松下哲也『ヘンリー・フューズリの画法』

サブタイトルは「物語とキャラクター表現の革新」、筆者の博士論文を書籍化したもの
美術としての絵画とそうではない絵画の結節点となる画家として、18世紀イギリスの画家フューズリについて論じる。
フューズリは、ロイヤル・アカデミーの画家だが、観相学や演劇などからの影響を受けており、本書では、美術だけではない当時の視覚文化の関わりの中に彼を位置付ける(マーティン・マイロンが、当時の視覚文化の趨勢である「ゴシック・スペクタル」の一部としてフューズリを位置付けている)。
第一章では、イギリスのロイヤル・アカデミーの特徴について
第二章では、フューズリの理論的背景について
第三章と第四章では、具体的な作品を取り上げ演劇からの影響を論じる
第五章では、フューズリの後世への影響について

序章
第1章 物語絵画と十八世紀の美術市場
第2章 物語とキャラクターの理論
第3章 「劇場は最高の学校」―俳優の演技と物語絵画の「行為」
第4章 物語とキャラクターの造形
第5章 次世代に継承されたフューズリの画法
あとがき
参考文献

ヘンリー・フューズリの画法: 物語とキャラクター表現の革新


序章

フューズリの略歴と近年の研究動向について
フューズリは、1741年チューリヒ生まれ、1825年ロンドン死没
「悪魔的」「魔術的」と称される画風で、「イギリスロマン主義美術」の先駆者
アカデミーに所属する画家なのだが、実は正規の美術教育は受けておらず、元々は文筆家
おおよそ20代のあいだは、翻訳業などをしていて、フランスへ行った際にはルソーやヒュームと知り合っていたりしている
元々画家になりたくて、趣味で絵を描いており、それがロイヤル・アカデミーの初代総統であるレノルズに認められ、29歳に画家への転身を決意、38歳で画家として独り立ちし、47歳でロイヤル・アカデミー準会員となり、最終的には付属美術学校最高責任者にまでなっている

第1章 物語絵画と十八世紀の美術市場

イギリスのアカデミーは、ロイヤル・アカデミーという名前はついているが、画家同士の互助組織であって、王家や国からの資金援助があった組織というわけではない
そのため、非常に「商業的」
年次展覧会を開催し、カタログを売って資金源にしていた
画家は、展覧会に出ることで知名度を上げて仕事を得るので、年々出展数が増える。すると、多数の作品の中に埋もれてしまうので、アピールする必要がある。「ショー」化
フューズリは、そこで目立つのが上手かった。代表作『夢魔』(エラスムスダーウィン『植物の園』の挿絵にもなっている絵)は、非正規なパロディを含めたくさんの版画が作られ、フューズリと出版産業の関係を強めた


文芸ギャラリー
ロイヤル・アカデミーは「英国画派」の確立を目指し、シェイクスピアに目をつける
シェイクスピア作品を題材にした作品の展覧会などをやるようになる
フューズリも、シェイクスピアを描いているし、ミルトンのもやっている
これは、文芸作品を題材としているため、必然的に連作となっていく
また、こうしたギャラリーは、展覧会だけでなく、版画の出版物企画とも連動するようになる
フューズリの画業や絵画論は、こうした伝統的絵画の変化が背景にある

第2章 物語とキャラクターの理論

  • 詩的模倣

フューズリは、芸術論としては、ボドマーとブライティンガーからの詩学の影響を受けている
そこでは、詩と絵画は同種のもの、どちらも「読まれる」ものであるという考えに立っている
例えば、古代ギリシアのシモニデスによる「絵は黙せる詩、詩は語る絵」という対句
これに対して、レッシングの『ラオコーン』が発表される
フューズリは、『ラオコーン』を読んでいたが、これに対して長く沈黙していた。しかし、しばらくたってから、レッシングからの影響を公言するようになる。
本論では、フューズリがレッシングを受容するようになっていった時期に、文芸ギャラリーの参加があったことが指摘されている。
で、フューズリは、絵画にも詩的な表現(物語)を描けるということと、レッシングの詩と絵画は異なる表現形式だということを両立させるような理論として「詩的模倣」という考えを生み出す
これには、彼の師であるブライティンガーの「創案」という考えが背景にある
ブライティンガーは、ライプニッツの可能世界論をもとに文学論を考えたらしい*1。で、世界の「創造」は神のみの御業であって作家が「創造」するということはありえないんだけど、作家は作品の「創案(発明invention)」をしているのだ、と。神が創造しえたのだけど実際には創造しなかった可能世界の事物を、現実世界における作品の形態に置き換えることが、作家の「創案」なのだ、と。その限りにおいて、作家は「創造」を行っているといってもいい、と
フューズリの「詩的模倣」というのは、この「創案」という考えをもとにしていて、現実世界の事物を模倣する「自然模倣」に対して、現実にはないけど可能ではあるような組み合わせを制作するのが「詩的模倣」
で、「詩的」という言い方をしているけど、これは詩(文学)に限ったことじゃなくて、絵画にも適用できる、と。

フューズリは、正規の美術教育は受けていないが、個人的には若い頃から絵を描いている
で、ミケランジェロとか古代ローマレリーフとかを元にして描いている絵とかもあるのだけど、元の絵を正確に再現するというようなことはあまりできていない。代わりに、プロポーションを誇張した人体造形をしている。
フューズリは、五ポイント・ドローイングという、人体造形の訓練をしていて、紙の上に5つの点を打って、それを頭部と両手両足にして絵を描くというもので、できるだけ描きにくい位置に点を打つようにする
なので、自然そうなポーズとかではなく、実際にはないんだけど論理的には可能なポーズの造形で人体を描く
それの例として、p.76に『プロメテウス』という絵が掲載されているんだけど、最初見たとき「ジョジョっぽい」と思った。身を屈めたポーズなんだけど、腕の捻り方とかが「っぽい」

フューズリは、理論書の中で観相学に言及しており、特に当時、観相学の集大成となっていたのがラヴァターの観相学の本で、フューズリは英訳版の監修とイラストを担当しているほど
キャラクターを造形する上で、観相学を使っている。例えば、額の角度によって、聖人と悪人とを描き分けるなど
ロイヤル・アカデミーのレノルズが、人体について理想形・本質を描くことを目指していたのに対して、フューズリは、むしろ多様性を目指していた(美しい人物だけでなく、卑しい・醜悪な人物も描こうとしていた)という相違がある

第3章 「劇場は最高の学校」―俳優の演技と物語絵画の「行為」

主に、感情表現と表情の話


フューズリは、シェイクスピア演劇を観劇するのが趣味で、特に当時の有名俳優であるデヴィッド・ギャリックを好んでいた
このギャリックによる芝居は当時、その「表情」と「身振り」によって感情が巧みに表現されていたことが評価されている
で、この表情による感情表現の背景にあったのが、シャルル・ル・ブランで、ル・ブランはデカルトやラ・メトリーの機械論的な哲学をベースにして、感情ごとの表情の描きわけについての本を書いている。このル・ブランの本が、ギャリックなどの演技論やフューズリに影響を与えている
フューズリの作品は、より暴力的・性的な過激な題材が使われており、それが特徴的だが、ヒュームからの影響があるという
ヒュームの「共感」の概念が当時のイギリスには広まっていて、フューズリは「共感」をもたらすような作品をより上位に位置づけている。

第4章 物語とキャラクターの造形

引き続き、演劇からの影響の話
時間表現についてと光について

  • 時間表現

ここではフューズリの「グイド・カヴァルカンティの亡霊に出会うテオドーレ」という作品について論じられる
これは『デカメロン』に収録されているエピソードの翻案作品を元ネタにして描かれた絵
異時同図法で描かれたことが指摘されているが、本書では特に、絵の右側で逃げている女性(テオドーレ)の、不自然な体のねじれに特にこの作品の時空間構造を見て取る
なお、この絵は、元エピソードが貞操についての訓戒だったのに対して、そのような側面が退き、暴力的な要素が強くなっている。そこで、フューズリが秘密裏にポルノグラフィを描いていたという点についても、この節で解説がされている
さて、話を戻すと、テオドーレの上半身の捻りは、当時の演劇舞台と関連しているのではないか、と論じられている。
当時の劇場の舞台は、役者が演技をする舞台が前にあり、その奥に舞台装置を設置した空間があった。
ただ、18世紀はこの二つの空間の区別が失われはじめた時期で、つまり、役者は左右方向だけでなく、奥行き方向への移動もするようになっていた。
フューズリが描いたテオドーレの上半身の捻じれというのは、奥行き方向から左右方向へと向きを変えていくことに対応しているのだ、と
本論では、これ以前に描かれた作品と、これ以後に描かれた作品で、登場人物が同様の動線を辿っていると思われる作品をあげ、フューズリが次第に、この動きの描き方に熟達していく様を示している。

フューズリは、自著において、「目への暴力」になるような明暗の差がはっきりしすぎているのは避けるように、と書いておきながら、彼がキアロスクーロの手法で描いた作品は、非常にコンストラクトが強い。フューズリは、理論と実作にこのような「矛盾」があると言われているが、本書はこれは矛盾ではないと論じる
ここでは、この時代の演劇において照明による演出が進歩してきたことや、幻灯機、ファンタスマゴリアのような視覚文化の中に、フューズリの作品を位置付ける
マクベス』におけるマクベスの恐怖の演出や、あるいは『マクベス』や『ハムレット』に出てくる魔女や亡霊といった超自然的な要素を描くために、強調された明暗が使われたのだと。そしてこれは、当時の舞台の照明演出や、ファンタスマゴリアなどでも同じようなことがなされているのである

第5章 次世代に継承されたフューズリの画法

フューズリの芸術論とロイヤル・アカデミーでの絵画教育は、広く共有されたが、イギリスにおいて、物語絵画の地位が上位だった期間は長く続かない。ターナーやコンスタブルの風景画の時代が来るからである。なお、コンスタブルはフューズリの教え子だったらしい。
で、第5章では、フューズリの影響についてが論じられる。
ここでまず、ラヴァターの『観相学』がラファエル前派に影響を与えていることに注目されるが、フューズリと世紀末美術の間には時間差がある。で、これを埋めるものとして、(1)ウィリアム・ブレイク(2)ブレイクを慕う若手美術家グループ「古代人」(3)アカデミーでフューズリに師事した画家たちの3つをあげている

ブレイクはフューズリの友人
観相学に基づくキャラクター造形について、ブレイクとフューズリには多数の一致があり、ブレイクはフューズリの盟友でありフューズリ理論の継承者であった
第2章の「詩的模倣」で述べた通り、キャラクターの多様性、個別性、醜さを重視する点など
ところで、ブレイクの言葉がいくつか引用されているのだけど、たびたび「崇高」という言葉が出てきて、流行ってたのかなとちょっと思った

  • 「古代人」

晩年のブレイクのもとに集った若い画家のグループ「古代人」
その中には、ブレイクを介してフューズリの理論を継承した者もいる
また、そもそもアカデミーでフューズリの教え子だった者もいる

  • アカデミーでのフューズリの教え子たち

既に述べた通り、イギリス美術において、物語絵画の時代は長く続かず、風景画の時代がやってくる。
このため、フューズリの教え子世代で、物語絵画のテーマを引き継いだ者たちは、経済的には困窮し、後世においてはほとんど無名の存在となってしまった
ここでは、そうした教え子としてヘイドンとホルストが挙げられている
ヘイドンは、フューズリの美術教育を、一般向けの技法書に書き、フューズリのキャラクター造形の理論をアマチュア向けに広めた
ホルストは、『惑星』のホルストの大叔父にあたり、メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』の挿絵画家でもあり、ここで重要なのは、ラファエル前派のロセッティが私淑していたという点
フューズリの教え子を介して、フューズリとラファエル前派とが繋がっている。


この前、大塚英志『ミュシャから少女まんがへ 幻の画家・一条成美と明治のアール・ヌーヴォー』 - logical cypher scape2を読んで、次にこれを読んで、まあ繋がっているのか繋がっていないのかよく分からないんだけど
この大塚英志ミュシャの本の中には、田山花袋柳田國男島崎藤村上田敏が集まっていた『文學界』グループが自らをラファエル前派になぞらえていたことなど、ラファエル前派への言及が度々あり、このフューズリについての本がラファエル前派で終わっているので、「あ、なんかつながったな」とw


なお、この本の一番最後に、テプフェールへの言及もなされている
テプフェールとフューズリも同時代人。ただ、直接的な影響関係自体はない。とはいえ、観相学をもとにしたキャラクター造形の理論を作り、物語を叙述するものとして絵画(テプフェールは「版画文学」という言葉を使った)をとらえ、アカデミックな美術とは異なるイラストレーションやコミックといった分野へ影響を与えたという点では、近い位置付けができるのではないか、と。

*1:ブライティンガーという、なんかプランティンガとなんか名前が似ている人が、可能世界論をもとにした文学論やっているの、ちょっと面白い気がしたw

大塚英志『ミュシャから少女まんがへ 幻の画家・一条成美と明治のアール・ヌーヴォー』

明治期における日本のミュシャアール・ヌーヴォーの受容を、与謝野鉄幹が主宰した『明星』とその表紙・挿画などをミュシャ風の絵で飾った一条成美を中心として見ていく本
文学において「内面」が発見されていった過程に、ミュシャ様式の絵がいかに併走していったか、という話
明治期の日本文学・美術史として読むことができるだろうし、また『明星』という雑誌を中心に展開されていくのでメディア論的な話かもしれない。実際、『明星』をはじめ、当時の文芸誌ではハガキなどによる投稿を受け付けていたといい、大塚はこれをSNSに喩えていたりもする。
また、当時『明星』の売り上げを一気に押し上げた立役者でありながら、現代では全く知られていないといってもいい一条成美という画家について紹介している本ともいえる。
(『明星』と関連しアール・ヌーヴォー風の絵を描いたといえば、むしろ『みだれ髪』の表紙も描いた藤島武二の名前があがるだろう。一条は、藤島の前に『明星』の表紙などを描いていた画家である)


ひらりん・大塚英志『まんがでわかるまんがの歴史』 - logical cypher scape2において、少女まんがの起源としてのミュシャ(とその明治期における受容)について触れていたのを読んで、そのあたり気になっていたので、この本も手にとったのだが、上述した通り、この本は主に明治期の自然主義文学を巡るものとなっており、直接的に少女まんがの話をしているのでは最後の1割くらいしかない。


なお、みんなのミュシャ展 - logical cypher scape2とももちろん関連しており、大塚はこのミュシャ展の「アドバイザー」となったために、書かれた本ということである。
あとがきによれば、木股知史の研究を下敷きにしているものだとのこと。
この本の大部分は件のミュシャ展とは独立して読めるが、後半の方は、「このあたりの話、ミュシャ展で見たなあー」というものが結構あるので、両方おさえておくとなおよし、という感じである。
ところで、ミュシャ展のミュージアムショップでこの本見かけなかったんだよな……前のスラブ叙事詩の時のミュシャ展にあわせて発行したと思しき本は置いてあったのに……売り切れていただけだよな、きっと

序 明治のアール・ヌーヴォーとは何であったのか
 1 少女まんがは「伝統」起源か
 2 明治のミュシャ様式の成立とその特徴
 3 明治の投稿空間とミュシャ様式のアイコン
 4 明治国家とミュシャ様式
第一章 明治ラファエル前派と投稿空間としての『明星』
 1 柳田國男の恋を描いた挿画家・一条成美
 2 明治のラファエル前派兄弟団と追われない青春
 3 編集者・与謝野鉄幹と投稿空間としての『明星』
 4 一条成美、ミュシャローカライズする
 5 『明星』はミュシャをいかに受けとめたか
 6 白馬会と『明星』
第二章 言文一致と日露戦争
 1 『遠野物語』の表紙に佐々木喜善は何を見たか
 2 新派としての柳田國男
 3 日記文と「私」
 4 日露戦争ミュシャ様式
第三章 明治のミュシャ、一条成美とその運命
 1 インスピレーションの画家
 2 「文壇照魔境事件」と一条成美の移籍
 3 『新聲』時代の一条成美
 4 一条成美の方法
終章 ミュシャから少女まんがへ
 1 一条成美とミュシャの忘却
 2 水野英子――ミュシャの帰還
あとがき
参考文献

劉慈欣『三体』

話題の中国SF、ファーストコンタクトものなのだけど、三部作の第一作目だけあって、まさに「俺たちの戦いはこれからだ」ってところで終わる。
前情報で、文革の話もあればVRゲームも出てくると聞いていて、さらには短編「円」も組み込まれているというので、一体どんななってる作品なんだと思ってたけど、なるほどどの要素もちゃんと収まっていた。
なお、タイトルは三体問題からとられている。作中に、「三体」というVRゲームがでてくるのだが、そのゲームで再現されている世界というのが実は……という話になっている。
読みやすいし、面白いし、スケールもでかいし、明らかに良い作品ではあるのが、上述したようにまだ全然話の途中であることは注意されたい。

三体

三体


主人公は2人
若い頃に文革を経験した女性天体物理学者の葉文潔(イエ・ウェンジエ)
ナノマテリアルの研究者である王淼(ワン・ミャオ)
文潔は、文革時代の経験からある信念を抱くようになり人類全体を左右するような決断をすることになる。
王淼は、軌道エレベーター実現につながるような素材の研究開発を行っている人物だが、本編では巻き込まれ型の主人公というか、科学界で起きている事件に関わることになり、その解決に動いていくことになる。


構成としては、まず文革時代の話がプロローグ的にあって、その後、現代を舞台にした話になっていく。その中で途中、葉文潔の回想が挟まったりするが、基本的には時系列順で話は進んでいく。


文潔は、父親も物理学者だが、紅衛兵のリンチにあって死ぬ。当時、大学院生だった文潔は、大興安嶺で労働するようになるが、罠にはめられ、軍事機密に指定されていた紅岸基地へと逃げ込む。
罠にはめられた際に、レイチェル・カーソンの『沈黙の春』と出会っている。


それからおよそ40年後、基本研究を行っている科学者の間で不可解な自殺が続いて起きていた。
王淼は、中国軍の高官、NATOやCIAの関係者、科学者、元軍人で警察官の史強などが集まる謎の会議に招集される。そこで、この不可解な事件に関わっているとされる「科学境界(フロンティア)」への潜入を指示される。
そして、王淼は、ゴースト・カウントダウンという謎の現象に遭遇することになる。ゴースト・カウントダウンというのは、王淼は写真が趣味なのだが、その写真に謎のカウントダウンが勝手に写りこむという現象。王は、科学フロンティアの一員である申玉菲に相談にいくのだが、そこでナノマテリアルの研究を辞めるように言われる。
王は、申がやっていたVRゲーム「三体」を始める。
ゲーム「三体」は、乱紀と恒紀とを繰り返す世界で、乱紀と恒紀の規則性を見つけ出すゲーム。恒紀というのは太陽が規則的に昇り、沈む時期で、乱紀は太陽の活動がランダム。また、乱紀がいつ訪れるかもランダムで定まっていないように思える。太陽の活動のランダムさによって、極寒になったり灼熱状態になったりして、文明は何度となく滅ぶが、この世界の生き物は乱紀には「脱水」といって活動停止状態にすることができて、何度となくやり直している。
時代考証はむちゃくちゃながら、ログインするたびに、少しずつ文明レベルの進んだ世界になっている。
太陽の動きがランダムなのは、恒星が3つある三重星系の惑星だから。三体問題をどうにかして解くために、コンピュータを作ろうとしたりする(この部分が改作されたのが「円」)
一方、王は申に対して、ゴースト・カウントダウンのようなトリックには騙されないというのだが、すると、申は宇宙背景放射を指定の日時に観測するように言ってくる
王は、自殺した宇宙物理学者である楊冬(ヤン・ドン)の母親、葉文潔から、宇宙背景放射の観測施設を紹介してもらう。文潔は、文革が終わったのち、大学教員として復職していた。
宇宙背景放射が突如として、カウントダウンのモールス信号を送ってくる。


科学者たちの謎の自殺の背後にあるのは一体何なのか(楊冬は、物理学には何もなかったといって死んでしまった)
王に降りかかった、宇宙背景放射をも操るゴースト・カウントダウン現象は一体何なのか
VRゲーム「三体」で描かれている世界は一体何なのか


これらの背後にいるのは、地球三体協会という謎の組織で、その総帥こそ葉文潔に他ならなかった。
再び、葉文潔の回想が始まる
彼女が逃げ込んだ紅岸基地で行っている実験は、SETIだった
文潔は、太陽ノイズの除去を研究していたのだが、その中で、太陽がある出力以上の電波を増幅するレンズ効果を持つという考えを持つにいたる。
それを検証するために、文潔は密かに太陽に電波を送信する。そしてそれは、三体世界によって受信されることになるのだった。
そして文潔は、人類のあり方をただすためには、人類以外の力を借りなければならないと考えるようになる。
これがのちに地球三体協会へとつながっていく


アルファ・ケンタウリってそういえば三重星系でしたねっていう
三体世界が、地球人類への侵略を行おうとしていて、三体協会はそれに協力している
ただ、三体協会のなかでも、3つの派閥が対立しあっている。
で、三体協会の中で特に人類滅亡を目的とする降臨派は、三体世界からのメッセージを協会内でも独占している。そのメッセージの受信設備を有しているタンカーがあって、三体世界と戦うには、このメッセージが保存されているコンピュータをどうにかして奪わないといけない。
そこで、史強が考えだした作戦が、王淼の開発しているナノワイヤーを使ってタンカーを切断してしまうという代物だったりする。
で、そのメッセージを奪取し、三体世界のテクノロジーが判明するのだが、これがまたすごい。陽子の中に折りたたまれている11次元を2次元に展開し、一つの陽子を人工知能に作り変えてしまうという、全く訳の分からない代物
このタンカー切断と、陽子AIが、なかなかトンデモなくてすごかったなーと

『群像2019年7月号/10月号』『文学界2019年10月号』

群像 2019年 07 月号 [雑誌]

群像 2019年 07 月号 [雑誌]

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徹底討議 二〇世紀の思想・文学・芸術」第一回「世紀の開幕」  松浦寿輝×沼野充義×田中 純  
徹底討議 二〇世紀の思想・文学・芸術 第二回「世界内戦1.0」  松浦寿輝×沼野充義×田中 純  


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特集 阿部和重『Orga(ni)sm』を体験せよ
ロング・インタビュー アメリカ・天皇・日本 聞き手=佐々木敦
作品論 斎藤環/大和田俊之/樋口恭介/大森望/越川芳明
作家論 鴻池留衣/諏訪部浩一小山田浩子/日比野啓
解説 『Orga(ni)sm』キーワードをめぐるよもやま話 サイモン辻本(辻本力)+ガーファンクル(編集部)

まだ、ロング・インタビューしか読めてないけど、『Orga(ni)sm』が改めて楽しみになってきた

筒井康忠編『昭和史講義【戦前文化人篇】』

筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』 - logical cypher scape2に引き続き、昭和史の本。同じ編者による同名シリーズの一番新しいものにあたる。
このシリーズでは政治家篇とか軍人篇とかが先だって出ているのだけれど、今回、昭和史読むかーと思った直接のきっかけは柴田勝家『ヒト夜の永い夢』 - logical cypher scape2なので、文化人篇も読んでおくといいかなーと思って手に取った。


まえがきにもあるが、おそらくこのような形で戦前昭和文化についてまとめている類書があまりないこと、また、取り上げられている人の中には、伝記的なものもまだあまりまとめられていないような人も含まれていることなどもあり、その点、企画としてはよい本である
一方、おそらく『昭和史講義』のクオリティが高すぎたせいもあると思うが、比較したときに、どうしても各章がバラバラだなあという印象がある。
また、人物にフォーカスしている以上、どうしても人物伝的になってしまい、昭和史・文化史というものを組み立てにくいところはある。
(例えば『ヒト夜の永い夢』の面白さは、この人とあの人とが実は知り合いだったとかいう点にもあると思うし、(文化以外にも)こういう影響を与えただとか、こういう背景があったとか、そういうのが分かってくると、文化史って歴史として面白くなってくるなーと思うんだけど)
ただ、後半は、その点でも結構よいところはある。


書き手によって、書きぶりが違うのだが、編者のまえがき及び実際読んでみた印象として、おそらく編者の側で「転向」というテーマが示されていたのだと思われる。
この時期の文化人は、多かれ少なかれ戦中における「戦争協力」という側面がある。
本書で取り上げられている人の多くが、明治生まれ、戦中に3~40代の働き盛り、戦後にも活動をしているという世代にあたり、戦前と戦中、戦中と戦後との間に態度の差があったりする。
そのあたりのことについて、特に触れていない章もあるのだが、大体の執筆者が多かれ少なかれ触れているので、おそらく各執筆者に対して、こういうテーマに触れて書いてください的なオファーがなんとなくあったのではないかなーという気がする。


1~4講が言論人・学者、5~11講が作家で、特に5・6講が文学者、7~9講が大衆文芸、10・11講が女性作家となっている。12・13講が美術家(漫画家)、14講が建築家(なので12~14講で造形美術とまとめることもできる)、15・16講が音楽家である。


なお、『昭和史講義』とは書き手の顔ぶれも異なっており、あっちが比較的「若手歴史研究者」を揃えた雰囲気を出しているのに対して、こちらはもう少し多様
(対象となっている人物の専門家であるが歴史研究者ではない人、年長な人がわりと含まれている。ただ、そういう人が『昭和史講義』に全くいなかったわけでもないのだが)

第1講 石橋湛山―言論人から政治家へ 牧野邦昭
第2講 和辻哲郎―人間と「行為」の哲学 苅部直
第3講 鈴木大拙―禅を世界に広めた国際人 佐々木閑
第4講 柳田国男―失われた共産制を求めて 赤坂憲雄
第5講 谷崎潤一郎―「今の政に従う者は殆うし」 千葉俊二
第6講 保田與重郎―「偉大な敗北」に殉じた文人 前田雅之
第7講 江戸川乱歩―『探偵小説四十年』という迷宮 藤井淑禎
第8講 中里介山―「戦争協力」の空気に飲まれなかった文学者 伊東祐吏
第9講 長谷川伸―地中の「紙碑」 牧野悠
第10講 吉屋信子―女たちのための物語 竹田志保
第11講 林芙美子―大衆の時代の人気作家 川本三郎
第12講 藤田嗣治―早すぎた「越境」者の光と影 林洋子
第13講 田河水泡―「笑い」を追求した漫画家 萩原由加里
第14講 伊東忠太―エンタシスという幻想 井上章一
第15講 山田耕筰交響曲作家から歌劇作家へ 片山杜秀
第16講 西條八十―大衆の抒情のために生きた知識人 筒井清忠

第1講 石橋湛山―言論人から政治家へ 牧野邦昭

親が日蓮宗。戦前の日蓮宗の影響力の強さ(石原莞爾井上日召宮沢賢治など)、と思ったが、創価日蓮宗系なので戦後も変わらんか……。
大学では、田中王堂に学ぶ。田中は、デューイのもと、プラグマティズムを学んだ哲学者
東洋経済に入って言論人・エコノミストとして活躍していく
小日本主義を主張し、経済学の国際分業論から、これを理論づけていった、という感じらしい
あと、高橋財政への支持とか
まあでも、日本は満州事変以降、湛山の主張とは反対の方向へと進む。しかし、湛山は専門家としての能力を買われて、大蔵省や企画院の委員となっていく、と
東洋経済新報社は、会員制クラブを作って、そこで学者、財界、軍部が情報交換できるような場を提供していて、湛山はネットワークのハブ的存在になっていた
ここでは、政府に協力しつつも、ある程度までは自由な言論の場を維持しようとしていたのではないか、と論じられている
戦後、領土を失っても自由貿易ができれば経済復興できると主張(これ、小日本主義から一貫してはいる)
政治家となり、1956年首相となる

第2講 和辻哲郎―人間と「行為」の哲学 苅部直

日本独自の思想を作った人のイメージがあるけど、人類全体に普遍的な原理がまずあって、日本では日本の現れをしている、というような考えの人だよ、みたいな話

第3講 鈴木大拙―禅を世界に広めた国際人 佐々木閑

鈴木大拙を基本的に絶賛する内容となっており、まあ、鈴木大拙の概略をつかむ分にはそこまで問題ないが、やはりちょっとなーという感じがした。
釈迦の教えとの違いの整理は面白かった。
鈴木大拙の思想の肝はフォームにあるとし、「霊性」には何を代入してもいいのだとした上で、鈴木の戦中と戦後の言説の変化は、「霊性」に代入されるものの中に国家が入っていたか否かの違いに過ぎず、鈴木思想は一貫していたと論ずるのだが、それはちょっとどうなの、と思った。

第4講 柳田国男―失われた共産制を求めて 赤坂憲雄

柳田が「ユイ(結)」という概念に着目していて、「固有の共産制度」を見いだして、「日本風の協同組合」の構想を目指そうとしていた、という話


農政学者としての柳田と民俗学者としての柳田を接続し、あまり知られていない柳田の政治思想に注目を促すという論
柳田を、わりと大塚英志経由で知った自分としては、柳田に政治的な面があるということ自体は馴染みがあるが、まあ大塚の場合、自然主義文学との関係で話をするので、協同組合論とかの話して柳田は知らんかった

第5講 谷崎潤一郎―「今の政に従う者は殆うし」 千葉俊二

関東大震災の話から始まる。
谷崎は震災を受けて関西へ移住し、この影響で作風が変わっていく
ところで、この震災で『白樺』は印刷所が焼けて廃刊。入れ替わるように、プロレタリア文学の『文芸戦線』と新感覚派の『文芸時代』が創刊し、昭和文学の時代が始まる、と
谷崎と芥川の「小説の筋」論争もこの時期


関西移住後最初に書いたのが「痴人の愛
その後、関西の文化に影響されて、古典主義的な作風に変わっていく
佐藤春夫との細君譲渡事件などが起こる
その後、恋人となった松子をモデルに様々な作品を描き、その中に、谷崎文学の到達点である「春琴抄」が書かれる。
最高傑作を書いてしまったがゆえに行き詰っていたところ、依頼があり、1935年から「源氏物語」の翻訳を始める
源氏物語は、内容的に不敬にあたるという考えもあって、1939年から出版されるのだけどそれにあたって結構削除されていて、戦後に全訳が刊行されている、と
1943年、「細雪」の連載が始まる、2回連載したのち、以後は掲載中止となる。が、戦中も書き続け、私家版として出版したりしつつ、戦後1947年に完成している


ずっと、「性」に関する話を書き続けた人で、その意味で一貫していた人ですよ、という話

第6講 保田與重郎―「偉大な敗北」に殉じた文人 前田雅之

昭和を代表する文芸評論家として、小林秀雄保田與重郎の2人がいるだろう、というところから始まる章
ただ、戦前・戦後通じて君臨した小林と、戦前のみの保田という大きな落差がある、と
しかし、1933年から1944年まで(23歳から34歳まで)の間、「ざっくり言えば、保田の時代であった」。
で、「日本的イロニイ」「偉大な敗北」というのが、彼のデビュー作や、古典論・英雄論としてどのように書かれてきたか、と


戦後、文壇から追放され、復活したのは1964年。1981年に亡くなっている。

第7講 江戸川乱歩―『探偵小説四十年』という迷宮 藤井淑禎

乱歩には、本格ミステリ期・通俗長編小説期・少年もの期の3つの時期があり、その上で、通俗小説期については取り上げられることが少ないが、その理由として乱歩自身がこの時期が低く見ていたから、らしい。
その上で、そもそもこの乱歩自身の自己言及ってどれくらい信頼できるのかということを論じている。
乱歩は、『探偵小説十年』『十五年』『三十年』『四十年』といくつも回想を書いており、その内容も、当時書かれたメモからの引用と、回想を書いた時期に書いたものとが混ざっており、乱歩自身が、一体いつの時点で、そのように考えていたのかをはっきりさせるのがなかなか難しいらしい。


1930年代後半以降、統制強化が進むにつ入れて、探偵小説家は、防諜スパイ小説、科学小説、冒険小説などを書くようになる。
乱歩は「隠棲を決意する」。実際、出版の仕事は減っていき、一方で、1940年代には町会活動に励むようになる(疎開家屋の取り壊し、配給の円滑化などなど。かなり細かく記録を残しているらしい)。戦争反対だとしても、ひとたび戦争が始まってしまったら、協力するのが「国民としての当然の努め」というようなことだったらしい。またこの時期に、科学啓蒙小説や防諜小説もちょっとだけ書いていて、まあそういう意味での戦争協力はしている


戦後は、探偵小説は復活するぞと息巻いて、オルガナイザーとしての活動を行っていく

第8講 中里介山―「戦争協力」の空気に飲まれなかった文学者 伊東祐吏

大菩薩峠』の主役である机龍之介は爆発的な人気で、その後の丹下左膳眠狂四郎子連れ狼木枯し紋次郎机龍之介のキャラクターを受け継いだもの、らしい。
そういわれるとすごい影響力なのだが、今現在はあまり知られていない作品だろう。


もともと中里介山は、若い頃社会主義、次いでトルストイ農本主義に惹かれたが、活動には挫折。新聞社に入って連載小説を書くようになる。
大菩薩峠』は、仇討ちもので、通俗小説として面白いらしい。ただ、仇討小説なのだが、仇討はなされることなく、話が終わらないまま続いていった作品らしい
菊池寛がほめたことにより人気に火が付き、大ベストセラーとなり舞台化・映像化などもされていったとか
仇討が終わらない、という点に、筆者は勧善懲悪を超越した深みがあると述べている。で、介山は、のちに、通俗的な部分をカットして単行本の『大菩薩峠』を出したとか。筆者は、そのせいで、どんな話か分からなくなってしまったと述べ、新聞連載版の方が面白いから、最初に読むならそっちから読め、というようなことを言っている


ベストセラー作家になった結果、立身出世を成し遂げた介山は、田舎に土地を買って田畑を作り私塾をつくり、理想郷をつくることにしたらしい。だが、この人、理想はあるがそれを実現する能力のない人らしくて、増長するしわがままも多い。『大菩薩峠』の舞台化・映画化に際しても散々モメた、とある。選挙に立候補するも最下位落選し、あげく「吾輩は選挙民を試したのだ」と言い出すとか、なんじゃこいつというエピソードが続いていく


サブタイトルにあるとおり、いわゆる「戦争協力」をしなかった作家で、戦中に作られた文学報国会に加入していない。
ので、確固とした信念をもって抵抗した作家だったのかと思いきや、作家の間で孤立していたから、というオチ
報国会に入会しなかったが、戦争反対していたわけではない。
選ばれてもいないのに、文化勲章を辞退しているとか
1944年に亡くなっている

第9講 長谷川伸―地中の「紙碑」 牧野悠

時代小説や戯曲で活躍した大衆作家
幼い頃は貧しく、職を転々とする少年時代を過ごしたのち、1914年(30歳)から執筆活動をする。
日中戦争が始まった頃には、既に名声の確立した作家となっていた。
戦争協力について、これほどコストをかけた作家は他にいない、と書かれている
というのも、兵士への慰問用に、自費出版した本を戦地へと贈るといった活動をしていたからである。
そのための文芸誌も立ち上げ、そこで若手の育成も行っている。門下に、山岡荘八山手樹一郎などがいる(戦後はさらに、平岩弓枝池波正太郎も輩出しているとか)
ただ、時局が進むにつれて、出版は厳しくなっていったようだ。

第10講 吉屋信子―女たちのための物語 竹田志保

今でいうところの「百合」にあたるジャンルの先駆けになった人として有名だが、なんかもう一世代前の人だと自分は勘違いしていて、戦後まで活動している人だったのか、という軽い驚きがあった。
戦中に、従軍記事を書いており「漢口一番乗り」などをしている。漢口への従軍には多くの文化人が参加していたようで、このあと出てくる、林、藤田、西條もここに関わってくる。
これを読む限り、結構バリバリ戦争協力した感じの人だなあという印象を受ける。もちろん、そうせざるをえなかった時代状況があるのであり、吉屋が悪人だったとかそういうわけではないのだが、戦後も一種の「失言」をしている。この失言については当時、投書などでめちゃくちゃ叩かれたようだ。本書では、前後の文脈を補えば決して戦争を肯定した発言ではない旨のフォローがされているが、まあ、評価は分かれるところだと思う

第11講 林芙美子―大衆の時代の人気作家 川本三郎

『放浪記』の著者、本書に取り上げられている人物としては、吉屋とともにただ2人の女性、ということになる。
吉屋と同じく従軍して記事を書いている。
吉屋は官吏の娘であり、上京し作家となった後も、同性パートナーとの生活を維持し、別荘を買うなど、裕福であったことがうかがえる。
一方、林は、幼い頃は旅商人の両親について貧しい生活を送り、女学校卒業後、上京してからも職を転々としていた(これが『放浪記』となる)。もちろん、作家になってからは人気作家となっているので、ずっと貧乏だったわけではないが、吉屋と林で対比になっているのかなとは思った。
また、本章では林について、決して熱烈な戦争賛美はしておらず、軍人賛歌を書いた吉屋とは違うということも書かれている。傷病兵などに対する共感があらわれているという(もっとも、中国の民衆については全く思いが向けられていない、とも述べているが)
1940年に、水商売ができなくなって満州へ渡ることになった女性を主人公にした小説を発表しているが、そこで書かれているのも荒涼とした暗い満州であった、とも
戦後も、復員兵、戦争未亡人、傷病兵など、一貫して弱者側の「暗い戦後」を描き続けた、と


第12講 藤田嗣治―早すぎた「越境」者の光と影 林洋子

藤田は、1913年(大正2年)に渡仏、、1929年に一時帰国しているが、その時既に昭和4年関東大震災を含めた大正のほとんどの期間をフランスで過ごした
1933年から改めて日本に居を移し、これは1949年まで続く
で、1937年の漢口取材があり、1940年、ノモンハン事件ののち、記録画を描き、41年、帝国芸術院会員として仏領インドシナへと派遣される。また、43年の「アッツ島玉砕」から次々と「玉砕図」を描く。今から見ると厭戦的な絵だが、当時の藤田のテキストは戦意高揚的だし、実際、当時の人々も厭戦とは受け取っていなかった節がある
戦後、日本美術から「(戦争責任により)自粛すべき者」として名前をリストにあげられる。また、GHQに協力したことが、関係者を感情的にさせたようだ、とも。GHQに協力することで、自作の回収をしていたらしい。で、再びパリへ行き、国籍変更するわけだけど、海外でもやはり軋轢はあったみたい


藤田の昭和文化史上の役割として、ネットワークのハブだったことが挙げられる。
1920年代、吉屋信子林芙美子菊池寛西條八十らが洋行した際、パリで接点があり、さらに、日中戦争の際のいわゆるペン部隊には、菊池寛吉屋信子吉川英治佐藤春夫久米正雄岸田國士西條八十林芙美子らがいた、と

第13講 田河水泡―「笑い」を追求した漫画家 萩原由加里

1919年に兵役にいき、これがのちの「のらくろ」につながる
兵役から戻ってきたあと美術学校の図案科に通い、前衛芸術にのめりこむ。とはいえ、美術の世界では生きていけず、新作落語をかきはじめる。それに目をとめた講談社の編集部に誘われ漫画を描き始める。当初は、少女雑誌に描いていたらしい
1931年から「のらくろ」の連載が始まる
1933、34、35年にはアニメ化もされている
本章では、コマ割りの大胆さに「のらくろ」の漫画作品としての魅力があった旨が論じられている。
しかし、1941年に連載は終了してしまう。これについては、政府からの打ち切り命令があったというのが表向きの理由とされているが、ここでは、41年当時既に人気が下がっていたという。
のらくろ」の人気は、とんとん拍子に出世していくことになったが、この頃になるともうある程度以上まで出世してしまったせいで逆に人気に陰りが出てしまったと


1989年(90歳)まで生きていたって全然知らなかった

第14講 伊東忠太―エンタシスという幻想 井上章一

建築家であり建築史家でもある伊東忠太について、この章はちょっと独特で、彼の「法隆寺論」に着目して、それを中心に論じていて、それ以外の要素はあえて捨象している。自分は、伊東忠太についてこの本で初めて名前を知ったくらい、全然知らないのだけど、しかし面白かった


エンタシスというのは、古代ギリシア建築に見られる、膨らんだ柱の様式のことである
法隆寺も、やはり柱の中ほどがふくらんでいる
これについて、アレキサンダー大王の東征によってアジアにまで伝わったヘレニズム文化の影響であるという言説があり、これを唱えたのが伊東の法隆寺論だと
しかし、この考えは実際は間違い
まず、アレキサンダー大王の東征があった時代、ギリシアでは既にエンタシス様式は失われている。また、アレクサンダー率いるマケドニアは文化的にはペルシア化しており、ギリシア文化を伝播させていない。実際、インドにおいて、エンタシス様式の柱は見つかっていない。
ヘレニズム文化がインドに伝わってくるのは、アレキサンダー大王の東征からさらに300年後のことである。
法隆寺の柱が膨らんでいるのは確かで、それは一見、古代ギリシアのエンタシスに似てはいるらしい。しかし、この様式を遡ると、北魏の方に由来があるらしく、中国の雲崗石窟にこれを見いだせると。伊東自身、雲崗石窟に行ってこれは見ているらしいが、それよりさらに西では発見できていない。
アレキサンダー大王によってヘレニズムがインドへ伝わった、というのは、ドイツの歴史家ドロイゼンによるもので、さらにドロイゼンの影響を受けた建築史家ファガーソンによって、インドには立派な建築があるがそれより東にはない、という本が書かれていたらしい
そして、伊東はこの本を読んでいる。
ファガーソンへの反発として、日本にも立派な建築があるぞという主張だった、と。しかし、それは何故かといえば、ヘレニズムが日本にもちゃんと伝わっているからだ、となる。つまり、ヘレニズムが立派だ、とする価値観自体は共有してしまっているのである、と
で、この伊東の法隆寺論は、のちに中村真一郎和辻哲郎へと影響を与えることになる。

第15講 山田耕筰交響曲作家から歌劇作家へ 片山杜秀

「赤とんぼ」などの多くの歌曲で知られる山田耕筰
しかし、彼の作曲家人生の中で、歌曲を作っていたのは、実は大正後期から昭和前期の僅かな期間だけ
彼のキャリアの大半は実は歌曲作家ではないのだ、という話
これもかなり面白い


日露戦争の年に東京音楽学校に入学。お雇い外国人教師に師事する。
当時、日本人作曲家は、歌ものは作っていたけれど、まだ器楽曲は全然作られていなかった。日本にはまだちゃんとしたオーケストラもなく、ヨーロッパの曲を演奏できる・鑑賞できる状況にもなくて、日本人が器楽曲を作るというのは夢のまた夢みたいな状況
また、山田は、家が裕福ではなく、官費留学できるあてもなかったので、私的にスポンサーを探し、三菱の岩崎小弥太からの援助をえて、ベルリン留学する。ただ、このことにより、山田は在野での活動を決定づけられる。
ベルリンでは、ワーグナーシュトラウスを知り、日本人で初めて交響曲を作曲し、歌劇も完成させる、とまあすごい達成を成し遂げるのだが、帰国しても、これが全然響かないのである
日本にはまだまとまなオーケストラもなく、ヨーロッパの音楽をちゃんと聴いた人がほとんどいない。そんな状況では、こんだけすごい曲を作ったぞと言っても、誰にもピンとこないわけであるし、また、スタンドプレー的に留学した山田は、音楽学校の教授になるという道もなかった。
山田は、次にアメリカ留学するが、今度は在米日本人とのつながりを密にしつつ、日本の民謡などをピアノ曲に編曲してこれを披露し、評価を得るという形で、捲土重来を期すことにしたのである。
彼は、文明開化期の都会の日本人で、親もキリスト教徒で、音楽学校での教師もお雇い外国人と、全く日本風のものから切り離されて育ってきたということもあって、今まで、彼の作った曲には日本の要素はなく、「西洋派」というレッテルをはられ、すごいはすごいけれど民衆からは敬遠されるという状態だったのである
アメリカ留学から帰ってからは、日本風の歌曲を作りはじめ、一般的にイメージされるところの、山田耕筰の曲が作られることになる。
しかし、山田自身は、歌曲作家で終わる気はなくて、歌劇を目指すようになる
で、1930年から1947年にかけて、3つの歌劇を作る。皇紀2600年の奉祝事業で初演された作品や、大東亜共栄圏のもと北京で公演されることが予定されながらも結局完成は戦後、作曲家の生前には公演されずじまいとなった作品とかがあって、ここらへん彼と戦争とが絡むところだけど、そこらへんについてはあまり述べられていない。


戦争との関係というよりは、伊東忠太と同じく、西洋文化が上というヒエラルキーに身を浸しながら、その中で日本文化をどうにかして位置付けなければならなかった文化人の1人、という感じ
伊東が「いや、日本だってすごいんだぞ」というものなのに対して、山田は「日本風のものを取り込まないと日本で売れない」っていう違いがあって、そこが面白い

第16講 西條八十―大衆の抒情のために生きた知識人 筒井清忠

北原白秋・野口雨情とともに、大正期には童謡運動、昭和初期には新民謡運動を担った詩人
早稲田仏文の教授でありながら、歌謡曲の作詞を手掛けていた
新民謡運動の際、各地の市町村の歌ができたり、校歌、社歌の類が相次いで作られたらしい。あれ、1920年代にルーツがあったのかー
戦前には『東京音頭』、戦後には『青い山脈』が大ヒット曲となっている
あと、『同期の桜』の作詞もしているとか(当時、作詞家不明だったとか。元々八十の詩だったのが他の人の手により改作されている)
日中戦争の際には従軍もしている

筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』

ワシントン条約から占領政策まで、昭和期の日本政治史を15講に分けて解説している
執筆者15人中8人が7~80年代生まれの比較的若い世代の研究者であり、サブタイトルにある通り、最新研究を踏まえた論述となっている。


直接的には、柴田勝家『ヒト夜の永い夢』 - logical cypher scape2を読んだのきっかけで、昭和史の本も読んでみようかなと思ったんだけど、最近だと、上田早夕里『破滅の王』 - logical cypher scape2とか暮沢剛巳・江藤光紀・鯖江秀樹・寺本敬子『幻の万博 紀元二千六百年をめぐる博覧会のポリティクス』 - logical cypher scape2とかも読んでたし、あともうずいぶん前だけど、『虹色のトロツキー』を読んだのはこの時代に興味を持つかなり強いきっかけだったと思う。
まあ、そもそもこの時代のことについてあまりよく分かってないので、大まかな流れを改めておさえておきたいなと思ったこともあり。
「最新研究を踏まえた」ものなので、記述の中には「従来説では○○だが~」とかあったり、わりとこれくらいは知ってるよね前提が置かれていたりするようなものもあって、「いや、それを知らん」って思うところもなきにしもあらずではあったが、全体的には、大まかな流れをつかむにはまずまず悪くないといったところだったと思う。
15人の分担執筆ではあるのだが、おおよそ一つながりのものとして読むことができて、そのあたりのクオリティの高さはなかなかだと思う。


この本のコンセプト自体が、単純化された歴史ではなく、複雑なプロセスとしての歴史を示すというものなので、ここでまとめ直すのもあれなんだけど
第一次大戦後の「ワシントン体制」があり、いわゆる協調外交を目指すという志向は一応あって、日本も戦争しないようにはしているのだが、あんまりうまくいかなくなっていくという流れがある。この「あんまりうまくいかなくなっていく」の内実は、確かに単純に何かが・誰かが悪いという話でもなくて、色々な要素がボタンの掛け違いのようになっていってる複雑なプロセスだとはいえる。
あと、この時代、面白そうだなと思った理由で、実際この本読んで面白いなと思ったところで、今現在(この30年くらい)の右翼・左翼と、この時代の政治思想ってまたちょっと違うところあるよなーというところで
国内における「平等主義」が、国外に対する反英米価値観と結託していくところというか
ドイツとかロシアとか日本とか、英米仏よりも遅れて近代化・帝国化した国々は、それぞれ少しずつ違うけれど、同じような方向に進んでいったのだなあ、と。
分かりやすい現れとしては、計画経済・社会主義天皇主義とかが結びついてる北一輝とか、その流れをくむ革新官僚とか
また、本文中でも多少言及があるが、この「平等主義」による政策は戦後に引き継がれたものもあって、戦前・戦中と戦後の連続性が示されている。
ところで、満州事変は、事の善し悪しは別として、なんでそういうことを起こしたのかというのは分からんでもないところなんだけど、日中戦争の方は、よく分からんというか、趣旨や目的が見えてこないというか。戦闘が戦闘を呼んでなし崩し的に拡大していっちゃってる感じがして、なんだかな―という感想を抱いた。
あと、善と悪とを単純化しないようにというのが、この本のコンセプトだというのは理解しつつ、一読した感想として、「政友会が結構悪くねーか」とは思った


読んでいる最中は、これ年表とかちゃんと書いていった方がよくないかとか思ってたんだけど、読み終わったら面倒になった
ブログ記事も、まあそこそこあっさり目にしようかと思っていたのだが、気付いたらかなり文字数いってた
正直、歴史ものの本はどう要約すればいいのかわからなくて、結構ムズイ。まあ、新書としては標準的なページ数の本だとは思うが、濃いことは濃い


なお、『昭和史講義』は、『昭和史講義2』『昭和史講義3』『昭和史講義【軍人編】』『昭和史講義【戦前文化人編】』とシリーズ化されている。
『昭和史講義』シリーズは、2015年から年に1回ずつのペースで出ているようだが、おそらく人気だったのだろう、ちくま新書はさらの2018年頃から『古代史講義』『中世史講義』『明治史講義』『平成史講義』『考古学講義』と次々とシリーズ化している模様

第1講 ワシントン条約体制と幣原外交 渡邉公太
第2講 普通選挙法成立と大衆デモクラシーの開始 小山俊樹
第3講 北伐から張作霖爆殺事件へ 家近亮子
第4講 ロンドン海軍軍縮条約と宮中・政党・海軍 畑野勇
第5講 満州事変から国際連盟脱退へ 等松春夫
第6講 天皇機関説事件 柴田紳一
第7講 二・二六事件と昭和超国家主義運動 筒井清忠
第8講 盧溝橋事件──塘沽停戦協定からトラウトマン工作失敗まで 岩谷將
第9講 日中戦争の泥沼化と東亜新秩序声明 戸部良一
第10講 ノモンハン事件・日ソ中立条約 花田智之
第11講 日独伊三国同盟への道 武田知己
第12講 近衛新体制と革新官僚 牧野邦昭
第13講 日米交渉から開戦へ 森山優
第14講 「聖断」と「終戦」の政治過程 鈴木多聞
第15講 日本占領──アメリカの対日政策の国際的背景 井口治夫

第1講 ワシントン条約体制と幣原外交 渡邉公太

「ワシントン体制」なるものが本当にあったかどうかは、近年の研究では疑問視されている、というとこから始まるのだが、この章のメインは、このワシントン会議で確認された枠組みを尊重した幣原外交についてである
幣原は、1924~27年および1929~31年にかけて外相となっている
外交官出身で、ワシントン会議では全権委員を務めて、当時の中国の面々と折衝した経験ももち、英米強調路線をとる「霞が関正統外交」の流れにもいた、と
中国に対して、出兵しない・内政不干渉を原則とした外交を貫いた、とひとまずは特徴づけることができる。
ただ、これ当初は日本の中国権益を守るうえでもうまくいくのだが、中国に出兵して干渉したいイギリスと次第に不和が生じるようになる。
また、国内的にも評判よくなく、省内に派閥とかを作ってこなかったので彼の考えを実現する部下もあんまりいなくて、幣原外交はうまくいかなくなっていく、という流れ

第2講 普通選挙法成立と大衆デモクラシーの開始 小山俊樹

政党政治の成立期について
最後の元老である西園寺公望も、政党政治の定着を望んでいた(とこれは、従来説と異なり近年の研究で明らかになってきたことらしい)
二大政党となった憲政会と政友会
憲政会は、緊縮財政と労働問題や参政権など社会問題重視
政友会は、積極財政で産業振興と治安立法重視(治安維持法の成立・改正などを行ったのが政友会)
普選法実施で、デモクラシーは広がったけれど、スキャンダル争いや汚職なども

第3講 北伐から張作霖爆殺事件へ 家近亮子

北伐があって、幣原外交時代は出兵しないけど、国内の反対にあって内閣総辞職となり、田中義一内閣が山東出兵を行う
で、1927年に、蒋介石は来日していて、田中との会談をしているらしい
この蒋・田中会談で、互いに合意があったような感じにはなるのだが、その理解に双方ズレがあり、第二次山東出兵と済南事件に蒋介石は衝撃を受ける。で、日記に「恥を雪ぐ」と書くようになったらしい

第4講 ロンドン海軍軍縮条約と宮中・政党・海軍 畑野勇

ロンドン海軍軍縮条約によって、英米に対して軍艦数などが制限されることになり、これが統帥権侵犯だ、という批判を呼び、のちに軍部の台頭と政党政治の没落を招いたとされるあれこれ
もともと、条約に反対していた海軍側も、統帥権天皇が有する大権の1つ)は問題としていなかったところ、政友会が、倒閣のために「統帥権」を持ち出し、一時は条約に同意していた軍部もこれにのったという形らしい
内閣側は、元老と宮中(宮内大臣侍従長など)の支持をとりつけ、天皇も条約締結を支持していたので、いけるだろと思っていたのが、実は誤算だった、と
海軍の不満が、満蒙政策に不満をもつ陸軍、政党政治への不満を持つ勢力などと共鳴してしまい、単なる条約反対から、イデオロギー色の強い政治問題へとつながってしまった
一方で、当初原則として掲げていた7割を下回ったとはいえ、実際は6割9分とかなので、実質的には、海軍力が不足するわけではなかった。で、このことを認識していたのが、板垣征四郎石原莞爾で、満州事変起こしても大丈夫だなという判断につながったと

第5講 満州事変から国際連盟脱退へ 等松春夫

元々、満州に対しては、日露戦争以後に日本が権益を持つようになり、また帝政ロシア時代からソ連が北部で権益を持っていた。で、この地域を実効支配していた奉天政権の張学良は、張作霖爆殺事件ののち、蒋介石の元に下っていた。日中ソの利益が対立しあう地域であり、またそんな中モンゴルがソ連の支援の下独立していた
満州事変に先立つ1929年、北満の権益回収のため、張学良がソ連に対して戦争をしかける(中ソ戦争)。しかし、蒋介石はこれに介入せず、張学良はソ連に敗退する。
日本陸軍、とりわけ関東軍はこの中ソ戦争に注視しており、ソ連への警戒心を持つとともに、中国に対しては武力で満州の権益維持ができると考えさせるきっかけになっていたらしい。
で、柳条湖事件から始まる満州事変があって、リットン調査団がくる、と。
国際連盟の脱退については、実際のところ、満州建国に対して国際連盟は実質的なペナルティを日本に課せたわけではなかった。ので、脱退せずに居直ってそのまま残る、という選択肢も日本にはあった。そもそも、西園寺公望は、松岡洋右に対して脱退を回避するよう約束させていたし、また当時の外務省の顧問であった法学者が、まさに居直ってそのまま残ればよい、という主張をしていたらしい。
しかし、湧き上がる日本の世論がそれをさせなかったのだと述べられている。

第6講 天皇機関説事件 柴田紳一

これは、学説上の問題というより「政治問題」だったという話で、色々な動機が絡んでいる
そもそも、美濃部達吉は、ロンドン海軍軍縮条約の際の統帥権干犯問題の際に、全く統帥権については問題ないと条約締結を擁護したために、軍部の恨みを買っていた&犬養内閣に対して、虎ノ門事件で山本内閣は総辞職したのだから、桜田門事件で犬養内閣も総辞職すべきだという主張していたために、政友会から恨みを買っていた、という背景があって、政治問題化したんじゃないかという話


ところで、本文には全く説明なく、「虎ノ門事件」「桜田門事件」がさらっと出てくるのだが(あと、朴烈事件というのが第2講にやはり特に説明なく出てくる)、全然知らなかったので調べたところ、これに幸徳秋水の事件を含めた4つの事件を大逆事件と呼ぶらしい。大逆事件というと幸徳秋水の奴しか知らんかったが(Wikipediaにも一般的には幸徳事件をさす、とある)。
大逆事件は、天皇や皇太子などへの危害(未遂・計画を含む)だが、この章では、日本近代史では暗殺が横行していた(その最たるものが二・二六だろうが)とかあって、大変な時代だよなーと思う(むろん戦後にもあるわけだが)


天皇機関説を攻撃する側が、倒閣勢力であり、さらに現状打破を目指す「革新」勢力であった、とある。
「革新」というと、今は左派をさす言葉として使われているけれど、戦前はむしろ右派をさしているのが面白いといえば面白い


明治憲法というのは、天皇に大権があるけれど、明治から大正期にかけて、議会制民主主義と整合させるために国家法人説及び天皇機関説というものが入ってきて、世論的にも受け入れられていたらしい(それで、日本国憲法象徴天皇制との連続性を解く法学者もいるらしい)。その法学者曰く、この天皇機関説事件以後、明治憲法が軽視されるようになって、軍国化が進んだのだ、と。


この章は、天皇機関説事件を色々な視点から考えるということで、色々な研究などを紹介する構成になっているけど、「紀元2600年記念事業」などによる時代的背景からの影響は今後の研究課題と述べられていたりする。

第7講 二・二六事件と昭和超国家主義運動 筒井清忠

1918年、満川亀太郎大川周明を中心とした老壮会→1919年、満川と大川で猶存社を結成し、北一輝を上海から呼び寄せ、「三位一体」の活動が始まる
北は、元々平民社の周辺にいて、中国の革命運動に参加。しかし、革命挫折後、五・四運動でかつての同志が反日運動をしていることに驚き、『日本改造法案大綱』を作る
この『日本改造法案大綱』、天皇の名のもとにクーデター起こして憲法停止して戒厳令を敷き、その間に、華族制度などの廃止、言論弾圧法案の廃止、土地の公有化と自作農の創設、労働省を作って労働者の待遇改善、児童の教育権を保全するという内容で、天皇主義かつ社会主義なんだなーっていう
この平等主義を国内ではなく世界に当てはめると、アジアの植民地解放、英米による支配打破になっていくようだ
面白いのは、北の思想が軍人と親和的だったという話で、ワシントン海軍軍縮条約による反戦ムードの中、日本でも軍縮の動きが進み、軍人に対する嫌がらせなどもある軍人受難時代になっており、そんな中、天皇中心の社会変革とアジア解放において、軍人は中心的な役割を果たすと説いた『日本改造法案大綱』が、青年将校に広まっていったと
一方、エリート階級である大川は、中堅将校との結びつきを強くする。トルコのアタチュルクの革命を見て結成された軍人結社・桜会の思想的リーダーも大川(1931年、大川らは宇垣陸相を首相にするためのクーデターを画策(三月事件))
北の思想に共鳴した青年将校と農村や下町の青年が日蓮宗井上日召のもとに集ったのが「血盟団」、橘孝三郎を中心にしたのが「愛郷塾」
1932年、血盟団による血盟団事件、愛郷塾などによる五・一五事件が起きる
五・一五は海軍の将校を中心とした事件で、裁判の際には、大々的に報道され「腐敗階級を打倒しようとした純真な青年将校」のイメージが広まり、花嫁候補が現れたり、レコードが作られたりと、スター化したらしい
北・西田の影響を受けたグループは荒木ら九州閥を推したてて陸軍改革を行おうとする。これが「皇道派」、これに対して永田鉄山らの「統制派」は皇道派を左遷する人事を行い、1934・35年を通して対立が激化していき、いよいよ1936年に二・二六事件へとつながっていく
で、事件後は石原派が台頭していって、東條と石原の対立が続くようだ。なお、統制派はそれほど結束があったわけではないので、その後もメンバーは軍の要職にいるけど、統制派なるグループがあったわけではないらしい。
本章では、昭和の超国家主義運動が政治運動としては二・二六でついえるが、その平等主義的な発想自体は、昭和10年代(1935年~)に、自作農創設、厚生省設置、国民健康保険・厚生年金制度、食糧管理制度、配当制限制などの施策につながり、さらに戦後の財閥解体・農地解放へとつながっていったと述べている
また、こうした政策をすすめた革新官僚の中に、北からの影響を受けていた者も多かった、と(岸信介とか)
この平等主義的思想は、既に述べたとおり、アジア解放・反英米思想ともつながっていて、また、天皇周辺にいた西園寺公望などの親英米政治家を君側の奸として捉える発想ともつながっている、と。

第8講 盧溝橋事件──塘沽停戦協定からトラウトマン工作失敗まで 岩谷將

塘沽停戦協定(1933年)というのは満州事変の停戦協定なのだが、その後、熱河での戦闘があったことが書かれている。自分にとって熱河というと羽毛恐竜なので、「あの熱河か、確かに位置的にはあのあたりだな、遼寧だし」みたいなつながり方をした。
この章では、1933年の塘沽停戦協定、1937年7月の盧溝橋事件、その後のトラウトマン工作と1938年1月の「国民政府ヲ対手トセス」までの経緯を記述していく
その記述を拾っていくとキリがないのだが、停戦協定後も、抗日運動が続き国境侵犯や日本人を殺害する事件などが相次ぎ、日本側もそれを契機に攻め返したり、対中要求を釣り上げるなどしていく
中国側は、国内の統一が概ねなされたため、反日姿勢が固まっていく
盧溝橋事件直前には、一時期、緊張緩和の空気もあったらしいが、互いの相互不信により、相手のちょっとした行動が戦争への準備に見えて、事件が勃発してしまう。
日中ともに、中央がうまく現地をコントロールできなかったり、開戦に消極的な者もいるのだが積極派に押されて折れてしまったりとか、そういった積み重ねで事態がエスカレートしていくという状況だったらしい
日本軍は華北を南下し、上海まで至る。首都・南京攻略を前に、戦争の長期化をおそれた中央は、和平工作を始める(トラウトマン工作)。
中国側は、ソ連の対日参戦についての回答を待って、日本への回答を保留。一方、日本は、中央の指揮が及ばない速度で現地の戦闘が進み、和平工作へのかけ金が上がっていってしまう。
結局、中国側も結論がまとまらず、日本は「国民政府ヲ対手トセス」として和平工作を打ち切る

第9講 日中戦争の泥沼化と東亜新秩序声明 戸部良一

停戦したけど戦闘再開しちゃったり、上層部は戦線拡大する気なかったけど現場が侵攻しちゃってそれを止めることができなかったりとか、何じゃそりゃみたいな感じで進む日中戦争
で、「国民政府を対手にせす」は、これまで国内的には「事変なので、そんな大したことないので」と言ってたのを、長期戦になるから覚悟せよという態度変更を促すためのものでもあったらしい。国民向けのアナウンスが目的なので、対外的には交渉再開の含みを持たせていたらしいのだが、議会でその点をツッコまれて、和平交渉を今後一切行わない旨の答弁をせざるを得なくなったとか
1937年、大本営が設置される。当初、大本営は現地の日本軍をストップさせるために設置されたとか
しかし、コントロールができず、占領地は拡大していく。が、拡大した占領地を維持しつつ戦争する能力を日本軍は有していない
で、中国に新しい政権を作って和平を行うという工作が行われるのだが、蒋介石を下ろすという日本側の要求が中国側に受け入れられないのと、和平工作として3パターンを動かしたのだが、優先順位をつけなかったので相互に矛盾して混乱をきたしていく
日本軍は、個別の戦闘では勝つのだが、中国側はそれで諦めず何度も仕掛けてくるので、戦争が終わらない
そんな感じで戦争が進んじゃっているから、戦争の目的が不明瞭で、それを明確化させるために出されたのが「東亜新秩序」だったとか。目的と手段が逆になってる感じがある。


満州事変は、後世から見て日本の権益が正当化できるか否かという問題はあるにせよ、権益を守るために武力を使ったという意味で、目的と手段がはっきりしているが、日中戦争はよくわからんなって感じ
和平工作のすれ違いやら何やらで、どんどん泥沼化していった様子が、研究により明かされており、この章でも解説がされているので、「どのようにして」こうなっていったかは分かるわけだけど
(実際、研究上でも「なぜ」ではなく「どのようにして」と問いの転換があったみたいなことがどこかに書いてあったような)
第7章で、昭和超国家主義運動は、反英米なのでアメリカと戦争するつもりはあっても、元々中国と戦争する気はなかったはずというようなことが書かれているし、石原はどっちかというソ連を仮想敵にしているから中国との戦争には消極的であったりと、中国と戦争する気のなかった人たちはそこそこいた感じがする。で、中国と戦争始まったら勝ちはするけど、広大な土地を占領し続けるのは日本には無理なのでやっぱ止めたいみたいなところもある。と、よっしゃやるぞというのではなく、なし崩し的に全面戦争になっちゃった感がある
なまじ戦闘には勝っちゃってるから、和平をするにも相手に条件を呑ませたいところがあって引けなくなっているし、一方、中国は北伐から国内統一をなしてナショナリズムが高揚しているし、反日感情も強くなっているから、そんな条件を呑めないしって感じで、お互いに止められなくなっている感じだったのかもしれない。

第10講 ノモンハン事件・日ソ中立条約 花田智之

1939年のノモンハン事件
1930年代を通して、満ソ国境紛争がたびたび起こっており、軍事・外交両面で日ソの緊張関係は高まっており、その先に起きた事件
日ソ両国が、国境線を「誤解」していたために起きた軍事衝突だったとか
ここでもまた、日ソともに、中央と現地の間に齟齬があり、エスカレートしていったらしい
従来、ノモンハン事件は、日本側が一方的に大敗した紛争と考えられていたが、近年の研究により、ソ連側にも多くの死傷者が出ていたことが分かっているとのこと
いずれにせよ、ノモンハンでの敗北および独ソ不可侵条約により、日本の対ソ戦略は変更される
で、1940年には、松岡洋右の案で、日ソ独伊四国協商構想なるものがあったらしい
英国打倒というのを軸として結びつけるというもので、また、日本海軍には元々ソ連との友好関係への志向があるらしくそことの親和性もあった
しかし、1940年後半には、早くも独ソ交渉が決裂しており、この構想が日の目を見ることはなかった
一方、1941年に、日ソ中立条約が締結される。とはいえ、これは不可侵条約ではなくて、先だって締結されていた中ソ不可侵条約の中で、日本と不可侵条約を結ばない旨の裏書があったことが近年の研究で明らかにされているらしい。
独ソ戦が始まることもあるし、日ソ関係なかなか微妙なところはあるけど、この中立条約が「北方静謐」をもたら、日本軍南下への歴史的転換点となったのだ、とこの章は締めくくられている


どうでもいいけど、ソ連の略として「蘇」表記があったの知らなかった


四国協商ってのもすげー構想だなと思うんだが、
近代化の後発国で、植民地を持っておらず、世界恐慌に対して、国家主義社会主義的な方向に舵をとることで対応したという点で、日独ソはある意味似ていたともいえるので、なくはないのかもしれない
そもそも、ソ連アメリカと手組んでたってのも意味わからんといえば意味わからん話だし
とはいえ、元々満州を巡って、日ソは対立してて、先に中国がソ連と友好関係結んでいたようなので、こうなるのも当然の流れと言えば当然の流れのようにも見える

第11講 日独伊三国同盟への道 武田知己

と、第10講に対しての感想を書いたが、続く第11講を読むと、日独関係も全く一筋縄でいかなかったことが分かる。
1936年、日独防共協定締結後、日独伊三国同盟締結へ向けて、1938年から39年にかけての第一次交渉と、1940年の第二次交渉が行われ、1940年9月に日独伊三国同盟が締結されている。
もともと、「防共」という目的によって、日独の結びつきは始まったらしい
第一次交渉では、自動参戦義務を巡って紛糾。つまり、ドイツが英仏と開戦した時に日本もこれに巻き込まれるのか否か。外務省は、防共=ソ連への警戒によりドイツとの同盟を結ぶことには賛同していたが、軍事同盟には必ずしも賛同していなかった。一方、軍部の中には、当然英米打倒の流れがある。
さらに複雑なのは、ドイツは中国では日本と対立していて、日中戦争では中国に軍事顧問を派遣していること。1938年、ドイツは日本寄りになり満州を承認するも、ドイツが求めるのは日本の勝利ではなく、あくまでもアジアにおけるイギリスへの牽制役。さらに、1939年、独ソ不可侵条約が結ばれることで、日本はドイツ側に疑いをもち交渉決裂
1940年、松岡洋右が外相になり、交渉が再開され、条文に曖昧さを残したまま締結されることになる。
ここらへん、松岡が一体どういう認識でどういう見通しをもって、この同盟締結をやろうとしたのかは、今でも議論の絶えないところらしい(本章では、従来言われていたほど見通しが甘かったわけではないが、判断を誤らなかったというわけではない、というようなことが書かれている)。
日独の間もコミュニケーション不足だったとされ、さらに、そもそも日本とイタリアの間には何の関係もなくて、空虚な同盟だった、とも
同盟は組んだものの、その同盟に内実はなく、三国は各々別個に戦争をしていた、ということが、従来の研究でも指摘されているとのこと

第12講 近衛新体制と革新官僚 牧野邦昭

「近衛新体制」=1940年の第二次近衛内閣が目指し、実現した、あるいは実現しようとした体制ないし運動
革新官僚」=近衛新体制で活躍した官僚、ここでは特に狭義の革新官僚として、商工省の官僚+1940年に企画院にいて経済新体制に関わったグループ


満州事変による軍事費増大により景気が回復したが、悪性インフレーションの恐れがあり、高橋是清が軍事費を引き締めようとするが、二・二六で暗殺され、その後、軍事費が拡大し続ける。これに伴い、経済統制が必要となっていく。
1937年、内閣調査局や内閣資源局を前身として、企画院が発足
なお、この時期の軍事費拡大はバブル景気をうみ、観光、出版、音楽、百貨店などの消費文化を生んだとのこと。神宮・天皇陵参拝、戦争報道、軍歌、紀元二千六百年記念事業など


一般的な戦中のイメージとして、物資不足で配給制の中、苦しい生活を送ったというのがあり、自分もそういうイメージは強いけれど、それはかなり戦争も末期になった頃の話であって、30年代は全然そんなことないんだろうなーと
ただ、この時期に消費文化が生まれたっていうのは全然認識してなかったあたりなので、面白いなーと。まあ、考えてみれば、欧米も1920~30年代って大衆文化が花開いた時期で、面白い時代だったわけだし、なるほどなーと
っていうか、この時期には、阪急東宝グループの小林一三もいるわけだしな(小林は、本章の後半に出てくる)


革新官僚の中には、いわゆるイデオローグタイプと実務能力に長けたテクノクラートタイプとがいて、相互補完の関係にあった
政党、軍部、財界が対立し、権力の混乱・空白が生じていた時期だったので、革新官僚が伸長しえた。
また、この混乱を回避するために、政治新体制として、一国一党体制が目指された。ここで、大政翼賛会が出てくる
さらに、企業経営を国家が行う「資本と経営の分離」という政策がなされるが、これを通じて、物価統制が行われる。
この会社経理統制令というのを作ったのが、のちに池田勇人のブレーンとして所得倍増計画に関わった下村治


で、ここからが面白いというか、そんな風だったのかと驚いたところというか
まず、大政翼賛会って、戦中の日本の軍国体制を象徴するようなもののように思うけど、当時、右翼と政党と財界から反対にあって、政治組織としてはうまく機能しなかったらしい
右翼から反対されてるってのは面白いのだが、天皇から権力を奪うものだとして反対されたらしい。
まあ、政党政治家から反対されるのは当然。財界が反対したのは、革新官僚の進める新体制が社会主義的だから。
文部省で「思想善導」を行っていた山本勝市は、留学時に社会主義経済計算論争を目の当たりにしていて、「資本と経営の分離」に対する反対論者として活躍
財界からは、当時商工大臣でもあった小林一三が強く反発し、岸信介と対立
経済新体制や大政翼賛会は、大日本帝国憲法に違反するものだとして反対されていたらしい。新体制は、明治維新に反する「反革命」的なものだとも言われたとか。
つまり、現代の我々は、挙国一致体制とか統制経済といった戦中の反自由主義的な在り方と、大日本帝国憲法をあまり対立したものとは思っていない。大日本帝国憲法も戦前の「悪い」奴でしょ。まあ、実際今の水準から見たらよいものとはいえんが。しかし、この当時は、大日本帝国憲法が対立していて、新体制への反対運動を「護憲」として行っていたのかー、というのが全く思ってもみなかったところで、驚きもしたし、面白くもあった
天皇機関説事件のところでも、大日本帝国憲法の解釈として天皇機関説が主流であって、天皇機関説を排撃したことで憲法軽視が始まったのだ、とみたいなことが書いてあったしな。
とはいえ、ここで「護憲」運動してるの、右翼と資本家なので、ここにまた、通俗的な・あるいは戦後的な政治思想のイメージとのねじれがあるよなー、と。
話を戻すと、結局、この反対運動にあって、近衛は「革新」色を薄れさせていくこととなる。


最後に、丸山真男橋川文三による革新官僚に対する論評などが引用されている。丸山は、革新官僚の1人であった迫水から「官吏とは計画的なオポチュニスト」と言われている。また、橋川は、日本のファシズムファシズムではなく異常な戦時適応であると述べている。
そして、革新官僚だった者たちは、戦後、計画経済・経済統制に否定的になり、迫水・下村らは所得倍増計画などを実行していくが、これもまた、オポチュニスティックな適応的なのではみたいな感じで締めくくられている。
まあ、戦中の官僚とかが戦後も活躍していたというのは知られているところだけで、このあたりにも、戦前・戦中と戦後の連続性が


参考文献にあがっていたケネス・ルオフ『紀元二千六百年――消費と観光のナショナリズム』気になる

第13講 日米交渉から開戦へ 森山優

北進論と南進論が、政府内でせめぎ合う中、両論併記され、あくまでもアメリカを刺激しない範囲として南部仏領インドシナへの侵攻が行われる
しかし、アメリカは即座に対抗措置をとる。この措置は、もともと資金凍結だったのだが全面禁輸となる。ただ、全面禁輸が戦争を呼ぶ可能性は当時から指摘されており、何故全面禁輸になったのかは今もって分かっていないらしい。
で、対米交渉がなんやかんやあって、いわゆるハル・ノートが提示される
日本も妥協案を作っていたし、ハルも妥協案を作成していたが、しかし、ハルから日本に渡されたのは強硬案だけだった。これが、日本に対米開戦を踏み切らせるきっかけとなった
何故、妥協案も含めてではなく、ハル・ノートだけが提示されたのか。これについては諸説あり、現在も議論が続いているところで、はっきりとしないらしい。


この章では、真珠湾陰謀説、いわゆるアメリカが真珠湾攻撃を事前に知っていた説について、あくまで「陰謀論」であり、立証されたことは一度もないし、そんなわけなかろうということが書かれている。なんでか、日米ともにこの陰謀論を信じてる人は一定数いて、今後も出てくるだろうねー、と

第14講 「聖断」と「終戦」の政治過程 鈴木多聞

終戦」にいたる過程での3つのポイント
(1)原爆投下とソ連参戦の時期が重なる
両者の降伏に与えた影響が区別できない。どちらの要因を重視するかで、原爆が必要だったかどうかが割れる
(2)御前会議の政治的影響
二度の「聖断」による影響が大きい。これも、何故もっと早くできなかったのかという論争につながる
(3)8月9日かから1週間という短い期間でポツダム宣言が受諾されている


降伏の四要因は、本土決戦回避、原爆投下、ソ連参戦、無条件降伏の「条件」
ここでいう「条件」というのが、いわゆる国体護持という奴で、「天皇の国家統治の大権」を変更しないことを条件にポツダム宣言を受諾している
このあたり、日本政府からの受諾と、アメリカからの回答と、外務省がどのように翻訳したか、というところに触れられている。
天皇の権限が残るように解釈できるような翻訳がなされている、と
国体って、天皇機関説事件のあたりでも出てきた言葉だったけど、未だにあんまり意味がよく分からない。まあ、天皇が統治すること、ということらしいが。


この章では、以上の4つについて、時系列順に説明されたのち、個人的なレベルでの要因として、関係者の不眠不休(による思考力の低下や余裕のなさ)をあげている。
あと、天皇の軍部に対する不信感。

第15講 日本占領──アメリカの対日政策の国際的背景 井口治夫

日本の国際社会への復帰・経済復興について、中国情勢が関係していたことが従来の研究では見逃されていたとして、そこに注目するという論
日本の経済復興について、まずは米ソ対立がある。もともと、枢軸国の重工業施設は国外へ移管されることが考えられていたが、アメリカが日本を対ソ最前線とすべく、重工業施設を残して経済復興への道筋をつけた
それから、アメリカはもともと蒋介石の国民党を戦後アジアにおけるパートナーにする予定で、国連の安保理常任理事国、世銀、IMFGATTでも重要な役割を担う予定であった
しかし、国共内戦により、国民党が弱体化していく流れの中で、アメリカが日本を重視するようになった、と
あと、もし中華民国が国連やブレトン・ウッズ体制で強い立場となっていたら、日本の復興に干渉してきただろうから、それで経済復興は遅れただろうね、とも。

シルヴァン・ヌーヴェル『巨神計画』『巨神覚醒』『巨神降臨』

6000年前に地球に残されていった巨大ロボットが発見されるところから始まる、巨神シリーズ三部作
2017年に第一作である『巨神計画』の邦訳が刊行された時点で気になっていた作品だったのだが、三部作揃って一気に読んだ方が面白そうだったので、待っていた。
実際、『計画』と『覚醒』はそれぞれ「え?!」っていうところで終わる。中途半端なところで終わる、というよりは、すごく次の話が気になるヒキになっている。
また、三部作なのでもちろん一つにつながっているのだが、『計画』と『覚醒』、『覚醒』と『降臨』の間にはそれぞれ9年の時が流れており、話も当初とはどんどん離れたところへと向かっていく格好となっている


この作品の大きな特徴としては、全編が、インタビュー記録、議事録、報告書、日記などで構成されているということだ。
いわゆる普通の小説のような地の文はなく、大部分が、会話文となっており、また基本的にはそれらは全て報告という形をとっている。つまり、物語世界内の出来事に対して事後的な報告で構成されているのだ。
これがある種の、フェイク・ドキュメンタリー的な雰囲気を作るのに一役買っており、また、どんどん読み進んでいくドライブ感も生み出している。
まあ、アクションシーンにおいてはどうしても、「おい、そっちの脚を動かすんだ! ああ、奴が腕を振り上げたぞー」みたいな説明台詞(実際にはこんな台詞はないけれど)で状況説明しなきゃいけなくなっていたりするのだけど、そこも一応、なんでそんなこと喋ってるのかというお膳立てはしてあるので、そこまで不自然に感じることなく読めるようになっている。
巨大ロボットが発見され、それをどうやって動かすのか、一体何なのかを調べていくというところから始まるのだが、このプロジェクトを率いている謎の男(作中、結局名前は分からないままで、登場人物一覧には「インタビュアー」という名で載っている)が関係者に対して行う聞き取りが、本編のほとんどを占めている。
このロボットは一体何なんのだ、という謎と同じくらい、あるいはそれ以上に、このインタビュアーは一体何者なんだというのも大きな謎なのであるが、
このインタビュアーの、なかなか巧妙な嫌な奴ではあるのだけど、しかし実はかなりいい奴でもあるという、そのキャラクターや言い回しがどんどん癖になっていくところもある。


ちなみに、日本語訳だとタイトルが全て巨神から始まる漢字4文字であるが、原題だと"SLEEPING GIANTS" "WAKING GODS" "ONLY HUMAN"となっている。



巨神計画 上 〈巨神計画〉シリーズ (創元SF文庫)

巨神計画 上 〈巨神計画〉シリーズ (創元SF文庫)

巨神計画〈下〉 (創元SF文庫)

巨神計画〈下〉 (創元SF文庫)

巨神覚醒 上 〈巨神計画〉シリーズ (創元SF文庫)

巨神覚醒 上 〈巨神計画〉シリーズ (創元SF文庫)

巨神覚醒 下 〈巨神計画〉シリーズ (創元SF文庫)

巨神覚醒 下 〈巨神計画〉シリーズ (創元SF文庫)

巨神降臨 上 〈巨神計画〉シリーズ (創元SF文庫)

巨神降臨 上 〈巨神計画〉シリーズ (創元SF文庫)

巨神降臨 下 〈巨神計画〉シリーズ (創元SF文庫)

巨神降臨 下 〈巨神計画〉シリーズ (創元SF文庫)

巨神計画

本編の主人公(の1人)である物理学者のローズは、子供の頃、森の中で突然現れた穴から、巨大な人工物の上に落ちたという経験を持つ。
大人になった彼女は、インタビュアーにより、この巨大な人工物=巨大ロボットの手の研究を行うことになる。
アメリカ各地から発見されるロボットのパーツを、インタビュアーは密かに回収していた。
回収チームのヘリコプターのパイロットとして、米陸軍のカーラやラッセル、ロボットに刻まれた文字のような模様の解読に言語学者(院生)のヴィンセントが集められる。
巨大ロボットのパーツをどうやって集めるか、また、巨大ロボットの正体は一体何なのか、どうやったら動かせるのかといった問題に取り組むと同時に、
物語としては、カーラ、ラッセル、ヴィンセントの三角関係が絡み合ってくる
もちろん、それらも全て、インタビュアーによる聞き取りから浮かびあがってくるわけだが。
ロボットは、女性型をしており(テーミスと名付けられる)、2人乗りのコクピットがあって、上半身と下半身を分担して動かす
ほぼ地球人と同じ形なのだが、膝関節の向きが違うってのが操縦する上でネックになってくる
さらに、コクピットにあるヘルメットを最初にかぶった人間を専用パイロットとして認識してしまうという機能があって、カーラとヴィンセント以外の人間には動かせなくなってしまう。
操縦の訓練をしている最中に、誤操作をしてしまい、テーミスがとてつもない破壊力のあるビーム攻撃が可能なことと、テーミスの存在が世界中に明らかになってしまう。
で、後半からは、遺伝学者でありマッド・サイエンティストの気のあるアリッサが色々やりはじめる。
また、バーンズという謎の男がインタビュアーに接触してきて、テーミスの正体についての情報を与えられる。
このバーンズというのは、今までアメリカの政府高官ですら手玉にとってきたインタビュアーを、逆に手玉にとるという奴で、インタビュアーが一瞬言い返せなくなってしまうところで笑ってしまったw
バーンズによると、地球にはかつて、はるかに文明の発達した異星種族が訪れていたのだけど、地球人類がまだ全然進化していなかったので、立ち去ったという。

巨神覚醒

『巨神計画』の最後で、インタビュアーは国連地球防衛軍なるものを作り、テーミスをどの特定の国家でもなく地球防衛軍のものとする
それから9年。
突如としてロンドンに巨大ロボットが現れる。
テーミスを作ったのと同じ異性種族の手によるものであることは明らかだったが、何かコンタクトをとってくるわけでもなくただ立っているだけ


ロンドンだけでなく、世界各地に突如として現れるロボットたち
そして、そのロボットからは致死性の高いガスが噴出される。人類は瞬く間に滅亡の危機に立たされる。
しかし、そのガスの中にいて、全く死ななかった者たちもわずかながらに存在していた。
ある特定の非常に珍しい遺伝子配列を持っていることが分かったが、何故彼らだけには効かなかったのか
はるか昔、地球に訪れた異星種族のうち、地球に残った者たちは地球人類の中に溶け込んで暮らすようになっていた。地球人の中には、異星種族の遺伝子が広がっていた。


インタビュアーの正体、というわけでもないのだけど、過去が明らかになる
彼がいなくなると、話の雰囲気がやはり変わってしまうとこある


一方、アリッサの手による体外受精により、本人たちも全く知らないところでカーラとヴィンセントの娘、エヴァが生まれていた*1
カーラは、人類の危機そっちのけで、彼女を探しに行く
エヴァは幼い頃から、人がたくさん死ぬ白昼夢を見ている。これが一種の予知夢で、ロボットによるガス大量虐殺のシーンを見ていたのだが、カーラの最期も夢で見ていた

巨神降臨

『巨神覚醒』では、最後、ロボットを倒してテーミスの中で祝勝パーティをしていたローズ、ヴィンセント、エヴァ、ユージーン准将がテーミスごと地球以外のどこかへワープしてしまう
9年後、彼らは地球へと戻ってくる
以後、降臨は、彼らが9年間を過ごした惑星エッサト・エックトでの話と、地球での話が交互に展開していく。
話の雰囲気がかなり変わって、ロボットは物語の後景に引っ込む
地球では、テーミスが消えた後、テーミスによって倒されたラペトゥスをアメリカが復活させ、世界中をアメリカの下に支配していた(露中は抵抗しているが)
何より、この地球では、異星種族の遺伝子がどれくらいあるかによって、ランク付けがされ、もっとも異星種族に近い者たちは収容所へと隔離されるという世界になっていた
(そもそも6000年前に拡散した遺伝子なので、実際のところ、異星種族の遺伝子の過多はかなり偶然に近い。親にはあまりないのに、子には多いということもありうる。ただ、従来からある人種差別が微妙に混ざり合っている模様)
一方、エッサト・エックトに行ったことで、何故地球に対してガス攻撃がなされたのかが分かる。というか、実は地球人に対する攻撃ではない。
エックトでは政治体制が変わり、別の種族に対する徹底した不干渉主義がなされるようになる。一切の影響を排除するのがよいことだとされ、6000年前にエックトが訪れた地球に対しても、エックトの影響を消すべきだという考えになり、地球に残ったエックト人を抹殺すべくガスをまいた。しかし、すでにエックトの遺伝子が地球人の中に分け隔てなく広まっていたのが、エックト側の完全な誤算で、エックト側でもこれがちょっとした問題となっていた。
10歳から19歳になるまでをエッサト・エックトで過ごしたエヴァは、非エックト系住民の活動に関わるようになる。ローズは、その不干渉主義により決して科学知識を開示してくれないエックトからなんとか学ぼうとして、わりと楽しくエックト生活を送る。一方、ヴィンセントは何とかしてエヴァを連れて地球に帰ることを目的に生活し、エックトの生活には溶け込まない。ユージーンは、最期までエックトを敵視し続ける。
エックトで巻き起こる社会不安、それを利用したローズとヴィンセントの地球帰還計画
地球では、戻ってきたテーミスとヴィンセントをロシアが確保し、米露の対立が深まる。ローズは、どうにしかして異星種族がもはや地球に害をなさないことを納得させ、現在の無意味な差別・収容所体制をなくさせようと奔走する。
ヴィンセントとエヴァの親子喧嘩


計画と降臨とでは、違う雰囲気の話になっていて、あれよあれよとここまで連れてかれた感じもあり、また、ロボットも降臨では物語のメインではなくなっていくのだが、しかし、ロボット同士の格闘戦が読めるのは実は降臨だけだったりするので、やっぱり最後までロボットものであるには違いない


  • 追記(20190914)

『降臨』、話の内容自体はまあ面白いかなとは思うんだけど、でもやっぱ『覚醒』が一番面白かったかなと思う。
『降臨』は、そういう方向に切り込んでいくのかという面白さはあって、決して悪い作品ではないんだけど、もともと巨神シリーズの特徴である、聞き取り・報告書等の体裁で書かれるという形式が、『降臨』は全然生きてない感じがして、話の内容とは別にそこがあまりよくない。
セリフだけで構成されてるパート*2と、普通の一人称小説がごとき「私的記録」パートで構成されていて、内面描写とか地の文の説明が必要だなってところを全部「私的記録」でどうにかしてしまっている感じがする
インタビュアーが生きていた頃は、そのあたりが、インタビュアーによるインタビューによって語られていくという形式をとっていたので、フェイクドキュメンタリー感が出て面白かったのだが。
「私的記録」は『計画』の時から既にあったけど、あれも、日記が資料としてアーカイブされてんだなという感じで解釈できる範囲だったんで
『覚醒』も、インタビュアーの死後は一応ローズがその立場を継いでいるということになっているので、ローズによる聞き取りがあるけど、『降臨』はそういうのがなくなってしまう

*1:ちなみに、育ての親がアニメファンだったので、エヴァンゲリオンが名前の由来だったりする

*2:戦闘シーンで「ぎゃあ、うぎゃあ」ばっかりで進行してしまうところがあるのは、やっぱまずいよね