような出来事のことを指す。

 フィクションは重なり合う: 分析美学からアニメ評論へ

 

なお、分離された虚構世界は、単にそういうレイヤーがある、ということを述べているだけで、「これがある作品はよい作品だ」とか「これがあると必ずこのような効果が生じる」という主張は含意していない。

作品は、これを様々な目的のために使用することもできるし、特に何の効果ももたらさないという場合もありうる。

また、分離された虚構世界がないフィクション作品も当然ある。 

 

 

視覚的修辞

「視覚的修辞」は、id:Aiziloさんこと村山さんが、下記の記事およびそのリンク先pdfで論じている現象

 

aizilo.hatenablog.com

 

描写内容と画像内容が非標準的関係にある現象を視覚的修辞と呼ぶ。 

 

非標準的関係:逸脱的性質を媒体として獲得される性質が画像内容に含まれる。 

 

• 『心配事』の視覚的修辞:〈万力に頭を挟まれること〉は画像内容に含まれず、それを媒体として獲得される〈頭を締めつけられる感覚〉は画像内容に含まれる。

 

 

視覚的修辞の必要十分条件:
画像に視覚的修辞が成立するのは、その画像内容に、その逸脱的性質を媒体として獲得される高次性質が含まれるとき、かつそのときにかぎる。

 

 

描写内容の理論 - 9bit の記事にある図をちょっと参照して説明すると、視覚的修辞は、描写性質と描写対象の関係についての話となる。

描写性質が逸脱的性質である場合、それは描写対象に帰属しないが、その描写性質の高次性質を「画像内容」として含む場合、これを視覚的修辞と呼ぶ(のだと思う)。

この「画像内容」というのは下記の図には出てこない。なぜなら、高次性質の話はこの図ではされていないからだが、下記の図でいうところの描写内容をアップデートしたものと考えればよいと思う。

(再認内容の横に「高次性質」を置き、描写性質から線を引く。画像内容+高次性質=画像内容、という整理になるのではないだろうか、と思うが、直接、村山さんや松永さんに確認していないので、分からない。ただし、少なくとも自分はそういう理解をしているので、以後、その理解のもとで話を進める)

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/8269d40b6451298b5cb5d2dc5838de61/1506597174

 

分離された虚構世界と視覚的修辞 

自分が『フィクションは重なり合う』を書いたとき、視覚的修辞のような例はあまり念頭においておらず、あまり区別していなかったように思う。

しかし、この2つは区別されるべきものである。

 

 

視覚的修辞は、描写の働きの中で説明されるものである。

つまり、描写性質と描写対象の関係がしかじかのとき、それは視覚的修辞だ、と。

 

 

一方、分離された虚構世界は、描写内容ないし画像内容が一体何であるか確定したのちに、それがどこに帰属するのか、というプロセスの中で出てくる概念である。

画像がある内容をもつ時に、その内容が、物語世界の中の出来事であるのか、そうでないのか、という判断をする際に出てくる。

 

 

ところで、すでに述べた通り、分離された虚構世界は作品によってそれぞれ目的・効果が異なるわけだが、修辞的な表現・比喩などに使われることも多いのではないかと思う。

その点で、視覚的修辞と、その効果の点においては似てくるのではないか、と思われる。

今回取り上げる『イノサン』の例は、視覚的修辞の例と、分離された虚構世界の例がそれぞれあるが、作品の中での使われ方(目的や効果)はどちらも修辞・比喩であるという点では同じだと考えられる。

 

 

視覚的修辞だと思われる例

f:id:sakstyle:20200418211603j:image

 5巻より

 

 

アンリ・サンソンとルイ16世を描いているのだが、バラの蔦のようなものが2人に絡まっており、その周囲には骸骨もある。

ここのシーンは、ルイ16世が、処刑人(つまり「死神」)であるサンソンとの会合を通して、古い因習にとらわれた王しては死に、新しい王として生まれ変わる(ことをサンソンの前で宣言することになる)というシーンである。

であれば、この蔦や骸骨というのは、「死」を象徴的に描いたものだといえる。あるいは、その後、死刑をより人道的なものへと改革していくという点で通じ合った2人の「繋がり」が生まれたことを比喩的に描いたとも言えるかもしれない。

いずれによせ、この蔦は、実際に2人に絡まったわけではなく、ルイ16世の部屋に実際に骸骨があったわけでもない。

これらのコマで描かれた絵は、「ルイ16世とサンソン」を描写しているが、「蔦に絡まったルイ16世とサンソン」を描写しているわけではない。一方で、蔦や骸骨は、描写対象ではないが、これらが象徴していると思われる「死」が2人の間に伝わっていくことが、この絵の画像内容となっている、と言えるのではないだろうか。

 

 

例えば、少女マンガで、美しい人物が現れた時に、画面が花でいっぱいになるような絵になっていることがある。

この場合、実際にそこに花がたくさんあるわけではなくて、その花は、その人物の美しさを修辞的に表現するために描かれている。

そこまで象徴的な意味合いはなく、単なる画面の装飾として描かれていることもあるかもしれないが、いずれにせよ、実際にその場にあるわけではないもの(花や蔦)を描くことを、修辞的な表現として使う、というのはマンガにおいては(あるいはマンガに限らない絵画においても)時々見かけるものではないかと思う。

 

 

上記の例も、一般的なマンガのリテラシーが備わっていれば、少なくとも蔦が実際に2人に絡まっているわけではない、ということは共通見解になるはずだ。

(この蔦がおそらく何かを象徴しているであろうことも多くの人は理解できるだろう。ただし、先ほど、この蔦は死を象徴していると述べたが、これが一体何を象徴しているかという点については、本当は解釈が分かれるところかもしれない。それが『イノサン』という作品を読み解く上での魅力となっていると思うが、ここではこれ以上は触れない)

 

 

分離された虚構世界だと思われるもの

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11巻より

 

 

上図で示したページから、巻をまたいで約70ページにわたり、現代の日本の高校と思われるところを舞台に、制服を着たマリー・アントワネットを描いたマンガが展開される。

イノサンRouge』は、フランス革命期のフランスを舞台にした物語であり、現代の日本は(この箇所を除けば)登場しない。もちろん、マリー・アントワネット現代日本に転生していた、というような物語でもない。

おそらく、物語の流れからいうと、マリーの回想のようなものにあたるシーンだと考えられるが、『イノサンRouge』の物語の中において、「マリー・アントワネットは女子高生であった」という事実はない。

この一連のシーンが一体何であるのかを厳密に解釈するのは難しいのだが、おおよそ、マリー・アントワネットのベルサイユ宮殿での友人たちとの生活を、日本の高校生活に喩えて描いている、といえる*1

その意味では、これらのシーンもまた、比喩ないし象徴であり、ある種の修辞的な表現なのである、とは言えそうである。

 

 

しかし、先ほど挙げた蔦の例とはだいぶあり方が異なる。

というのも、もし『イノサンRouge』という作品を全く知らない人が、上述のページだけを見た場合、「マリー・アントワネットが女子高生である」ような世界を描いた物語であると理解するだろう、ということだ。

イノサンRouge』の物語全体を知っていれば、この物語において「マリー・アントワネットが女子高生である」ことは事実でないことはわかっているので、マリー・アントワネットが女子高生として描かれていたとしても、そのまま受け取るようなことはせず、上述したように、何らかの修辞的な表現なのだろうという形で理解することができる。

しかし、物語全体を知らなければ、そのように理解することはおそらく難しい。

この絵だけについて言えば、「マリー・アントワネットが女子高生である」ことが描写内容になっているのだ。

 

 

先ほど挙げた蔦と骸骨の例は、『イノサンRouge』という作品を全く知らなかったとしても、一般的にマンガを読んでいる人であれば、実際に蔦と骸骨があるわけではない、ということは理解されるように思える*2

対して、この高校のシーンについていえば、マンガを読みなれていたとしても『イノサンRouge』という作品を知らなければ、実際には、マリー・アントワネットが女子高生ではないということを知ることはできないだろう。

 

 

自分が「分離された虚構世界」という言葉で言い表したいのは、この「マリー・アントワネットが女子高生である」ことが物語内の事実ではないのにも関わらず、そのような内容を描写しているケースである。

イノサンRouge』で描かれている、「マリー・アントワネットの高校生活(のようなもの)」を、『イノサンRouge』における分離された虚構世界、と呼ぶ。

 

 

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ところで、この高校のシーンは、数ページ読み進むだけで、即座に異様な様相を呈していく。

この高校に、フランス革命の民衆たちが襲い掛かってくるのである。

この襲撃も、物語内の事実をそのまま描いているとは言い難いところがあるのだが、ここで描かれる民衆の姿は、女子高生姿のマリー・アントワネットと違って、物語世界内にもいる民衆といってもよい姿をしている。

夢のような生活(高校生活)に現実(フランス革命の民衆)が押し寄せてくる、という状況を、これまた比喩的に描いている、とは言えるわけだが、その比喩を成り立たせるための描写のされ方・あり方みたいなものが、視覚的修辞の場合とは異なっている。

視覚的修辞の場合、例えば先ほどの例でいうところの「蔦」は、描写内容には含まれない。一方、それが象徴していると思われる高次性質が画像内容に含まれる。と理解される。

上述の絵の場合、「高校に血まみれの民衆が押し寄せている」というのは、紛れもなく描写内容だろう(それを描写内容としない場合、この絵の描写内容がなくなってしまう)。

一方、その描写内容をそのまま物語世界内の事実、として受け取ることはできないので、これを物語世界とは別の何らかの虚構世界として措定しておく、というのが、分離された虚構世界という考え方だ。

 

 

で、さらに言うと、自分としてはこのシーンは、分離された虚構世界(高校の世界)と物語世界(フランス革命の世界)が重なり合ってしまっていて、境界線がわからなくなってしまっているところだ、というふうに思っている。

自分は「物語世界」とか「虚構世界」とかいう言葉をとりあえず使ってはいるが、そういう世界が予め確定的にある、とは思っていない。

メイクビリーブ論でいうところのプロップ(この場合は、マンガのそれぞれのコマの絵)が、次々と虚構を生成していき、生成された虚構を受け取った読者が、それらを整合的に組み立てていったものが「物語世界」になっていくのだと思う。

イノサンRouge』の読者は、読み進めていく中で「この作品の物語世界は、フランス革命期のフランスである」というのを組み立てていくので、それを踏まえれば「この世界に高校は存在しない」という虚構的真理も当然に生じてくる。

一方で11巻の中には「マリー・アントワネットが女子高生である」「民衆が高校を襲撃している」という描写内容を持つ絵がプロップとして出てくるので、「マリー・アントワネットが女子高生である」「民衆が高校を襲撃している」という虚構的真理もまた生成されてしまうように思える。そしてその場合、「この世界に高校は存在しない」という虚構的真理と衝突してしまう。

しかし、そうやって衝突することで、「物語世界」なるものが確定的にあるわけではなかったんじゃないか、ということに気づかされるのではないだろうか。

また、そこに、分離された虚構世界と物語世界の重なり合った、よく分からない謎の世界が生じてくる、というのが、フィクションならではの面白さなのではないだろうか、とも思っている。

(もっとも、そういう経験の生じないフィクション作品もたくさんあるわけで、別にこれはフィクションであるための必要条件ではないし、そういう経験を生じさせるかどうかが、その作品の価値を決定するわけではない。しかし、そういう経験を効果的に使える作品は、面白いものになるのではないか、とは思っている)

 

 

SNSを用いたもののうち視覚的修辞と分離された虚構世界

イノサンRouge』の中には、SNSを用いた表現もたびたび登場する。

もちろん、18世紀にSNSは存在しないわけで、これも何らかの比喩や修辞として使われているのだと思われる。 

 

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4巻では、twitterが出てくる。

このフォロワーの莫大な数、というかFF比によって、王妃という存在がどれだけ宮廷で注目を集める存在なのか、を表しているのだろう。

 

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10巻ではLINEが出てくる。

マリア・テレジアからのアントワネット宛の手紙が、LINEで送られているかのように描かれている。

 

 

ところで、同じSNS描写でも、下のような絵は少し雰囲気が異なる。

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4巻のtwitter

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10巻のLINE

 

繰り返しになるが、『イノサンRouge』はフランス革命期を舞台にしているので、実際にはこの世界の中にはtwitterもLINEも存在していない。

だから、上の絵も下の絵も、どちらも比喩的な表現であるという点では同じ、ということになるだろう。

ところで、もしそれぞれの絵が、現代を舞台にした作品で使われているとしたら、どうだろうか。

上の2つの絵は、現実に存在しているtwitterやLINEの画面をそのまま模した絵になっている。 twitterやLINEが存在している世界を舞台にした作品であるならば、これらの絵は、その世界内の出来事を表している絵*3、として見られることになるだろう。

 つまり、現代を舞台にした作品で使われた場合、比喩表現にはならない。

 

一方、下の2つの絵はどうだろうか。

実際のtwitterやLINEで、このようにフォロワーやメッセージが画面に表示されることはない。

めちゃくちゃ特殊なプラグインを使っていて、こういう表示ができるようになっている、などという設定がなされていない限り、実際に登場人物たちにこういうふうに画面が見えているわけではないだろう。

多くのフォロワーの中に埋もれてしまって目立っていない様子、あるいは、一斉に「ともだち」が離れていく様子、という、実際に起きた出来事として描こうとすると1枚の絵には収まらないだろうところを、1枚の絵に収まるように描いている。

これを同様に「視覚的修辞」といっていいのかどうかは分からないが(ここから高次性質を抽出する、というのは難しいと思う。「一斉に「ともだち」が離れていく」は高次性質ではないだろう、多分)、これもまた、画像を使った修辞的表現の一種、と言うことはできると思う。

つまり、実際にこういう表示がされているところを描いているわけではないということだ(だから、これらの絵の描写内容は「メッセージウィンドウが無数に開いている」というわけではないだろう。形態的内容としては、メッセージウィンドウが何重にも重なっている、ということになるかもしれないが、「メッセージウィンドウが無数に開いているスマホ画面」を描写対象としているわけではない)。

この絵は、SNSが存在している世界を描いたマンガで使われたとしても、「メッセージウインドウが無数に開いている」ことを描写していることにはならず、「一斉に「ともだち」が離れていく様子」を修辞的に描いている、ということになるはずだ。

イノサンRouge』の場合、修辞的に表現された「一斉に「ともだち」が離れていく様子」の絵が、さらに物語の一部としては、革命が進行して貴族たちがベルサイユの宮廷から逃げ出していく様子の比喩として使われている、という二重に修辞的な表現になっていると言える。

 

 

SNSが出てくるシーンは、『イノサンRouge』において、いずれにせよ「分離された虚構世界」として位置づけられるが、描写の働きが違う絵が混ざっているといえる。

なお、もし小説だと、この違いを出すのは難しい、もしくは不可能ではないかと思う。かなりマンガ独特の表現なのではないか、という気はする。

 

 

スマホを使うマリー・アントワネット

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これは10巻で、マリア・テレジアから来ているLINEを眺めているマリー・アントワネットの絵なのだが、これは一体どのように説明すればいいのだろうか。

11巻で女子高生になっているマリー・アントワネットとは違い、姿形は、物語世界内のマリー・アントワネットと同じで、もしこれで、スマホではなくて、手紙を持っているのであれば、素直に、「マリー・アントワネットマリア・テレジアからの手紙を読んでいる」という物語世界内の出来事を描いた絵として見ることができそうだ。

だが、この絵でマリー・アントワネットが持っているのは手紙ではなくスマホである。そして、スマホはもちろんこの時代にはないので、持っているはずがない。

しかし、この絵の描写内容が「マリー・アントワネットスマホの画面を見ている」であるのは間違いないだろう。

スマホを持っていること自体が、何か描写上の修辞的表現になる、というのは考えにくい(例えば、この絵が、マリー・アントワネットのコスプレをしている女性を描いた現代を舞台にした漫画に描かれていたならば、この絵は、この絵の内容の通り受け取られると思われるので、絵それ自体の描写内容は「マリー・アントワネットスマホの画面を見ている」としてよいはずだ)。

しかし、すでに述べた通りスマホを持っているはずがないので、その内容を物語世界に帰属させることはできず、分離された虚構世界に帰属させるしかない、ように思える。

 

 

ところで、これを「マリー・アントワネットが、マリア・テレジアから送られてきた諫言を読んでいる」と抽象化するならば、それ自体は、物語世界内の出来事としてよいだろう。

 さて、そのように一旦内容を抽象化して、物語世界の出来事として捉えることができるのであれば、そもそも分離された虚構世界なる概念をいったん経由する必要はないのではないのではないだろうか。

しかし、この作品の鑑賞経験を考えるならば、読者は単に「「マリー・アントワネットが、マリア・テレジアから送られてきた諫言を読んでいる」ところを(フィクショナルに)見ているわけではなくて、「マリー・アントワネットスマホの画面を見ている」ところこそ(フィクショナルに)見ているはずだ。

というのも、このシーンを読んでマリー・アントワネットに対して何らかの感情を抱くとすれば、まさにこの暗がりの中で、スマホ画面の光によってぼうっと照らされる様子にこそ心を動かされるのであって、単に「諫言を読んでいる」ところに心を動かされるわけではないはずだからだ。

それは、メイクビリーブによる心理的参加であり、その参加の前提として、「マリー・アントワネットスマホの画面を見ている」をメイクビリーブしている必要があるのではないだろうか。

 

 

コマ空間?

平松さんが、マンガを論じる上で「解釈空間」「コマ空間」「場面空間」「物語空間」という概念を用いている。

自分は平松和久「キャラクターはどこにいるのか――メディア間比較を通じて」(『サブカル・ポップマガジンまぐまPB11』) - logical cypher scape2 で概要を読んだだけなので、この概念をまだ理解できていないのだが、面白そうなものではあるので、ちょっと言及してみる。

ところで、「場面空間」と「物語空間」はあわせて「フィクションの空間」とまとめられているので、ここでもこの両者をあわせて扱う。これはおそらく、こっちでいうところの「物語世界」と同義なのではないかと思う。

一方の「コマ空間」のことなのだが、これは紙面とも言い換えられているので、再び松永さんの概念図に登場してもらうが、絵の表面のことを指しているようにも思うのだが、一方で、空間という言い方からは、描写内容のことも含んでいる概念のようにも見える。

なので、個人的には、コマ空間という概念は、さらに細分化して理解する必要があるのではないだろうか、とは思っている。

 

http://blog.cnobi.jp/v1/blog/user/8269d40b6451298b5cb5d2dc5838de61/1506597174

 

そういうわけで、平松さんが考えているコマ空間がどのようなものなのか、正直、うまくつかめていないので、平松さんの意図とは離れてしまうかもしれないが、コマ空間としか言いようのなさそうなものの例が、やはり『イノサンRouge』の中にあるので、紹介してみたい。


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5巻より。

現代のパリの様子を描いたコマの上に、ルイ16世の血の滴が降り注いでいる、という絵である。

 もちろんこれも実際に血が降り注いでいるわけではなく、一種の象徴的な表現で、王を処刑したことによって現在の民主主義のフランスがある、ということを、現代のパリに王の血が降り注ぐように描くことで表しているのだと思われる。

ここで目に付くのはやはり、血の滴が、コマ枠の上へとはみ出していることである。

なので、パリの街中に血の滴が降っている様子、というよりも、パリの風景を写した写真の上に血の滴を降り注いている様子、のようにも見える。

パリの風景も、血の滴も、どちらも三次元的な奥行きのあるものとして見ることができるのだが、パリの風景に注目すると血の滴が、血の滴に注目するパリの風景が二次元的に見えてしまう、というようような感じすらある。

ともかく、このページは、このページ全体で「パリの風景の上に血の滴が降り注いでいる」となっている、とはいえるだろう。

それを帰属させる先として「コマ空間」という概念があってもいいのかもしれない、というのを何となく思った。

このページの絵については、伊藤剛の「フレームの不確定性」概念ともかかわっているだろうし、あるいは鈴木雅雄編著『マンガを「見る」という体験』 - logical cypher scape2鈴木雅雄+中田健太郎編『マンガ視覚文化論 見る、聞く、語る』 - logical cypher scape2に出てくる「超越論的イメージ」とかともかかわってくるのではないだろうか、という気がする。 

 

 

 この「コマ空間」なるものがあるとして、それは「分離された虚構世界」ではないのか、といえば、少なくともこのパリの風景と血の滴についていえば、形態内容と描写内容の間で何かがギクシャクしている例なのではないか、という気がしていて、その点で「分離された虚構世界」ではない、と思っている。

絵は、松永さんの図にあるとおり、まず絵の表面があり、そこから形態的内容が見て取られ、さらにそこから描写性質や描写対象が見て取られ、それらがあわさって描写内容となる。

ただし、形態的内容がそのまま描写性質と描写対象に、あるいは描写性質がそのまま描写対象に帰属するか、といえば、それは必ずしもそうでない場合がある。それが、ここまで「描写上の修辞的表現」と呼んできたものでもある。

そして、そういうすったもんだはあるかもしれないが、とにかく、絵の描写内容がひとまず確定すると、今度はそれが物語世界の中にちゃんと位置づけられるか、そうでないかという判断があって、そこで「分離された虚構世界」という概念が登場してくる。

で、このパリの風景と血の滴は、物語世界の中に位置づけられるかどうか以前に、まず絵の描写内容としてどうなっているのかというレベルで考えないといけない問題だと思われる。

そして、マンガの場合、マンガ以外の絵と違って「フレームの不確定性」という特徴があって、それを踏まえないと理解できない絵になっており、そういうマンガというメディウムならではの内容になっている、という意味で「コマ空間」なる概念が使えるのかもしれない、と思った。

平松さんの言うところの「コマ空間」という概念から離れてしまったかもしれないが、ただ、平松さんの「コマ空間」には、効果線やセリフの吹き出し、描き文字などを要素として含むということなので、何某か通じるところもあるのではないかとも思う。

 

*1:もう少しいうと、マリー・アントワネットとマリー・サンソンとの出会いを、高校を舞台にしたラブコメ風のマンガで比喩的に描いている

*2:マンガをあまり読みなれていない人の場合、実際に蔦があると見て取ってしまう可能性はもちろんあるが

*3:本論とは直接関係しないことだが、別の意味で面白い「絵」になっている。スマートフォンのフレームとコマ枠のフレームが一致するように描かれているのである。このため、これらの絵は「奥行き」が生じない。Seeing-inがない、とすらもしかしたら言えるかもしれない。『分析美学入門』でジャスパー・ジョーンズの旗の絵に二面性はあるのか、という話が載っていたかと思うのだが、おそらくそれと同種の絵なのではないか、と思う

伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史3』

3巻は「中世1 超越と普遍に向けて」
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史1』 - logical cypher scape2
伊藤邦武・山内志朗・中島隆博・納富信留編著『世界哲学史2』 - logical cypher scape2
本書で展開されるこの時代のキーワードは、註解
中世の哲学は、古典に対する註解により展開される。
といっても、単に古典の訓詁・解説をしているだけではなく、それを通して、新しい考えも展開されている。
また、論争も色々と起きているという印象
もちろん、古代において論争がなかったわけではないが、より活発になっているというか。
第1章は(どの巻でもそうだが)全体のまとめなので別として、2、3、4、5、7章がヨーロッパ(ギリシア哲学とキリスト教の広がった地域)の話で、6、8、9、10章がアジアだが、それぞれイスラム、中国、インド、日本である(6章のイスラムは地域としてはアジアだが、ギリシア哲学の影響という意味では、分類的には前者に近いかもしれない)
「註解」というキーワードが特に当てはまるのはやはりヨーロッパだが、アジアの各地域もそれなりには当てはまる。
論争を通じて、概念をより鍛えていっている感じ


10章の空海の話が面白かった
5章と7章も、中世ヨーロッパ哲学が、どういう形態で発展していったのかというのが分かるものでよかった


世界哲学史3 (ちくま新書)

世界哲学史3 (ちくま新書)

  • 発売日: 2020/03/06
  • メディア: 新書

1 普遍と超越への知 山内志朗
2 東方神学の系譜 袴田 玲
3 教父哲学と修道院 山崎裕子
4 存在の問題と中世論理学 永嶋哲也
【コラム1】 ローマ法と中世 薮本将典
【コラム2】 懐疑主義の伝統と敬称 金山弥平
5 自由学芸と文法学 関沢和泉
6 イスラームにおける正統と異端 菊地達也
7 ギリシア哲学の伝統と継承 周藤多紀
【コラム3】 ギリシアイスラームをつないだシリア語話者たち 高橋英海
【コラム4】 ギリシア古典とコンスタンティノポリス 大月康弘
8 仏教・道教儒教 志野好伸
9 インドの形而上学 片岡 啓
10 日本密教の世界観 阿部龍一

1 普遍と超越への知 山内志朗

2 東方神学の系譜 袴田 玲

ビザンツ帝国は、制度や法はローマ、文化としてはギリシア、宗教としてはキリスト教が基盤で、ビザンツの知識人のアイデンティティはこの3つが混じって複雑
表向きは、キリスト教が真理なので、ギリシア哲学は焚書されたり禁忌とされたりもしたけれど、実際には世俗の学問として生き残り、またキリスト教父たちも、ギリシア哲学の概念をもって理論を作った


アトス山の修道士たちの実践であるヘシュカスムを巡るヘシュカスム論争
祈りから「神化」し、光として神を見る体験をするという実践
論争は、ヘシュカストである修道士パラマス側の勝利で終わる
東方神学における、西方とは異なる「東方世界観」の中心をなすのは「神の受肉
キリストという、神が受肉した存在への衝撃が、神化という思想へとつながる
教会や司祭によらず、自己の祈りにより救済へと至るという考えが、のちに近現代のキリスト教世界に影響を与える

3 教父哲学と修道院 山崎裕子

2章が、東方の神学、修道士の哲学を扱ったのに対して、こちらは西方の神学・教父哲学について
11世紀、カンタベリーのアンセルムス、12世紀のスコラ神学シャルトル学派、同じく12世紀の修道院神学サン=ヴィクトル学派がそれぞれ紹介されている。


修道院は教育の場で、本も多くあった


アンセルムス
神の存在証明や悪の問題


12世紀
修道院付属学校の修道院神学と、司教座聖堂付属学校でなされたスコラ神学という、2つのスタイルの神学に分かれた
「巨人の肩にのる」という比喩、シャルトル学派からでてきたらしい

4 存在の問題と中世論理学 永嶋哲也

中世において、論理学は、12世紀半ばを境に「旧論理学」と「新論理学」に分かれる。
旧論理学:古代西ローマ帝国ボエティウスラテン語に翻訳したアリストテレスの論理学。代表はアベラール
新論理学:12世紀半ば以降、これまで西欧に残っていなかったアリストテレスの著作が入手できる以降の論理学。代表はオッカム


ボエティウス
『カテゴリー論』『命題論』『分析論前書』および、『カテゴリー論』の入門書であるプルフェリウス著『エイサゴーゲー』をラテン語に翻訳
『エイサゴーゲー』において、類・種は実在するのか、実在するとしたらどのようにか、という問いが書かれており、これがのちの普遍論争へつながる


アベラール
筆者は、アベラールを狼に喩えている(一匹狼、あるいはエロイーズを引き立てる悪役としての狼)
普遍論争で、普遍は事物なのか音声なのか問われ、正統的な見解は前者だったが、アベラールは後者にたつ
なお、当時はまだ音読が重要だった時代で、ここでいう音声は言葉と同義


アベラール以後
残りのアリストテレスの著作が入ってくる
また、中世論理学独自の理論である代表理論も、精緻化されていく


本章では最後に、中世論理学が現代論理学とも呼応していることも指摘している
プライアーやギーチや注目していること
アベラールの付帯性理解がトロープに似ているとか、同じく彼の意味理論が指示の因果説に似ているとか、そういう主張をしている研究者もいること

【コラム1】 ローマ法と中世 薮本将典

中世ローマ法学と教会法学

【コラム2】 懐疑主義の伝統と敬称 金山弥平

5 自由学芸と文法学 関沢和泉

自由学芸(アルテース・リベラーレース)について、2つの伝統がある
1つは、人物を形成するものとしての自由学芸。曰く「リベラルアーツは人を自由にする」というのが、語の由来となったとする考え
対してもう一つ、書物を読み書きする技術として自由学芸を捉える伝統がある。
これによれば、liberalisは、自由リーベルliberではなく書物リベルliberに由来するという(5~6世紀のカッシオドルスによる)
現在、自由の「i」と書物の「i」は長短が異なり由来が異なることがわかっているので、この語源は間違いらしいのだが、筆者はしかし、このカッシオドルスの考え方が12世紀まで変奏されていくので重要だと述べている。


文法学の重要性
ラテン語文法学は、ヨーロッパの諸言語やその後、ヨーロッパ人が出会う他の言語を同じフォーマットで文法学化していく
8世紀、カロリング・ルネサンスの時に活躍したアルクイヌスは、文法学と論理学の整合性をとろうとした
12世紀以降、残りのアリストテレスの著作が入ってくると、諸学問においてラテン語への翻訳が行われ、文法学が、言語をこえた普遍性を担保するものとされる

6 イスラームにおける正統と異端 菊地達也

イスラームは、キリスト教のような一元的な権威がなかったので、「正統」と「異端」の境界は曖昧で流動的
その例として、シーア派イスマーイール派が取り上げられる。


イスマーイール派は、8世紀頃に興り、10世紀には躍進し著作が多く残される。一方、9世紀の著作は少ない。
9世紀のイスマーイール派は、極端派と呼ばれた過激シーア派と近いとされていた
それは、周期的な思想(7代目のイマームムハンマドの次の告知者となる)で、さらにメシアとして再臨し、イスラーム法は廃棄されるという過激な思想を有していた
これが10世紀のファーティマ朝、政治的に成功した時代になると、その成功の反面、メシア再臨しないという現実の前に、教義は修正を余儀なくされる。また、もともと内包されていた極端派的だった教義を「異端」として、その線引きを変更するものでもあった。


また、この章では、イスマーイール派宇宙論の中に、新プラトン学派やプトレマイオスなど、古代ギリシア哲学からの影響があることも論じられている。

7 ギリシア哲学の伝統と継承 周藤多紀

註解書について
中世は、哲学に限らず聖書や文学、法学などあらゆる分野で註解が書かれて、それがいわば教育や学問のスタイルだったらしい。
この章では、一般に註解書がどのようなスタイルで書かれているのかを解説している。
註解なので、もちろん元となるテキストの解説なのだが、それにとどまらず、そのテキストと関連するが直接書かれていないような問題についての議論も書かれていた、と。
哲学においてもっとも註解が書かれたのは、アリストテレスプラトンも権威だったが、プラトンラテン語翻訳は少なかった)

【コラム3】 ギリシアイスラームをつないだシリア語話者たち 高橋英海

6世紀、東ローマ帝国支配下で、シリア語話者たちが、アリストテレスなどギリシア語文献をシリア語に翻訳する
9世紀、アッバース朝バグダードにおいて、古代ギリシア学術書は、シリア語を介してアラビア語に翻訳された

【コラム4】 ギリシア古典とコンスタンティノポリス 大月康弘

9世紀のコンスタンティノポリスの大学教授フォティオスは、2度コンスタンティノポリス総主教にもなっており、ギリシア古典の書評集を著している。コンスタンティノポリスには、ギリシア古典の蔵書があった。
なお、フォティオスはローマ教皇と関係が悪く、むしろアッバース朝と交流があった。

8 仏教・道教儒教 志野好伸

中国に仏教が入ってきたことで、既存の思想である道教儒教との間で、どのような対立・論争が生じたか


道教と仏教との間の問題として取り上げられるのが、経典をどのように考えるか
言葉というのは手段であって、内容が伝われば必要なくなるという考えと、確かに言葉は手段だがなくしてしまっても構わないとは言えないという考えがある。
元々道教(というか玄学)は前者で、仏教は後者だが、道教側にも後者の考えの人がいたり、仏教でも禅宗は前者よりだったりする。


神滅不滅論争
そもそも仏教は、輪廻転生から解脱するという考えだけれど、中国には輪廻思想がなかったので、まず輪廻というものがありますよね、というところから説明しなければならず、結果的に、輪廻する主体としての霊魂がある・ないという論争が生じた
「神」というのは、霊魂のこと
ところで、これ以前、老荘思想を注釈を完成さた王弼の玄学においては「本末関係」というのがベースになっている。根源たる無(本)とそれから生じる有(末)という関係
これに対して、神滅不滅論争の中で、「体用関係」という概念が生まれてくる。精神の実体が「体」、働きが「用」とする考えで、これが色々な説明に使われるようになる。
本末関係は仏教と相性が悪く、仏教を受容する中で中国側が編み出した概念が「体用関係」だという。
で、朱子学もこれを踏襲している、と


仏教と儒教の間の論争にはほかに、孝に関するものがある、と
仏教が中国に入ってきたとき、剃髪と出家が孝に反すると批判される。
これに対して、仏教は、仏教もちゃんと孝を守ってるんですよ、という形で、融合が図られていく

9 インドの形而上学 片岡 啓

インドは人名が覚えにくい……。
この章は、おおむね仏教とバラモン教六派哲学ミーマーンサー派とニヤーヤ派)の対立・論争として論じられている
ミーマーンサー派のクマーリラと仏教のダルマキールティが主要な登場人物となる
後5~12世紀の認識論、存在論、意味論、論理学を扱う


原子論や全体と部分の関係についての存在論


インド哲学では、文法学がアイデアの源となる
普遍論争がインドにもあり、普遍の実在を認めるバラモン教諸派と認めない仏教徒との対立
仏教側のディグナーガは、牛という語の意味を、「牛性」という普遍ではなく、「非牛の排除」(アンヤ・アポーハ)とする
これがのちにダルマキールティにより、意味論だけでなく、存在論などにも基礎づけられるアポーハ論と発展していく


推論について
「あの山には火がある、煙があるから」という論証を行う際に、「火がなければ決して煙はない」という関係が必要となる。この関係をインド哲学では遍充関係という
これをどう説明するかで、普遍実在論にたつバラモン教のクマーリラと、普遍を認めない仏教のディグナーガで違いがある
また、認識について、クマーリラは、認識は自律的に正しいとして反証可能性の疑いはあっても3回までとするが、ダルマキールティは反証可能性の疑いはいつまでもなくならないと反論
さらに認識について、認識の錯誤や、認識には外界の対象が対応物としてあるかどうかということについて、やはりバラモン教と仏教で対立があり、このあたりの議論は、ヨーロッパの哲学の認識論なんかとも似てそうな話をしているなという感じだった


直接的な言及は特になかったが、最後の認識論のところに限らず、他のところも、ヨーロッパの哲学との類似点を色々見出せそうな感じはして、難しいけど、面白くはあった。

10 日本密教の世界観 阿部龍一

何故、空海? 一応、日本も入れておこうということか、と読む前は思ったのだが、読んでみると、世界哲学史(というか東アジア哲学史)の中のピースの一つとしてピッタリとはまっている。
8章で見た通り、中国では仏教と儒教の間に対立があるわけだが、本章の筆者は、空海を、儒教を仏教(密教)の中に包摂する・仏教中心で儒教がそれを補佐する体制を実現させた人物として論じるのだ


空海の生きた時代は「文章経国的時代」
奈良時代に仏教の力が強くなりすぎて、遷都したのち、平安時代の初期は儒教中心の体制となり、また、学問によって立身出世が可能だった。「文章」こそがエリートの証。この時代、勅撰漢詩集がよく作られているのも、漢詩ができるというのが政治的エリートであることと同義だったから。
で、空海は、文章の力で身を立てたエリート中のエリートで、留学先の中国でも認められていたし、帰国後も天皇や官僚から頼りにされていた。
だが、空海は、中国で密教を学び、そういう価値観から外にでていく。
彼にとって、自然そのものがテクストそのもの、というのが真言の考え方。
儒教の正名理論を、密教の枠組みの中に包摂してしまう。


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