『日経サイエンス2019年12月号』

日経サイエンス2019年12月号(大特集:真実と嘘と不確実性)

日経サイエンス2019年12月号(大特集:真実と嘘と不確実性)

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卓上の重力波検出器

卓上の重力波検出器〜日経サイエンス2019年12月号より | 日経サイエンス
アーム長10mの検出器をつくる計画
TAMA300ですら300mあったのに?!

あなたも感じる「数学の美」

数学者と心理学者の共同実験
数学の素人に対して、数学的陳述を読んでもらい(その理解度をテストしたうえで)、それがどの絵画と似ていると感じたか質問するという実験
回答の一致率が高く、驚きの結果
この記事、美学者のコメントがなくて、美学の知名度の低さを感じる。

特集:真実と嘘と不確実性

www.nikkei-science.com

物理学 物理学におけるリアリティー  G.マッサー

物理学におけるリアリティー | 日経サイエンス
何となくバラバラと色々な話していた記事だった(実在論反実在論量子力学、意識)

数学 数学は発明か発見か  K. ヒューストン=エドワーズ

数学は発明か発見か | 日経サイエンス

数学には、発明のように思える部分と発見のように思える部分の両方がある、という話
発見段階と証明段階の違いとして、ゴールドバッハ予想の話とか(ゴールドバッハ予想にあう偶数は次々と「発見」されるが、それを定理とするには「証明」が必要)
最後に、プラトニズム、形式主義、フィクショナリズムといった形而上学的立場がいくつか簡単に紹介されるが、実際の数学の営みには影響しないよねーと結論されている

神経科学 脳が「現実」を作り出す  A. K. セス

脳が「現実」を作り出す | 日経サイエンス
青色にも金色にも見える例のドレスの話を枕に、予測装置モデルの話
ツートーン写真の実験(何が写っているか分からない白黒写真が、カラー写真見た後だとわかるようになる)
VRヘッドセットを使った実験
現実と区別のつかないVR映像を作ることはまだできていないが、事前に録画していたものを時間差つけてみせると、実際に起きていることと錯覚する
これは、現実だという認識も知覚に影響を及ぼすということ
また、知覚の鮮明さと「現実らしさ」の感覚は別(薬物の幻覚や明晰夢の例、あるいは共感覚者は、現実ではないことを認識しつつ知覚している)
「現実らしさ」の感覚は、ベイズ的な最良の推測がもたらす側面

ネットワーク科学 デマ拡散のメカニズム  C. オコナー/J. O. ウェザオール

デマ拡散のメカニズム | 日経サイエンス
反ワクチン派が広まった理由の研究


情報が拡散していく仕組みをモデル化
まず「伝染モデル」
近くの人から情報が単純に伝わっていくというモデル
「認識フレームモデル」
AとBのどちらがよいかという信念をもっていて、エビデンスを共有して信念を更新していくモデル
しかし、このモデルはコミュニティ全体が最終的に同じ意見に達し、現実のように二極化しない。このモデルには「社会的信頼」と「大勢順応主義」が欠けている
ある人を他の人よりも信頼するという「社会的信頼」
他の人と同じように行動する傾向という「大勢順応主義」
さらに、反ワクチン派が行ったキャンペーンとして「選択的共有」や「レトリック戦略」を挙げている
好ましいエビデンスだけを提示する「選択的共有」

意思決定科学 過剰な心配,過小な心配 リスク判断の心理学  B. フィッシュホフ

過剰な心配,過小な心配 リスク判断の心理学 | 日経サイエンス
例えば、原子力に対するリスク評価。リスクを高く見積もるのは、死者数を過大に評価しているせいではと研究してみたら、リスクを高く見積もる層も死者数の見積もりは高くなかった。ある特定期間に重大な事故が起きる可能性の見込みが違っていた。
また、記事内コラムみたいな内容で主題ではなかったが、科学リテラシーが高くなるほど、リベラルか保守かで意見対立が激しくなるという調査結果が紹介されていた。リテラシーが高くなるほど、自分の属する政治集団の立場に合わせたり、より自信をもって主張するようになるからではないか、と。

データ科学 エラーバーの読み方  J. ハルマン

エラーバーの読み方 | 日経サイエンス

データの不確実性を視覚的に表現する方法あれこれ
様々な方法のメリット・デメリットを比較している
紹介されているのは「そもそも定量化しない」「信頼区間(エラーバーや信頼帯など)」「確率密度の図(箱ひげ図、バイオリン図など)」「アイコン列」「複数例を空間に並べる」「複数例を時間的に並べる」「複合的アプローチ」

社会心理学 自己不確実感が社会を脅かす  M. A. ホッグ

自己不確実感が社会を脅かす | 日経サイエンス
アイデンティティが揺らいで「自己不確実感」があると、社会的集団への帰属を求め、何をすべきか命じてくれる人を求める
ポピュリズムの温床になる、という話


社会学 情報操作社会に生きる  C. ウォードル

情報操作社会に生きる | 日経サイエンス
フェイクニュースとネットミームについての話
まず、「フェイクニュース」という用語は、色々なものをごちゃまぜにしているので問題ある用語だとした上で
「誤情報(ミスインフォメーション)」意図的ではない間違いやミスリード、風刺など
「偽情報(ディスインフォメーション)」損害を与えるための虚偽
「悪意の情報(マルインフォメーション)」間違ってはいないが損害をあたえるもの
偽情報が、悪意なくシェアする人々により誤情報になって広まっていく、としている
また、悪質なものは、偽情報ではなく、本物ではあるのだがそれをミスリーディングな形で送るもの。筆者は「コンテクストが兵器化されている」と述べる。従来の報道のやり方では、ただ拡散に手を貸すだけになってしまっていてよくない、とも
ミームについて
2019年に「Memes to Movements」という研究所が出ているらしいのだが、こういう調査は比較的まれ、と書かれている
ネット上の情報についての研究や調査も、画像解析よりも自然言語処理の方が進んでいるので、テキストベースのものに偏りがち
SNSの広告は、ターゲッティングが進んでいて、研究者からは誰にどのような広告が見えているか分からなくてやはり追跡が困難に
「アストロターフィング」いわゆるステマというか、偽のレビューを書いて好意的な支持が多いように見せかける手法について、こういう名前がついているらしい


特集:真実と嘘と不確実性ということで、真実や不確定性について、様々な分野の学者のコメントがコラム的に寄せられている。
「医者の視点」「歴史言語学者の視点」「古生物学者の視点」「社会技術者の視点」「統計学者の視点」「データジャーナリストの視点」「行動科学者の視点」「神経科学者の視点」「理論物理学者の視点」
統計学者が、p値について書いてる。p値だけを根拠にするのはよくない。他の尺度もあわせて公開していくことが大事ということを書いている

グラフィック・サイエンス 肥満と寿命:グラフの読み方

グラフの見方について、以下のような方針が書かれていたので引用

どうすべきか
1 グラフが示していることだけでなく、示していない可能性のあることを読み取ろうと努めよ
2 結論に飛躍するな。特に、グラフがあなたの考えを追認している場合には。
3 自分がグラフの内容を正しくとらえているかどうかを自問せよ
4 自分が推論しようとしている事柄に必要とされるものをデータが代表しているかどうかを考えよ。いずれの場合芋、相関関係は因果関係とは別物であることを忘れるな

記事の内容としては、肥満と余命が相関しているグラフから「太った人は長生き」と言いたくなるが、本当にそうかという例

ブックレビュー

  • 古生物学を楽しむ 平沢達矢

5冊ほど紹介されているけど、速水格『古生物学』というのがよい教科書らしい

『文学+01』


2018年11月頃に読んで、そのまま読みさしになっており、ちゃんと読めたら感想を書こうと思っているうちにもう1年以上過ぎてしまい、さらに02号の宣伝も見かけてしまったので、とりあえずここだけ読んだというメモだけ残しておくことにした。

【討議】
・文芸批評と文学研究、そのあいまいな関係をめぐって(浜崎洋介×坂口周×梶尾文武)
【書誌】
・文芸批評×文学研究 2000-2004
【書評】
・<メディア>としての美妙 大橋崇行『言語と思想の言説』(大石將朝)
・「退屈な正義」を超えて 佐藤泉『一九五〇年代、批評の政治学』(平山茂樹)
【論文】
大江健三郎ノート 第1回・第1章 一九五四年の転向(梶尾文武)
唐十郎論ー肉体の設定(清末浩平)
・<水>の変貌ー永井荷風『すみだ川』、『狐』(倉数茂)
・消滅の寓意と<想像力>の問題ー大江健三郎から村上春樹へー(坂口周)
・被傷性と呼びかけ 今村夏子『こちらあみこ』の世界(内藤千珠子
村田沙耶香の「物語」と「私」 脱<二十世紀日本>文学史試論(中沢忠之)
・メタファーとパースペクティブー認知物語論と移人称の問題(西田谷洋)
・ 女子的ウェブ文化とブログ詩の問題(ni_ka)


冒頭の座談会と中沢さんの村田沙耶香論、西田谷さんの認知物語論と移人称論、ni_kaさんの女子web文化論について読んだ。


座談会のメンバーというのが、大学の准教授で文学やっている人が2人と、文芸評論家が1人。
文学研究と文芸批評の違いとはなんぞや、みたいな話がテーマになっていて、「文学」と「政治」、「実践」やら「実存」やらの話になっていく。
文学研究と文芸批評の違い、みたいなものがテーマになるのが面白いな、と。
文学について論じたりなんだりするジャンルとして「文学研究」と「文芸批評」の2つがあるのが、まず面白いな、と。
例えば、映画とかだと、もちろん映画研究と映画批評は別ジャンルとしてあるけれど、その両者の違いを論じたり、架橋を試みたりする座談会が行われるようなイメージはしない
他の分野だと、そもそも「研究」と「批評」みたいな分かれ方自体、あんまりしてないような
・同じ文学を論じたりする分野が、2つ独立して存在している
・その2つの違いを云々する際に「文学するとはどういうことか」みたいな問題が関わってくる
この2点が、かなり文学独自の問題な気がする。

たつざわ「芦田漫画映画製作所の通史的な解明」

(おそらく)2018年5月の文フリで購入し、その直後に読み終わっていたもの
感想メモも、読んだ当時に書いているのだが、何故かブログに載せずに放置されていたので載せる
何故か、というか、おそらく同時期に買った他の同人誌と一緒に感想をあげるつもりだったのが、そっちの感想を書きそびれているうちに、こちらの感想も載せ損ねていた
以下、2018年5月に書いていた感想


文フリで購入した、たつざわさんの「芦田漫画映画製作所の通史的な解明」が面白い
アニメーション史については疎いので、芦田漫画映画製作所というのが何なのか全く知らなかったし、またこの論文が、アニメーション史研究にとってどういう位置づけになるのかも分からないが、すごかった。

芦田漫画映画製作所というのは、戦前から戦後にかけて活動してたアニメーション制作会社で、1946年に手塚治虫が上京した際に、入社しようとして断られたという逸話を持つ会社らしい。
ただし、あまり実態がよく分からないらしく、たつざわさんが、主に会社登記簿を確認しながら、各種資料にあたって、まさしく会社の通史的解明を試みている。
これまで、関係者の回想などにおいて、芦田漫画映画製作所や当時の他の制作会社について、多少言及されていたようだが、社名自体がはっきりしなかったりしたようだ。それを登記簿を追うことによって、正式な社名や所在地を確認し、ここで言及されているこの会社はこの会社のことだろうと確かめていっている。
また、芦田漫画映画製作所の芦田巌をはじめ、複数の通名を用いている人などがいて、登記簿などから生年月日を確認するなどして、同一人物かを判断している。この名前が本名で、この名前が通名で、この名前は何年から何年まで使っていた、などを調べたりしている。
歴史的事実を記していっているだけの論文ではあるが、文章自体読みやすく、面白く読めるものになっている。
事実を記すといっても、不明な点や推測に頼らざるをえない点などが多く、それを詳らかにしつつも、要点が明確だからだろう。
また、本論文は、「東映動画史の相対化」を目的としているとある(「東映動画史観の相対化」かと思う)。アニメーション史に疎い自分にとって、そもそも東映動画史とは、という感じだったのだが、戦前や戦後すぐの1940年代に、個人会社としてのアニメーション制作会社が複数あって、アニメーション制作が行われていた、ということ自体、全然知らなかったので、面白かった。

飯田隆『新哲学対話』

プラトンが書かなかったソクラテスの対話編、とでもいうか、まあ二次創作というか。
4本が収録されているが、例えばそのうちの「アガトン」は、『饗宴』のあとも残って話を続けていた4人の対話の記録、ということになっている。
ところで、フィルカルVol.4 No.3 - logical cypher scape2で鬼界が、哲学というのは論文形式で書かれる必然性はなくて、アリストテレスよりも前、つまりソクラテスプラトンは論文を書いてない哲学者だ、ということ書いていて、ある意味では、それの実践編みたいな本とも言えるのかもしれない。
今回、全部は読んでいなくて、ざくっとした軽い感想だけ書く


新哲学対話: ソクラテスならどう考える? (単行本)

新哲学対話: ソクラテスならどう考える? (単行本)

アガトン

よいワインとは何かということについての話
とりあえず、これだけでも読もうと思って、本書を手に取ったところがある。
ソクラテスとアガトン、パウサニアス、アリストファネスの4人が、このワインは美味しいワインだ、というところから、ワインの美味しさというのは人それぞれなのか、そうではないのかということについて話している
めっちゃ美学の話をしている
というか、理想的鑑賞者についての話をやっている感じで、実際、この話ってワインだけでなく芝居にも適用可能だよね、みたいな話もしている。
元々、森さんが、本書の「アガトン」を美学入門として読めるよと薦めていたのがきっかけで手に取ったので、まさに、まさにという感じで読んでいたのが、章末にある筆者コメントでは、もともと相対的真理・相対主義について書こうというところからスタートしていて、書いてみたら美学に近づいていた、書いてみたらヒュームと近い話になっていた驚いた、みたいなことが書かれていて、読んでいるこっちが驚いた


ところで、美学というのは伝統的にはあまり食については扱っていないはずなのだけど、まあでも、食だって美学の対象になるよねという話も現代美学では確かなされていたはずで(あまりよく知らないのでちょっとテキトーなこと言っている)、そういう意味で、ワインをテーマに理想的鑑賞者の話をして美学入門になっている、というのもなかなか面白いのかもしれない。
で、この前、『SFマガジン2019年12月号』 - logical cypher scape2で、暦本純一インタビューを読んだ際に、「食のSFが読みたいという話が、なんか面白そうだなと思った」のも、このあたりがちょっと念頭にあった。

ケベス

ソクラテスが現代世界に転生してきてしまったら、みたいな設定の話
よもや現パロ?
人工知能についての話してる

テアイテトス

言葉を理解するということにとって、「理解している」という感じはどれくらい関わっているのか、という話で
ウィトゲンシュタインの『哲学探究』でなされている議論を下敷きにしたもの
この話も結構面白いと思う

偽テアイテトス

知識のパラドックスについて
時間がなかったので未読

古田徹也『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』

『論考』の入門書で、『論考』やウィトゲンシュタインをあまりよく知らない人でも読めるようにと書かれており、実際、とても読みやすい。
自分は、ウィトゲンシュタインについて多少興味があって入門書くらいは読んでいたりするけれど、わりと『探求』の頃の、いわゆる後期ウィトゲンシュタインにより興味があって、『論考』はあんまりよく分かっていない。ところどころ知っている部分が、つながった感じがした。
あと、ウィトゲンシュタインは、前期と後期とに分けられるものの、解説書なんかでも連続性があることが指摘されていることがあり、実際読んでいて、後期と似てるなと思うところがあり、ベースとなる部分は一貫しているのだなと思った。
つまり、哲学的問題とされるものは、言葉を間違って使っていることから生じているので、その間違いを解き明かしていけば哲学的問題も消える。そうやって、哲学的問題は解決されるという考え。
あと、哲学で何ができるのか、ということに対して禁欲的というか、限定しようとしているところとか。


最近、下記の本を読んだので、ちょうどこれで前期と後期について触れられたかな、という感じ。まあ、下の本は3巻本の1巻目なのだけど。
sakstyle.hatenadiary.jp


はるか昔に、下記の2冊も読んだことがあるが、はるか昔すぎてあんまり覚えていない
今回、古田本でもこれらの本には時折言及があったので、該当箇所だけ読み直したりした(ほんの数ページ)。
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はじめに
凡例
人と作品
論理哲学論考
§0 『論理哲学論考』の目的と構成
§1 事実の総体としての世界、可能性の総体としての論理空間
§2 事実と事態、事態と物(対象)
§3 不変のものとしての対象、移ろうものとしての対象の配列
§4 現実と事実
§5 像と写像形式
§6 像とア・プリオリ
§7 思考と像、像と論理空間
§8 命題と語
§9 名と要素命題
§10 解明と定義
§11 シンボル(表現)と関数
§12 日常言語(自然言語)と人工言語
コラム1 記号論理学
§13 個別性の軽視、個別性の可能性の重視
§14 言語の全体論的構造節
§15 「言語批判」としての哲学
§16 命題の意味の確定性と、命題の無限の産出可能性
§17 『論考』の根本思想
§18 否定と否定される命題の関係
§19 哲学と科学
§20 要素命題とその両立可能性(相互独立性)
§21 真理表としての命題
§22 トートロジーと矛盾
§23 命題の一般形式1
§24 推論的関係と因果的関係
§25 操作、その基底と結果
§26 操作の定義
§27 世界のあり方と、世界があること
コラム2 倫理学講話
§28 独我論と哲学的自我
§29 命題の一般形式2
§30 論理学の命題および証明の本質
§31 説明の終端
§32 意志と世界
§33 永遠の相の下に
§34 投げ棄てるべき梯子としての『論考』
§35 『論考』序文
文献案内
用語の対照表
あとがき


内容をまとめていくのはちょっと大変なので、印象にのこったポイントだけ書く

像は現実を写し取る模型のようなもの。像と現実とのあいだで共有されているものが「写像形式」
像は自身の写像形式を写すことはできない
像の真偽は、現実との一致・不一致で、アプリオリに真なる像は存在しない


「名」や「要素命題」とは一体何か
これは、分析されきった状態のもので、『論考』の目的から要請される概念だが、具体的にこれが「名」だとかは例示できない。
「新幹線」という言葉があって、これは例えば「日本で一番速い列車」のように分析できる。これがいわば新幹線の定義だとして、さらに「日本」とか「列車」とかも分析できる。究極なところまでいきついたのが「名」
だからもう、定義はできないのだけど、論理空間の中でどのような使われ方をされるのか(形式)は定まっている
例えば、仮に「新幹線」が名だとして、「新幹線」は「新幹線はとても速い」とか「新幹線は列車だ」とか「新幹線はアメリカで走っている」といった命題にあらわれる。なお、3番目は偽なる命題だけど、論理空間の中にそういう事態はある。だけど、「新幹線が輸血する」とかそういった命題にはならない。そういった形式というのは既に定まっているもので、命題を見ていくことで「解明」される。
既に述べた通り、「名」が具体的にどのようなものかは示されていない。
これは、どれだけ分析できるかはアポステリオリな問題だからで、アプリオリにこれが「名」であるとは言えないからだと、説明されている。
(世界をどれくらいきめ細かく分けられるかは、経験的な問題)
「名」が具体的に何であるかはアプリオリには言えないが、『論考』は、極大の表現力を有した言語が目的で、その言語がどのような言語であるかというところから要請される概念でもある。
ところで、この、『論考』において「名」が具体的に何か示されない問題について、
野矢は、複合命題を分析してできた単純なものについて、どっちがより単純なのか決められないものがあるから、という説明をしていて、これがのちに、ウィトゲンシュタインが『論考』が誤りだったと認めることになる要素命題の独立性の問題につながるとしている。
一方、鬼界は、単純を「分析的単純概念」と「論理的単純概念」に分け『論考』の「単純」は後者だという(そしてこれに従えば、上の説明はむしろ前者に近いように思える)。で、後者の「単純」においては、論理操作を行う「私」が背後に隠れている、と。


ウィトゲンシュタインも、命題を関数と考えているが、フレーゲラッセルの考えとは異なっている。
例えば、フレーゲの場合、変項になるのは対象で、出力値は真理値だが、ウィトゲンシュタインの場合、変項になるのは表現で、出力値は命題
「新幹線x」という関数があったとして、xに「が速い」という変項が入ると、「新幹線が速い」という命題がその値となる


『論考』のウィトゲンシュタインは、日常言語の分かりにくさは、記号論理学による人工言語によって分かりやすくなると考えている
『論考』は、その人工言語の条件を明らかにしようとする書物でもある。
ところで、人工言語の方が、日常言語よりも論理的だ、と言っているわけではない。日常言語はすでに完全に論理的なのだが、それが読み取りにくいので、人工言語を使ってあらわすと、日常言語の論理性が読み取りやすくなる、と


形式の話とか論理空間の全体論的ネットワークの話とか、なんかウィトゲンシュタイン以外にも言っている人いそうだなという感じで
形式の話は、なんとなくチョムスキーみを感じる。チョムスキーのことあまりよく分かってるわけではないけど
(ところで、野矢本にも、チョムスキーっぽいという書き込みをしていた、自分)


哲学と科学の違いということにも触れられている。
真なる命題の総体が科学。科学というのは、何が真なる命題なのかという探求だが、哲学はそうではない。哲学の成果は哲学的命題ではない。
哲学は、何が命題で何が命題もどきなのかの明晰化。語りうることとそうでないことの線引きをすること
語りえないことの一つが論理形式。論理形式は命題に反映されているが、命題として語ることはできない


語りうることの限界を示すためには、表現力が極大の「究極の言語」を想定しないといけない。究極の言語においては、あらゆる命題が要素命題の結合として捉えられる
要素命題には、相互独立性(両立不可能ではないこと)が要請される。例えば「太郎と花子は夫婦である」と「太郎は独身である」は、両立不可能である。前者が真なら後者は偽だし、後者が真なら前者は偽だから。要素命題は、このような関係にない=相互に独立している。
しかし、果たしてそんな命題は本当に存在するのか。
実際に、ウィトゲンシュタインはこの相互独立性を撤回することで、いわゆる前期から後期へと転換していくことになる
ただ、例えば野矢は、相互独立性が維持できなくても『論考』の考え自体は維持できる、という立場をとる


真理表が出てくる
ウィトゲンシュタインの独創性として、真理表それ自体を、命題記号として捉えるところにあると説明している
そしてそれは、命題の意味とは真理条件である、ということにつながっている
なお、真理表を発明したのはフレーゲとのこと
これに続いて、トートロジーと矛盾の話
真理表の右端が全て真になるのがトートロジー、全て偽になるのが矛盾
トートロジーと矛盾は、論理空間の中のある範囲を指定するような表現ではない(論理空間全てを指定するかどこも指定しないか)。で、現実の像たりえない。
しかし、一方で「無意味unsinnig」というわけではない。ウィトゲンシュタインは、矛盾やトートロジーは「意味を欠くsinloss」という。
これは命題の限界事例で、現実の像ではないが、命題に論理形式が反映されていることを示す事例


論理定項は、何か指示対象をもっているわけではない、というのをウィトゲンシュタインは『論考』の根本思想としている
で、論理定項とは、操作であるとしている
このあたりも、分かりやすく説明されていて面白いけど、詳しいところはここに書くのは大変なので省略
あらゆる命題は、要素命題にある操作を複数回適用したものである、と言うことができる


語りえないものとして、ここまでで論理形式が挙げられていたけれど、次に出てくるのが「世界がある」ということ
語りうること(=思考しうること)というのは、命題になるもので(これはもうかなり前の方で出てきている話)、命題というのは論理空間の特定の場(事態)を指定するもの
「新幹線が東京駅に停車している」は、論理空間の中で「新幹線が(品川駅でも横浜駅でもなく)東京駅に停車している」という事態を指定している
しかし、「世界が存在している」はそうではない。「新幹線が東京駅に停車している」ならば「世界は存在している」し、「地球が太陽系にある」ならば「世界は存在している」し、とにかくあらゆる事態から「世界が存在する」ことは帰結する。つまり、特定の事態を指定するようなものではない=命題ではない。だから、語りうることではない。
トートロジーに似ているがトートロジーでもない。トートロジーは記号の組み合わせだけで真だとわかるが「世界がある」はそういうものではない。
ただ、「世界がある」ということは、論理にも先立つ。だからこそ、我々は「世界がある」ことに驚く。「世界がある」ことは、事実でも虚構でもなく、神秘なのだということになる。
「なぜ世界はあるのか」と問うても、それは有意味な問題にはなりえない。しかし、我々は「世界がある」ことに驚いてしまう。そして、「世界がある」というのは命題にならない(思考しえない)ので、そもそも何に驚いているのかもわからない。だからこそ、それは神秘としてしか触れることできない。
『論考』に影響をうけたとされる論理実証主義者たちは、ハイデガーを強く批判したことで知られているが、ウィトゲンシュタイン自身はこうした点でむしろハイデガーにはある種の理解と敬意を示していた、と注釈されている


ウィトゲンシュタインの『論考』期に行われた講演の記録として『倫理学講話』がある。
ここでいう倫理学は、美学も含めた価値についての話で、ここでウィトゲンシュタインは、価値とは何か考える時に「世界があることに驚く」ことを想起してしまうと語っている
いずれも、言語の限界に突進していく行いだ、と。ただ、ウィトゲンシュタインはそれを咎めたり貶めたりしているわけではなくて、そこに重要なことが示されていると考えている、と
ところで、ここでウィトゲンシュタインがしていた価値の話について、筆者による解説論文が紹介されているので、あとで読みたいと思う。
JAXA Repository / AIREX: 絶対的価値と相対的価値: 宇宙開発の意義についての一視点


世界の次に、語りえないものとして見いだされるのが「私」である
もし仮に『私が見た(聞いた・触れた)世界』という記録を残すとして、そこには、私の手とか脚とか鼻とかは出てくるだろうし、私が楽しかったとか悲しかったとかいったことも書かれるだろうけれど、それを見ている私のことは書くことができない、と。世界の中にある私ではなくて、その世界を認識している主体としての私。世界というものが世界の中にはないように、私もまた世界の中には現れない


ウィトゲンシュタインは、必然性を論理的必然性しか認めない。
論理空間という観点から見れば、何が現実に成り立っていて、成り立っていないかは偶然に過ぎない
だから、自然法則に基づく物理的必然性なんかも、ウィトゲンシュタインからすれば、偶然的なことということになる
また、同じようにして、倫理的に「~すべきだ」「~しなければならない」という実践的必然性もやはりないことになる
倫理や美といった価値もまた、語りえないことだということになる
次に、「倫理の担い手たる意志」というのが出てくる。意志は世界に何の影響も与えない。しかし、意志は世界に強弱を与える。
ここからウィトゲンシュタインは、幸福な生の条件とは何かということへ探求を進める
それは、「永遠の相の下に」世界を直観するということ*1
「永遠の相の下に」というのはスピノザ由来のフレーズだが、ここでは論理空間という観点から世界をとらえているということ
生の問題は、その問題が消滅することで解決する。
謎の解決は、謎を解くことではなく謎を謎として、神秘として受けれいることでもたらされる


『論考』の最後でウィトゲンシュタインは、『論考』のことを投げ捨てるべき梯子であり、読者はこれらの諸命題を葬り去るようにと述べている*2
そもそも『論考』は、『論考』自身が語りえないこととした、世界の外に位置するのようなことについて語ってきてしまっている。そういう意味で、葬り去るべきものだと。
またもう一つ、哲学という病を治療しおえたならば、本書はその役割を終えるのだ、とそういう意味でもあるのだ、と筆者は解説している。
また、「語りえぬことには沈黙しなければならない」というのは、語りえないことは語りえないという諦念のような認識であると同時に、語ってはならないという倫理的な態度の表明でもあるのだ、と
ある種の問題や謎は、語ろうとすればするほど、もとの問題から離れていってしまって解決不可能になってしまうから。

*1:ところで鬼界彰夫『『哲学探究』とはいかなる書物か――理想と哲学』 - logical cypher scape2では「~の相の下」という表現がたびたびでてくるけれど、ここからとられていることに今更気づいた

*2:この葬り去らなければならない諸命題というのが一体どこからどこまでを指すのかということで、研究者の間では論争が起きているらしく、その論争について吉田寛による論文が紹介されている。ところで、些細な話なのだが、美学・ゲーム研究者の吉田寛とは別に、ウィトゲンシュタイン研究・言語哲学者の吉田寛がいるということを初めて知った

マルチレベル淘汰(メモ)

昨日、ちょうどこういうことをメモったタイミングで、今日、下記のようなツイートを目にした

記事中に、コラムとして集団選択の話が書かれている
E.O.ウィルソンとデイヴィッド・スローン・ウィルソンによる「複数レベル選択理論」
群選択の話は、エリオット・ソーバー『進化論の射程』 - logical cypher scape2や森元良太・田中泉吏『生物学の哲学入門』 - logical cypher scape2で読んでいるが、読み直した方がよいかも。
sakstyle.hatenadiary.jp




『生物学の哲学入門』の該当部分はちらちらと読み直したんだけど、ソーバーの方は結構分量があるのでまだ読み直せていない。

『SFマガジン2019年12月号』

SFマガジン 2019年 12 月号

SFマガジン 2019年 12 月号

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2019/10/25
  • メディア: 雑誌

第7回ハヤカワSFコンテスト最終選考委員選評

優秀賞の『オーラリーメイカー』と特別賞の『天象の鏡』の冒頭部分が掲載されていたが、読むとしたら、本でちゃんと読もうと思い、選評だけ読んだ

SFブックスコープ JAPAN

新刊は、あまり能動的にチェックしていないものの、まあtwitterとかブログとか定期的に眺めているだけで読み切れないほど情報が流れてくるわけで
ただ、そういう情報だと早川や創元に偏っているのかなーと思ったのは、宮内悠介『遠い他国でひょんと死ぬるや』(祥伝社)が全然未チェックだったので

SFの射程距離第1回暦本純一

AI×SFプロジェクトの企画によう、AI研究者へのインタビュー記事第1回は東大情報学環の暦本純一
どういうSFを読んできたかーという話に始まり、SFとテクノロジーとの間の相互作用としてこれまでどのようなことがあったかみたいな話をしている
最後に、今後、どんなSFを読んでみたいかという話で、食のSFが読みたいという話が、なんか面白そうだなと思った

テッド・チャン「2059年なのに、金持ちの子(リッチ・キッズ)にはやっぱり勝てない――DNAをいじっても問題は解決しない」

表紙にある通り、テッド・チャン『息吹』刊行記念特集号なのだが、ページ数的にはかなり後ろの方にある、ので最初けっこう探した
『息吹』収録作である「オムファロス」が先行掲載ということだが、これは本の方で読もうと思うので、今回はパス
で、もう一つ掲載されているのが「2059年なのに、金持ちの子(リッチ・キッズ)にはやっぱり勝てない――DNAをいじっても問題は解決しない」
これは、2019年5月のニューヨークタイムズに掲載された作品で、100年後のニューヨークタイムズに掲載されている記事、というていの作品。なので、非常に短い
遺伝子改良によるエンハンスメント処置を、貧困層の子どもにも無料で施すというプロジェクトが発足したが、エンハンスされた子どもが全然社会的に成功できていない、という内容
いくら遺伝子レベルでエンハンスされても、結局、それを生かすための環境がないとだめで、その環境を整えることができるのは結局富裕層だ、という告発記事になっている

わたしたちがいま目にしているのは、たしかにカースト制の誕生だが、それは生物学的な能力差を基盤にしているわけではなく、現存する階級格差を固定することの言い訳として生物学を利用しているにすぎない。(中略)この社会のあらゆる面における構造的な不平等と取り組まなければならない。人間を向上させようとしても、この問題は解決しない
解決する唯一の道は、わたしたちが人間を遇するそのやりかたを向上させることなのである。

テッド・チャンインタビュー