布施英利『構図がわかれば絵画がわかる』

美術における構図入門、といった感じの新書
タイトルに「絵画」とあるが、取り上げられる作品の中には、写真、彫刻、建築、庭園も含まれており、美術作品と言った方がより正確。
最初のStep1~Step3が「平面」「奥行き」「光」で、最後のStep4が、筆者の専門である美術解剖学の話でもある「人体」となる。
全ページフルカラーとなっており、それぞれ具体的な作品を挙げながら、「です・ます」体の話し言葉に近い文体で書かれている。
なお、仏像・仏教への言及が非常に多く、そのあたりはもはや構図論という枠を超えて、仏教美術論に突入している。まあ、語り口がエッセー調なところもあるし、ちょっとそういう寄り道的なところがあってもいいのかなと思いながら読んでいたけれど、最後になって、仏教の話をしていることによってこの本の構図が破調の美(この言葉を筆者は使っていないが)になるようにしたんですよというようなことが書かれており、思わず「ナ、ナンダッテー」となってしまうw
「単に仏教・仏像の話がしたかっただけやろ」「構図の話と関係ないやろ」って言いたくなるし、実際当たらずとも遠からじだとは思うんだけど、「こうやって構図と関係ない話をこのバランスで混ぜることが、まさに構図とは何かの実践なんですよ」というようなことを言われ、「うーん確かに構図の実践なのかもしれない」「まあ内容、構図とは関係ないけど、仏教美術エッセーとして読む分には面白いしいいか」となんとなく言いくるめられてしまった読後感w


まあ、それはそれとして、絵を見るときにどんなところに着目すればいいのか、という点で色々とヒントになりそうなことは書かれているので、ちゃんと構図入門としても役に立つ

Step1 ——平面——
 第1章 「点と線」がつくる構図
   1、点
   2、垂直線
   3、水平線
 第2章 「形」がつくる構図
   1、対角線
   2、三角形
   3、円と中心

Step2 ——奥行き—— 
 第3章 「空間」がつくる構図
   1、一点遠近法
   2、二点遠近法
   3、三点遠近法
 第4章 「次元」がつくる構図
   1、二次元
   2、三次元
   3、四次元

Step3 ——光——
 第5章 「光」がつくる構図
   1、室内の光
   2、日の光
   3、物質の光     
 第6章 「色」がつくる構図
   1、赤と青
   2、赤と、青と黄色
   3、白と黒

Step4 ——人体——
 第7章 人体を描く
   1、西洋美術史のなかの人体
   2、アジアの仏像
   3、なぜ仏像は誕生したのか
 第8章 美術解剖学
   1、「体幹の骨格」を解剖する
   2、「体肢の骨格」を解剖する
   3、人体とバランス

構図がわかれば絵画がわかる (光文社新書)

構図がわかれば絵画がわかる (光文社新書)

第1章 「点と線」がつくる構図

1、点

フェルメール『デルフトの眺望』
カルティエブレッソン
『デルフトの眺望』は、川辺に人が立っているのだが、この人を除去したものと、元の絵の両方を示して、人(点)の配置が画面を引き締めている、と
あと、構図って何かという話をするために、わざとピンボケで撮影した『聖アンナと聖母子』が図示される。描かれている内容が何か分からなくても、構図は分かる。

2、垂直線

フェルメール『牛乳を注ぐ女』
千住博ウォーターフォール
ライト『落水荘
デュシャン『遺作』『大ガラス』
垂直、というのは重力を示している、という話で、絵画だけでなく、フランク・ロイド・ライト落水荘まで例として出てくる。
デュシャンの『大ガラス』は、オリジナルが置いてある美術館の配置的に、ガラスの向こうに庭の噴水が見えるようになっていて、実はデュシャンのテーマは垂直だったのではないか、と

3、水平線

重森三鈴 東福寺・方丈庭園
普通は壁や襖に描かれる市松模様(垂直)を庭のデザインにしている(水平)
グリューネバルト『キリスト磔刑図』
ホルバイン『横たわるキリスト』
人の身体の水平と垂直
セザンヌ『リンゴ籠のある静物
フランチェスカ『キリストの洗礼』
水平線が「安定」させる

第2章 「形」がつくる構図

1、対角線

ダ・ヴィンチ『聖アンナと聖母子』
ピカソアビニョンの娘たち』
対角線の構図の例として出されるのは上の2作
『聖アンナと聖母子』は、腕の流れとかで対角線があるのはまあなんとなく分かるのだが、『アビニョンの娘たち』は対角線だというのがなかなかピンとこなかった。
当然、対角線の構図があるのはわかるよね、みたいな書き方なので、どうすればそこに対角線があるのか分かるようになりたい、とは思った。

2、三角形

ピカソゲルニカ
ムンク『叫び』
ゼウス神殿 西破風
尾形光琳紅白梅図屏風
まず、『ゲルニカ』と『叫び』の比較
どっちも不安や恐れを誘うような内容だけど、前者は落ち着いて見え、後者は不安定に見える。
ゲルニカ』には三角形があって、『叫び』は逆三角形になっているのが、違いを生んでいる。
なるほど、『叫び』は逆三角形として見るのか。
筆者がムンクの絵から連想してしまう光琳の絵。曲線が似ている。光琳の絵は『叫び』とは向きが逆の三角形。しかし、光琳を上下反転すると、かなりムンクっぽくなるのでは、と

3、円と中心

アットマーク
チマブーエ『聖母と天使たち』
ジョット『ユダの接吻』
クラナッハ『黄金時代』
デュシャン『自転車の車輪』
ジョーンズ『4つの顔のあるターゲット』
サーンチー遺跡のストゥーパ
円の構図といって、最初に出てくる具体例が「アットマーク」なのが面白い。美術館に展示されるようになって、美術作品的なデザインとして扱われるようになったんだという話
宗教画とレディ・メイドやポップアートの具体例をあげたあと、急にサーンチー遺跡の話になる。しかも、ここだけ、筆者がこの遺跡を訪れた時の旅エッセイみたいなのが始まるw
内容としては、仏教美術の初期において、釈迦は直接描かれることがなかった。釈迦の物語を伝える彫刻とかあるんだけど、釈迦を示すところは人間の姿ではなくて、別の象徴とかを使っていた。そして何より、仏舎利の入っているストゥーパがあって、それが釈迦の存在感を伝えていたから、釈迦の姿を表す必要がなかった(仏像はなかった)、と。

第3章 「空間」がつくる構図

1、一点遠近法

ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』
ウッチェロ『森の狩人』
・遠くのものは小さく、近くのものは大きい
・モノの配置が、消失点に向かって並ぶ
・三角形の構図を作る
→遠近法は、奥行きや遠近だけでなく、「安定させる」効果がある

2、二点遠近法

ゴッホ『オーヴェールの教会』
二点遠近法というのは、消失点が2つある。この場合、画面の左右に消失点があって、建築物がこちらに出っ張って見える(一点遠近法は、奥の方に引っ込んでいるようにしか見えない)

3、三点遠近法

大徳寺・大仙院の枯山水
下の方に消失点があって、上からのぞきこむようなとこから見ると、高さ方向の奥行きがでる
『オーヴェールの教会』も三点遠近法が使われている

第4章 「次元」がつくる構図

1、二次元

ジョーンズ『星条旗
ウォーホル作品
アビニョンの娘たち』
二次元である旗を二次元のメディアである絵に描いて、絵が二次元であることを明快に示したジャスパー・ジョーンズ
ウォーホルもまた、絵画には表面しかない、ということを知らしめる
ところで、ここでウォーホルの人物像について、学生時代の友人が、ウォーホルは素描の技術は優れていたが目立たない学生だったと述べていることを、ここでは取り上げている。
何となく、ウォーホルは目立つのが上手い人、のような印象を持ってしまいそうだが、実際にはそうではなかったのだ、と。そして、絵の技術が実はとてもうまい、と
ウォーホルの作品に、絵画の技術はあまり関係ないように見えるけれど、構図、色彩、モチーフの選択にその技術は生かされているのだ、と。その技術によって、絵画の二次元性を露わにする作品を作った
ピカソは、ジョーンズやウォーホルのそのような試みの原点にいる人
二次元的な絵だけれど、しかし、三次元的になりそうなところもあって、せめぎあいのある作品

2、三次元

セザンヌ『サント・ヴィクトワール山とアーク川渓谷の橋』
長谷川等伯『松林図屏風』
セザンヌの作品は、消失点がいくつもある。それは、一点遠近法か二点遠近法かとかそういうレベルの話ではなくて、視点が複数存在している
で、ここでは、この絵を真正面から見て撮った写真と、斜め右、斜め左からそれぞれ見て撮った写真を並べてみせて、どっちの方向から見るからで印象の変わる作品なのだと論じられている
斜め方向から絵画を見る、という鑑賞は、セザンヌ独自のものではない、として、次に例にだしてくるのが屏風
屏風は、ジグザグにして自立させるわけだが、等伯は、ちょうど出っ張った部分の松を濃い色で、引っ込んだ部分の松を薄い色で描いていて、ジグザグによって生じる奥行きと、色の濃淡で表現する奥行きとを一致させて、より効果的にしちている、と

3、四次元

『牛跳びの図』(BC1500年頃、クレタ
「パリジェンヌ」
イルカの壁画
ダンサーの壁画
彫刻「牛跳びをする人」
アルカイック期の壺
ゴッホ『星月夜』
ゴッホ以外は、古代ギリシアの壁画や彫刻の話で、運動が描かれているものについての話になっている

第5章 「光」がつくる構図

1、室内の光

カラヴァッジョ『聖マタイの召命』
フェルメール『兵士と笑う女』
どちらも、窓から差し込む光によって、室内の人物が照らし出されている絵
カラヴァッジョの作品の方は、闇の中で人物が光によって照らし出されているものだが、
フェルメールの方は、光が空間を浮かび上がらせている、と比較されている

2、日の光

モネ『積みわら』シリーズ
モネ『渓谷』シリーズ
モネ『アルジャントゥイユの鉄道橋』
モネ『印象・日の出』
連作によって、時間の変化=「四次元」を描いている

3、物質の光

シャルトル大聖堂のステンドグラス
サン・ヴィターレ大聖堂のモザイク壁画
ガウディ『カサ・ミラ
モネ『積みわら』
絵に描かれている光、ではなくて、光そのものを見せる作品としての、ステンドグラス
それから、光を反射するモザイク壁画
同じくタイルを使ったガウディのカサ・ミラは、青いタイルが中庭の壁に沿って貼られている。太陽の光に近い上の方は明るく、地面に近い下の方は暗いが、タイルの青色が上の方が濃く、下の方が薄くなっているので、上から下まで同じ色のように見える、という代物
最後に再び『積みわら』
今度は絵に接近して見る。本物の絵だと、絵の具の塗った痕跡が残っているわけで、それを見ることで、絵が「モノ」であるということが分かる。
絵は「モノ」である。「モノ」であるが、それがイリュージョンとしての光を見せる。それが絵というものなんだーという話

第6章 「色」がつくる構図

1、赤と青

ダ・ヴィンチモナリザ
ムンク『叫び』
遠近法には、線遠近法、空気遠近法、色彩遠近法がある
線遠近法は、第3章で述べた通り
空気遠近法は、近くのものはくっきり、遠くのものはぼんやり見えるというもの
色彩遠近法は、青い色は遠くに、赤い色は近くに見える、というもの
モナリザ』は落ち着いて見え、『叫び』は不安定な感じに見える。
青い色が落ち着いていて、赤い色が攻撃的だから、というのもあるが、色彩遠近法も関係している。
モナリザ』は、実際の空間の秩序(遠近)にしたがって、色も塗られている
一方、『叫び』は、遠くにあるものが赤く塗られており、色彩遠近法的には、空間の秩序を破壊している。これが不安定さに繋がっているのだ、と

2、赤と、青と黄色

ジョーンズ『4つの顔のあるターゲット』
シャガール『私と村』
ピカソ『横たわる裸婦』
ルノワール『ピアノの前の少女たち』
ピカソ『赤い肘掛け椅子の裸婦』
ジャスパー・ジョーンズの『ターゲット』は、アーチェリーか何かの的(ターゲット)を描いた作品だが、使われている色が、赤、青、黄色の三原色
それ以降は、補色の話
シャガールピカソルノワールのそれぞれの作品は、補色が使われている。たまたま、その色だったのではなく、補色であるを使って構図を作っている

幼い子どもに絵を描かせたら、いっけん(引用注:ピカソと)似たような描き方をするかもしれませんが、色彩の理論を外さないやり方は、決して子どもにはできないでしょう。ピカソは子どものように描いたが、子どもはピカソのようには描けない、のです。
(p.178)

3、白と黒

千住博『Cliffs』シリーズ
クワクボリョウタの作品
ダ・ヴィンチ『洗礼者ヨハネ
オブジェの影を壁に映すクワクボの作品
背景が闇となっているダ・ヴィンチの作品
水墨画として描かれる千住の作品

夢窓疎石 永保寺の庭園
最後、Step1~3の総まとめとして、夢窓疎石の庭園があげられる。
垂直に落下する滝、水平面の池、半円形の橋、逆向きに半円形となっているお堂の屋根、遠近法的な錯覚で実際より大きく見える山、青いことで遠く感じられる空、庭の背後の地平線
最後に、筆者は「構図とは、宇宙を要約したもの」とまとめる
宇宙の形やリズムを目に見えるものにするための装置が「構図」

第7章 人体を描く

1、西洋美術史のなかの人体

キクラデス彫刻
クーロス像
ゼウスまたはポセイドン像
ダ・ヴィンチ『岩窟の聖母』『洗礼者ヨハネ
エル・グレコ『キリスト磔刑図』
ブーシェ『ソファに横たわる裸婦』
マイヨール『地中海』
古代ギリシアから20世紀までの彫刻及び絵画の人体について
やはり、垂直や水平についてで、人体の表現が重力の表現と結びついていることが述べられている
そのうえで、なぜ「人体」なのか? その疑問を解くためにアジアの仏像へ

2、アジアの仏像

ガンダーラ
釈迦苦行像
マトゥラー仏坐像
第2章で述べたとおり、初期の仏教美術において釈迦の像は作られていない
釈迦が亡くなって500年以上たったあとから作られ始める
仏像は、写実的な身体表現として始まる
あばら骨の浮き出た苦行像

3、なぜ仏像は誕生したのか

仏陀の話がどういう話なのか、という解説が始まる。
いや、そもそもなんで絵画の構図の話なのに釈迦の話が始まるのか、という当然のツッコミに対して、筆者は、「しかし私は、あえて「脱線」をしようと思います。完璧な構図が美しいのではなく、そこに「破れ」がはいったときに、美は完成する。及ばずながら自分も、そんな世界を構築することに挑戦したいからです。(p.224)」と述べ、さらに『蘭亭序』、ビートルズの『オブラディ・オブラダ』を挙げて「破れ」について述べ、さらに、安藤忠雄の『国際子ども図書館』が、古い建物に新しいガラスの建物が串刺しにされているようになっているという例をあげて、この本に、構図とは関係ない話が混ざっていること事態が、構図論の実践なのだとすら述べる。
なお、この説だけが、二段組になっていたりもする


釈迦の生涯を「八相成道」という8つの出来事に沿って説明してく。
いやこれは非現実的なのではないか、みたいなツッコミを度々いれつつ、いやでも、これ聖人・偉人の話だし、そういうものだと思って読み進めないとダメだよ、と思い直して読み進めるんだけど、またツッコミを入れるのを繰り返して進めいていくのが面白いw
で、最後に、筆者がサールナートの博物館で、とある仏像を見た時の話が、また旅行記風に書かれて終わる

第8章 美術解剖学

1、「体幹の骨格」を解剖する

脊柱の話
で、モディリアーニの絵は、肩が描いていなくて、柱としての脊柱を描こうとした作品なのではないか、と
あと胸郭の話

2、「体肢の骨格」を解剖する

脚と腕の話
足首のところが台形になっていて、これによって、足首が曲がっている時(普通に立っている時)は向きがロックされて、足首を伸ばすと左右に動かせるようになる、という説明がなされて、「人体すごい」

3、人体とバランス

発表内行為?

追記(20190806)

twitterで色々書いたので追記
長い上に、色々紆余曲折するので、結論としては最後に引用しているakadaさんの見てください

























内容と効力がそれぞれありますって話で、基本的にいいとは思っていて、発表行為も、作品を発表する場合に、内容と効力がそれぞれあるって話でいいと思う。
で、オースティンは、その効力を色々と分類したい、と思っていて、そのときに、効力をどのようにして発揮するかの違いで、発語内行為と発語媒介に分類できるのでは、ということを思いついたのではないかと思うんですよ。
ただ、この違いを突き詰めていった先に何かいいことがあるのかは、正直よく分からない。
なんか、慣習的かどうか、みたいな違いで分けてるっぽいんだけど、それでちゃんと分けられるのかどうか正直よく分からない、と。
でも、少なくともオースティンは、そうやって発語内行為と発語媒介行為を区別しようとしているので、その区別を引き継ぐなら、どうやって区別しようとしていたかも引き継ぐべき。
でも、繰り返しになるけど、この区別を導入することにどんな意義があるのか正直よく分からないし、発案者のオースティンですらどうやって区別できるのかに結構難儀しているので、その路線でいかなくてもいいのでは? その路線の先に何が待ってるの? と思う。 
なので、内容と効力の区別の話でいい、というのに同意します。






lichtung.hateblo.jp


ナンバユウキさんが、上の記事で、芸術作品を発表するという行為は、言語行為論にならって、「発表行為」「発表内行為」「発表媒介行為」という3つの行為をなしていることを述べている。
しかし、自分には、発表内行為を発表媒介行為をうまく区別でぉておりように思えない。
というか、「発表内行為」なるものがあるのかどうかが、正直よく分からない。
そして、オースティンにおける「発語内行為」と「発語媒介行為」の区別が、あまり理解されていないのではないか、という疑問も抱いている。

発語内行為と発語媒介行為の区別

大きな特徴づけとして、
in saying~(~と言いつつ)なされるのが「発語内行為」
by saying~(~と言うことによって)なされるのが「発語媒介行為」
である。
この「~と言いつつ」と「~と言うことによって」で、完全にどっちか判定できるかというと、例外が存在してるので完璧な判定基準としては使えないのだが、主なるイメージとしてはこれである。
日本語では、「~と言いつつ」というより、「~と言うことそれ自体において」という方が分かりやすいかもしれない。
「~」ということがそれ自体において~となっているような行為が、発語内行為
「私があなたに約束する」と言うことは、そう言うことそれ自体が約束という行為になっている。これが発語内行為。
発語が何らかの結果をもたらす、何らかの後続の出来事をもたらすような行為が、発語媒介行為
「私があなたに約束する」と言うことで、約束相手のあなたが喜ぶという結果が引きおこされる。そう言うことによって、私はあなたのことを喜ばせるという行為もなしている。これが発語媒介行為。


さらに、発語内行為にはいくつかの特徴があって、顕在化が可能な遂行的発言である、ということがある。
というか、そもそもオースティンの『言語と行為』というのは、「言語には遂行的発言というのがあるけど、これは一体何なんだ」っていう話がテーマで、その結果として、発語内行為というものにいきついている

われわれがいままでに発語内行為の名称を用いて分類してきた(中略)動詞群は、顕在的な遂行的動詞とされるものにかなり近いものであるように思われる。すなわち、一方で、「私はあなたに……と警告する(I warn you that)と「私はあなたに……と命令する」(I order you to)を顕在的な遂行的発言とすることができるのに対して、他方また、警告も命令も発語内行為であるからである。われわれは、「私はあなたに……と警告する」という遂行的文を使うことはできるが、「私はあなたに……ということを納得させる」(I convince you that)という遂行的文を使うことはできない。また、「私は……をもってあなたを脅す」(I threaten you with)という遂行的文を使うことはできるが、「私は……をもってあなたをおびえさせる」(I intimidate you by )という遂行的文を使うことはできない。すなわち、納得させたり、おびえさせたりすることは、発語媒介行為なのである。
(『言語と行為』p.218*1、第十講の最後の箇所)

顕在的な遂行的発言というのは、基本的には、第一人称・単数・直接法・能動態・現在形の動詞で行われる発言として特徴づけられている
第五講・第六講で、実際には、これに限らない例というのがたくさん出てくるのだけど、基本的には、一人称・単数・直接法・能動態・現在形の動詞での形に分析できるはず、という話になっていると思う。


それから、発語内行為と発語媒介行為の区別にあたっては、非言語的手段で達成できるかどうか、慣習的であるかどうか、という点もある
非言語的な手段云々については、あとで述べる

利用される手段が慣習的でない限り、発語内行為なるものは存在し得ない
(p.197、第九講の最後)

発語媒介行為のいくつかの後続事件は、非慣習的な手段、すなわち、まったく慣習的でないか、当該目的にとって慣習的でない手段によって達成できることは確かである。
(同上)


発語内行為は、慣習的に達成されなければならない。
発語媒介行為の中には、非慣習的な手段で達際されるものがある(慣習的に達成されるものもあるのかもしれない)。
発語媒介行為は、非言語的な手段でも達成することができる。
発語内行為も、非言語的な手段で達成できることもある。


オースティンの言語行為論は完成されたものではない、というか『言語と行為』を読むとわかるが、原則的にはこうなんだけど、こういう例外もあるし、こういう例外もあるし、こういう例外もある。みたいなことをわりと繰り返している本で、何にでもバシッと適用できるルールができているか、というとそういうわけではない。
のだけど、しかし、大体の方向性としてはこういうことだろう、というのは分かるようになっている

「1. 言語行為から表現行為へ」について

ナンバの記事にある「1. 言語行為から表現行為へ」において、いくつか気になる箇所があるので、順を追ってみていく。

発されない言葉の発語内行為

オースティンが『言語と行為』において主題的に取り扱ったのは、「発された言葉」であった(Austin, 1962)。だが、彼は、「発されない言葉」(たとえば「猛犬注意」などの看板)もまた、発語行為かどうかは別として、発語内行為でありうるとみなしている(Austin, 1962, p. 60)。

この、p.60というのはおそらく講談社版のページ数だと思うのだが*2、手元にあるのが大修館書店版なので、どの場所かちゃんとは分からなかったのだが、下記だろうか。

Ⅰ まずこの種の発効的単語を用いることなく、しかも遂行的発言を得ることができるからである。たとえば、
(1)「急カーブ危険」とする代わりに単に「急カーブ」としてもよいし、同様に「猛牛危険」と書く代わりに、単に「猛牛」と書いてもよい。
(p.104、第五講の中盤あたり)

仮にここのことだとすると、言葉が発されているかどうか、という話をしている箇所ではない。
遂行的発言というのは、一人称・直接法・能動態・現在形の動詞を使ってなされるものだ、という原則に対する例外について説明している箇所で
例えば、「私は~宣言する」というのは、一人称・直接法・能動態・現在形の動詞を使ってなされる遂行的発言である。
これに対して「君はオフサイドだ」というのは、一人称・直接法・能動態・現在形の動詞を使ってはいないが、これは「私は君にオフサイドであることを宣言する」の省略だと考えれば、これも遂行的発言だと言える。
この場合、直接法・能動態・現在形という文法的な要素で見分けることはできないけど、「オフサイド」という語彙で判断することができる。
しかし、そのような単語すら使っていない場合があって、それが「急カーブ」とだけ書いてあったり、「猛牛」とだけ書いてあったりするものだ、ということ。
これらも、「私はあなたに、この先急カーブで(猛牛がいて)危険であることを警告する」の省略形だと分析することは可能である。


まあ、「書いてもよい」と言っているので、声に発していないものも遂行的発言の一種としてみなしてんのかな、というのを読み取ることは可能だけど、ここでのオースティンの主眼はそこではないと思う。

非言語的な発語内行為

さらに、文字から離れて、非言語的な発語内行為は可能であると述べている。

……たとえば、警告する、命令する、指名する、譲渡する、抗議する、謝罪するといったことも非言語的な手段でできるが、これらは発語内行為である……。抗議というものは鼻に手を当てる軽蔑のしぐさ(snook)をしてもできるし、トマトを投げつけてもいいわけだ。(Austin, 1962, p. 118)

オースティンは、非言語的に発語内行為と同じ行為が達成できることを否定はしていないのだけど、ここの引用個所も、本来言おうとしていることはちょっと違うのではないか。

発語媒介行為に特徴的なことは、達成された反応ないし後続事件が、非発語的な手段を付加することによって、または、まったくそのような非発語的手段だけで達成可能であるという点である。たとえば、威嚇は、ステッキを振ることによっても、また、銃を向けることによっても達成することができる。納得させる、説得する、従わせる、思い込ませるなどという場合ですら、反応を非言語的に達成することがある。しかしこれだけのことでは、発語内行為を他から区別するのに十分ではない。なぜならば、たとえば、警句、命令、指示、贈与、反対、陳謝などを非言語的手段によって行うことができ、かつ、これらの行為は発語内行為でもありうるからである。たとえば、反対するために、両手の親指を鼻にあて他の指をひろげるという仕草をしたり、あるいはまた、トマトを投げつけたりしてもよい。
(pp.196-197、第九講の最後)


ここでの説明の主眼は、「発語媒介行為は、同じ結果を、非言語的にも達成することができる」という点である。
例えば、「威嚇する」という発語媒介行為があるけれど、同じ結果を、ステッキを振ることによっても達成することができる、と。
ただし、非言語的な手段でも達成することができるかどうか、という基準で、発語媒介行為と発語内行為を見分けることはできない。なぜなら、発語内行為の中にも、同じ効果を、非言語的に達成することができるものがあるからである。
ここで「ステッキを振ること」や「トマトを投げること」という例は、同じ結果・効果・反応をもたらすことのできる他の非言語的な手段として挙げられている。
なので、ここでオースティンは「トマトを投げること」が発語内行為である、とは言っていないのではないだろうか。
何かに反対するという行為をするためには、「「私は……に反対する」と言うこと」によっても達成できるし、「トマトを投げること」でも達成できる、ということを言っている。
でもって、発語内行為というのは、in sayingな行為で、~と言うことそれ自体によってなされる行為
「「私は……に反対する」と言うこと」は、「「私は……に反対する」という言葉を発している」という発話行為であると当時に「反対する」という発語内行為にもなっている。


で、これ以上のことはオースティンは言っていないけれど、「トマトを投げること」についていうと、これは「トマトを投げる」という投擲行為であり、またその行為をすることによって「反対する」という行為にもなっているのだと思う。
で、後者は、どちらかといえば媒介行為的なのではないか、と個人的には思う。
というのも、トマトを投げることそれ自体が反対行為になる、という慣習はないから。
だから、あえて言うなら「トマトを投げる」ことは、「トマトを投げる」という投擲行為であり、また、「反対する」という投擲媒介行為である、というあたりではないか(そして、投擲内行為なる行為はない)。

I doというカード

たとえば、ここに「I do」と書かれたカードがあるとする。このカードは、それ自体では発語内行為を行えない。ただの物言わぬカードだ。だが、特定の文脈において、たとえば、取り調べ室での自白の際にあるひとがこれを提示したなら、それは「確認」といった発語内行為であるし、また、結婚式で神父の結婚の誓約を尋ねられたときに用いれば、「宣誓」という発語内行為となりうる、さらには、子どもを誘拐した犯人が被害者の親にこのカードを送りつけたなら、「脅迫」という発語内行為を行いうる(cf. Saul, 2006, p. 235)。

自分は、ジェニファー・ソールの論文を読んでいないのでちゃんとわかっていない可能性があるし、例えば、ソールが、オースティンの言語行為論を多少修正している可能性はあるが、オースティン的に理解すると、この例に出てくるもの全てを発語内行為とはいえないような気がする。
I doの「do」に具体的にどういう動詞が入るかなのだけど、結婚式の例の場合、「誓いますか」と聞かれて「I do」と答えてる場面なので、doに入るのは「誓います」だろう。であるならば、この「I do」は誓約という発語内行為となりうる。
一方で、誘拐犯が送りつけてくる「I do」の場合、「この子を痛めつける・殺す」であろう。この場合、「痛めつける・殺す」と言うことによって(by saying)、脅迫という行為をなしているので、この脅迫は、発語媒介行為であるのではないか、と。


あと、文脈によって同じ行為が、異なる種類の行為になるという例として挙げられているのだけれど、これ「do」という動詞だから、文脈によって使い方が分かれているのであって、発語内行為自体が、こんなふうな形で文脈依存しているわけではないように思える。
発語内行為は、確かに文脈に依存して適切に行為できたりできなかったりということはあるけれど、行為の内実自体が変わってしまうわけではないように思う。
例えば、「私はこの船を××号と命名する」と言って命名という発語内行為を行うとする。
この時、発話者が命名する権利を持っている者であること、発話者の前に船があることなどの条件が必要で、そういう文脈がないと命名という発語内行為は成立しない。
けれど、「私はこの船を××号と命名する」という発話が、別の文脈では「約束」という発語内行為になったり、「判決」という発語内行為になったりすることはない。

乾いた米を相手にぶつける、という行為は、多くの場合「侮辱」という発語内行為を成立させうる。だが、同じ行為が結婚式で適切に行われたなら、「祝福」という発語内行為を成立させうる。

とナンバは述べているが、「乾いた米を相手にぶつける」行為は、その行為自体が(in doing?)「侮辱」になったり「祝福」になったりしているわけではなく、その行為によって(by doing?)侮辱行為になったり、祝福行為になったりしているのではないか、と思える。

「2. 表現行為論––––発表行為、発表内行為、発表媒介行為」について

発表内行為?

カラオケであのひとに向けてラブソングを歌うことは、婉曲であれ「告白」の行為であり

発表内行為の例として、色々挙げられているけれど、この例なんかはすごく媒介行為的に思える。
例えば、言語行為に置き換えてみると
「私はあなたに好きだと告白する」と言うことは、それ自体が告白という発語内行為になっていると思う*3
一方、「今夜は月が綺麗ですね」と言うことは、それ自体では告白という行為にはならないが、そう言うことによって発語媒介行為としての告白は行っていると思う。

発語行為と発語媒介行為の主語は同じ

これ、以前もナンバさんに指摘したことがあるんだけど、発語媒介行為が「発語によって引き起こされた行為」であるという時、ナンバさんはそれを発話者以外の行為して説明していることがある。
発表媒介行為の例として、「戦争への反対の行為としての『ゲルニカ』の提示があるひとやひとびとが戦争への賛意を示すことを取りやめたりすること」とあるのだが、この書き方だと、『ゲルニカ』を提示しているのはピカソであるのに対して、「戦争への賛意を示すことを取りやめ」ているのは、ひとびと(鑑賞者)の方ということになる。発表しているのはピカソなのに対して、発表媒介行為をしているのは鑑賞者の方になっている、ように読める。
つまり、
発表内行為:ピカソは『ゲルニカ』を提示することで戦争に反対する
発表媒介行為:『ゲルニカ』を見た人々が戦争への賛意を示すことを取りやめる
となっているように読める。でも、これは変。
例えば、結婚を誓約するという行為の場合、
発語内行為:新郎は結婚について(病める時も健やかなる時も云々)を誓う
発語媒介行為:新郎は新婦を喜ばせる
となるのであって、「新郎が誓約したことによって、新婦が喜ぶ」という新婦の行為は別に、「誓約する」の発語媒介行為ではない。


新郎は「誓います」と言うことによって、
「誓います」と言うという発話行為
誓約するという発語内行為
新婦を喜ばせるという発語媒介行為
この3つの行為を行っていることになるのである。
なので、発語内行為と発語媒介行為の主語は同じになっていないとおかしいはず。


先ほどの発表内行為と発語媒介行為の例について、主語を揃えるとこうなる。
発表内行為:ピカソは『ゲルニカ』を提示することで、戦争に反対する
発表媒介行為:ピカソは『ゲルニカ』を提示することで、見ている人が戦争に賛意を示すことをやめるように訴えている


この2つが、別種の行為として区別できるようには自分には見えない。
例えば、「ピカソは~反対する」を「ピカソは~抗議する」に置き換えてみると、「賛意を示すことをやめるように訴えている」という行為はほぼ「抗議する」という行為の中に含まれていると言ってもいいのではないか、と。

〇〇内行為と〇〇媒介行為とに分ける意味って何なのか

これが何に効いてくるのか、ということ
オースティンの場合、「私はあなたに~だと警告する」と言うことと、「私はあなたに~だと納得させる」と言うことは、ちょっと違うことだよねということを言いたくて、発語内行為と発語媒介行為を分けているのだと思う。
「警告する」の方は、「警告する」ということ自体が警告という行為そのものになっているけれど
「納得させる」の方は、そうはなっていない。
それから、「約束」「命名」「宣言」などの行為は、「私は約束する」「私は命名する」「私は宣言する」と言わないと(言語を使わないと)達成できないように思える。
一方で、「威嚇」や「説得」という行為は、言語を使っても達成できるけど、言語を使わなくても達成できる。
このあたりの違いも、発語内行為と発語媒介行為という、違う概念を用いることで、説明できる・効いてくるところだと思う。


発語内行為と発語媒介行為の区別は、結構難しくて、オースティンも結構苦戦しているようにも思える。
ただ、例えば、それらの行為によってもたらされる結果の違いが、これらの行為の違いにもなっている。
発語内行為は、慣習によって効力がもたらされる、というのが特徴になっていたりする。


で、発表内行為と発表媒介行為は、分けることによって何に効いてくるのかが、あんまりよく分からないし、
実際、それほどはっきり分かれていない気がする。

じゃあどうすればいいのか

もしかしたら、グライスとかの方がよかったりするのではないか、と思ったりもしている。
といって、自分はグライスは全然読んだことないので、むしろグライス詳しい人に色々言われてしまうかもしれないが。


まあ、グライスを使うかどうかは別としても、意図と解釈みたいな話の方が違いのではないか、という気がする。
普通、意図と解釈と言った場合、作品の内容をどう解釈するかにあたって、作者の意図がどう関与しているのか、という話になるけれど、
それが、発表するという行為において、その行為がどのような種類の行為であるのかをどう解釈するか、という話なのかな、と。
あるいは、ある芸術作品が、何のカテゴリーに属しているか、という話に近いかもしれない。
ある発表行為が、どういう行為カテゴリーに属しているか、と。


つまり、このナンバさんの表現行為論にとって、作品を発表するという行為が、「抗議」なのか「賛同」なのか「侮辱」なのか「批判」なのか、区別できるようにしましょう、というのが大事なあたりなのかなあという気がする。
で、それって、「この作品はこのカテゴリーのもとで鑑賞してほしい」という作者の意図や、こういう特徴を持っているから、あるいはこういう歴史的経緯があるからという理由によって、ある作品があるカテゴリーに属することになるのと同様に、
作者の意図や作品の特徴や歴史的経緯によって、ある発表がある行為カテゴリーになるのではないかなあ、と
あと、例えばグライスとかは、「話し手が、聞き手にxという信念を持たせるという意図をもつこと」が、ある表現が「x」という意味をもつことだという話だったと思うのだけど、それと同様に
「発表者が、鑑賞者にxという信念をもたせるという意図をもつこと」とかでいけるのではないかと
特に、「主張する」「抗議する」系の発表行為は、鑑賞者に特定の信念を持たせようとする行為のように思えるけど。


・芸術作品の表現は、発表という行為になっている
・その行為は、何らかの結果・効果を引き起こす
・発表者は、その結果・効果を意図していたり、意図していなかったりする


多分、この3点が言えればいい。
で、自分が言いたかったのは、この3点を言うのに、〇〇内行為と〇〇媒介行為の区別を経由する必要はない、ということ。
繰り返しになるけど、発語内行為と発語媒介行為の区別は、ある行為の結果・効果の引き起こし方に違いがあって、その違いを掬いたいというところから出てきているものだと思う。
一方、表現行為論は、表現は行為であり、行為であるからには何らかの結果・効果をもたらす、ということさえ言えればよいのではないか、と。

*1:なおページ数は全て大修館書店版のもの

*2:原著のページ数とのことでした. sumimasenn .

*3:この言い方は不自然で、実際には「私はあなたが好きだ」となって「告白する」という部分が省略されると思うが

日経サイエンス2019年9月号

特集:恐竜 その姿と動き

実物化石が語る新たな恐竜像  内村直之/古田 彩


「恐竜博2019」紹介記事
ディノニクスとデイノケイルスとむかわ竜について

恐竜たちの走りを再考する  出村政彬/古田 彩 協力:宇佐見義之/平山 廉/ 久保 泰


ティラノサウスルは速かったのかどうか問題!
走るティラノサウスルというと『ジュラシック・パーク』にも出てくるが、ロバート・バッカーなどは、時速70kmで走ったのではないかなど、超俊足説を言っていたらしい
対して、足跡化石から、決して速くはなかった(時速10kmとか30kmとか)という説も出てきている。
これに対して、数理生物学者である宇佐見は、時速50kmで走れたという、筋骨格モデルを用いたシミュレーションを提示している。


久保は、四足歩行よりも二足歩行の方が速い、という研究結果を出している
三畳紀の主竜類について、二足歩行と走行性をそれぞれ指標化してグラフ化したら、そういう傾向が出た、と(なお、速さは中足骨の長さから指標化)
また、足のつきかたで、蹠行性・趾行性・蹄行性という分類があるが、この特徴についても久保は調べている。
恐竜は全て趾行性。
対して、中生代の偽鰐類や哺乳類は全て蹠行性
現生生物を見ると、大型動物のほとんどは趾行性ないし蹄行性
趾行性は、足首を伸ばすのに必要なモーメントが小さく、同じ筋力であればより大きな体を支えられる。エネルギー効率もよくてスピードも出しやすい。
中生代に、恐竜が繁栄した理由は、趾行性にあったのではないか、と

トリケラトプスの本当の歩き方  古田 彩 協力:藤原慎一


四足動物の脚のつきたかには、側方型と下方型がある。側方型は、いわゆる這い歩きで、トカゲとかサンショウウオとかの脚の付き方。下方型は、直立歩行で、哺乳類の脚の付き方。
恐竜は、下方型なのだけど、そもそも骨化石ってばらばらな状態で見つかるのに何故分かるかというと、足跡から分かる。歩角の違いで、側方型か下方型かが分かる。
古生代の足跡と中生代の足跡を比べると、下方型が一気に増えたことが分かっている。


前足を普通にまっすぐ下におろすと、つま先が外側を向く。
しかし、哺乳類はつま先が前を向いていて、これは手首を回転させられるから。
ところが、爬虫類はこれができない。
トリケラトプスの再現はこれまで、下方型だけどつま先が前を向いているものや、つま先が外側を向いていて側方型になっているものがそれぞれあって、統一されていなかった。
原慎一の研究によって、下方型へと統一されるようになった


現生動物について、筋肉の付着位置から、肘を曲げるテコの長さを調べる。その長さと、下方型か側方型か(ナマケモノのような匍匐型か)を、グラフにプロットしたところ、これが対応していることが分かった
ここから、トリケラトプスについても明確に下方型だと言えるようになった、と


藤原復元について、聞いたことはあったが、よく分かってなかったので、勉強になった

デング熱ワクチンの混迷 抗体依存性感染増強  S. ヤスミン/M. ムカジー


デング熱は、初回の感染よりも2回目の感染で重篤化する、という特徴(抗体依存性感染増強)があるらしい
で、ワクチンの投与が、この初回感染と同じ役割を果たしてしまうという問題がある。このため、感染したことない人はワクチンを打たず、1回感染したことある人だけワクチンを打つ、というのが、このデング熱ワクチンの打ち方になるのだが、当初これが分かってなかった。
最初、WHOとかフィリピン政府とかがデング熱ワクチンできたよーみんな打ってーということをやっているときに、地元の大学の先生が「感染していない人は危ないから打つな」と警告してたのだが、まあもちろん、受け入れられず(反ワクチン派の主張に見えかねないもんな、これ)
しかし、死亡者が出てしまい、政府の方も「感染していない人にはワクチンを打たない」方針に変わる。のだが、何故ワクチンを打たせてもらえないのか、という反感につながり、ワクチン自体への信頼度がダウン。他の感染症ワクチンの接種率が下がり、麻疹の流行を招いてしまうという事態に……
という大変な内容だった

クォークの世界を探る新加速器EIC計画


核子(陽子と中性子)の質量とスピンが、何に由来するかというのかはまだ分かっていないらしい。
核子は、クォークから構成されているが、構成要素のクォークの質量がそのまま引き継がれているわけではなくて、クォークの組み合わせによって創発(?)しているらしい
それを調べるための新しい加速器アメリカで作っているとか

文明を拒むアマゾンの部族 タイガー族を守る人々  A. ピオーリ


コロンビアでの、非接触部族保護の取り組みについて
アマゾン奥地には、未だ「文明社会」との接触を拒み、孤立した文化を守り続けている部族が存在している。
彼らは「外の世界」があることは知っているが、自分たちの意思で接触を拒んでいると考えられている。
彼らは、感染症への免疫をもっていないので、「接触」することによって一気に滅んでしまう可能性があり、実際、絶滅の危機に瀕している部族もいれば、既に絶滅してしまった部族もいる。
そうした非接触部族を守るために、近隣の他の先住民たちがNPOと協力してパトロールなどの保護活動を行っているという話
コロンビアは、政府と反政府組織との間で和平が結ばれたらしいんだけど、その結果として、左翼ゲリラの残党がジャングル奥地に入り込んでくるとか、資源を狙う不法採掘者、密輸業者であったりとか、あるいはキリスト教宣教師が接触を図ろうとしたケースもあるとか(宣教師2人組が先住民のパトロールで発見され、その後もあきらめずに来るので、コロンビア政府から正式に接近禁止命令が出て、最終的には彼らも諦めたとか)。
政府が保護政策を実施するためには、そこに非接触部族が生活していることを証明しないといけない。最初にこの活動を始めた研究者は、飛行機を飛ばし航空写真で家を確認して証明したらしい。最近では、衛星画像で探したりしているとか。
そういった話がある一方で、呪術の話も出てくるのが面白い。
先述した研究者だが、この人は、非接触部族の保護に尽力した人なのだが、件の航空写真撮るために飛ばしていた飛行機が墜落して亡くなってしまう。で、ベテランシャーマンが調べたところ、当の非接触部族のシャーマンが、呪いで落としたらしい、と。で、近付くつもりはないから、とやはりエスパー的な奴で伝えたらしい。
接触保護の是非については議論が分かれているところらしい。つまり、どうしたって突発的な遭遇を防ぐことはできないし、非接触を完全に守りきるのは難しい(コロンビア始めアマゾン流域の各国政府はそんなに強力ではないし、NPOと先住民に任せるのも限度はある。予算不足でパトロール拠点が減っているという話も書かれている)。それに非接触を守ろうとすると、非接触部族からの情報は当然入らないので、トラブルが発生したかどうかも分からない。だから、連絡をとりあうような体制を作った方がいいのではないか、という考えもある。
というか、前述した、墜落事故で死んでしまった研究者とか、非接触保護についての論文書いたら、脅迫受けるほどの反感買ったりしたらしい(それで共著者は口を閉ざしてしまっている)。なんか闇が深い。

フロントランナー挑む 惑星形成の謎を解き生命の起源に迫る   坂井南美(理化学研究所


惑星形成の進み方は、どの星系でも大体同じだと考えられていたが、実はそうではないのではないかということを発見した方へのインタビュー
惑星形成理論の新展開みたいな話もすごく面白いけど、この人のマスターの頃からバリバリやってた感じもすごい
ガス円盤の中の物質の化学進化の違い

NEWS SCAN

沖縄科技大がトップ10入り
死の海の生物

死海に細菌が生きていたかも
火星の環境に近いかも

自家発電ペースメーカー

心拍で発電するペースメーカー

カメの絶滅はスローに見える

カメは長生きするので、個体の減少がわかりにくいという話。卵の数は減ってて、このままではやばいという状況でも、個体数がすぐには減らないので法制度上、保護すべき生物ということになかなかならない、と

宇宙ステーションで1年

ほぼ1年ISSに滞在し、地上にいた双子との比較研究をしている宇宙飛行士へのインタビュー
「宇宙にいる時間が長くなるほど、戻ってきたときに生じる症状が重くなる」と答えている

From nature ダイジェスト デニソワ人化石をチベットで発見

高地への適応にデニソワ人の遺伝子が関係?

nippon天文遺産 野辺山ミリ波干渉計

エリック・R・カンデル『なぜ脳はアートがわかるのか―現代美術史から学ぶ脳科学入門』

神経科学の大家であるカンデルが、主に抽象絵画を対象に、芸術と神経科学を結びつけて論じている本。
なお、カンデルは、美術と神経科学について他にも著作がある。もともと、記憶や学習について研究しており、それでノーベル賞も受賞しているが、芸術との関係についても興味・関心があるようだ。

はじめに
I ニューヨーク派で二つの文化が出会う
 第1章 ニューヨーク派の誕生
II 脳科学への還元主義的アプローチの適用
 第2章 アートの知覚に対する科学的アプローチ
 第3章 鑑賞者のシェアの生物学(アートにおける視覚とボトムアップ処理)
 第4章 学習と記憶の生物学(アートにおけるトップダウン処理)
III アートへの還元主義的アプローチの適用
 第5章 抽象芸術の誕生と還元主義
 第6章 モンドリアンと具象イメージの大胆な還元
 第7章 ニューヨーク派の画家たち
 第8章 脳はいかにして抽象イメージを処理し知覚するのか
 第9章 具象から色の抽象へ
 第10章 色と脳
 第11章 光に焦点を絞る
 第12章 具象芸術への還元主義の影響
IV 始まりつつある抽象芸術と科学の対話
 第13章 なぜアートの還元は成功したのか?
 第14章 二つの文化に戻る
訳者あとがき

なぜ脳はアートがわかるのか ―現代美術史から学ぶ脳科学入門―

なぜ脳はアートがわかるのか ―現代美術史から学ぶ脳科学入門―

第2章 アートの知覚に対する科学的アプローチ

アロイス・リーグル「鑑賞者の関与」
→エルンスト・クリス、エルンスト・ゴンブリッチ「鑑賞者のシェア」


逆光学問題
ヘルムホルツボトムアップ情報とトップダウン情報
ボトムアップ情報
・脳の神経回路に先天的に備わっている計算プロセスによる
・物体や人や顔の識別、空間内における位置の同定など
・低次ならびに中間レベルの視覚作用に依拠
トップダウン情報
・高次の心的機能(注意、創造、期待、学習された視覚的関連づけなど)と関連
・脳が、過去の経験から仮説をたて検証
・無関係な構成要素の抑制


抽象芸術の鑑賞は、ボトムアップ情報よりもトップダウン情報を用いる

第3章 鑑賞者のシェアの生物学(アートにおける視覚とボトムアップ処理)

What経路(腹側経路)とWhere経路(背側経路)
前者は、V1,V2,V3,V4という脳の底部に近い領域
後者は、V1から頭頂近くへ向けて走る
3つのレベルの処理(低次:網膜、中間レベル:V1から、高次:様々な脳領域からの情報を統合)
並行する二つの処理ストリームは、物体への注意のプロセスが生じることで、再構成される


フェイスパッチ
顔についての情報を処理する特定の脳領域がある
色に関する領域もある→10章


視覚と触覚の相互作用と情動
脳の高次の領域で、視覚とそれ以外の感覚情報が加えられ、マルチモーダルな表象が形成
ポロックの絵などにおける「テクスチャーの知覚」?
関連付け
視覚と触覚は相互作用し、情動システムを動員する→情動システムについては10章

第4章 学習と記憶の生物学(アートにおけるトップダウン処理)

アメフラシの学習と記憶のメカニズム
ニューロンの結合が強くなったり、新しいシナプスができたりすることが、学習や記憶だ、という話


還元主義的アプローチにはカタツムリが有用だ、何故ならマティスも、カタツムリをモチーフにした作品を描いているからだ、みたいなことを書いていて、一種のジョークというか、話の枕というか、そういう感じなら、まあいいかというところなんだけど、若干マジっぽいトーンで書かれており、「何を言ってるんだ?」となった

第5章 抽象芸術の誕生と還元主義

ターナー、モネ、シェーンベルクカンディンスキーの4人を取り上げて、美術史における、抽象絵画への移行を紹介している。
シェーンベルクの音楽に影響を受けて、カンディンスキー抽象絵画へと踏み切ったというエピソードがある
が、実は、シェーンベルク自身、カンディンスキーより1年早く、抽象絵画を描いていたらしい。

第6章 モンドリアンと具象イメージの大胆な還元

この本の表紙にも使われているモンドリアンについて
直線だけで構成されていることと、脳の視覚処理で線に反応するニューロンがあることとを混ぜつつ書かれている

第7章 ニューヨーク派の画家たち

デ・クーニングとポロックについて


デ・クーニング
『発掘』において、キュビスムシュールレアリスムを統合した、とされている
均整な構造と衝動との統合


ポロック
ここで、アクション・ペインティングが、還元主義的アプローチを進展させたものと論じているが、ここもちょっとよく分からない
2つの点で還元主義的アプローチを進展させたという
(1)慣例的なコンポジションを放棄し、強調点や識別可能な部位、中心的なモチーフがない
(2)イーゼル画の危機の到来
アクション・ペインティングの特徴だとは思うが、これが一体何がどう「還元主義的」なのかの説明がない
読み進めると、「意識的形態が、無意識的なドロップ・ペインティング技法に還元されている」
カンデルは元々精神分析に興味があり、その後、神経科学を研究し始めた人らしくて、わりと精神分析的な語彙を使うことに躊躇いがない
それから、ポロッコの絵とトップダウン処理・パターン認識にからめて、パレイドリアも言及がある
抽象絵画トップダウン処理のことは、このあとも論じられていくところ
パレイドリアが関わっているのかどうかはよくわからない

第8章 脳はいかにして抽象イメージを処理し知覚するのか

抽象絵画は、ボトムアップ処理よりもトップダウン処理によって、鑑賞者の側が、その絵に何が描かれているのかを見出していくのだ、と
再びデ・クーニングとポロックを取り上げ、それぞれ、具象画と抽象画を比較している
デ・クーニングの『発掘』や、ポロックの『ナンバー32』は完全な抽象絵画となっているが、鑑賞者は、彼らの過去の絵画(例えばデ・クーニングの『すわる女』や、ポロックの『西へ』)を知っていれば、画家がこれまで用いてきたモチーフ(女性や時計回りの動き)をそれぞれの絵画の中に見出すことができるだろう、と。しかも、鑑賞者は、具象絵画よりも、自由に様々な関連を見出していくことができる
ボトムアップ処理によるあいまさの解消と、トップダウン処理による想像力の喚起・過去の記憶や経験との関連付け
抽象絵画は、後者により依拠している、と

第9章 具象から色の抽象へ

次は、ロスコとルイス
デ・クーニングやポロックと違って、彼らは、色への還元
人間ドラマを描くのにあたって、人間のフォルムを除去していって、色の四角形を描くようになったロスコ
「ヴェール」「アンファールド」「ストライプ」という3つの主要なシリーズを描いたルイス
色が、鑑賞者に対して情動、スピリチュアルな感覚をもたらすということをに着目している。


ところで、「ロスコは生物学者が還元主義的アプローチを用いて行おうとしたことを達成していた」というような文が出てくるのだが、ここもいまいち、どういうつながりがあるのかがはっきりしない

第10章 色と脳

色についても、脳の中にそれを処理する領域があるよって話と
色が、知覚においてどのような役割を果たしているか
色も、ものの輪郭をはっきりさせるのに使われている、というのと
あと、色の恒常性みたいな話で、物体の固有の色って、ほんとは周囲の環境によって変わるけれど、トップダウン処理の影響を強く受けて、色の知覚はなされているよ、と

第11章 光に焦点を絞る

光を用いた現代アート作品のアーティストの紹介


ダン・フレイヴィン(1993~1966)
蛍光灯のみを並べて作られた作品


ジェームズ・タレル(1942~)
もともと、知覚心理学の研究をしていた
物体やイメージを用いず、光を使って、部屋の隅に立方体があるように見える作品など

第12章 具象芸術への還元主義の影響

1950年代以降の具象絵画への回帰の流れ
アレックス・カッツポップアート→チャック・クローズ


カッツ
抽象表現主義の影響を受ける
平坦で遠近感を欠く肖像画


ポップアート
ウォーホルは、カッツからの影響を受ける


クローズ
相貌失認を抱えながらも肖像画を描く
→のちのフォトリアリズム
グリッドに分割された肖像画

第13章 なぜアートの還元は成功したのか?

抽象芸術は遠近感を解体することで、ボトムアップ処理の新たなロジックを構築するよう脳に求める。
(中略)
抽象芸術はそのような特化した脳領域を活性化するのではなく、あらゆる形態の芸術に反応する脳領域を活性化することが示されている(kawabata and Zeki 2004)
(pp.194-195)


抽象芸術に対する3つの主要な知覚プロセス
(1)絵画的内容と、脳によるイメージのスタイルの分析
(2)イメージによって動員されるトップダウンの認知的関連づけ
(3)イメージに対するトップダウンの情動的反応


フレッド・サンドバッグの作品の紹介


具象画
→脳のデフォルトネットワークに原木書ける
デフォルトネットワーク=内側側頭葉(記憶)、後帯状皮質(感情の評価)、前頭前皮質内側部(心の理論)からなる
休息しているときに活性化する、前意識的プロセス
高度な審美的体験をしているときにも活性化する

感想

個人的な感想としては、ややハズレだったかなあというところがある。not for meというか。
個別にいくつか気になるところや勉強になるところはあり、必ずしも全然ダメな本、というわけではないのだが、物足りなさがあった。
かなりコンパクトにまとまった本なので、その点、詳細な説明には踏み込んでいない、ともとれるので、もう一方の本を読んだ方がいいのかもしれないが、個人的には、画像の美学について何かフォローできるような知見が得られるといいな、という期待で読んでいたので、そこらへんの接続が難しいなあという感じ
まあ、神経科学の人に対して、美学といういささかマイナーな分野についての知識を要求しても仕方ないところはある。


それはそれとして、もう一つ別の不満があって
「筆者が言ってる「還元主義」とは一体何なのだ?」ということ
曰く、神経科学は還元主義的アプローチをとっている
曰く、モンドリアンポロック、ロスコなどの抽象絵画の画家たちもまた、還元主義的アプローチをとっている
すなわち、科学と芸術には通ずるところがあるのだ
というような主張をしていて、ことあるごとに「この画家も還元主義的だ」みたいなことが書かれている
ただ、そこでいう還元主義とは? というのがいまいちよく分からない。
科学における還元主義的アプローチというのは、より基礎的な要素について解明することで、マクロな現象についても解明するという方法論のことだろう。
カンデルの研究であれば、記憶や学習といった現象を解明するにあたり、分子レベルのメカニズムを解明するというのがそれにあたる。
この場合、神経伝達物質が放出されてこの神経回路のつながりが増強された、という分子レベルのメカニズムが、これこれを記憶した、という現象と対応しているのだ、という前提がある。
「○○について記憶する」という出来事が、「神経回路のつながりが増強されている」というより基礎的な出来事に還元されている、と言える。
しかし、美術に関わるところで言われる「還元主義」が、一体何が何に還元されているのかが、いまいちよく分からないところがある。
全く説明がないわけではなくて、抽象絵画は、色や線といった個別の要素に還元されているのだ、という言い方はされている。
ただ、やはり何が還元されたのかはよく分からないところはある。
もっとも、セザンヌキュビスムについていえば、確かに風景や人物を、より単純な線や図形の組み合わせにしていくという奴なので、これはまあ還元主義っぽいなあといえば還元主義っぽいところがある
そして、モンドリアンとかポロックとかは、こうしたキュビズムがやっていたことに影響を受けて彼らの抽象絵画を生み出しているので、還元主義を徹底するとああなった、という言い方も確かにできる。


ただ、科学における還元主義と、美術における還元主義のアナロジーが、一体どれくらい成立しているのか
そして、そのアナロジーが成立していることによって、一体何が言えるのか、というのがいまいち伝わってこないと感じた
科学における還元主義的アプローチは、「実は○○(ex.学習)って××(神経回路の増強)のことだったんですよー」ということで、なるほど○○についての理解が深まったね、というものだけど、
美術における還元主義って、「単純な線の組み合わせにしてみました」「色の組み合わせにしてみました」というものであって、これによって、何かが分かるというようなものでもない。
抽象絵画の効用については、さらに、トップダウン処理について云々という話が続くのだけど、こちらはなおさら「それ還元主義か?」という疑問が出てくる。
実際のところ、「還元主義」という言葉をことさらに強調されなければ(読みながらそれを無視すれば)、それほど理解を阻む内容ではなくて、納得できるところだったりもするのだけど、「還元主義」というキーワードで貫こうとして、それがいまいちうまくいっていない感を覚えてしまう。


動機としては、スノーの二つの文化論を背景に、科学と芸術という二つの文化を接続したい、というのがあって、どっちも同じアプローチをしているんだよ、と言いたいのだろうと思う
還元主義的アプローチは、科学の方について言うとかなり広く当てはまる話だと思うんだけど、芸術の方だと、20世紀の絵画あたりにしか当てはまらない話でもあるので、その点もちょっと微妙なのでは、という気がしてしまう。

Bence Nanay『知覚の哲学としての美学 Aesthetics as Philosophy of Perception』3章

知覚の哲学と美学の両方を専門とするナナイによる美学の本
知覚の哲学に出てくる概念(主に「注意」概念)を用いていくつか美学の問題に取り組むもの


全部で8章構成になっており、今回は3章「画像Pictures」について
画像の三面性について論じられている。
描写の哲学において、画像には「二面性」があると言われており、特にウォルハイムによる経験説は、二面性の経験を画像の定義としているが、これに対して、ナナイは、二面性ではなく三面性だ、ということを主張している。
これについては、以前も読んだことがあったのだが、改めて。
また、2章で述べられた分散された注意との関係にも触れられている。



Bence Nanay ”Threefoldness" - logical cypher scape2
ベンス・ナナイ「画像知覚と二つの視覚サブシステム」 - logical cypher scape2
ベンス・ナナイ「トロンプ・ルイユと画像知覚の腹側/背側説明」 - logical cypher scape2

本全体の目次

1.Aesthetics
2.Distributed Attention
3.Pictures
4.Aesthetically Relevant Properties
5.Semi-Formalism
6.Uniqueness
7.The History of Vision
8.Non-Distributed Attention

Aesthetics as Philosophy of Perception (English Edition)

Aesthetics as Philosophy of Perception (English Edition)

今回の記事で取り上げる3章の目次

3.1 Picture Perception
3.2 Canvas or Nature?
3.3 The Twofoldness Claim
3.4 Picture Perception versus the Aesthetic Appreciation of Pictures
3.5 From Twofoldness to Threefoldness
3.6 The Three Folds
3.7 Distributed Attention and the Aesthetic Appreciation of Pictures
3.8 Twofoldness versus Threefoldness

3.1 画像知覚Picture Perception

画像と文の違い
構造説・類似説・知覚説の紹介
画像とは何かという問いは、知覚説において、画像はどのように知覚されるのかという問いになる。
本書は、画像とは何かには直接答えず、どのように知覚されるのかについて考える
(ただし、構造説・類似説にとっても、この問いは重要
ステレオグラムやアナモルフォーシスという例が何故画像なのか)


直接目の前にあるりんごを見ることと、絵の中のりんごを見ることは、どちらもりんごを見ることだけれど、異なる知覚経験

3.2 カンバスか自然かCanvas or Nature?

(1)絵画の表面だけ見て、描かれた対象は見ていない
(2)描かれた対象だけ見て、絵画の表面は見ていない
(3a)絵画の表面と描かれた対象の両方を見ているが、それは交互に起きる。
(3b)絵画の表面と描かれた対象の両方を同時に見ている

3aは、一般にゴンブリッチに帰属される主張
3bは、二面性主張と呼ばれる

3.3 二面性の主張The Twofoldness Claim

二つの異なるものを同時に見るって、混乱した・一貫性の欠いた知覚経験にはなりはしないのか、という問題がある。
何かを見ると言っても色々あって、それは意識的か無意識的か、注意を向けているか否かということがある。ただ、意識と注意の関係は複雑。
ここでは、見ているものに注意していることと注意していないこととの違いに着目していきたい


バスケットボールの試合にゴリラが入ってきている映像を見せても、気付かないという実験
→見ていても、注意を向けていないと気付けない
注意を向けていないものについても、見てはいる
二面性について
絵画の表面について、(注意を向けることもできるけど)普通は注意を向けていない
→注意を向けていないから気付かれていない。それで、同時に見ているからといって、混乱した経験にはならない

3.4 画像知覚vs画像の美的鑑賞Picture Perception versus the Aesthetic Appreciation of Pictures

画像知覚についての哲学的議論と、画像の美的鑑賞についての哲学的議論は、混同されやすい
画像の美的鑑賞は、画像知覚のサブケース。画像を見ている多くの場合、美的な鑑賞はされていない


普通の画像の知覚の場合、画像の表面には注意を向けていない
しかし、美的に鑑賞している時、両方に注意が向けられている。画像の表面と描かれた対象への分散された注意


二面性の主張という時、この二つが区別されないのが混乱のもと(ウォルハイムが区別していない)
画像知覚における二面性
・同時的な知覚表象があるということ
・これは画像知覚にとって必要
美的鑑賞における二面性
・注意が同時
・美的な鑑賞を理解する上で重要

3.5 二面性から三面性へFrom Twofoldness to Threefoldness

画像の表面と描写された対象の2つではなく、下記の3つにした方がよい
A:画像の表面(二次元)
B:画像の表面を視覚的にエンコードした三次元的な対象
C:描かれた対象(三次元)


Cは、メンタルイメージャリーによって表象されている

3.6 三つの面The Three Folds

A:画像の表面
知覚的に注意されていないが、知覚的に表象されている
経験的証拠
・絵に描かれた対象と、その対象と全く同じサイズの同じ対象をスクリーンごしに提示すると、サイズについての判断に違いが生じる。
・絵を斜めの方向から見ても見え方が変わらない(ウォルハイムが二面性を主張したもとの理由の1つ)

B:画像の表面を視覚的にエンコードした三次元的な対象
想像説=対象についての経験は、知覚的経験ではなく想像だという説(ウォルトン
→想像説への批判
→無意識的な知覚があることから、想像説を退ける


ランダムなドットがダルメシアンに見えるようになる実験
→知覚的現象学は変化するのか
→変化している


C:描かれた対象
AとBは知覚的に表象されているが、Cは知覚されなければならないということはなく、表象されていないことすらある
Cは非知覚的なものだ、という考えに対して、それでは現象学的変化が説明できないとする
Cはメンタルイメージャリーによる疑似知覚的なもの
メンタルイメージャリーは、知覚への認知的侵入を媒介する

3.7 分散された注意と画像の美的鑑賞Distributed Attention and the Aesthetic Appreciation of Pictures

近年、屈折inflectionという概念について議論がなされている
ナナイはこれを「デザインーシーン性質」呼ぶ
デザインーシーン性質=絵画の表面(A)と描かれた対象(B)の両方に言及しないと、完全には特徴づけることのできない性質。これは、関係的性質*1
デザインーシーン性質の面白いところは、二つの性質が視野の同じ部分を占めること


デザインーシーン性質は、画像的な芸術作品を鑑賞する際のキーとなる要素

シブリーが批評的・評価的なディスコースと呼ぶものは、デザインーシーン性質への言及に満ちている
デザインーシーン性質は、絵を美的に評価する際に絵に帰属される唯一の性質というわけではないが、中心的なケースとみられる。


デザインーシーン性質は、分配された注意を引き出す
例えば、関係的性質についての注意の場合、両方の領域に注意しないといけない。xはyより暗いというとき、色という性質に集中した注意をしてい、xとyという二つの対象に分散された注意を向ける
また、これは、2.3節でも説明のあった、何かものを探している時の注意の向け方である
デザインーシーン性質の場合、これと異なる方法で注意を向けている
同じ対象に集中した注意を向けつつ、この対象の持つ性質について分散された注意をしている
二つの異なる対象への注意なのではないか、という疑問があるかもしれない(絵画の平面という二次元的な対象と、エンコードされた対象という三次元的な対象なのだから)。しかし、注意において「対象」と呼ばれるのは知覚的な対象
(注意における対象が何かという点は、1・2章についてのブログ記事に書きそびれているけれど、2.4節あたりで説明されていたことだったかと思う)
絵画の表面とエンコードされた対象とは、我々の視野の同じ範囲をしめる点で、同じ知覚的対象

3.8 二面性vs三面性Twofoldness versus Threefoldness

何故、二面性説より三面性説がよいのか


(1)3.3節での反論にも動じないから
絵を通してものを見ているときと直接ものを見ているときとの違いを説明する必要がある
絵画の表面と描かれているものを同時に見ているとき、普通は後者に注意を向けているが、直接ものを見ている経験と区別できないということはない。何故なら、注意を向けているのはBであってCではないから。


(2)二面性説でも美的鑑賞を説明できるが、三面性説ほどリッチではないから

感想

三面性説については、自分の評論で以前援用したことがあり、またナナイは本書や他の論文で特に言及していないように見えるのだが、画像の「分離」に関する議論にも適用できるのではないかと思っていて、個人的にはわりと気に入っている。
(分離についていうと、分離された対象を「B」と捉えればよいのではないか、と。AとBの関係について考えるのが「屈折」の議論、BとCの関係について考えるのが「分離」の議論なのではないかと)
ただ、「Cはメンタルイメージャリーによる疑似知覚的な表象である」というのが全然何のことが分からない。
メンタルイメージャリーis何?
別の論文で三面性について読んだ時は、メンタルイメージャリーについては、今度出る別の論文で説明するわ、みたいなことが書いてあった気がする

*1:たとえば、xはyより暗いという時、xとyの両方の色に依存しているので関係的性質

津原泰水『ヒッキーヒッキーシェイク』

色々と話題になった本作。
ひきこもりたちが集まってCGキャラクターとかUMAの映像とかを作ることになる話で、エンタメ的にぐいぐいと読ませてくれる作品
ただ、これまで自分が読んだ津原作品と比較すると、好みの度合いとしては少し下がるかなあという感じだが、そもそもジャンルがだいぶ違うので。



ひきこもりカウンセラーの竺原は、自分の患者であるひきこもりたちと正体不明の天才ハッカー(多分ひきこもり)に対して「不気味の谷を越えろ」というミッションを課す
ただ、この物語の本題は「不気味の谷を越える」ことではない。それは単に、竺原が彼らを巻き込むためにでっちあげたフレーズに過ぎない。


こういう話だ、とまとめるのが難しい物語で、竺原(JJ)と、それぞれセージ、パセリ、ローズマリー、タイムとコードネームを名付けられたひきこもりたち、そして、竺原の友人たちの物語が、同時並行的に進んでいく。
それらの物語は、もちろんそれぞれ交錯していくのだが、それでいてそれぞれ独立に進んでいくきらいもある。
最後は、なかなか投げっぱなしエンドのようにも見える終わり方をするのだが、人生のある期間から期間までを切り取ってきたという感じで、彼らの人生はここから先も続いていくのだから、そんなきれいな幕引きもできないともとれる。


不気味の谷を越えることを目標に彼らが立ち上げたのは、CGの女性キャラクターによるアゲハ・プロジェクト。
アゲハという、本物の人間に見まがうようなCGキャラクターに対して、色々と話しかけるというwebコンテンツ。あるフレーズで話しかけると、アゲハが返答してくれる。
アゲハというのは、セージの元婚約者の名前で、外見はパセリが描いたパセリ自身の姿に近いもので、アゲハとの会話についてはタイムが考案したもの。
それぞれが、それぞれのひきこもりの原因なんかと絡んでいる
セージは元々優秀なプログラマーだったんだけど、アゲハ
パセリは、父親がヨーロッパ人のハーフで、その外見がコンプレックスで学校に通えなくなる
タイムは、両親が離婚している母子家庭の小学生で、彼の考えた会話は母親とのやりとりが元になっている


実はこのアゲハ・プロジェクト、竺原の友人が手がける芸能プロダクションの新人アイドル売り出しに使うために画策されたもの
ただ、竺原自身の目的はまた別のところにある
竺原は、アゲハ・プロジェクトとは別に、過疎化している自分の故郷にUMAが出没するという噂をネット上に流す計画をたて、タイムを誘って帰郷する。猿飛峡という、その名の通り、かつては猿がいた山に、小型の象がいた、という映像を作る。
アゲハ・プロジェクトによるアイドル売り出しは、結果的には失敗する
一方、猿飛峡のUMAの方は、うまく話題になって観光客がたくさん訪れるようになる


パセリは、とある美大生やステンドグラス作家との出会いから、自分のやりたいことを見つける。


うーん、記事書くのに力尽きた

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ニューホライズンズの観測で、冥王星には内部海がありそうなことがわかってきたが、冥王星みたいな冷たい星で海が凍らないのは何故か
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色々な画像が載っていたのだけど、ある若い恒星で鉄を示す信号が増えて、これって微惑星を飲み込んでじゃないのって画像がかっこよかった