追記(20190806)
twitterで色々書いたので追記
長い上に、色々紆余曲折するので、結論としては最後に引用しているakadaさんの見てください
この記事だけだとうまく伝わっていないだろうけど、自分が何にそんなに引っかかっているのか改めて気付いたこととして、少なくとも自分は、発語内行為をかなり言語的なものに特有の現象だと思っていて、非言語的なものにさらっと援用・拡張できるのかと思っているのかもしれない
— シノハラユウキ (@sakstyle) August 5, 2019
しかし、ここはまあなんか難しいな。
— シノハラユウキ (@sakstyle) August 5, 2019
発語内行為とされるものの中にも色々ありそう。
「主張する」とかは非言語的にもやれそう。
ただ、発語内行為の典型例と思われる「約束」とか「命名」とか「宣言」とかが言語的な現象にしかみえない
自分の理解だと、発語内行為はかなり動詞と結びついている感じがある。ある行為が、どの発語内行為であるかを個別化するにあたって、そこで使われている動詞で特定しているのではないか、と。動詞の分類と発語内の力の分類が一致する(少なくともオースティンは一致させるようにしているのではないか)
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
と、それに対応するような何かが必要なのではないか、と。
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
ただ、別にそこまでやる必要はないのではないかとも思っている。
つまり、芸術作品は主張や抗議などに「使用」することができる、というくらいでいいのではないか、と。
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
これ、フィクションについての戦略とたぶん同じで。ある文がフィクションなのは、「フィクションする」という発語内行為だからだ、という説はあるのだけど、ほんとにこれ発語内行為か? というツッコミは色々ある。まあ、非言語的なフィクションもあるから、というのが主な反論だけど、 https://t.co/PoTQPNiWKD
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
なので《ある文や画像は、主張(受け手がその内容が真であるという信念を持つように意図する行為)として使用することもできるし、フィクション(受け手がその内容をメイクビリーブように意図する行為)として使用することもできる》というあたりが、穏当な落としどころなのではないか、という気がする
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
「私は~と約束する」という文って、発語内行為のレベルだと、約束という行為以外の行為には使いようがないのではないか、とも思う。
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
一方で、発語媒介行為のレベルだと、相手を喜ばせることにも使えるし、相手を驚かせることにも使える。
発語内行為って結構使い方の縛りがきついような気がする
これは、まあそんな気がするってだけで、そこまで言っていいのかは分からんけど、そういう気がするので、発語内行為を非言語的な現象に援用できるのか疑問を持ってしまう
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
今自分は、発語内行為と遂行動詞との結びつきを重視する見解をとっているけど、この見解はこの見解で、ちょっと厳しすぎる・極端な見解のような気もしてきた。
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
一方、これを緩めすぎると、発語内行為と発語媒介行為の区別がどんどん曖昧になっていく気もする。
「言うことそれ自体が何らかの行為になっていること」と「言うことによって何らかの結果を引き起こす行為になっていること」という違いが、コアだと思う。
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
問題は、前者の行為も結果を引き起こす、ということ
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
「慣習によって効果・結果が引き起こされる行為」と「慣習によらずともその効果・結果を引き起こす行為」の違いと言い換えられるのかも。
じゃあその「慣習」って一体何よ、となる。
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
ただ、慣習っていうのが、ある一定の規則性があることだと考えると、大体毎回同じ効果・結果を引き起こしているのか、その時々の状況に応じて異なる結果を引き起こしているのか、と区別できる。
さらに、慣習っていう時に、規則的であること、だけでなくて、「その効果を発動させるには一定のプロトコルがある」「そのプロトコルには特定の遂行動詞が組み込まれている」とかまで含むのかどうかもあるかもしれない。
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
さっき、発語内行為の方が縛りがきついよね、と言ったのはこのため
で、翻って、発表内行為にそういう慣習やプロトコルがあるように、自分はあんまり思えない、と。
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
ただ、芸術作品の発表って、それによって色々な効果・結果が引き起こされる・引き起こそうとしていて、それは例えば、何かに対して賛意を示していたり、抗議していたりという行為になっているのは確か
だから、「使用」しているって言えば、それで十分説明となっている。それ以上の概念を持ち出すまでもない。発語内行為、正直ややこしいし、というのが自分の感想
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
でも、ポルノグラフィの言語行為論の話を踏まえると、いやまさに、その慣習やらプロトコルみたいなものがあるんじゃいって話に持っていきたいってことですかね?
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
言語行為論がサールとかにいってどう変わったのか、グライスがどういう話してるのか。言語行為論じゃなくて、行為の哲学の方が一体どういう話してるのか。そこら辺のこと自分は全然分かってないので何も言えないのだけど、そっちにもっと適切なフレームあったりしないの? と思ったりもしてる
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
あ、「半旗を掲げる」って、非言語的な手段によって、《慣習・プロトコルによって効果を発動させる行為》と《さらにそのことによって慣習的ではない結果を引き起こす行為》になってるな。これは掲揚内行為と掲揚媒介行為なのでは
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
発語内行為を○○内行為という形で非言語的な行為にまで援用・拡大するのはかなり難しいのではないか、と思っていたのだが、援用できる例を見つけてしまったw
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
「黒いネクタイを締める行為がそれ自体で弔意を示す行為となり、その行為がもたらす効果は慣習によって発動する」と言え、これかなり、表現内行為の話に近づいている気がする。
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
ただし、「パンクロッカーが亡くなりその人と同じ服装をすることで、弔意を示す行為とする」は成り立つけど慣習的ではない
「ある服装を着用することは弔意を示す行為になる」「服装は、弔意を示すのに使用できる」と言える。で、その中には、慣習的なものもあれば、そうでないものもある。
— シノハラユウキ (@sakstyle) 2019年8月6日
表現内行為は、慣習的なものとそうでないものが複雑に混じり合ってそうな気がするな、何となく。
発語内行為/発語媒介行為の区別を言語的発話以外に使えるかどうか迷うんだったら、単純に発話の効力の話にすればいいと思うけど
— at_akada(ブログ更新通知用) (@at_akada_phi) 2019年8月6日
元々オースティンの発語内行為は、フレーゲの発話の効力に対応することを意図された概念なので。
— at_akada(ブログ更新通知用) (@at_akada_phi) 2019年8月6日
言語的発話に関して同一の内容でも、主張なのか命令なのかで全然違いますよね、同じように、画像でも内容が同じで「その内容を使って何をやっているかだけが違う」ということはありますよね、というのが基本的な話で、その話がしたいだけなら、内容と効力を区別しようってだけでいいんじゃないかと。
— at_akada(ブログ更新通知用) (@at_akada_phi) 2019年8月6日
内容と効力がそれぞれありますって話で、基本的にいいとは思っていて、発表行為も、作品を発表する場合に、内容と効力がそれぞれあるって話でいいと思う。
で、オースティンは、その効力を色々と分類したい、と思っていて、そのときに、効力をどのようにして発揮するかの違いで、発語内行為と発語媒介に分類できるのでは、ということを思いついたのではないかと思うんですよ。
ただ、この違いを突き詰めていった先に何かいいことがあるのかは、正直よく分からない。
なんか、慣習的かどうか、みたいな違いで分けてるっぽいんだけど、それでちゃんと分けられるのかどうか正直よく分からない、と。
でも、少なくともオースティンは、そうやって発語内行為と発語媒介行為を区別しようとしているので、その区別を引き継ぐなら、どうやって区別しようとしていたかも引き継ぐべき。
でも、繰り返しになるけど、この区別を導入することにどんな意義があるのか正直よく分からないし、発案者のオースティンですらどうやって区別できるのかに結構難儀しているので、その路線でいかなくてもいいのでは? その路線の先に何が待ってるの? と思う。
なので、内容と効力の区別の話でいい、というのに同意します。
ナンバユウキさんが、上の記事で、芸術作品を発表するという行為は、言語行為論にならって、「発表行為」「発表内行為」「発表媒介行為」という3つの行為をなしていることを述べている。
しかし、自分には、発表内行為を発表媒介行為をうまく区別でぉておりように思えない。
というか、「発表内行為」なるものがあるのかどうかが、正直よく分からない。
そして、オースティンにおける「発語内行為」と「発語媒介行為」の区別が、あまり理解されていないのではないか、という疑問も抱いている。
発語内行為と発語媒介行為の区別
大きな特徴づけとして、
in saying~(~と言いつつ)なされるのが「発語内行為」
by saying~(~と言うことによって)なされるのが「発語媒介行為」
である。
この「~と言いつつ」と「~と言うことによって」で、完全にどっちか判定できるかというと、例外が存在してるので完璧な判定基準としては使えないのだが、主なるイメージとしてはこれである。
日本語では、「~と言いつつ」というより、「~と言うことそれ自体において」という方が分かりやすいかもしれない。
「~」ということがそれ自体において~となっているような行為が、発語内行為
「私があなたに約束する」と言うことは、そう言うことそれ自体が約束という行為になっている。これが発語内行為。
発語が何らかの結果をもたらす、何らかの後続の出来事をもたらすような行為が、発語媒介行為
「私があなたに約束する」と言うことで、約束相手のあなたが喜ぶという結果が引きおこされる。そう言うことによって、私はあなたのことを喜ばせるという行為もなしている。これが発語媒介行為。
さらに、発語内行為にはいくつかの特徴があって、顕在化が可能な遂行的発言である、ということがある。
というか、そもそもオースティンの『言語と行為』というのは、「言語には遂行的発言というのがあるけど、これは一体何なんだ」っていう話がテーマで、その結果として、発語内行為というものにいきついている
われわれがいままでに発語内行為の名称を用いて分類してきた(中略)動詞群は、顕在的な遂行的動詞とされるものにかなり近いものであるように思われる。すなわち、一方で、「私はあなたに……と警告する(I warn you that)と「私はあなたに……と命令する」(I order you to)を顕在的な遂行的発言とすることができるのに対して、他方また、警告も命令も発語内行為であるからである。われわれは、「私はあなたに……と警告する」という遂行的文を使うことはできるが、「私はあなたに……ということを納得させる」(I convince you that)という遂行的文を使うことはできない。また、「私は……をもってあなたを脅す」(I threaten you with)という遂行的文を使うことはできるが、「私は……をもってあなたをおびえさせる」(I intimidate you by )という遂行的文を使うことはできない。すなわち、納得させたり、おびえさせたりすることは、発語媒介行為なのである。
(『言語と行為』p.218*1、第十講の最後の箇所)
顕在的な遂行的発言というのは、基本的には、第一人称・単数・直接法・能動態・現在形の動詞で行われる発言として特徴づけられている
第五講・第六講で、実際には、これに限らない例というのがたくさん出てくるのだけど、基本的には、一人称・単数・直接法・能動態・現在形の動詞での形に分析できるはず、という話になっていると思う。
それから、発語内行為と発語媒介行為の区別にあたっては、非言語的手段で達成できるかどうか、慣習的であるかどうか、という点もある
非言語的な手段云々については、あとで述べる
利用される手段が慣習的でない限り、発語内行為なるものは存在し得ない
(p.197、第九講の最後)
発語媒介行為のいくつかの後続事件は、非慣習的な手段、すなわち、まったく慣習的でないか、当該目的にとって慣習的でない手段によって達成できることは確かである。
(同上)
発語内行為は、慣習的に達成されなければならない。
発語媒介行為の中には、非慣習的な手段で達際されるものがある(慣習的に達成されるものもあるのかもしれない)。
発語媒介行為は、非言語的な手段でも達成することができる。
発語内行為も、非言語的な手段で達成できることもある。
オースティンの言語行為論は完成されたものではない、というか『言語と行為』を読むとわかるが、原則的にはこうなんだけど、こういう例外もあるし、こういう例外もあるし、こういう例外もある。みたいなことをわりと繰り返している本で、何にでもバシッと適用できるルールができているか、というとそういうわけではない。
のだけど、しかし、大体の方向性としてはこういうことだろう、というのは分かるようになっている
「1. 言語行為から表現行為へ」について
ナンバの記事にある「1. 言語行為から表現行為へ」において、いくつか気になる箇所があるので、順を追ってみていく。
発されない言葉の発語内行為
オースティンが『言語と行為』において主題的に取り扱ったのは、「発された言葉」であった(Austin, 1962)。だが、彼は、「発されない言葉」(たとえば「猛犬注意」などの看板)もまた、発語行為かどうかは別として、発語内行為でありうるとみなしている(Austin, 1962, p. 60)。
この、p.60というのはおそらく講談社版のページ数だと思うのだが*2、手元にあるのが大修館書店版なので、どの場所かちゃんとは分からなかったのだが、下記だろうか。
Ⅰ まずこの種の発効的単語を用いることなく、しかも遂行的発言を得ることができるからである。たとえば、
(1)「急カーブ危険」とする代わりに単に「急カーブ」としてもよいし、同様に「猛牛危険」と書く代わりに、単に「猛牛」と書いてもよい。
(p.104、第五講の中盤あたり)
仮にここのことだとすると、言葉が発されているかどうか、という話をしている箇所ではない。
遂行的発言というのは、一人称・直接法・能動態・現在形の動詞を使ってなされるものだ、という原則に対する例外について説明している箇所で
例えば、「私は~宣言する」というのは、一人称・直接法・能動態・現在形の動詞を使ってなされる遂行的発言である。
これに対して「君はオフサイドだ」というのは、一人称・直接法・能動態・現在形の動詞を使ってはいないが、これは「私は君にオフサイドであることを宣言する」の省略だと考えれば、これも遂行的発言だと言える。
この場合、直接法・能動態・現在形という文法的な要素で見分けることはできないけど、「オフサイド」という語彙で判断することができる。
しかし、そのような単語すら使っていない場合があって、それが「急カーブ」とだけ書いてあったり、「猛牛」とだけ書いてあったりするものだ、ということ。
これらも、「私はあなたに、この先急カーブで(猛牛がいて)危険であることを警告する」の省略形だと分析することは可能である。
まあ、「書いてもよい」と言っているので、声に発していないものも遂行的発言の一種としてみなしてんのかな、というのを読み取ることは可能だけど、ここでのオースティンの主眼はそこではないと思う。
非言語的な発語内行為
さらに、文字から離れて、非言語的な発語内行為は可能であると述べている。
……たとえば、警告する、命令する、指名する、譲渡する、抗議する、謝罪するといったことも非言語的な手段でできるが、これらは発語内行為である……。抗議というものは鼻に手を当てる軽蔑のしぐさ(snook)をしてもできるし、トマトを投げつけてもいいわけだ。(Austin, 1962, p. 118)
オースティンは、非言語的に発語内行為と同じ行為が達成できることを否定はしていないのだけど、ここの引用個所も、本来言おうとしていることはちょっと違うのではないか。
発語媒介行為に特徴的なことは、達成された反応ないし後続事件が、非発語的な手段を付加することによって、または、まったくそのような非発語的手段だけで達成可能であるという点である。たとえば、威嚇は、ステッキを振ることによっても、また、銃を向けることによっても達成することができる。納得させる、説得する、従わせる、思い込ませるなどという場合ですら、反応を非言語的に達成することがある。しかしこれだけのことでは、発語内行為を他から区別するのに十分ではない。なぜならば、たとえば、警句、命令、指示、贈与、反対、陳謝などを非言語的手段によって行うことができ、かつ、これらの行為は発語内行為でもありうるからである。たとえば、反対するために、両手の親指を鼻にあて他の指をひろげるという仕草をしたり、あるいはまた、トマトを投げつけたりしてもよい。
(pp.196-197、第九講の最後)
ここでの説明の主眼は、「発語媒介行為は、同じ結果を、非言語的にも達成することができる」という点である。
例えば、「威嚇する」という発語媒介行為があるけれど、同じ結果を、ステッキを振ることによっても達成することができる、と。
ただし、非言語的な手段でも達成することができるかどうか、という基準で、発語媒介行為と発語内行為を見分けることはできない。なぜなら、発語内行為の中にも、同じ効果を、非言語的に達成することができるものがあるからである。
ここで「ステッキを振ること」や「トマトを投げること」という例は、同じ結果・効果・反応をもたらすことのできる他の非言語的な手段として挙げられている。
なので、ここでオースティンは「トマトを投げること」が発語内行為である、とは言っていないのではないだろうか。
何かに反対するという行為をするためには、「「私は……に反対する」と言うこと」によっても達成できるし、「トマトを投げること」でも達成できる、ということを言っている。
でもって、発語内行為というのは、in sayingな行為で、~と言うことそれ自体によってなされる行為
「「私は……に反対する」と言うこと」は、「「私は……に反対する」という言葉を発している」という発話行為であると当時に「反対する」という発語内行為にもなっている。
で、これ以上のことはオースティンは言っていないけれど、「トマトを投げること」についていうと、これは「トマトを投げる」という投擲行為であり、またその行為をすることによって「反対する」という行為にもなっているのだと思う。
で、後者は、どちらかといえば媒介行為的なのではないか、と個人的には思う。
というのも、トマトを投げることそれ自体が反対行為になる、という慣習はないから。
だから、あえて言うなら「トマトを投げる」ことは、「トマトを投げる」という投擲行為であり、また、「反対する」という投擲媒介行為である、というあたりではないか(そして、投擲内行為なる行為はない)。
I doというカード
たとえば、ここに「I do」と書かれたカードがあるとする。このカードは、それ自体では発語内行為を行えない。ただの物言わぬカードだ。だが、特定の文脈において、たとえば、取り調べ室での自白の際にあるひとがこれを提示したなら、それは「確認」といった発語内行為であるし、また、結婚式で神父の結婚の誓約を尋ねられたときに用いれば、「宣誓」という発語内行為となりうる、さらには、子どもを誘拐した犯人が被害者の親にこのカードを送りつけたなら、「脅迫」という発語内行為を行いうる(cf. Saul, 2006, p. 235)。
自分は、ジェニファー・ソールの論文を読んでいないのでちゃんとわかっていない可能性があるし、例えば、ソールが、オースティンの言語行為論を多少修正している可能性はあるが、オースティン的に理解すると、この例に出てくるもの全てを発語内行為とはいえないような気がする。
I doの「do」に具体的にどういう動詞が入るかなのだけど、結婚式の例の場合、「誓いますか」と聞かれて「I do」と答えてる場面なので、doに入るのは「誓います」だろう。であるならば、この「I do」は誓約という発語内行為となりうる。
一方で、誘拐犯が送りつけてくる「I do」の場合、「この子を痛めつける・殺す」であろう。この場合、「痛めつける・殺す」と言うことによって(by saying)、脅迫という行為をなしているので、この脅迫は、発語媒介行為であるのではないか、と。
あと、文脈によって同じ行為が、異なる種類の行為になるという例として挙げられているのだけれど、これ「do」という動詞だから、文脈によって使い方が分かれているのであって、発語内行為自体が、こんなふうな形で文脈依存しているわけではないように思える。
発語内行為は、確かに文脈に依存して適切に行為できたりできなかったりということはあるけれど、行為の内実自体が変わってしまうわけではないように思う。
例えば、「私はこの船を××号と命名する」と言って命名という発語内行為を行うとする。
この時、発話者が命名する権利を持っている者であること、発話者の前に船があることなどの条件が必要で、そういう文脈がないと命名という発語内行為は成立しない。
けれど、「私はこの船を××号と命名する」という発話が、別の文脈では「約束」という発語内行為になったり、「判決」という発語内行為になったりすることはない。
乾いた米を相手にぶつける、という行為は、多くの場合「侮辱」という発語内行為を成立させうる。だが、同じ行為が結婚式で適切に行われたなら、「祝福」という発語内行為を成立させうる。
とナンバは述べているが、「乾いた米を相手にぶつける」行為は、その行為自体が(in doing?)「侮辱」になったり「祝福」になったりしているわけではなく、その行為によって(by doing?)侮辱行為になったり、祝福行為になったりしているのではないか、と思える。
「2. 表現行為論––––発表行為、発表内行為、発表媒介行為」について
発表内行為?
カラオケであのひとに向けてラブソングを歌うことは、婉曲であれ「告白」の行為であり
発表内行為の例として、色々挙げられているけれど、この例なんかはすごく媒介行為的に思える。
例えば、言語行為に置き換えてみると
「私はあなたに好きだと告白する」と言うことは、それ自体が告白という発語内行為になっていると思う*3。
一方、「今夜は月が綺麗ですね」と言うことは、それ自体では告白という行為にはならないが、そう言うことによって発語媒介行為としての告白は行っていると思う。
発語行為と発語媒介行為の主語は同じ
これ、以前もナンバさんに指摘したことがあるんだけど、発語媒介行為が「発語によって引き起こされた行為」であるという時、ナンバさんはそれを発話者以外の行為して説明していることがある。
発表媒介行為の例として、「戦争への反対の行為としての『ゲルニカ』の提示があるひとやひとびとが戦争への賛意を示すことを取りやめたりすること」とあるのだが、この書き方だと、『ゲルニカ』を提示しているのはピカソであるのに対して、「戦争への賛意を示すことを取りやめ」ているのは、ひとびと(鑑賞者)の方ということになる。発表しているのはピカソなのに対して、発表媒介行為をしているのは鑑賞者の方になっている、ように読める。
つまり、
発表内行為:ピカソは『ゲルニカ』を提示することで戦争に反対する
発表媒介行為:『ゲルニカ』を見た人々が戦争への賛意を示すことを取りやめる
となっているように読める。でも、これは変。
例えば、結婚を誓約するという行為の場合、
発語内行為:新郎は結婚について(病める時も健やかなる時も云々)を誓う
発語媒介行為:新郎は新婦を喜ばせる
となるのであって、「新郎が誓約したことによって、新婦が喜ぶ」という新婦の行為は別に、「誓約する」の発語媒介行為ではない。
新郎は「誓います」と言うことによって、
「誓います」と言うという発話行為
誓約するという発語内行為
新婦を喜ばせるという発語媒介行為
この3つの行為を行っていることになるのである。
なので、発語内行為と発語媒介行為の主語は同じになっていないとおかしいはず。
先ほどの発表内行為と発語媒介行為の例について、主語を揃えるとこうなる。
発表内行為:ピカソは『ゲルニカ』を提示することで、戦争に反対する
発表媒介行為:ピカソは『ゲルニカ』を提示することで、見ている人が戦争に賛意を示すことをやめるように訴えている
この2つが、別種の行為として区別できるようには自分には見えない。
例えば、「ピカソは~反対する」を「ピカソは~抗議する」に置き換えてみると、「賛意を示すことをやめるように訴えている」という行為はほぼ「抗議する」という行為の中に含まれていると言ってもいいのではないか、と。
〇〇内行為と〇〇媒介行為とに分ける意味って何なのか
これが何に効いてくるのか、ということ
オースティンの場合、「私はあなたに~だと警告する」と言うことと、「私はあなたに~だと納得させる」と言うことは、ちょっと違うことだよねということを言いたくて、発語内行為と発語媒介行為を分けているのだと思う。
「警告する」の方は、「警告する」ということ自体が警告という行為そのものになっているけれど
「納得させる」の方は、そうはなっていない。
それから、「約束」「命名」「宣言」などの行為は、「私は約束する」「私は命名する」「私は宣言する」と言わないと(言語を使わないと)達成できないように思える。
一方で、「威嚇」や「説得」という行為は、言語を使っても達成できるけど、言語を使わなくても達成できる。
このあたりの違いも、発語内行為と発語媒介行為という、違う概念を用いることで、説明できる・効いてくるところだと思う。
発語内行為と発語媒介行為の区別は、結構難しくて、オースティンも結構苦戦しているようにも思える。
ただ、例えば、それらの行為によってもたらされる結果の違いが、これらの行為の違いにもなっている。
発語内行為は、慣習によって効力がもたらされる、というのが特徴になっていたりする。
で、発表内行為と発表媒介行為は、分けることによって何に効いてくるのかが、あんまりよく分からないし、
実際、それほどはっきり分かれていない気がする。
じゃあどうすればいいのか
もしかしたら、グライスとかの方がよかったりするのではないか、と思ったりもしている。
といって、自分はグライスは全然読んだことないので、むしろグライス詳しい人に色々言われてしまうかもしれないが。
まあ、グライスを使うかどうかは別としても、意図と解釈みたいな話の方が違いのではないか、という気がする。
普通、意図と解釈と言った場合、作品の内容をどう解釈するかにあたって、作者の意図がどう関与しているのか、という話になるけれど、
それが、発表するという行為において、その行為がどのような種類の行為であるのかをどう解釈するか、という話なのかな、と。
あるいは、ある芸術作品が、何のカテゴリーに属しているか、という話に近いかもしれない。
ある発表行為が、どういう行為カテゴリーに属しているか、と。
つまり、このナンバさんの表現行為論にとって、作品を発表するという行為が、「抗議」なのか「賛同」なのか「侮辱」なのか「批判」なのか、区別できるようにしましょう、というのが大事なあたりなのかなあという気がする。
で、それって、「この作品はこのカテゴリーのもとで鑑賞してほしい」という作者の意図や、こういう特徴を持っているから、あるいはこういう歴史的経緯があるからという理由によって、ある作品があるカテゴリーに属することになるのと同様に、
作者の意図や作品の特徴や歴史的経緯によって、ある発表がある行為カテゴリーになるのではないかなあ、と
あと、例えばグライスとかは、「話し手が、聞き手にxという信念を持たせるという意図をもつこと」が、ある表現が「x」という意味をもつことだという話だったと思うのだけど、それと同様に
「発表者が、鑑賞者にxという信念をもたせるという意図をもつこと」とかでいけるのではないかと
特に、「主張する」「抗議する」系の発表行為は、鑑賞者に特定の信念を持たせようとする行為のように思えるけど。
・芸術作品の表現は、発表という行為になっている
・その行為は、何らかの結果・効果を引き起こす
・発表者は、その結果・効果を意図していたり、意図していなかったりする
多分、この3点が言えればいい。
で、自分が言いたかったのは、この3点を言うのに、〇〇内行為と〇〇媒介行為の区別を経由する必要はない、ということ。
繰り返しになるけど、発語内行為と発語媒介行為の区別は、ある行為の結果・効果の引き起こし方に違いがあって、その違いを掬いたいというところから出てきているものだと思う。
一方、表現行為論は、表現は行為であり、行為であるからには何らかの結果・効果をもたらす、ということさえ言えればよいのではないか、と。